16 手
十二月になりました。ファミレスではだいぶ前からクリスマスフェアが始まっており、否が応でも意識させられました。
大学の中間テストの結果も無事に出て、専攻も決めました。米文学です。いくつか受けてみた講義の中で、そこの教授に最も惹かれたんです。
梓さんは、国文学専攻でした。それについても話をすることがありました。彼女もいよいよ卒論、そして就活が始まります。アルバイトに入れる日数も限られてくると聞き、焦りがつのりました。
兄とのことは、もう自分一人では抱え込めないと僕は思っていました。それを言うのは梓さんしか居ないと。
しかし、言える機会を伺うばかりで、足踏みだけしていました。そのうちに、梓さんの方から誘われたのです。
「お姉さんとイルミネーション見に行かない?」
電車で何駅か行ったところに、大きなツリーがあることは僕も知っていました。プロジェクションマッピングがあって、毎晩ショーが上映されることも。
あっという間に日時が決まりました。十二月二十日の午後に待ち合わせ、夕食をとった後、見に行くことになりました。
当然、そのことは兄に報告しました。了解、と素っ気ない返事がきました。あれから本当に、彼からの暴力は受けませんでした。身体の関係は続いていましたけどね。
「瞬くん、何食べたい?」
「何でも。梓さんが好きなもので」
「じゃあチキン! ほら、クリスマスっぽいでしょう?」
当日の梓さんは、髪をハーフアップにしていて、赤いコートに黒いプリーツスカートという格好でした。
コートを脱いだ下は、白いもこもことしたニットで、冬ごもりをしている小動物のようでした。
チキンを食べた後、まだ時間があったので、コーヒーチェーンに寄ってタバコを吸いました。喫煙者同士だといいですね。互いに遠慮がない。
カフェラテを飲みながら、梓さんはこんな話をしてきました。
「坂口さんって、彼女居るのかな?」
「えっ……いきなりどうしたんですか?」
梓さんによると、コンビニで二人分の食事を買う兄を見かけてしまったということでした。それはいつのことなのか分かりませんが、僕が呼ばれた日のことに違いありませんでした。
「ほら、坂口さんって、あんまり自分の話しないじゃない? あれ? 瞬くんにはそうでもない?」
「まあ、そうですね。彼女は居ない筈ですよ」
「そっかぁ。なーんか最近、坂口さんと距離感じるんだよねぇ」
兄にとっては、梓さんは恋敵なのでしょう。あの兄でも、態度を隠しきれていないんだなと思うと、人間味を感じました。
切り出すなら今かもしれないと僕は思いました。せめて、兄弟であることだけでも話すことができたなら。
しかし、梓さんは唐突に話題を変えました。
「瞬くん。幸せって何だと思う?」
「幸せ……ですか?」
梓さんと話している今が幸せですよ。それくらいのことが言えたら良かったんですけどね。僕は答えに困るだけでした。梓さんは続けました。
「あたしはね、周囲の人たちが幸せだったら、あたしも幸せ。だから、瞬くんが幸せになれるお手伝いをしたい」
「梓さん……」
しかし、僕は思いました。僕は呪われた命でした。産まれてきたこと自体、祝福されるべきではありませんでした。
兄が飽きるまで、彼の手の中に居ることが、僕にとっての人生だと考えていました。幸福なんて、受け取っちゃいけない。
「梓さん。僕は十分、幸せですよ」
そう言っておかないと、ダメだという気がしました。梓さんは手を組んで僕を見つめました。嘘だとバレていても良かったんです。僕は彼女を見つめ返しました。
「そっか。瞬くんがそう言うのなら、そうなんだね」
それ以上、梓さんは追及してきませんでした。僕たちはツリーを見に行きました。
音と光に彩られ、ツリーは燦々と輝いていました。家族連れやカップルたちが、一様にそれを見上げていました。
立ったまま、それを見ていた僕たちでしたが、ふいに梓さんの手が僕に触れました。ぎこちなく手を繋ぎました。野外だったし、よく冷えていたというのに、僕は汗をかきはじめました。
ショーが終わってしまうと同時に、どちらからともなく手を離しました。兄とは違う、小さな手の平の感触。僕は興奮が収まりませんでした。
「梓さん。さっき、手……」
「ふふっ、ドキドキした?」
僕が頷くと、梓さんはコロコロと笑いました。群衆が駅の方面に向かっていました。僕たちもその波に乗りました。
とうとう手を繋いだ理由を僕は聞けないまま、電車に乗り、解散しました。家に帰っても、鼓動が早いような感覚でした。
兄から明日の呼び出しの連絡がきて、僕は現実に引き戻されました。僕と梓さんの距離は着実に近付いていました。でも、僕は兄から逃げることができません。
シャワーを浴び、タバコを吸って、僕はセリフを準備し始めました。今度こそ兄にキッパリ言おう。そう決めたのです。
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