第7話 一杯の珈琲が冷めるまで

 その言葉によって、人形が衝撃を受けたのかは分からない。どこまでも無機質で鮮やかな紫の瞳、自分の出自を聞いても、それは一つの澱みも見せない。


「私が、フォリア」


 蕾がブラウスに付いたままになって乾燥しているピンク色のそれを撫でながら事実を確認しているうちに、陽子は指を鳴らしてから更に話し始める。


「そう。フォリアは生まれた瞬間から成体……だから、生まれたばかりの君に記憶が無いのは必定。よかったじゃないか、謎が解けて」


 最後の言葉がやけに投げやりであることからして、彼女にとって他人の喜怒哀楽など至極どうでもいいことなのだと感じさせられる。


 蕾が今現在どのような感情を抱いているのかは、相も変わらず表情に出ないために知り得ないことだ。


「フォリアの持つ力は大型のカルトロンにも通用する。人間がそれをくらったら……人の生なんてものは、容易く白紙だ」

「だから、あのような場所に?」

「事故があったらうるさいんだよ、色々と……これまで起きたことが無いとは言わないがね」


 言うだけ言って大きな欠伸をする。もう既に面倒くさくなっているのかもしれない──

自分で呼び出したのに?


「ああ、仕事。そんなこんなで……君には、ここのになってもらう」


 看守と聞くと、先程まで廊下で見ていた彼らがまるで囚人の立場にあると言うようではないか。


 罪人でもなければ、どちらかと言うと彼らは本来あるべき自由を奪われている被害者に見える。だのに、それを管理しろと言うのか。


伊坂が蕾の立場であればそう言うのであろう。



「分かりました。では、仕事の内容を教えていただいてもよろしいですか」



 陽子も流石にこの答えは予想していなかったのか、少し口を開けて沈黙している。かと思えば、膝を叩いてけたけたと笑い始めた。


「ははは!躊躇なく承諾するなあ君は!」

「今の私にそれ以外の選択肢はないように見えます、抗議するだけ時間の無駄です」

「君、けっこうイカれてるなぁ……よし。じゃあ簡単に仕事の内容を説明しよう」



一、フォリアのストレス緩和を優先すること

二、カルトロンが現れた際は、フォリアを連れて討伐に行くこと

三、フォリアがした場合、それを制圧すること(必要であれば殺害も視野に入れること)



 細かな雑用などを抜きにすると、説明された業務内容はその三つ。そこまでフォリアに関する内容があるなら、最初から彼らの扱いをもう少しましなものにしておけばいいのでは。


 などと言っても、いまさら急な方針変更はできないのだろう。車が急には止まれないように、一度始まったプロジェクトは簡単には中止できない、そういうものなのだ、きっと。


「勿論、衣食住は保証する。給料も低くはないよ。どうせいつ死ぬか分からないんだし」

「はあ、ところで。私の──」

「で、君の能力だけどね……正直に言おう、分からないんだ」


 先ほどまで開いていた本を閉じたかと思えば、急に両手を開いておどけて見せる。どこまでも役者のような動きをするので、最早こう言うものだと蕾まで思うようになってきた。


 ただ、蕾が聞こうとしていたのもまさにそのことである。そこで、はっきりと分かったことがある。


 人の気持ちが分からないのではなく、人の気持ちが話を取捨選択する。それが神谷陽子という人間で……結局は、人に合わせようという気などないのだろう。


 ──彼も、これに付き合わされたのか。


「フォリアは生まれてからすぐに最も近い場所にあるジトラステアに運ばれるし、能力だって生まれた瞬間から分かっている。だから……君は、あらゆる面でイレギュラー!ってことだ」


 面白いね。などと言いながら顎に手を当てて、ふうっと息を吐く。どのようにしてそこまで早く情報を仕入れているのか、どのようにしてここに送られるのか。


 蕾はそれを聞いてみようかとも考えたが、どうせそれを聞いたところで答えてはくれないだろう。答えてくれるようなら、初めから自分で話すのだから。


 機会があれば自分で探ればいい。蕾はそう考えていた。彼女が自分を少しでも気にかけてくれている以上、時間にはまだ余裕がある。


 まだ芽が出たばかりなのだ。そうそう枯れることはない、少なくとも今は。


 それよりも、たった今聞いたことで気になることが蕾にはあった。


「……最も近い?ジトラステアは、ここだけではないと言うことですか?」

「ここはジトラステアの、本部はここではないよ……功、そこの説明はしなかったのか。まあいいか、今はそんな大事なことでもないし。それに──」


 そう言った途端、突然に鼻腔の奥をくすぐる、深みのある香りが立ち上ってきた。しかしどこから?疑問に思っていると、陽子が少し使い古された白のマグカップに指をかけていることに気がついた。


 ずずず、と啜っているそれは、明らかにその香りの出所で……そこの見えない漆黒のそれは、何者でもない、何の変哲もない珈琲である。


「いや、もう十分は経っただろ?珈琲もぬるくなってきたし、香りが損なわれる前に飲んでおくべきかなあ、とね」

「はあ、別に聞いていませんが」

「それに、そろそろ功も戻ってくるし……相手をしてやらないと。着替えておきなよ、服はここに置いとくからさ」


 着替えというのも、どこから出したのか疑問である。半透明のレインコートに、薄手のシャツ。これはどちらも白っぽい。そこまで今のものと変わらない気もするが。


 続いて緑のカーディガン……にしても、それらは雑であることが丁寧だ。自分の近くにあるものを適当に持ってきたのだろう、ぐちゃぐちゃに置いている。


「じゃ、また後で!」


 蕾は彼女を止めようとはしたが、言うだけ言ってすぐさま陽子は部屋から出て行ってしまった。話し方や態度だけでなく、どこまでも嵐のような人間である。


 白い部屋、残されたのは飲みかけの珈琲と緑のカーディガンと……色味があるのはこれだけ。蕾は着替えるために乱雑に置かれた服を手に取る。


 これといって特徴もない洗剤の香りが漂って……いや、少し珈琲の香りもするかもしれない。そこだけがやたらと生活感に満ちていた。


 よく考えてみたら、ソファも白色である。何かこだわりでもあるのか?




─── ─── ─── ─── ───


 陽子が部屋から出てすぐ、そこには当然伊坂が待っている。それも、かなり険しい表情で。


「ダメじゃあないか、功。ちゃんと蕾くんに地区のことも説明しておかないと──」

「それより、今は聞きたいことがあるんです」


 先ほどから話に割り込んで人を流す側であった陽子が、話に割り込まれた瞬間である。


「珍しいな、らしくないよ功、何をそんなに怒ってるんだ。いやまだ怒ってないのか……?」

「茶化さないでください」

「おぉっ怖……分かってるよ、話を聞くと言ったしね。で、何だい」


 そこで、伊坂は一度深く息を吐いた。これから聞こうとしていることが、まだ頭の中で整理できていないのかも知れない。


 そして、次の瞬間に口を開く。


「蕾さんを襲ったカルトロンのことですが」



「陽子さん。を森に放ったのは、あなたじゃないんですか?」

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