第34話 行かなければ
武田と別れて、それでもどうしたらいいのかわからない。
考えてみると別に坂上さんがどこにいるかも知らない。ただぼんやりと歩いていただけだ。
あえて言うならば、彼女にサッカーボールを奪われた場所は病院近くの公園だったと思う。手かがりはそこくらいしかない。
行ったからと言って、どうなるわけでもないだろうけど、とにかく行ってみよう。
そんな気持ちで僕は公園へと向かっていた。
その途中だった。
黒い車が僕の隣を通り過ぎていく。その助手席に座っていた少女に見覚えがあった。
黒い長い髪。清楚な感じのする優しそうな子。
僕の夢の中に出てきた女の子。
「坂上さん!?」
思わず声を漏らした。
でも彼女は僕には気がついていなかったようだ。いやそれどころか、何かどこか表情が暗いように感じていた。
一瞬のことだったからよくわからない。
それでも僕の胸の中で何かが訴えていた。
何だ。何があるというんだ。別に車に乗っていたからっておかしなことはない。
おかしなことはない。本当か。
だって彼女は母子家庭だろ。でも車を運転しているのは男の姿だった。
やや年をとった四十代くらいの男性だ。なんでそんな男の運転する車の助手席に乗っているんだ。
おかしい。何かが起きている。
そう思う根拠は何一つなかった。実際親戚とかかもしれない。
でもそれにしては彼女の表情はおかしかったと思う。
いや一瞬のことだ。ただの見間違いかもしれない。でも。
僕の中で何かが訴えてくる。何が起きているのかわからない。なんだ。何かえもしれない感情が、僕の中で何かを言っている。お前は何を言いたいんだ。
僕はふりかえって、車の行く方向を見つめていた。
そのときだった。
「あれ。八神くんじゃない」
かけられた声に顔を向けると、そこには見知った女の子の姿があった。ええっと。確かこの子は清水美希さんだったかな。一緒のクラスではなかったと思うけれど、何で知り合ったんだっけ。
学の彼女とかって訳ではなかったとは思うけど、誰かの友達だったと思う。誰に紹介されたんだっけな。
「あ、えっと清水さんだっけ」
「えー、覚えてくれてないの。一緒に遊んだこともあるじゃない」
「あー。えっと。ごめん」
「ま、いいけど。君は私が緊張せずに話せる数少ない男の子なんだけどなぁ。つれないってもんだ」
清水さんはからからとした声で笑っていた。
朗らかで可愛い子だなぁとは思う。でも確かに初めて紹介されたときは、ずいぶんと男の子が苦手みたいで、びくびくとしていたっけな、と不意に思い出す。
「ああ、そういえば男子が苦手なんだっけ」
「お。思い出した? そうそう。でも君はさ、ほら、そういうんじゃないじゃん。何回も会ううちにさ、平気になったんだよねー」
「そんなに何回も会ったっけ?」
「会ったの。ひっどいな。全部忘れちまったのか。もー。こはるの彼氏とはいえ、ひどくない?」
「え?」
「あ!?」
僕が思わず漏らした声に、彼女はあからさまにしまったという顔を漏らす。
「え、えーっと。その」
あからさまに挙動不審になって、あちらこちらに目線を送る。
言ってはいけないことを言ってしまったという感じで、慌てて口を抑えていた。
やっぱり僕は坂上さんと恋人同士だったということは間違いないのだろう。坂上さんが僕のことをまだ好きでいてくれるというのも。
ただ僕はまだ彼女の記憶を取り戻してはいないし、感情もついてきていなかった。
それでも少しだけ思い出したことがある。
清水さんを紹介してくれたのは、坂上さんだったということ。隣にたっていた坂上さんの姿を思い出していた。
「……君を僕に紹介してくれたのは、坂上さん。そうだよね」
僕の言葉に清水さんは再び目を開いて、それから食い入るようにして僕へと迫る。
「こはるのこと、思い出したの!?」
彼女も僕の病気のことは知っていたのだろう。僕が坂上さんのことを忘れてしまっていることも含めて。
「いや、ぜんぜん。どちらかというと君のことを思い出した。ただ君を紹介してくれたのが、坂上さんだということくらいは思い出したよ」
そう。坂上さんのことを思い出したという感じではない。ただ清水さんのことを思い出したと共に、坂上さんも含めて思い出しただけだ。
それでもいろんなことのピースのかけらとして、少しずつ思い出してきている。
何となくそれは感じていた。
「そうだよね。坂上さん、なんだもんね」
清水さんは残念そうな顔でつぶやく。
僕は女子はほとんど名字で呼ぶけれど、やっぱり彼氏彼女の関係であれば坂上さんという呼び方ではなかったのだろう。
なんて呼んでいたのだろうか。やっぱり名前でこはるだろうか。
「うん、まぁ。まだ思い出せていない。でも少しだけ思い出したし、もっと思い出したいとは思う。だから彼女彼女のことを教えてくれないか。僕は坂上さんとは彼女のことを呼んでいなかったんだよね。なんて呼んでいたのかな」
とりあえずこの際だから清水さんに聴いてみようと思う。少しでも思い出せることもあるかもしれない。
「え。あ。うん。君はさ、こはるって呼んでたよ。二人は本当に仲良くてさ。そういうのいいなって思っていた」
「こはる」
彼女の名前をつぶやいてみる。
何となく胸の中が温かくなるような気がしていた。だけど何となくこはると呼ぶのは気がひけていた。僕はまだ彼女のことを思い出していない。
サッカーをしている時にボールを奪われたこと。清水さんを紹介してくれて、清水さんがびくびくとしていたこと。
思い出しているのは坂上さん本人のことではなくて、他に付随している記憶だけだ。
彼女と過ごした時間も彼女への想いも何も思い出せない。
思い出したい。もっと知りたい。そう思うものの、その気持ちはどこから来ているのかがわからない。
病気への不安からなのか、それとも僕の中に彼女への恋慕の気持ちがどこかに残っているのだろうか。
もやもやとした気持ちが、僕を焦燥にからしていく。
「こはるは、ずっと君に思い出してもらおうとしていたんだよ。でもなかなかうまくいかなくて。思い出してもらったとしても、また忘れてしまっていて。何度も何度も繰り返して、それでもずっと君をみていたよ」
「そうなんだ……」
清水さんの言葉に僕はなんて答えればいいのかわからなかった。
ただずっと一途に思っていてくれたのは、嬉しいと思う。僕はそれほど女の子にもてるタイプじゃない。どうしてそんなに好きでいてくれたのかはわからない。
「正直僕は彼女のことをほとんど覚えていないし思い出してもいない。ただ君を紹介してくれたこととか、少しだけは思い出した。そして彼女のことをきくたびに、何か胸の中にもやもやが増えていくんだ。たぶん彼女のことを思い出したら、このもやもやが晴れるんだと思う。だから最近の坂上さんのこと、もう少し教えてくれないか」
どうすればいいのかはわからない。
ただそれでも彼女のことを知りたい。思い出したい。その気持ちはどんどん強くなっていく。
「え、えっと。そうだね。そうはいっても、あんまりこれって話もないんだけど。最近あんまり遊べてないし。この間、一緒に遊びにいったときは、こはるのお父さんが現れてさ。なんか急な用事があるとかいうから別れちゃったんだよね」
清水さんが告げた言葉に、だけど僕は何か強い違和感を覚えていた。
なんだ。何がひっかかっているんだ。
別に清水さんは大したことはいっていない。坂上さんと遊べていない。せっかく遊べていたのに、お父さんのせいで遊べなくな――
そこまで考えた瞬間、僕の頭の中に何か強い感情が思い起こされていた。
それは僕の頭の中に膨大な波となって、襲いかかってきていた。
お父さん。違う。違うはずだ。彼女は母子家庭のはずだ。
いや、そもそもなんで彼女が母子家庭だと思ったんだ。僕は彼女のことをほとんど覚えていない。なのに急にそう思った理由はなんなんだ。単純に父親かもしれないじゃないか。
だけど、違う。彼女は母子家庭だ。そうだ。
彼女に父親なんていない。彼女は「父親はいなくなった」はずだ。
僕の頭の中が激しく揺れていた。
そしてかつてあった事件が、彼女の義父がろくでもない奴であることが僕の頭の中に急激に思い起こされていた。
さっきの車に乗っていた奴は。
こはるの義父だ。
なんで。なんで奴が。こはるのお母さんとは離婚したはずだろ。
いや、そんなことはどうでもいい。
こはるが、あぶない。
助けなきゃ。こはるを。助けないと。僕が。
いや、なぜ。僕はなんでそんなことを思っているんだ。
僕は。こはるのことを。
いや。違う。わからない。僕は何でそんなことを思って。
いや。いいんだ。そんなことはどうでもいい。とにかく、僕はこはるを助けないと。
それだけは僕が成し遂げなきゃいけないんだ。
強い感情が僕を支配していく。
こはるを助けなきゃいけない。こはるを。僕が。
そうしなければ、こはるは傷つけてしまう。
「ごめん! 行かなきゃいけない」
「え!? あっ……」
清水さんの答えもきかずに、僕は走り出していた。
さっきの車はまっすぐに走っていっていた。
でももうどこにいったのかはわからない。車に追いつくなんて物理的には無理に決まっている。
だけど僕は走る。ただ焦りだけが、僕の中を支配していた。
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