第八話 散華! 八王子・涙雨

 文久元年七月五日――、この日は朝からくもきがあやしかった。

「こりゃあ、雨になるな」

 近藤が腕を組んで、軒下からどんてんあおぐ。

 確かに墨を流して混ぜたようなそらはいつ、その雨粒を落としてくるかわからぬ気配だ。

ときおりに触れてくるえんらいが、妙な胸騒ぎまで運んでくる。

「あんたも星に、願掛けかい? 近藤さん」

 歳三は着流し姿で壁に寄りかかり、近藤を斜め下から見上げた。

「そういやぁ、もうすぐ七夕だったな。子供の頃は近くから笹竹を採ってきたが、大人になってからは短冊を吊すこともしなくなったな」

「七夕が楽しみなのは、総司あいつだけってことか」

 歳三は苦笑し、目の前のさかずきをつまみ上げる。

「例の人斬り、左利きの浪人だそうだな? トシ」

「ああ。一刀両断のもと、斬るそうだぜ。武士も町人も関係なくな」

「一刀両断か……」

 近藤は元にいた場所に座ると、太い眉を寄せた。

「あんたがそんな顔をしてどうするんだよ? 近藤さん。天然理心流は、いかなる相手に対しても動じない極意必勝の剣じゃねぇか。それを教えるあんたが、そういう顔をするもんじゃねぇよ」

 天然理心流は、遠江出身・近藤内蔵之助が諸国漫遊して鹿島神道流を学び、天然理心流を創始したという。

 天然理心流と銘打ったのは、自然にさからわず天にかたどりのつとり、もつけんきわめることかららしい。試衛館現三代目・近藤周助は、相手に臆するなというのが稽古での口癖であった。

 しかも、天然理心流は実戦に特化した剣法――。

 歳三が多摩にあった三つの流派のなかで天然理心流を選んだのは、武士となる夢を叶えるための、運命的出会いだったのかも知れない。

「奴も剣術を始めた当初は真面目に励んでいただろうに、それが惜しくてな」

 近藤も盃をつまみ上げ、しみじみとつぶやく。

 泰平の世となって、武士は身を守ること以外は刀を抜くことはなくなった。

 それはそれでいい。人と人が血を争うことなく、死体の山を気づかぬ平和な世なら、腰に差すが一生鞘に収まっていても、歳三とて憤りはしない。

 剣術は習っても、武士になろうという夢を貫こうなど思わなかっただろう。

 それなのに、この江戸には身を守る術のない町人まで斬る武士がいる。

 鎖国を破り、力にものをいわせて踏み込んできたという異国が赦せないのは歳三にもわかる。そんな異国に対抗できない幕府のごしも、腹立たしい限りである。

 だが刀を振り下ろす相手を誤れば、それはただの人斬り。

「そいつに武士のなんとやらが残っていれば、とっくに自分で自分の落とし前をつけていただろうさ。だが奴は今も役人に捕まっていねぇ。逃げ回っているやつに、情けは無用だぜ!」

 歳三が吐き捨てるようにいうと、近藤は「そうだな……」と酒をのどに流し込んだ。

 そんな時だった。

 裏木戸が、尋常でない音で開いた。

 近藤の部屋はその裏木戸の側にあり、出入り口に最も近くにいた歳三が何事かと顔を廊下に出した。

 そこにいたのは井上源三郎で、彼にしては珍しく表情が強張っている。

「源さん、どうした? 血相を変えて」

「トシ、さっき、兄の使いが来た……」

「松五郎どのの?」

 本来の部屋の主である近藤が、遅れて顔を出した。

 井上源三郎の兄・井上松五郎は八王子千人同心組頭で、天然理心流免許皆伝の腕だという。

「その……、久慈蔵之介という青年が――、斬られたと……」

「なん、だと……!?」

 歳三の怒りに誘われたか、昊は一気に雷雲に覆われた。

 

                ◆


 八王子は甲州街道においては府中と並ぶ大宿場で、八王子十五宿とも呼ばれていた。

 戦国の世――、戦国武将・ほうじようの居城があったそうだが天正十八年、後北条氏が豊臣秀吉と敵対し、八王子城はうえすぎかげかつ・前田利家らの北陸勢の猛攻を受けて落城したという。

 その後、八王子は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられ、江戸を甲州口から守るため、徳川家康譜代となっていた武田家遺臣から構成する家臣団を置いたという。それが八王子千人同心らしい。

 久慈蔵之介は、その八王子千人同心の家系だった。

 歳三が久慈と出会ったのは二年前――、府中宿の剣術道場である。

いつものように薬を売るついでに、道場に顔を出していたのである。


「もう帰るんですか? 土方さん」

 がりがまち草鞋わらじひもを結んでいた歳三に、久慈が歩み寄った。

「あんた……、俺に敬語はいらねぇよ。俺は百姓の生まれ、あんたは武士の出、剣術でもここ一二年学んだだけの俺より、あんたが上だ」

 そういう歳三も、口調を改めていないのだが。

「そんなことはありませんよ。身分なんて関係ないと思います。だから、武士になろうとしているんじゃないんですか?」

 久慈と親しくなって一月ひとつき、彼は歳三が武士を目指していると聞いても嗤うことはなかった。


「この多摩には全てを世の所為にして腐った野郎が流れ来やがる。そいつがこの国で、唯一帯刀を許された武士だと思うと反吐が出る。おまけに役人の一部は袖の下、ときてやがる。誰も護ってくれねぇとわかったとき、俺たち農民が剣術を学ぶのは無理はねぇ。だがな、蔵之介。俺は自衛のために剣術を学んでいるわけじゃないぜ。

 腐った武士がいるなら、百姓が武士になってもよくねぇか? もちろん、やつらみてぃなクズになるつもりはねぇ。俺は誠の武士を目指す」

 


 あの時――、久慈に言ったことは真実である。

 誠の武士がどんなものか、二年経ったいまもわかっていない。

 

 ――土方さんが武士になったら、私と立ち合ってくれますか?


 二年前の八王子で、道場から出る歳三に彼はそう言った。

 その久慈が半年前、試衛館門弟となった。

(なんで、お前が死ななきゃならねぇ……!)

 八王子の久慈家を訪ねた歳三は、横たわる久慈蔵之介のがいを前に、膝に置いた手を握りしめた。本来なら近藤も来るべきだろうが、歳三はそれを制した。

 久慈を斬ったのは、左利きの浪人だという。

 その時彼は、久慈家の飯炊きめしたきじじいを連れていたらしい。その飯炊き爺が、その男を見ていた。左手に刀を持ったその浪人を。

「松五郎さん。他には?」

 久慈家には、井上源三郎の兄であり八王子千人同心・松五郎も来ていた。

「他?」

「蔵之介は恨みを買うような人間じゃねぇ! なのに――、なんで殺されなきゃならねぇんだ? ンじゃねぇ! 俺は奴を絶対許さねぇ」

「土方くん、冷静になれ」

 歳三が報復に走ると心配したのか、松五郎は歳三の怒りを制そうとした。

「俺は冷静さ。うらつらみで刀を抜くつもりはねぇ」

「……飯炊き爺の話では――」

 松五郎は瞼を閉じて嘆息し、飯炊き爺から聞いた話を続ける。

 経緯を聞いた歳三は、握った拳を振るわせた。

 久慈蔵之介に死ぬ理由はなかった。彼は――、間違われて斬られたのである。

 歳三の半生において、このときほど悔しく、激憤げきふんしたことはなかった。


                  ◆◆◆


「この分では、多摩川を渡れるかわかりませんねぇ」

 亥の刻――、厚い雲に覆われたそらはついにその沈黙を破った。

 総司が多摩川を渡り終えた時には小粒の雨が落ち始め、八王子宿に入る頃には本降りとなった。まるで、非業ひごうの死を遂げた、久慈蔵之介の死を嘆くように。

 久慈の野辺送りを見届ければ八王子に留まる理由はない。しかし、雨で多摩川がうねりだせば船は出ない。

 甲州街道の難敵は、雨によって寸断されかねない多摩川であろう。

「お前――、なにしにきた?」

 総司が久慈家を尋ねると、歳三の剣呑な視線とかち合った。

 彼の前には囲炉裏があり、串に刺さったあゆが焼かれている。

「出稽古ですよ」

「嘘をつけ」

 歳三に、ごまかしは利かない。

「――蔵之介さんが斬られたと聞きました」

 総司にとっても、久慈の死は至ってもいられなかった。

 自分より歳上なのに礼儀正しく、剣の腕も良かった。後れをとることなどないことは、彼と稽古をすることが多かった総司がよくわかっている。

 歳三は総司に向けた視線を畳に戻し、歯を噛み締めた。

「蔵之介と一緒にいた飯炊き爺が人斬り野郎の声を聞いたそうだ。お前は、あの時の薬売りだな、と」

 どうやら人斬りは、久慈を歳三と間違えたようだ。

「以前――、八王子の甲源一刀流道場に薬売りが現れたと話したのを覚えていますか?」

「ああ」

「十日前、朝稽古を終えたときに井戸端で蔵之介さんに話しかけられましてね。土方さんの真似をして同じ立場に立てば、あの時の意味がわかる気がしたと――」

 その時――、総司は少し嫉妬した。

 稽古で立ち合っているのは総司なのに、久慈は歳三に憧れている。

 しかしその嫉妬は一瞬で、わかる気がしたのだ。

「……その薬売りは、蔵之介だったか……」

 歳三は、久慈がしたことを咎めることはなかった。

 だが――。

「蔵之介さんは土方さんと報復者の因縁を知りません。ですが、再び現れた薬売りに報復者の憎悪が再燃したとしたら、今になって報復者が現れたのも納得できます」

「総司――、蔵之介が斬られたのはそれが原因じゃねぇ。間違いなく、奴は俺だと思って蔵之介を斬った。間違われたんだよ!」

 歳三はそう言って、穴が空くのではないかと思うほど畳を睨みつける。

「でも顔を見れば――」

 そう、顔を確認すれば間違われることはない。

 人斬りは「あのときの薬売りか」と話しかけているのだから。

 だが総司の想像は、一気に最悪な結果に向かった。

 まさか……と言葉を紡ぐ前に、歳三が察した。

「その通りだ、総司。奴は俺かどうか確認していていねぇ。奴は……、蔵之介の返事を待つこともせず、背後から斬ったのさ……!」

 おそらく久慈は、刀を抜く暇もなかっただろう。

「土方さんまで報復者になるおつもりですか?」

「奴とはいずれ決着をつけるが、汚ねぇ手は使わねぇ」

「あ、それ私の鮎ですよ」

 囲炉裏の鮎に手を伸ばす歳三の顔は、総司の知るいつも彼だった。

「うるせぇ」

 憤慨しながら鮎に齧り付く歳三に、総司は苦笑して、再び昊を見上げる。

 雨は小ぶりになり始めている。

二人が無事に多摩川を越えて江戸に戻ってきたのは、それから二日後の七夕当日だった。

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