Episode 63 タカトの思い

 研究所から発生した炎が大元だろう。立ち上がる黒煙が風にのって流れて来たのか、きな臭い匂いが周囲に漂ってきている。


 そんな中、タカトはただ一人、崖からぶら下がっていた。

 無限の薄闇にどこまでも堕ちていくような、つかみどころのない悲しみが胸をくすぶっていて、何も考えられない。こんな感情、今まで経験したことがなかった。


 ――一体何なんだ この気持ちは……?


 自分が、こんなにも苦い思いを抱えることになるとは思わなかった。


 本当は尋問とかそんなんじゃなくて、彼にはもっと聞きたいことがあったはずだ。

 自分が生まれた時はどうだったか。

 自分の母親はどんな人だったのか。


 ――そういうありふれたことを聞きたかったのではないか? 一人崖下へと落ちて行った男に。


 結果的には全て聞かずじまいだ。

 タカトに何一つ告げることさえないまま、彼は闇の中へと飲み込まれていった。


 最初はこんな重犯罪者が親だなんて、認めたくはなかった。でも、俺の声を聞いた途端、彼が一瞬だけ「ヒト」に戻ったのは分かった。だからそれを見て思った。まだ何とか「人生をやり直すことが出来たのではなかったのか?」 と……。 そう考えてしまった。


 自分の利益のためなら手段を選ばず、何の許可もなしに被検者を無理やり拘束したり……これまで彼のやってきたことは異常で非人道的だった。それは決して許されることではない。自分の体内に半分流れている〝狂気じみた血〟が、いつか世間に対して牙を剥く可能性があるかもしれないと考えると、目の前が暗くなる。


 でも、それでも、ほんのわずかでも良い。誰かが差し伸べた手を掴み、彼を「間違った道」から引き返せていたら、もっと違った未来を手にしていたのではなかろうか?

 友人だったはずのディーンの父でさえ止められなかった、彼の狂気じみた「無念さ」。それが、彼を窮地に追い詰め、結果として破滅への道を加速させた。


 ――涙が溢れてきて、止まらない。


 どうしてこんな結果になってしまったのだろう。

 出来れば、彼とは普通の関係でありたかった。

 犯罪者とハンターとしての関係ではなくて、普通の父親と息子として会いたかった。

 

 そうでないなら、彼とは出会いたくなかった。

 こんな事実、知りたくなかった。

 出会うことさえなければ、こんなにも内側から引き裂かれるような痛みを知らずに済んだのに……。


 彼は、ライアンの身体が落ちていった先を一瞥すると、力なく笑った。指先からぽたりぽたりと、赤い雫が垂れてきては落ちてゆく。それとともに、身体から力がどんどん抜け落ちてゆく。崖下から闇の手先が、早くこちらに来いと誘ってくるようだ。


「……あの先は……闇か……実質、あの男の血が身体中を巡っている俺にとって、ここより最適の場所かもしれねぇな……」


 左手一本だけで崖の縁にかろうじてつかまっているが、自分の全体重を支えるには厳しくなってきたようだ。毒が抜けきれず、死闘で疲れ切った身体は鉄のように重い。


 どうやら傷口が熱を持ち始めているようだ。痛みを感じなくなってきている。タカトはぼんやりした頭の中で、これまで起きた出来事を走馬灯のようにゆっくりと思い出していた。


 アンストロンを凶悪化させていた張本人は、先ほど自ら崖下へと落ちていった。拉致被害者達は全員保護しており、ミッションは達成している。この研究所ももう少しすれば崩壊する。色んな意味で再び建て直すには、多大な時間と費用がかかるだろう。


 ――これでやっと、ルラキスに平穏な日々が戻るだろうな。一時的かもしれねぇが……


 自分は、出来るだけのことをした。

 もうこれ以上は、気力的にも体力的にも限界だ。

 崖の縁にかじりついている左手の指が、しびれてきた。

 この身がいつ下へ落ちてもおかしくないだろう。

 時間の問題だ。


 (ディーン……)


 その時、ふと脳裏に相方の顔がよぎった。

 非人間的な美貌を持ち、頭のキレが良く、大変有能な男。 

 鉄仮面だが、その実は想像以上に優しく繊細で、情に厚く、深い男。

 組織が彼を重用するのも、今となっては良く分かる。

 彼がいれば、この星の平和は大丈夫だろう。


 ――自分がいなくても……。


 (ディーン。すまねぇ……散々大口叩いたけど、俺はもう限界だ。約束、守れそうにねぇ……)


 タカトは、ここにはいない相手に向かって語り続けた。

 

 (ここまで因縁尽いた俺が生きていても、それを見ているお前は苦しいだけだ。そんな顔を俺はもう見たくない。お前はジュリアちゃんと一緒にここを出て、今度こそ生きろ……! 陽のあたる場所で……)


 タカトは指の力を抜くと、重力が彼の身体を包み込み、崖下へと誘い込んだ。

 その誘惑に決して抗うことなく、身体は吸い込まれるように闇の中へと落ちてゆく。

 遠ざかってゆく地上を、遠ざかってゆく夜空を、彼は光の消えた瞳でぼんやりと眺めていた……。



 

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