第24話

「さっき湯浴みをした時に使いやすい石鹸で驚いたんです。これまで使ってきた石鹸は洗い流した後に肌がごわごわして、肌荒れすることもあったから使いたくなくて……。この石鹸で手や身体を洗ったらどうなるのか気になります」

「じゃあ実際に使って感想を聞かせてくれよ。で、自分だけの石鹸を作ったらいい。香草はたくさんあるからな。足りない時は温室から採ってきて、乾燥させて使えばいいし」

「私も自由に使っていいんですか?」

「桃もこの茶館の一員だからな。新商品の開発は大歓迎だ。看板にも桃の名前を追加しておくからな」

「そこまでしなくていいです。私、自分の名前が嫌いなんです。十日で孕んだから桃花なんて……」


 桃花を罵る時に義母は繰り返し言っていた。「十日で孕んだから『桃花』なんて安直な名前」、「似合いもしないのに桃の花って漢字まで当てられて」と。

 言われる度に母が残してくれた名前を傷つけられるようで苦しかった。どうせ名前を残してくれるのなら、もっと違う名前が良かった。義母が罵倒の際に使っても心が痛まないような名前を……。

 自分を抱くように身体に腕を回して、皮膚が食い込むくらいに爪を立てていると、香雪が呆れたように溜め息を吐く。


「あの母親の言うことなんて気にしなくていい。どんな名前だったにしろ、どうせ罵るんだ。それにお前の本当の名前って桃花ももかだろう」


 香雪の言葉に衝撃を受けると、桃花は目を丸くして凝視する。

 

「そうなんですか?」

「いくら手をつけられて十日で身籠ったからって、自分の子供に『とうか』なんて名前をつけるか? それならそのまま十の日で『十日とうか』って名付ければいいだけだろう」

「それは……」

「お前のお袋さんが無病息災を願って、『ももか』って名付けたに決まっている。桃の花には邪気を払って、長命を願うって意味があるからな」

「そんなのは偶然です。産まれた時からずっと『とうか』って、呼ばれています……」

「それもあの母親がお前を虐めるために、勝手に読み方を変えたんだろう。もしくはあの母親を慕う女中がお前たち親子を貶めるために、勝手に読みを変えて報告したか……。本当の読み方を知っていても、さすがに屋敷の女主人に逆らったら首が飛ぶからな。みんな黙っているしかなかったんだよ。あの桃の簪を除いてな」

「桃の簪……」

「あの簪は年季が入っていて欠けていたけど、値打ち品でよく手入れされていたのが分かる。お前の手に渡る前から大切にされていたんだ。きっとお袋さんが……」

 

 癖で頭の後ろを触るが、湯浴みの前に部屋で外して温室や屋敷の鍵と一緒に置いてきたのを思い出す。

 

「……母と仲が良かった女中が教えてくれたんです。この簪が私の名前だって。ずっと『とうか』の名前の由来を言っていると思っていましたが、本当の名前のことを言おうとしていたんですね……」

「あくまでも俺の想像だけどな。お前が望むなら、これからは『ももか』って呼ぶ。今のところ、名前を知っているのは、俺の兄妹と通いの化け狸姉妹だけだからな」

「今のままでいいです。香雪のおかげで、これからは自分の名前を少しだけ好きになれそうな気がするので……。香雪たちのお母さんはどんな方なんですか?」

「俺たちの母親は鬼神だったよ。綺麗で強くてさ……もういないけどな」

「すみません……」


 どことなく香雪が痛みを堪える顔をしたので、桃花は咄嗟に謝るが、香雪は気にしなくていいというように頭を撫でてくれる。


「このままお前を独り占めしていたら、部屋で待ってる海石榴に怒られそうだ。明日の用意を済ませてしまおう」


 道具を洗うという香雪に頼まれて、桃花は先程油紙で包んだ石鹸を竹笊に並べていく。他にも必要そうなものを持ってきては風呂敷の上に並べると一つにまとめてしまうと、これで明日の用意はほとんど完了であった。

 部屋の前まで香雪に送ってもらった時には、夜もすっかり更けていた。


「海石榴が怒っていたら俺が悪いと言ってくれ。遅くまで付き合わせて悪かった」

「いいえ。香雪もゆっくり休んでください。それではおやすみなさい」


 そうして背を向けた桃花だったが、後ろから両肩を掴まれたかと思うと首筋に柔らかなものが触れる。肩越しに振り返ると、香雪が口付けていたのだった。


「ぁの、こうせ……」

「おやすみ。俺の花妻様。良い夢を見てくれよ」


 最後に音を立てて首筋を吸うと、ようやく身体を離してくれる。そうして香雪は片手を上げながら去っていったのだった。


(い、今、く、首に、せっ、接吻をっ……!)


 これまでの治療目的とは違って、愛し合う男女がする口付けに身体中がソワソワする。心臓が破裂しそうなくらいの激しい鼓動を聞きながら、どうにか部屋中に入ったものの、へなへなと膝の力が抜けてその場に座り込んでしまう。

 火が燃え上がりそうなくらい紅潮した頬を押さえながら、改めて桃花は自分が香雪に嫁いだ花嫁であることを実感させられたのだった。

 あまりの衝撃に思考が停止したばかりか、心もぼんやりとしていた桃花だったが、やがてこのままここに座っていたら海石榴に怪しまれてしまうことに気付くと、慌てて布団に潜って頭まで毛布を被る。

 昼間に寝てしまったからか、それとも別の要因があるのか。この日はなかなか寝付けずに寝返りばかり打ったのだった。

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