Episode 11 蘇る面影

 タカトが部長室でイーサンと話をしていた頃、彼の相方は諸用ついでに一時帰宅していた。ディーンはマンションの一室である自宅に戻ると、電気のスイッチを押した。

 部屋の中は物音一つせず、水を打ったかのように静まり返っている。

 ベッドとテーブル、ダイニングとして使っているスペースにテーブルが一台。彼の部屋は、一人暮らしをするには充分過ぎる広さである。非番の日以外はほぼ寝るために帰ってきているような毎日だ。よって、余分な家具やものを置いていないため、生活感に乏しい。


 テーブルに部屋の鍵を置いたとたん、着信を告げる音が耳もとで鳴り響くのを感知し、こめかみに指を触れた。すると黒のアイバイザーが瞬時に現れ、彼の目元を覆った。


(レティナ・コールか。今は昼の休憩時間のはずだが……)


 レティナ・コールは、セーラス所属のエージェントのみが通信手段として用いている特殊なものだ。こめかみに埋め込まれた特殊なIDチップが、通信機能を持っているため、それを応用した使用法である。

 普段持ち歩いている携帯端末と電波を用いて連動させるようにあらかじめ設定しておけば、私用の通信手段としても使える。アイバイザーを通して、通信相手の顔を見ながら通話することも可能だ。なお、その映像は受信者にしか視えない特別仕様である。

 エージェントのメンバーは常に業務で忙殺されている者が多いため、ディーンのように連動させている者もいるのだ――ハッキングの危険性があるため、常にメンテナンスは欠かせない。


 数分後、彼のアイバイザーに一人の少女の映像が浮かび上がってきた。

 彼女は艶のある癖のない長めのボブを大人っぽく外ハネにしている。長いまつげで縁取られ、ぱっちりとした二重まぶたの中にダークブラウンの瞳が輝いている。上品で貴族的な顔立ちな上、透き通るような色白の肌に笑顔のよく似合う、中々の美少女だ。濃紺のブレザーに白いシャツ、濃紺と赤のチェックのスカートで、襟元に赤いリボンを結んだ制服を着ているところを見ると、まだハイスクールに在学中の生徒のようだ。

 彼女の持つ雰囲気は兄のそれとは随分と異なるが、よく見ると彼に似ているところがある。

 映像が安定したところで、その小さな口元から元気な明るい声が聞こえてきた。天使のように愛らしい笑顔を浮かべている。


「お兄ちゃん!」

「……ジュリアか」

「お兄ちゃん? ねぇ。私の声、聞こえてる?」

「大丈夫だ。聞こえている。……どうした?」

「最近全然会ってないから、お兄ちゃんの声を聞きたくなって、ついかけちゃった。お昼休み中の今なら大丈夫かなぁと思って」

「ああ。すまないな。ここのところ仕事が立て込んでいて」

「ううん。大丈夫。最近は特に忙しそうだけどちゃんとご飯食べてる? ちゃんと寝てる?」


(ジュリアは母さんに似てきたな)


 妹の溌剌とした声を心地良く聴きつつ、ディーンは懐かしい面影をふと脳裏に蘇らせた。子供の頃、学校から帰宅すると出迎えてくれた、温かくて、笑顔が絶えずとても優しかったその人――


「……ああ」

「心配しなくても、私お兄ちゃんの声を聞けるだけで、平気だから。一応端末の画面で見ながらだから顔色も分るしね。お兄ちゃんが日々頑張ってくれているから、私はこうやって学校に通えてるし……」


 ディーンとジュリアの両親は現在いない。

 彼がまだハイスクール在学中に、とある事件に巻き込まれ、両親はともに他界してしまった。当時ジュリアはまだエレメンタリースクールに在学中だった。

 その時発足したばかりだった〝セーラス〟の創立者、トム・ゴードンが二人を引き取り、学費やらの面倒を見てくれた。彼はディーンの父親の古くからの友人で、顔なじみだったのだ。

 彼はハイスクール卒業後すぐにセーラスに就職し、執行部のエージェントとして働き始め、学費やら生活費やらの返金を続けている状態だ。妹を寮に入れてハイスクールへと通わせているが、後々彼女をユニバーシティにまで進学させる腹積もりである。


「……そうか。元気でやっているか?」

「うん。毎日楽しいよ。お兄ちゃんこそ相変わらずだね」

「?」

「相変わらず、鉄仮面のような顔! お仕事中もずーっとその顔なんでしょ?」


 アイバイザーに、額にシワを寄せた妹の顔がでかでかと映し出される。正に指摘された通りなので、彼はぐうの音も出ない。


「……」

「そんな無愛想な顔ばかりしてちゃ駄目だって言ってるのに……」

「すまないな」

「折角の綺麗な顔が台無しじゃないの」

「……ジュリア。それは男に言う台詞じゃない」


 彼は仕事の詳細について、妹に明かしていない。


 彼だけではなく、〝セーラス〟所属の職員達は、家族や身内にその仕事に関する内容を外部に漏らすことを、規定として禁じられているのだ。職務柄常に身を危険にさらされているため、一般人を巻き込まぬようにするためである。話さざるを得ない場合は表向き〝公務員〟ということにしている。かつて存在したチキュウにあったとされる国「ニホン」でいう「シヤクショ」や「クヤクショ」にあたるような職務で彼らは通しているようだ――かなり無理があるけれども。


「男も女も関係ないわ。男にも〝愛嬌〟が必要よ!」

「……そうか」


 どこか鼻息の荒い妹に対し、兄の返しは至って冷静だった。

 しかしこの時彼は、表情や感情を表に出してはいないが、実は胸の奥底がじんわりと温かな気持ちに包まれていた。帰宅したら、手作りお菓子の甘い香りに包みこまれ、安堵感を覚えるような、そんな感じだ。

 ジュリアは彼にとって大切な、守るべきたった一人の肉親である。久し振りの血の通った感覚に、日々の疲れがほんの少しとれたような気がしたのだ。


「前はもっと笑ってたじゃないの。ねぇお兄ちゃんったら。どうして? どうして笑ってくれなくなったの?」

「……」

「ひょっとして、スカーレットさんの一件があったから?」


 ジュリアの言葉の中に出て来た女性の名前を聞いた途端、彼は一瞬息を止めた。目の奥の方が熱く、熱を持ち始めそうになるのを、強靭な理性で強引に抑え込んだ。


(レティ……)


 脳裏に茶色のエアリーなウェーブヘアでぱっちりとした翡翠色の瞳を持つ、上品でスレンダーな美人の姿が色鮮やかに蘇る。彼女の名はスカーレット・ハサウェイ(愛称:レティ)――ディーンが今から三年前まで付き合っていた女性だった。彼女は赤が好きで、良く赤い服を身に着けていた。あの事件が起きた日でさえ、赤い上着を着ていて……


(レティ。僕に会わなければ、君は……)


 胸の奥を強くつねられられたような痛みを感じた彼は、静かにそっと目を閉じ、しばらく口を開こうとしなかった。今まで抑え込んでいた感情が再び溢れてきそうになり、歯を食いしばってぐっとこらえる。それでも全ては胸中の出来事で、表情に一切出ることはなかった。


「……」

「……ごめん。ちょっと言い過ぎたみたい。でもね、お兄ちゃんがそんな顔をしていたら、お父さんもお母さんもきっと悲しむと私思うの。スカーレットさんだって、泣いちゃうわ、きっと」

「……そうか……」

「お兄ちゃんの笑顔、思わず見とれてしまう位すっごく綺麗だから、私大好きなのにな。いつになるか分からないけど、今度直に会う時には必ず見せてよね!」


 そう言われた途端、彼女の兄は再び口を結んだ。


 感情を一切顔に出さない彼は、相手に心理を読まれにくい。これは仕事上大変役に立っている。しかし、人間関係はどうかといえば、現在あまり人付き合いを必要としていないため微妙なところだ。前に腹から笑ったのはいつだったか、昔過ぎて最早覚えていない。スカーレットがいた時でさえ、果たして己が笑っていたのかさえ、良く覚えていない位だ。


(レティ。本当の意味で一緒にいられたのはたったの半年間だったけど、君は幸せだったのだろうか?)


 知りたくてたまらないその問いに、答えてくれる者はいない。

 己の記憶を静かに探っていると、現実を知らせる着信が耳元へと被さってくるように聞こえてきた。それを聴いた瞬間、彼は帰りこぬやりきれない思いを、頭から一気に押しだした――過去のことをあれこれ考えても詮はない。時間の無駄だ――アイバイザーの下で、長いまつ毛に覆われた銀色の瞳が再び冷たい金属色を帯びた。


「悪いな。どうやら呼ばれているようだ。また後でかけ直す」

「ううん。分かった。あ、今度はこの前みたいにお兄ちゃんの手料理を食べさせてね」

「ああ……分かった。また今度な」

「嬉しい! この前と同じとろふわのオムレツが良いな! すっごく美味しかったから ……それじゃね!」


(オムレツか。ああいう簡単なもので良いのなら、時間さえあればもっと作ってやりたいのだが)


 ぷつりと通信が切れた途端少女の映像が一気にかき消え、彼の視界にいつもの殺風景な自室の風景が写った。それを視野の端へと追いやりつつ、そのまま彼は現実に耳を澄ませた。


「……はい。こちら〝リーコス〟……」

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