第2話 芽吹き
蕾が車を降りてから森を歩き始めて既に十分以上は経過しているはずなのだが、一向に運転手の言っていた施設というものが見えてこない。
とはいえ、いまさら戻ったところで運転手が先ほどの場所にいるとも考えにくいため、蕾は銀色のショートヘアーを揺らしながら、ただ言われたとおりにまっすぐ進んでいる。
着用しているのが黒のデニム生地のショートパンツということもあって、小枝などが真っ白な肌を掠めそうな時があるが、蕾は然程気にしていないようである。
歩いていても木々が広がるだけの景色が変わることはないので、蕾は自身が置かれている状況から整理することにした。
──誘拐?
しかしそうなると、なぜあのように連れていこうとしたのか。誘拐のようなものであれば適した手段はいくらでもある。あのように座席に座らせて放っておくことはしないはずだ。
縄で手足を縛っておくなり、目を覚ました後のことを考えると、何もせずに放置するというのは誘拐であるとすれば不自然だ。
かさり。
茂みから何かが出てくるような音。音がした後ろの方へと視線を向けるが、そこには何もいない。ただ、何かがいるような違和感は全く消えない。
いや、全くではない。ほんの一瞬、わずかながら、その気配が消えた感触はあった。そして、その気配が自身の正面に移動していたことも。気づくのは遅れたが、後ろの方へと飛び退いてみる。
前方に見えてきたのは、大きさにして十五センチほどの丸みを帯びた粘性の何かであった。体の右半分が半透明になっていて、徐々にそのピンク色の体が現れてくる。体の真ん中に小さく丸い口のようなものがあり、鋭い牙が口内から顔を覗かせていた。
その存在は体の横から触腕らしきものが二本生えていて、そのうち一本が鋭利な刃となって伸びており、それを蕾の足に向けて振り落とそうとしている。
「──っ」
先ほど飛び退いたことが功を奏したか、間一髪だったが、足を切り落とされると言った最悪の事態にはならずにすんだ。
気づくのが遅れたこともあって完全には避けきれずに右足に小さな切り傷ができたが、少なくとも今はそれに気を配っている場合ではないと理解していた。
だからと言って、現れた奇怪な存在に対処するための道具などは持ち合わせていない。分かっているのは、目の前の存在は透明になって気配を消すことと自らの触腕を刃に変えることができること。
「それが分かったからどうしろと……」
前方の怪物を見据えて、蕾は呟いた。
その怪物はまたしても自身に刃を振り落とそうとしており、今度は足ではなく、胴体を狙おうとしているらしかった。
嫌な水音を出している怪物、周りにはただただ木々が生え揃っている。状況を把握するという行動ができるほど情報量があるようには見えないそこで、蕾はなぜ自身がこのようなことになっているのかを考えている。
(目覚めたのはあの車の中。この方角に進むよう言ったのは運転手の方、ですが──)
少なくとも、先ほどの運転手は怪物とは無関係だろう。命を奪うだけなら先ほどから車内で寝ている間に襲えばよかった話であり、わざわざ起きるよう声をかける意味がない。そして、運転手は蕾のことをあまり知らない様子だった。
(彼は「あの人」に命令されたと言っていた。しかし、何故私を──)
そう考えているうちに、蕾はあることに気づいた。
(あそこで目覚める前の記憶がない)
俗に言う記憶喪失なのだろうか。しかし、自分の名前は覚えている。その上、知識まで抜けて精神が幼児のようになることもない。
考えれば考えるほどに謎が深まる。
運転手の言っていた『あの人』に会えば、わざわざこんな所まで呼び寄せた理由が分かるだろうか。最初から自身が来るのを待っていることはできなかったのだろうか。
わざわざ車に乗せて個別に送るくらいなのだから、相手にとって自分はある程度大切な存在なのではないか。
(……大切な存在とは言えないかもしれない。途中でいなくなると不都合だから、少しでも楽をするために安全に運ぼうと……?)
こうなってしまえば何を考えようと最初の地点に戻るだけ、今は考えるだけ時間の浪費になる。
──今は考えている場合ではない。本人かその仲間か、とにかく助けが来るまでは。
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