エスタ
「……うああああああああ」
軍はその日、完全にそこで停止することに決まった。一帯では、兵士たちが野営の用意をするために忙しく立ち働いている。
その手順でまず優先されるのは、士官たちの居心地を最上に保つことだ。彼らはできる限り素早く、司令部の面々の天幕を、適度な距離を置いて張っていく。
アルマは、ちょうど準備が整った辺りで自分の天幕に姿を見せた。ぼぅっとした表情で、慌てて敬礼する従卒たちに片手を振る。その数歩後ろから、気遣わしげについてきていたエスタが、短い言葉で彼らを遠ざけた。
薄闇の籠もった天幕の中、更に布で仕切られた奥に、簡素な寝台が置かれている。マントも脱がずにその上に倒れこんだ少年は、低い呻き声を漏らした。
世話役の青年は、痛ましげな瞳でそれを見つめている。
エスタは、主人と一緒に水竜王の姫巫女がいる天幕へ入れなかった。会談の間、将軍の警護をする兵士たちと共に、少し離れた場所で待機していたのだ。
だから、あの天幕で何があったのかを彼は知らない。
しかし。
「……アルマ様……」
寝台の傍らに
アルマは、普段は手を頭に近づけられるだけでも嫌がる。血の繋がらない人間でここまで気を許しているのは、長いつきあいであるエスタを始めとする、自宅の使用人ぐらいだった。
ようやく呻き声が止まるが、苦しげな呼吸は続いている。
「……なあ、エスタ」
「はい」
「俺は、何で大公家に産まれてきちまったのかなぁ……」
虚ろに呟かれる言葉に、胸が痛む。
レヴァンダル大公家。王家に次ぐ地位を持つ家の、ただ一人の跡継ぎとしてアルマは産まれている。
家の中ではそれなりに我が儘が通る。公の場では充分に礼に適い、隙のない言動をすることができる。
それは、他家の子息たちに比べ、勝るとも劣らない。
だがそれでも、彼らとアルマとでは、その扱われ方が全く違うのだ。
それは決して、大公家の地位が高いからでは、ない。
更に長く溜め息が落ちるのを耳にして、エスタが迷う。彼はアルマを幼い頃から知り尽くしているが、しかし細やかな気遣いができるタイプでもない。
「……将軍と、何かあったのですか?」
ずばりと尋ねてきた言葉に、俯せになりながら小首を傾げるという、器用な技をアルマは披露した。
「いや? いつもの通りだよ。将軍は無骨だが、それなりに政治を弁えてる。若造相手だからって、うちに喧嘩を売るほど莫迦じゃない」
「では、水竜王の姫巫女が?」
続けて発せられた言葉に、反射的にアルマは、がば、と上体を起こした。その弾みに頭に巻いた布にひっかかりそうになって、慌ててエスタは手を引く。
「いや、別に、巫女姫が無礼だったとか、そんなことは一切ないぞ! 彼女は一人きりで敵陣にいて、人質同然の扱いをされていて、ちょっと余裕がないだけなんだ! あんな小さな体で負うには責任が大きすぎて、だから」
「落ち着いてください、アルマ様」
呆れ顔で世話役の青年は宥める。
僅かに上目遣いで、大公子は呟いた。
「……だって、お前、前にコルムバ伯爵家の次男坊の家令を半殺しにしたじゃないか……」
その言葉に、エスタは溜め息をつく。
「落ち着いてくださいって。あれはあの家令が、大公家主催の舞踏会のど真ん中で、貴方を侮辱したからですよ。取るに足らないとはいえ爵位を持っている身で、莫迦な真似をしたものです。大公閣下ご自身が出てきたって不思議はなかった。私に鼻を折られる程度で済んで、彼はまだ幸運でしたよ」
あの騒ぎを思い出したのか、眉間に皺を刻んで告げる。
「それに私だって、少しは政治を弁えています。例えば貴方が侮辱されたとして、敵国の竜王の姫巫女に決闘を申し込むとかできるわけがないでしょう」
「それは、そうだけど」
まだ不安そうな目で見つめてくる。こういう時のアルマは、実際よりもやや幼く見えて、エスタは彼の要求に折れてしまうことが多い。
「それで、姫巫女は、そんなにお小さい方なんですか?」
さらりと話題を変えるが、アルマは特別不審にも思わずに乗ってきた。
「いや、俺よりは幾つか年下だとは思うが、明らかに子供ってほどじゃない。ただ何というか、小柄で、華奢で、国の命運を一人で背負うにはあまりに儚げだというか」
アルマよりも年下ならば、充分子供だ。
そう認識しながら、しかしエスタは言明を避けた。
「ああ! そういえば、姫巫女の天幕は狭くて机と椅子しかなかったんだが、ひょっとして、彼女には寝台もないんだろうか。エスタ、何なら俺のを姫巫女に譲っても」
慌てて寝台から降りかける主人を、肩に手をおいて諫める。
「ですから落ち着いてくださいってば。先ほど会見に向かった時のものは、仮の居場所として張られた天幕だったのでしょう。居住のための天幕と寝台ぐらい、予備は幾つかありますよ。ここは軍隊なんですから、戦闘になった場合に幾らかの損害を受けることは、充分折り込み済みのはずです」
忍耐強く言い聞かせる言葉に、少々不安そうだがアルマは納得したようだった。
……本当にまだまだ子供でいらっしゃるのに。
このような戦場へ向かわざるをえなかった事情と、その戦場を一足早く離脱することへの政治的損失を彼はよく判っていたが、しかし内心、心底安堵してもいたのだ。
決して、その思いは外に出せはしなかったが。
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