8月32日目の恋

東山蓮

終わらない夜

四季の中で一番長く、暴力的な季節が緩やかに死を迎える0時すぎに、突然インターホンが鳴った。

「入江ぇ...開けてぇ...」

数ヶ月ぶりに冷房抜きで一晩を越えるべくリビングと寝室の窓が全開になった1LDKに、とうの昔に腐れきった縁の男の声が響く。先程まで浅い夢の世界に飛びかけていた体で玄関に向かうことは苦痛だったが、ここでドアを開けてやらねば明日出勤するまで玄関先に突っ立っているかもしれない。

そんなはずはないのに、そう言い聞かせなければこんな最低なやつと付き合っていられない。言い訳をしながら鍵を開けてやる。

「入江!たすけて!」

よれたシャツと、高校の時から愛用しているボロのサンダルがいっそう可哀想に見えた。部屋に入るようにうながすと、「おじゃまします」と首の皮一枚で繋がった礼儀を見せつけられる。

「私、明日も仕事なんだけど」

一人暮らし用の正方形のテーブルの上座に座らせ、慈悲の缶ビールを手渡す。迷惑男こと水沼は所在なさげに視線をさ迷わせると、やがて少しだけ汗をかいた缶ビールをあおった。

風の強い夜でも、やはりまだエアコンは必要かもしれない。水沼の首筋がかすかに湿っている。視線に気がついたのか、「それはごめんって」と先程の言葉の返事らしい言葉をを弱々しく紡ぐ。謝るなら、最初から来なければ良い。

「おまえは気づいてないかもだけど、昔からそういうはた迷惑な奴だよ」

「うわあっ、やっぱり?!」

「なに、また喧嘩したの」

「ちがっ、や、そう、そうです」

「ばかだな」

水沼は尻ポケットからスマートフォンを取り出すと、いくつかのタブが開いたままの画面を見せてきた。ハワイの結婚式場の案内のようだった。

「俺はアキちゃ、彼女もこの辺の生まれだし、入江んとこで結婚式挙げる気マンマンだったんだよ。でも彼女は絶対ハワイがいいって言っててさ。俺は別に、あっちがそうしたいならどっちでもいいんだけど、ちょっと攻撃的な言い方されて、それで、言い合いになって...」

相談は既に始まっていた。水沼が持つ缶を取り上げ一口飲む。既にぬるくなった液体にも水沼にも嫌気がさして大きなため息をついた。

「で、実家が結婚式場の入江くんに相談してみようってか?そんなの答えはひとつだよ。どうでもいい、帰れ」

「んな酷いこと言わなくてもさあ、俺傷ついてんのよ。入江の式場ボロ呼ばわりするし、あ、タバコ吸わないで。彼女も同じの吸ってるから、今その匂い嗅ぎたくない」

「帰れよ...。言ったよな?私、明日も、そのボロ式場で、仕事」

缶ビールを一気に飲み干すと、水沼は「俺のだよ」と骨の抜けたようにうなだれた。何を言っているんだ、ここは私だけの家だ。このビールも当然私のだよ。二人暮らしのお前とは違う。

いかにも陽気といった顔立ちのデカブツでありながら、姉に愛という名の鞭で調教された影響で気弱な一面を持つ男には、こうやって話すようになる前から既に呆れていた。12年前、当時の水沼の彼女が入江に告白してきた時も同じように情けなかったことを思い出す。殴られると思ったと言ったら、入江くんは悪くないでしょと目を伏せた。その後はすぐに「友達に戻った」ようで、水沼はひとりになって、元カノらしいひとは入江のようないかにも大人しそうなひとつ年上の男と腕を組んでいた。

いつの間にか2人して黙りこんでた。沈黙を息苦しく感じなかった頃に帰って、はじめからやり直したい。

やり直すって、何を?私たちははじまってすらいないのに。

どこか遠くからせみの鳴き声が聞こえた。冷房の必要性が薄れはじめた夜に、もういないかもしれないパートナーを探して鳴くせみ。むなしさと情けなさで、目が痒くなる。

早く話を終わらせたかった。帰ってほしくないけれど、一緒にいる方が苦痛に感じられた。

水沼がいない苦労には慣れている。おまえは知らないだろうけど、私はこれで10年やってきたんだ。「いいかんじ」になったおまえとおんながホテル街に消えていく姿を見て、しばらくした後、「彼女できた!」と連絡が入ったのも1度や2度では済まない。

だからこれからも上手くやっていくよ。友人Cくらいの存在で、おまえの葬式で喪主になることはなくとも。

胸のうちだけでも、感情をさらけ出すことが出来たのは気まずい沈黙のおかげだろうか。そうであったのなら、私の脳で黒い塊となったこの相談も、早いうちに消えていってくれる。幾分か、心が軽やかになった。

「まあ父の式場で挙げるのは勝手だが、私はおまえの結婚式のプランニングはしない。他の職員に担当してもらう」

「えー?!なんでよ、」

「私が相手になったら、おまえ、割引だのサービスだのうるさいだろ。おまえぐらいの高給取りに、どうして私たちが得させようと電卓を叩かなきゃいけないんだ。相手にしてられん」

「俺と入江の仲なのに?」

ずうずうしいな。ヘボ弱のくせに。

「お前と俺はどういう仲なんだよ」

「えっ、あ〜、そうだな....アッ、友人代表のスピーチを読み合う仲、です!」

「あきれた」

一際大きくカーテンが揺れ、ほのかな甘い香りと、近所に住む夫婦の笑い声が1時になろうとしている街にひびき、やがてひとりきりの部屋をも包んだ。

水沼の右眉が持ち上がる。続いて悲しげに口を結ぶ。ああくそ、空気除菌のスプレーぶっかけて、両耳の鼓膜を破ってやりたい。部屋に侵入する「しあわせ」をかき消すようにしまいかけていた煙草に火をつける。おまえの彼女の吸う銘柄なんか、知ったことか。おまえがその女と付き合うよりこっちが先に吸っていたはずなのに、私の煙草の匂いを勝手に「亜紀ちゃん」のものにするなよ。

スピーチなんか、してたまるか。させてたまるか。

声になることはない鈍感な阿呆への返事が肺を汚し、紫煙だけが細く伸びる。水沼が突然、いや、悩みに収拾をつけて立ち上がったせいで、入江が伸ばした煙は、唯一ひとり暮らしのテーブルを囲んだ目の前の他人に届くことはない。

思わず右頬がぴくりと揺れると、それに気づくことのない水沼の顔がふにゃりと醜く歪む。

「結婚式、プランは入江が担当じゃなくていいからさ、やっぱ入江のとこで挙げさせてよ。ハワイでは家族だけでやって、こっちでも1回やる。そしたら友達も呼びやすいだろ?」

「好きにしろよ。はじめからそう言ってる」

「まあ、まずは話し合いだよね」

吐き気がした。一気飲みしたビールの酔いが回っているかもしれない。

嘘だ。酔ってなんかいない。私が「帰らないで」と真剣に言っても、おまえが真面目に取り合ってくれることはないから、体が勝手に水沼を引きとめようと強硬手段に出ただけだ。

ひとりで解決して決心らしい水沼は、「夜遅くにごめんね」とビールのなかみをかるくゆすいでシンクにそっと流すと、乾いた水切りかごに逆さまに置いた。

おじゃましました、と鍵をかけ忘れていたドアを開ける。「もう来るな」と返せば、「じゃあ喧嘩しないように頑張ります」と笑う。水沼はなんの感慨もなくドアに背を向け、静まり返った暗い道に出る。こちらを振り返ったら悪態でもついてやろうと道路に面するベランダに出たが、角部屋は一度も振り返られることはなかった。

慰めるのは苦手だから、あのふたりが別れて欲しいとは思わない。しかし、もしこの体が知りたくもないおんなの形であったら、水沼は私に向かって「いってきます」と笑い、何度もこの角部屋を振り返りながら朝の駅に向かったかもしれない。

煙草はまだ十分な長さを残していた。

620円に値上がりしたそれを大きく吸い込み、今度は深呼吸の要領でだらしなくはきだす。

くゆる煙は、入江が何千回も肺に置いてきた言葉を伴うことはなく、星の見えない晩夏の空へ消えていった。

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8月32日目の恋 東山蓮 @Ren_East

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