絵を売る男

醍醐潤

絵を売る男

「決めた。この絵をくれ」

 床に並べられた複数のキャンバスの中から、気に入ったものを1つ選ぶと、大企業の社長A氏は、目の前に立つ青年に言った。


 ここは大都市から車で3時間以上かかる、海沿いのちいさな町で、その二十代の青年は、絵本に出てくるような赤い屋根の家で、絵を売っていた。


「ありがとうございます。〈海と夕日〉ですね。お値段は、五千円でございます」

 キャンバスを持ち上げ、ダンボールで包装する作業をおこなう。すると、A氏は青年に、


「まった」

 手を止めさせた。「五千円だと? それは安すぎるよ、君」


 青年が作業を再開させようとすると、お客はなお力の入った声を発する。

「こんなに素晴らしい絵が、たったの五千円とは安すぎる。どうだ? 私はこれに五十万を出す。美術館に飾られていても文句は言えない一品だと思っているのだ。それぐらい、出させてくれ」


 A氏はかなりこの絵に惚れ込んでいる様子だ。遠慮する青年に、社長は自身のかばんから一万円札の束を出して見せる。


 およそ十分に渡った説得の末、青年はついに折れた。

「お客様が望まれておられるのですからね。分かりました」

 こうして、絵は元の値段の百倍で落札となった。


 青年が絵の包装を行い、完了すると、高級な煙草に火をつけていたA氏は、

「君はなぜ、プロにならない?」

 と、青年に訊いた。「美術館の館長や学芸員などからスカウトはされてもおかしくはないと思うが」


 青年は、「何回かそう言ったお誘いもありましたよ。しかし、全てお断りしました」最後苦笑いを浮かべて答える。


 A氏には理解出来なかった。「どうしてなんだ? 君が有名になれば絵の価値も上がる。メリットしかないと思うが……」


「仰る通りであるとは思います」

 壁にかけられた他の絵を見ながら青年は言った。「その方が、もっと多くの人に、ここにある絵を知ってもらえることでしょう」


「そうさ」


「しかし、私としては、お客様のように本当に、ここにある絵を愛してくれる人だけに、知っていただきたいのです」


「確かに。このような創作スタイルの方が君にはピッタリだ。今、君は生き生きしているように思えるよ」


 二人は外に出た。A氏が車のトランクを開けると、青年がそこに絵の入ったダンボールを置く。


「ありがとう。この絵は、帰ったら我が家の一番良い場所に飾るよ」

 それじゃあ、A氏は言うと、白のドイツ製のセダンは大都市へ向けて走って行った。


 車が見えなくなると、青年は家の中に入る。そして彼は、絵を売っていたスペースを抜け、奥の――一見、ただの壁にしか見えない扉を押して開けた。


 中にいたのは、青年と同い年の男だった。キャンパスに向かって筆を動かしている。

「お客は帰ったか?」

「あぁ」

 青年は言った。「大企業の社長だってさ。煙草も良い物を吸っていたよ」

「そうか」

 男の手が止まった。新たな絵が完成したのだ。


「この絵も高く売れるかな」

 男はニヤニヤしながらキャンバスを見ている。「なぁ、お前はいくらになると思う?」


「さぁな」

 答えをはぐらかし、部屋の隅にある金庫の前で屈む。ダイヤルを回して分厚い扉を開けた。中には大量の札束が収められていた。


「かなり貯まったな」

 青年の後ろから男の上機嫌な声が聞こえる。おそらく、その目をキラキラと光らせていることだろう。「こんなにあるんだ、そろそろ、二人で山分けしようぜ」


 心の中で、舌打ちをした。青年にはこの大金を独り占めする考えしかない。


 もう、絵を売らなくても遊んで暮らせる。だから、お前は――


 青年はズボンのポケットに忍ばせておいた、折り畳み式ナイフの刃を男に向けた。

 


         了

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絵を売る男 醍醐潤 @Daigozyun

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