32 問答

 兄の誕生日がきました。彼の要望で、去年と同じところでディナーを食べました。毎年ここに来よう。そう彼は言い、上機嫌で料理を口に運んでいました。それからまた、バーに行き、僕は香水を渡しました。


「今、つけていい?」

「いいよ」


 僕が選んだのは、エルメスでした。大人っぽく爽やかで、兄にぴったりだと思ったのです。彼は僕にも香水をかけました。タバコも同じなので、僕たちはすっかり一緒の香りになりました。

 その日僕が恐れていたことは、また暴力をふるわれることでした。誕生日とは、兄にとって、父を思い出してしまう日でもあるようだったので。案の定、帰ってから僕は壁に突き飛ばされました。


「なんでお前なんか生まれてきたんだ。なんで」


 兄は泣き出しました。僕は腕で顔を守りました。考えていたのは、SFの構想のことでした。殴られ、蹴られ、引っかかれ、それでも僕は許しを請いませんでした。終わってしまえば、また彼は優しくなってくれる。だから耐えました。

 しかし、ボロボロになって僕を置いて、兄は出て行ってしまいました。僕は床に這いつくばり、玄関の扉を見つめていました。てっきりまた、謝られて愛してくれると思っていたのに。

 僕はベッドに行き、天井を見上げていました。横に梓が寝転んできました。彼女は僕のアザの一つ一つに触れました。


「痛かった?」

「まあね」


 梓と会話をすれば、ますます彼女の影が濃くなってしまうでしょう。でも、その時の一人ぼっちの僕は、そうするより他に無かったのです。


「あたしを殺さなければ、あたしとの未来があったのに」

「僕もそう思う。けど今は、兄さんしか見てない。君はもう死んだ。僕には兄さんしか居ないんだ」

「もう、見捨てられたんじゃない?」

「そんなことはないよ」


 梓との問答は続きました。僕は繰り返し、兄を本気で愛しているのだと彼女に伝えました。彼女はわかってくれませんでした。僕にとって最悪なシナリオばかり語りました。

 一つは、梓を殺したことがバレて僕たちが捕まること。一つは、兄が僕に飽きて見放すこと。

 僕は、梓のことはともかく、兄は絶対に僕を捨てないと主張しました。兄の一途さを僕はきちんと感じ取っていました。出ていきはしたけれど、まさか他の男のところへ行ったわけではないだろう。そう信じていました。

 どのくらいそうしていたのでしょう。僕は眠ってしまっていて、スマホの振動で目が覚めました。知らない番号からの着信でした。僕はそれに出ました。交番からの電話でした。


「お兄さんを預かっています。迎えに来れますか?」

「あっ、はい……!」


 どうやら泥酔して路上で眠っていた兄を、警察官が保護してくれていたようです。僕は慌てて交番へ向かいました。


「ほら、坂口さん。弟さん来たよ」

「瞬……?」


 対応してくれた警察官は、吉野さんという五十代くらいの男性でした。僕は何度も彼に頭を下げました。

 僕たちは犯罪者です。警察官と会うことは緊張しました。兄がうっかり何か口走ってやしないかとドキドキしました。兄は僕の連絡先を吉野さんに伝えただけだったようで、その日はそのまま帰りました。

 ベッドに兄を寝かせ、水を飲ませました。彼はいくらか意識がハッキリしてきたようで、外に飲みに行ってた、とぽつりと言いました。


「ねえ、兄さん。そんなに僕と一緒に居たくなかったの?」

「そうじゃない。後悔したんだ。またやっちまったってな。瞬のこと、傷付けたくなんてないのに」


 時刻は夜の十二時半でした。兄は気分が悪いと言い始め、トイレで吐きました。僕は彼の背中をさすり、手を握りました。


「俺も母親と同じだな。酒に逃げるなんてよ」

「兄さんは、死なないでよ?」

「当たり前だ。俺は自殺だけはしないって決めてるんだ。しぶとく生きてやるよ」


 当時の僕にとって、恐ろしいことはいくつもありました。梓のことがバレること。梓に殺されること。そして、兄を失うこと。

 兄が自身の生に対して貪欲で良かった、と僕は思いました。彼が生きている限り、例え捨てられたとしても、何度でもやり直そうと言うつもりでした。

 寝室へ行くと、梓がベッドに座っていました。


「どいてよ、梓」


 梓は首を横に振りました。ならば、今度は僕が殺すしかありません。僕は彼女の首を絞めようかと思いました。


「また、メスガキか。だから居ないってば。瞬、いい加減にしろよ」

「だって、そこに座って……」

「誰も居ないっつーの」


 兄はベッドに腰かけました。彼らの輪郭が重なりました。段々見ているうちに、梓は消えて、残ったのは顔色の悪い兄だけでした。

 僕は兄の上にまたがって座りました。キスをして、服の中に手を入れようとすると、兄はそれを制しました。


「さすがに気分悪い。今夜はごめんな?」


 その代わりに、何度も口付けました。愛していると囁きながら。梓の視線だけを感じました。

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