霧の竜と竜の巫女

星野 驟雨

竜と巫女

 朝焼けが空を満たす時分。

 霧がかる湖のほとり、さびれた小屋のベッドの上。

 竜の巫女シリカは今その目を閉じようとしていた。

 竜の巫女に選ばれ、竜に捧げられたその身を憂いたのは何年前だったか。

 酷く遠い昔のように思える。

 

 竜の巫女として捧げられるほどの美しさは今はなく。

 その顔に刻まれた皴は経験を語り、丸くなった背は敬虔を湛える。

 そして、彼女を表す翡翠色をしたその目も今は殆ど見えていない。


「……クラウシュ様、今もそこにおられますか」

 しわがれた声で囁く。


「いるとも。我が巫女シリカよ。吾は何処にもいかぬ」

 頭の中に響く声。

 ああ、この声だ──と自らの心が凪いでいくのをシリカは感じていた。


「(──初めは……)」

 竜の巫女が怖かった。

 何故なら誰も戻っては来なかったから。

 巫女に選ばれた時の皆の顔は忘れてしまったけれど、自分じゃなかったという喜びと身近な人が選ばれてしまった悲しみとが滲み出ていただろうことはわかる。

 だって、私達のうち誰かは竜の巫女になることが決まっていたから。


 シリカが選ばれたのは16歳の時。

 彼女たちは竜の巫女として選ばれる代に生まれてきた。

 彼女たちに課されたものは純潔のみ。

 それ以外は他の歳の少女たちと何ら変わらずに過ごしていくのだが、その全員が16になる年に、その中でも最も美しく器量のある娘が竜の巫女に選ばれる。

 そして、烙印を授けられた巫女は、祈りの儀式を経て、霧の晴れぬ森の最奥にある湖へと一人で向かわなければならない。

 振り返ることも許されず、泣き言を上げることも許されず。

 ただ一人、竜の身許へと身を捧げるしかない。

 それは生贄と何ら大差ない風習だった。


「(でも、そんなことはなかった)」

 人に畏れられる竜は、決して恐ろしいものではなく。

 むしろ、人よりもあたたかく気高い存在だった。


 シリカの胸元には、竜の巫女たる烙印がある。

 人ならざる印──。

 竜の巫女と定められたその日、村の女性達に服を脱がされ、烙印を押された。

 逃げようにも腕を掴まれ、押し付けられた痛みに叫ぼうにも誰も聞き届けず。

 人の残酷さを象徴する印。

 そして、この世界で彼女だけが唯一持つ、竜の巫女たる証。

 それが、今では誇りとして彼女の胸元に存在している。

 ……しかし、彼女は自らが人の身であることを忘れたことはなかった。

 だからこそ。


「……この身のすべてはあなたの為になったでしょうか」

 事ここに至ってもなお、そんな問いは生まれる。

 

 竜はすぐに応える。

「なったとも。そなたが望めばそれこそ──」

 が、そこで竜は口を噤む。


「…………」

 わかっている。

 クラウシュは人の心を良く知っている。

 だからこそ、その先を紡ぐことは出来ない。


「ああ、でも」

 その優しさを知っているから、シリカは言葉を繋ぐ。


「もしも、出来るなら──。あなた様との日々を夢に眠りたい」

「…………」

 竜は答えることが出来なかった。

 ただ、夢を授けた。


 それは己の中にある記憶。

 竜と巫女はそれを共に辿り始めた。

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