暁の誓約(二)

「……くそ」

 苛立たしげに、首を振る。ふらり、と眩暈がして倒れかけるのを堪えた。

 また限界が近いのか。とりあえず、ゆっくりと土の上に座る。

 この辺りは、現在やたらと見晴らしがいい。アーラ宮に背を向ければ、視界を遮るものなどなかった。

 高く澄んだ空に、鳥が飛ぶ。

 ざわざわと遠くに話し声が聞こえて、オーリは耳を塞いだ。

 この感覚は、覚えがある。

 まだ風竜王に認められてすぐの頃だ。聴力がやたらと鋭敏になったのが竜王の恩寵だと知らず、遠くに居るはずの人々の声を聞き、気が狂ってしまったのかと怯えていた頃の。

 だが、今は違う。この故郷には、もう生きている人間などはいない。その筈だ。

 流石に風竜王の恩寵とはいえ、草原を越え、湖を越えて、国境の外の者の声まで可聴とはしないだろう。

 つまり、これは。

「幻聴か。……結構早かったな……」

 溜め息をついて、空を見上げる。

 友を失い、民を失い、国を失った。

 ただ一人で、黙々と死者を葬る作業だけを続けている。

 早晩、正気を失うだろう予測は薄々ついていたのだ。

 それを認めれば、すとん、と楽になった。

「まあ恨まれているだろうしな」

 傍らに横たわる、親衛隊員の制服を身に着けた身体に目を向ける。既に彼は、一体誰なのか見分けがつかない。

 ふわり、と周囲の空気が変わる。

「ニネミア」

 目の前の存在に驚いて、小さく名前を呼んだ。

 顕現を請願してもいないのに、こうして実体化することは、初めてだ。

 普段、神殿で逢う時よりもやや小柄になった竜王は、宥めるように顔を高位の巫子へ近づけた。

「……呪いの壁に、穴が?」

 驚きのあまり呆然として、オーリは呟く。

「それは、何故です? その形が、アルマナセルが作り上げた、思った通りの呪いの形なのですか?」

 勢いこんで尋ねる。が、風竜王の答えは、少なくともその高位の巫子にとって満足できるものではなかったようだ。

 どちらにせよ、あの〈魔王〉の思惑は今は関係ない。青年はすぐに思考を巡らせる。

「穴が空いている、ということは、抜け出す隙がある、ということだ。ニネミア、私たちがこの地から脱出することは可能ですか?」

 続いての問いには、明確に竜王は否定の意思を示した。

 穴は、彼らが通り抜けられるほど広くはない。

 この場合の広さは、単純に面積ではない。世界を統べる三竜王のうち一柱の竜王と、その加護を一身に受けた高位の巫子は、その存在において巨大すぎるのだ。

 現在、穴は、フルトゥナの外の情勢を知らせてくる程度で、それ以上は望むことはできない。

 オーリは暗い表情で溜め息をつく。

 くるり、と、風竜王ニネミアは彼の身体の周囲にその身を置いた。

 僅かに、青年の身体が硬直する。

「……ニネミア?」

 幾度目のことか、呼んだ名は僅かに戸惑いを含んでいた。

 促すように、そのエメラルドの瞳が見つめてくる。

 溜め息をつき、どこか決然とした表情で、オーリはその背を仕える竜王の胴へもたせかけた。

 瞬間、竜王の恩寵の威力が上がる。小さく、ざわざわと聞こえるだけだった声が、克明に巫子の意識を蹂躙した。

「……っ!」

 堪らず、素早く身を起こす。ほんの数秒だというのに、掌が汗に濡れていた。

「あれが、民の現状だと……?」

 聞こえてきたのは、絶叫と罵声。怨嗟の声。

 安全だと信じて逃がした民は、国境線の外で、未だ殺戮さつりくの対象とされている。

 だというのに、自分たちは、この呪いの境界線から出ることはできない。

 焦燥と憎悪とが湧き上がり、手当たり次第に叩きつけたいという衝動を抑えこむのに精一杯だ。

 ひび割れた唇を噛み、泥の沁みこんだ爪を掌に食いこませる青年を、風竜王ニネミアはその翼でそっと包みこんだ。

 やがて、ゆっくりと、オーリは身体の力を抜いた。

 ささくれ立っていた神経が、少しは穏やかになっている。

「ありがとう、ニネミア。……私は、やるべきことをする。だから、どうか、もしも呪いの穴が広がったら、すぐに教えて欲しい。絶対だ」

 風竜王は静かに巫子の顔を覗きこんでいた。



◇ ◆ ◇ ◆



 アーラ宮に残った死体の埋葬が終わるまでどれほどの期間が必要だったか、オーリは覚えていない。

 疲れきって貪る眠りは一体何時間摂ったものなのか判らず、そもそも岩山であるアーラ宮の内部では時刻を判別する術がない。

 巫子がいた頃は、定期的に時刻を知らせる鐘が鳴っていたものだが。

 それでも、最後の一体を埋葬して、ようやくオーリは安堵した。

 周囲は、地面を掘り返した跡が生々しいが、一年も経たぬうちにまた草原と見分けがつかないようになるだろう。

 オーリは、か細い声で歌う。

 声はれ、一年前の歌声とは似ても似つかないような状態だ。

 それでも、彼は歌う。

 死者へと手向けるものはもうこれしかなく。

 生者へは何もできはしないのだ。



 翌日、オーリはアーラ宮の倉庫を探っていた。

 死体を捜す傍らで見つけ出した物資は、一まとめにしてある。それを数日分、革袋へ詰める。

 そして、厩舎へと足を向けた。

 七日間も呪いにかかりきりになっていた時点で、正直馬のことは諦めていた。

 しかし、その後様子を見に行ってみると、厩舎は扉が開かれ、馬房も仕切りの丸太が外されていた。

 逃げ延びろ、と送り出した親衛隊たちがやっていったのか。彼らが逃亡するのにも馬が必要だった。そして、彼らは皆草原の民だ。馬をこのまま餓死させることなど忍びなかったのだろう。

 殆どの馬は姿を消していた。人々が乗って行ったか、逃げ出していったか。

 それでも数頭はアーラ宮の周辺で草を食み、厩舎の傍に湧く水飲み場を使っていた。死者の埋葬をしていた間は、オーリもできる限り世話をしていた。

 その中から二頭を選び出し、片方に鞍をつけ、荷を積むと、背にまたがる。もう一頭の手綱を手に、彼はアーラ宮を出た。

 まず目指すは、最も近い街、アウィスだ。

 湖に面したこの街には、アーラ宮から逃亡した風竜王宮親衛隊やイグニシア王国軍が向かっただろう。とっかかりとしては、丁度いい。


 街道沿いには、ぽつぽつと死体が散乱している。

 衣類が酷く破れている者が多いことから、おそらく逃走する途中ですら戦い合っていたのだろう。

 オーリはその度に彼らを埋葬した。

 結局、馬に乗っていれば三日で着くだろうアウィスの街には、五日後に到着することになった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る