恋未満。
葉桜冷
プロローグ
目が覚める。
見たくもない夢をみて、おきたくもない現実に起きる。
果たして。むくりと起き上がる。
カーテンを開けると穏やかな日差しが顔を出した。
地獄のような夏が終わり、刹那のような秋が来る。
日差しが部屋の中を照らす。
ひどく殺風景で、何もないような部屋だ。
もとよりあまりものに執着のない自分。
必要最小限の家具と少しの空を舞う埃。それから彼自身。
それがこの小さい部屋の総てだった。
洗面台で顔を洗う。
鏡には自分の姿が映っている。
紫苑がかった髪の色。
ぱっちりとした瞳。それなりに整っているといわれがちな顔が今は虚無をさらしている。
ボンヤリと鏡を見つめる。
「名前は――」
それが、少年の名前。
制服を着こむ。今日から冬服だ。
濁ったような緑色のネクタイは彼が歌狩高等学校の二年生であることを示しているる。
「……」
少年は無言で家を後にする。
秋口の北国を歩く。
既に肌寒さが頬を撫でる。
徒歩にして30分ほど。
バスかなにかを使いたくなる距離だが、うらびれた地方都市である歌狩市に通るのは一時間に2,3本のマイクロバスが関の山であり、そもそも学生が市バスを使用することは認められていない。
通学途中、歩道橋の上。
「―――」
路上で女性が歌っていた。
年のころは24,5かそこら。
けして目立つタイプの女性ではない。
Tシャツに丈の短いジーンズ、それからいくらかのアクセサリー。どれも安価で揃うものだ。
燈はその傍らを素通りする。
なぜだか、彼女の唱は耳に残るような気がした。
「あら、おはようございます空白くん。今日も余裕を持った登校、感心です♪」
「おはよう、副会長」
「はい、皆さんの副会長。生塩リラです。ところで空白くん。クラスメイトなのですし、別に名前で呼んでもらってもよいのですよ?」
「はいはい。しかし生塩も忙しいね。こんな朝早くから。服装チェック?」
「はい。秋から生徒たちの素行のチェックも生徒会業務に追加されることになったので、こうして朝から校門で業務に励んでいるところです」
「他のメンツは?」
「皆さん、朝は苦手なようでして……、あとでお説教ですね」
「はは……」
にこやかでさわやかな笑顔を浮かべるリラ。
彼女は歌狩高校の生徒会副会長をしている。
艶めいた髪に端正に整った容姿、常ににこやかで余裕を崩さない才色兼備な彼女を慕うものは多い。
しかしその笑みの奥の圧を感じ取れないほど空白燈は鈍感ではない。
普通にちょっと怒ってるなとかは、思う。
優秀すぎる故、何かと面倒ごとを押し付けられやすいのだ。
「まったく、生徒会の皆さんも生活指導の先生方ももう少し仕事をしてほしいものですよ」
「大変だね。生塩も」
「ええ。ですがいいこともありますよ。朝早くからこうして空白くんと会えました」「そういうこと、簡単に言うと碌な末路を向かえないと思うよ」
「ふふ。そうですね、でも空白くんは私を刺したりしないでしょう?」
「……まあ、しないと思うけどさ」
そんな風に駄弁る二人。
2年に進級してから話し始めた二人だが、どうも波長があうのか。こうして中身のない会話を繰り広げることが多い。
と、そんな二人を横目にバタバタと何やら騒がしい足音が響いてきた。
「うおおおおおお‼ このまま全力疾走で校舎入りからの階段を駆け上がるカットを――」
「小室さん」
リラはそう、バタバタ走っている人物に声をかけた。
しかし、当のその本人は知ら存ぜぬで通り過ぎていく。
「空白くん」
リラは燈を見つめる。
そして。
「お願い♪」
そういってウインクした。
仕方ないなと、燈は頷き。そのまま駆けだした。
「小室センパイ!! 小室ススキセンパイ! 止まりなさーい!」
「おおっとォォ! おはよい後輩くゥゥゥゥゥん! 残念ながらカントクは止まるということが出来ないのさッ、映画撮影とはノンストッパボゥなエクスプロージョンなのさぁ!」
そう叫びながら、小さなカメラ片手に疾走するこの人は小室ススキセンパイ。歌狩高校3年生。ただ一人だけの映画研究会員。見ての通りのエキセントリカル。
「そオォオォォォォだァァァァ! 後輩君はうちの研究会に入らないのかッァァァい⁉ 歓迎するよォォォォ人手不足だしィイィィィィ!」
「検討しておきます! ―――えい!」
そんなわけでセンパイの首根っこを掴むことに成功した。
センパイは。
「なぁはっはは。捕まっちった」
と、気楽な感じに笑うばかりだ。
「あとで偉い人たちから絞られますよ」
「うへぇ。どうせなら燈くんのほうがいいのに。きみなら、わたしのこと、やさしく𠮟ってくれるでしょう?」
「……やですよ。だってセンパイ、反省しないんだから」
「えへへ」
「えへへじゃないですよ。困ったひとなんだから」
「ええ。本当に」
柔らかいのに『ずん』と重たさを持った声がした。
生塩リラの声である。
彼女はいつもの柔和な笑みを崩さない。
が、誰がどう見ても切れている。
「ありがとうございます空白くん。あとはこちらで対応しますね」
「あ……あぁ。うん! じゃ、オレは行きますね」
「え、あ、待って燈く―――たす―――」
その後、小室センパイの姿を見たものはいなかったとか。
ごめんよ、センパイ。
「朝方はお手数おかけしました」
「ああ、生塩か。別にいいよ。それからセンパイは?」
「ええ。しっかりお話ししてわかってもらえましたよ♪」
「……そうか」
何も言うまい。
「で、ですね。空白くん。よろしければ――」
「生徒会の手伝いが欲しいんだろ? いいよ」
歌狩高校は生徒の自主性を重んじる学校だ。
一応そういうことになっている。
その割にがちがちな校則があったり、強制参加の面倒な行事が多い気がするが……、そこは主題ではないな。
要するに、校内の秩序維持という生徒会と教師陣で行われる業務のうち生徒会側が被る比重が重くなりがちという話なのだ。
しかしながら、生徒会の人員が増えるわけでもない。
ほとんどの業務を生塩は難なくこなしているように見えるが、それはこうやっていいように使えるクラスメイトの親切が大きかったりする。
「もちろん。毎回すごく感謝しているんですよ?」
はいはい。
中身のない会話を繰り返しながら。生徒会室の前に来る。
「おはようございます」
「こんにちは」
生徒会室には見慣れた顔も名前も覚えていない面々がいる。
それぞれが各々にもごもごとした返事をしている。
彼らも燈の存在には慣れているのだろう。
「生塩くん。外部の人間に手伝いを頼むのことを常態化させないでほしいのですが」
「すみません高松生徒会長。ですが彼に手伝ってもらったほうが良いと判断しました。生徒会のみんなも、猫の手も借りたいと思っているここ最近、外部の協力は積極的に求めていっていいと思います」
「しかしね――」
生徒会長は燈のほうを一瞥する。
その表情には一瞬、苦々しいものが映っていた。
「……で、オレは何をするの?」
すたすたと、燈は人の気配の少ない廊下を歩く。
リラからの信頼があるのは嬉しいが、生徒会長からはあまり快く思われていないのもあって、生徒会室は息が詰まる。
さっさと仕事を振ってもらったほうがいい。
そういうわけで頼まれた通り、燈は学校の最上階の端にある教室に向かっている。
設立百年弱、4階建ての歌狩高校は昨今の少子化の影響も相まって空き教室が割と存在している。
ここはそんな区画の一室。教室というよりは物置部屋のけが強い、ウナギの寝床。
『まだ本年度下半期の予算申請を提出していない同好会があるので取り立てに行ってくれませんか?』
それが今回のリラの頼みだった。
既にいくつかの部活、同好会の取り立ては済ませてある。
雰囲気に不思議な圧がある。そんな風に昔誰かに言われた気がした。
今回の抜擢はそのせいかもしれないなみたいなことをぼんやりと思う。
因みに小室ススキセンパイこと映画研究会はとっくのとうに申請済みだったがあんまりにもあんまりな内容だったらしく不本意そうに修正させられていた。
「ここが最後」
ウナギの寝床の戸を叩く。
「……はい。どうぞ」
扉を開ける。
一陣の風が吹いた。窓を開けていたのだろう。
秋の風だ。
窓辺に佇む少女がいる。
黒くくすんだ髪に、小柄な体躯と制服の上から来たサイズの合わないぶかぶかのパーカー。
伏し目がちで眠そうな眼差し、リボンの色から一年生だろうことはわかる。
どこかダウナーな雰囲気のする後輩女子が一人。そこにはいた。
「……なんですか?」
一瞬、見惚れてしまった自分に気づく。
「ああ。ごめん。會野ミサキさん、だよね? 文芸同好会の」
「はい。そうです。貴方は?」
「生徒会の使いできた空白燈というものです。文芸部の下半期予算案がまだ提出されていないようだから、回収にきたんです」
「あ……」
ミサキという名の少女はそうリアクションを溢した。
完全に忘れていたという顔である。
「……すいません。用紙ってあります?」
「ありますよ。今書いちゃいます?」
「あ、はい。すいません、うちの部、あたしともう一人幽霊部員しかいなくて……で、その、二人とも一年で……」
「書き方はちゃんと教えるから、だいじょうぶ」
「助かります……」
夕暮れ、学校の片隅の小さな、教室とも呼べないような一室。
思いのほかに用紙の記入には時間がかかった。
そもそも文芸部とはなばかりで、ただ単純に彼女と友人が放課後に駄弁るためだけの部なのが此処の実態だ。
もともと名前だけ存在していて誰も入っていなかったものを新入生でのっとったという。
大した胆力だなと思う燈だった。
ただ当然、上半期の予算案はなあなあでスルーしてしまったのと実体のない部活動なので予算をどうこうもないせいか非常に予算案を練るのに苦労した。
結果。
「空白くん? もう下校時刻はとっくに過ぎてますよ? みんな帰っちゃって、私だけがきみを待っていたのですよ?」
「ごめん」
「ふふ、ちゃんと謝罪の言葉が出てきて嬉しいです。特別に許してあげます」
「ありがとう。生塩はいいやつだね」
「ええ。私はとってもやさしいのです。もちろん、私から君に頼んでしまった手前、バツが悪いのもあるのですが」
そういっていたずらっ子のようにリラは舌を出した。
夕暮れは終わり、すっかり夜が更けていた。
リラに対し、送ろうかというそれなりに勇気ある提案をしてみたところ。
「仕事帰りのお父さんが迎えに来るので」
との返答が帰ってきた。
ちょっと、がっかりしていた。
ふと、帰路に就く途中で燈は足を止めた。
歩道橋の上、座り込んでいる女性を見つけた。
いや、そういう人間は稀によく見るものではあるが、どういうわけか燈はその人の前で足を止めた。
どこかで見たことあるような気がしたからだ。
記憶の中をあさり、ふと思い当たる人物に当たった。
今朝がたもここで歌っていた女性。
「音無さん。音無マサミさん。起きてください」
「んが。……アカリくんじゃないか。……今日はライブハウスのバイトは?」
「ありませんよ。音無さんこそ、こんなところでどうしたんです?」
「ああ、ちょっと疲れてしまってね。……君もこんなに遅くまで学校かい? あまり夜道でわたしみたいな怪しい女と関わるものではないよ」
「でも、他人ってわけじゃないですし、……ちょっとは気になりますよ」
「そうか、きみはやさしいね」
そういうマサミは力なく笑う。にへらとした彼女の笑みはどこか燈の心をざわつかせる。
まるで今にもどこかへ消えてしまいそうで。
少年は、何も言えない。
「じゃあね、アカリくん。起こしてくれてありがとう」
ゆるゆると彼女は立ち上がる。どこかその姿は幽霊のようですらある。
夜の闇に消えていく背中を燈は黙って見送ることしかできなかった。
帰宅する。
居て欲しくない人間がいる家の中。空っぽの部屋の中。
空白燈の一日はそこで終わる。
どこか空虚に天井を見上げながら。
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