第2話 切る
その夜の梨香は荒れていた。酒とデパスを大量に飲んでから放送を始めたせいで、なにを言っているかよくわからない状態からのスタートだった。
「とにかくさみしいんだよ。誰か来て! お前ら、なんだかんだ言って、結局、あたしを見世物にしておもしろがってるだけなんだろ? 違うって言うなら来いよ」
黒のキャミソールにジーンズという格好で、ちゃぶ台の上のビールを飲みながら、半分泣きながらしゃべっていた。髪の毛は、ぼさぼさだ。
── 梨香さん、荒れてる。誰か行ってやれよ
── 梨香さんってどこにいるの?
「来る? 来るの? いい? 住所言うから絶対来いよ」
── やばっ。住所言ったらマズイ
梨香は住所を数回、本名を一回、口にした。さすがにこれはまずい。誰が聞いているかわからないネット放送で、ここまで個人情報をダダ漏れさせたら、どんな悪戯をされるかわからない。
── これヤバイって
リスナーは騒然とした。
── 誰か行って介抱するなりしないと、ヤバイやつが行っちゃうかも
── 誰が行っても、ヤバイだろ
「うるさいなあ。誰が来るの? 来ないの? ならいいよ。ほんとにお前らクズだな。見世物にして笑ってろよ。呪いかけてやるからな」
── ちゃんと鍵かけてあるよね。
── 行きたいけど、大阪だからなあ。
── 同じく仙台
「言い訳はいいんだ。来いよ! そうか、かわいい声出せば来るかな?」
そう言うと梨香は、鼻にかかった萌え声を出した。
「ねえ、みんな。梨香ちゃんはすごく今さみしいの。だから来てくれるとうれしいなあ。もれなくデパスかブロンあげちゃう。あとね。とってもいいことしてあげちゃうかも」
── 聞いてらんないな
梨香の住所は僕の家からそれほど遠くない場所だった。グーグルマップをチェックする。電車を使えば十五分、歩いても一時間かからないだろう。親は高校時代からほとんど放任状態だから、これから出かけて帰ってこなくても問題ない。
── ちょっと様子見てくる。
── マジか?
── シーザーが着いたら通報するわ。レイプ犯がいますってwww
── やめとけよ。そういう展開にはならんだろ。
シーザーってのは、僕のハンドルネームだ。
「ほんと? ほんとに来てくれるの? シーザー、愛してる。来るならついでに甘いお酒をお願い。スミノフとかチューハイとかなんでもいい」
あわててメモして、ベッドから飛び起きた。着替えて出かける直前に、止めた方がいいような気がしてきた。梨香のことはここ数週間の放送でだいたいわかっているつもりだが、直接会うのは初めてだ。なにが起きるかわからない。
相手はシラフじゃないし、刃物も常備してて使い慣れてる。不安がどんどんふくれてくる。放送では、梨香が僕を呼び続けているし、リスナーはシーザー早く行け、何分で着くか教えろと質問攻めしてくる。
── シーザーって確か、どっかの専門学校通っているってツイッターで言ってた
── そんな若いの? ヤバイんじゃね。
「え? そうなん? うわあ。ますますうれしい。たっぷりお礼しなきゃ。あのさ、ずっとキャスしとくから、あたしとシーザーがラブラブするとこをよく聞いとけよ」
止めてくれ。うかつにツイッターで学校のことなんかつぶやくんじゃなかった。リスナーに名前や学校を特定されたらどうしよう。待った。この放送って、夏希も聞いてるんじゃないか?
そこまで考えた時、スマホが鳴った。夏希からだ。間違いなく放送を聞いてる。出たら止められるに決まってる。僕はスマホには出ず、家を出た。
コンビニでスミノフを買い、電車に乗って梨香のいるマンションに向かった。移動中、いろんなことが頭の中をぐるぐると渦巻いた。梨香を助けたいと気持ちがあったのは本当だ。同時に下心もあった。でも、どうすればいいのか、これからなにが起こるのかさっぱり予想できなかった。
駅から五分ほどのところの白い建物だった。オートロック方式で、マンション全体の入り口を開けてもらわないと中に入れない。
十数人分のポストの投函口をながめ、梨香の部屋番号に梨香の本名が書いてあるのを確認した。違っていれば、笑い話で済んだ。もう後には引けない。手がじっとりと汗ばみ、膝が震えてきた。
── マンションに着いた。これからインターホン鳴らす。
インターホンを鳴らす前に、キャスでコメントした。一斉にリスナーがコメントを入力し始める。
── こいつほんとに行った
── 通報しますた
── がんばれ!
── メンヘラは感染するから注意しろよ。
「ほんと? マジ? あっ、鳴ってるじゃん。出るよ」
梨香が叫ぶのと、インターホンから聞き慣れた声が響くのは同時だった。
「シーザーくん?」
頭の中が真っ白になった。あれ? この後、なにをするんだっけと自問自答する。
「はい。今、着きました」
「あがってきて」
返事しようとしたが、かすれて声にならなかった。
── オレまで緊張してきた
── がんばれ! シーザー!
── 悪い予感しかしない。
インターホンのやりとりを聞いていたリスナーが騒ぐ。僕は開いたドアを抜けてエレベータで八階に向かった。
部屋の扉の前に立つと、緊張で手が震えた。ほんとにこういうことあるんだと妙に感心する。深呼吸しようと思ったが、息の吸い方を忘れたみたいになって、うまくできない。仕方がないので、そのままインターホンのボタンを押した。
返事はなく、すぐに扉が開き、梨香が顔を出した。思ったよりもずっと小柄だった。
「シーザー、イケメンじゃん」
突然抱きつかれ、思わず酒を落としそうになった。香水とあたたかい身体、やわらかい胸が僕の胸に押しつけられ、完璧に息ができなくなる。
「あ、ごめん。入って」
入って? 予想はしていたし、そうなるだろうと想っていたけど、一人暮らしの女の子の部屋に入るのは初めてだ。
「あ、はい」
かすれた声を絞りだし、必死に空気を吸いながら、「お邪魔します」と玄関に入る。玄関いっぱいに靴が脱ぎ散らかしてあった。ヒールのついたものが多く、大人の女って感じがした。でも横にはちゃんと下駄箱があって、そっちは空っぽなのだ。僕は隙間を見つけて、スニーカーを置くと部屋に上がった。
甘い香りと、生暖かいぬめっとした空気を感じた。天井の蛍光灯は消えていて、床にふたつ転がっている丸いランプのようなものが、周囲を照らしている。放送で観ている時も幻想的な感じがしたが、その場に立つとますます現実離れしている。
リビングは広いような気がしていたけど狭かった。雑誌やいろんなゴミが散乱する中に、ちゃぶ台が置いてあり、梨香はもうそこにあぐらをかいて座っていた。上から照明がないせいか、床のゴミがあまり目立たない。
「座んなよ。ごめんね。散らかってるでしょ。でも、知ってるよね。放送見てるもん」
梨香は放送の時よりもかなりろれつが回らなくなっていた。実際には、「うわんなよ。ごえんね」みたいに聞こえる。すぐに座ったのも立っていられなかったせいだろう。
「なになに? シーザーかわいいよ。みんな。真っ赤になってる」
梨香はちゃぶ台に置いたスマホに向かって話しかけている。あれで放送を続けているに違いない。
「これってまだ放送してるんですよね?」
僕はちゃぶ台に近づき、立ったまま訊ねた。座るときっと写されてしまう。
「敬語やめろよ」
梨香が僕をにらんだ。
「あ、はい」
── なにこのSMプレイ?
── シーザー、酒をおいたらとっとと帰れ
音声読み上げの声がした。梨香はツイキャスのコメントを自動で読み上げるように設定していた。
「だからさ。そういうていねいな言葉聞くと、ああこいつってあたしのこと見下してるんだなって気になるから止めて」
そう言いながら梨香は、甘えるように僕の脚にすがりついてきた。
── これからセックス中継?
── やめて! 梨香さんのそんなの聞きたくない。
── じゃあ、落ちろよ
「……わかった」
「そうそう。その調子。で、なんで座らないの?」
「顔写るのヤバイかなあと思って」
「ああ、そう。まあ、そりゃそうかもね」
梨香はそう言うと、スマホを操作した。
── うわ、ここで画像オフってマジか
── 音声だけ? なにするの?
── 通報しました。
ツイキャスを確認すると、梨香の横顔の写真が表示されており、音声だけのライブに変わっていた。少し安心して、梨香の向かいに腰掛けようとしたら、脚を引っ張られて横に座ることになった。
梨香は僕に寄りかかってくる。
── ねえ、今なにしてんの?
── 静かなのヤバイ
「うるせーな。シーザーとハグしてんだよ。いいだろ」
梨香はそう言うと、僕に抱きついてきた。
「あ、ちょっと」
── なんか声がした
── 通報しますた
── ↑そればっかじゃん
梨香がちゃぶ台の下の缶から薬のシートを数枚取り出した。放送でおなじみの向精神薬や睡眠薬だ。
「あたし、飲むけど、飲む? お酒と一緒に飲もう。よく効くから」
「うん。やってみたい」
どきりとした。薬には興味があったけど、なかなか手に入れにくいからやったことはなかった。
「もしかして初めて? 言っとくけど、勧めないよ。クセになるかもしれない。日本で処方されてる向精神薬や眠剤って海外では麻薬扱いで禁止されてるのが多いらしいしね」
「初めてだけど、どんなものか気になってたから」
── ヤバイだろ
── お前、絶対後悔するぞ
── 状況を解説します。大量の薬を飲んで普段以上にらりった梨香が、誰でもいいから来て、と放送し、シーザーが酒持って部屋まで行きました。これからODする模様。
── 説明、おつです
「飲むと、多幸感ってヤツが来る。ふわふわして、にこにこしてくる」
「楽しそう」
「あのさ。きっと記憶がなくなるよ。薬が効き始めてから三時間くらいのことは覚えていない」
── マイスリー?
「どうなるの?」
「たいていみんな、にこにこしてる。楽しそうになるね。いわゆるマイラリってヤツ」
── マイラリ開始です
「じゃあ、飲んでみる」
── 沼に落ちる少年www
梨香は爪の先で、器用に錠剤を二つに割った。僕が受け取ろうと手を差し出すと、カノジョは錠剤を口に入れ、スミノフを口にふくんで僕に口づけした。冷たいスミノフとともに錠剤を飲み込んだ。いや、錠剤の感触はなかったけど、きっと飲んだはずだ。
キスも薬も初体験だ。放送中にこんなことになるなんて一時間前までは想像していなかった。
「ねえ。みんな、聞いて、なんだかあたし、すごくシーザーのこと好きになった。結婚したいくらい大好き」
── あー、つかまっちゃったよ
画面いっぱいに拍手が流れる。祝福のつもりなんだろうか?
「お前ら、ここで放送は終わり。せいぜい想像して楽しんでろ。あたしは、シーザーと結婚するんだ」
結婚? なにもかもが現実離れしていた。さっきから心臓はどきどきするし、息はうまくできない。興奮して落ち着かない。
「ケーキ食べよう。結婚するんだからさ」
梨香はそう言うと、ふらふらしながら立ち上がった。危険なので僕がひとりで近所のコンビニに買いに行くことにした。
小さなケーキをふたつ買って戻ると、梨香は映画を観ていた。『冷たい熱帯魚』という映画だ。
「ケーキ食べながら観よう」
脈絡がわからないが、梨香の隣に座って観ることにした。
「園子温知ってるでしょ?」
「知らない。初めて聞いたけど」
「なんで? なんで知らないの? 園子温だよ」
映画を観ている途中から意識が飛び飛びになった。ふと気がつくと、梨香にもたれかかって、なにかをしゃべっていた。意識が戻ったとたんに言葉が止まる。あれ? 今までなにを話してたんだ?
「どしたん?」
梨香が不思議そうに僕の髪を撫でた。
「や、あの、今なにを話してたんだっけ? 意識なかったみたい」
「小説のことを話してたよ。この映画みたいな迫力のある小説を書きたいって言って、それからLINE送ってた」
「LINE?」
「うん」
梨香が指さした先にあった僕の右手はスマホを握っていた。全く記憶にない。見ると確かにトークしている。
「覚えてない。これが記憶がなくなるってヤツなんだ」
「そうそう。でも、すっごい楽しそうに話してた。ほんとに小説好きなんだって思った」
少し恥ずかしくなった。
次に気がつくと、映画は終わっていて、僕はちゃぶ台に突っ伏して寝ていた。横にいたはずの梨香はちゃぶ台を背にしてなにかしている。そちらに目をやって驚いた。下半身がむきだしになっていた。さっきまではいていたジーンズを脱いでショーツだけだ。足を広げ、左の太腿の内側にカッターを当てていた。
すでに何本も赤い線があって、溢れた血がしたたっている。用意のいいことにちゃんとタオルが敷いてある。白いタオルに赤い模様が広がっていた。
「起きたの? 見る?」
なんと答えればいいのかわからない。カノジョの自傷画像は見たことがあるし、ツイキャスをやりながら切ることもあった。でも、放送は音声だけで生の映像を見たわけではない。
僕の答えを待たずに、梨香は切り始めた。何度も切った場所は皮が厚く固くなっている。そこを避けて、白くて柔らかそうな箇所に刃を当てる。まるで自分の身体に刃を当てられているかのように、ひやりとして鳥肌が立つ。
梨香が思い切りよく、すっと刃を引く。少し遅れて赤い線が浮かび出て、そこからだらだらと血がたれる。
「なんか切りたくなってさ。嫌だったら言って。風呂場で切るから」
「大丈夫。見たい」
なぜそんなことを言ったのかわからない。梨香は僕の答えを聞くとすごくうれしそうに笑った。
「変態なんだ。あたしが血を流すのを見て立ててるんだ」
「だって、すごくエロくない? 梨香の血が流れるのを見て勃起したんだけど」
口が勝手にしゃべり出し、股間は勃起していた。なんで血を見て勃起するんだと思ったけど、そうなのだからしょうがない。我慢できなかった。梨香の太腿の血を手で拭いて広げる。太腿の付け根から下腹部にかけて、白い肌が赤く染まる。セックスしたことはないけど、梨香を血で濡らして挿入しているような錯覚に陥った。見ているだけで射精しそうだ。
「あたしも感じさせてよ」
梨香に言われ、パンティに手を伸ばすと、止められた。
「違う。あたしにも血を見せて。切って見せろよ」
僕が黙っていると、梨香は笑い出した。
「切れないの? そうだよね。それが当たり前。怖いんだ。クソがよ」
梨香は笑いながら、僕を突き飛ばそうとした。僕はその手を押さえ、もう片方の手で床に落ちているカッターを拾うと自分の左腕に突き立てた。
力を入れて突き立てるつもりだったのに、刃先が皮膚に当たる瞬間に力が萎えた。それでも、肌に刃を押しつけ、ゆっくり横に引くと血の筋ができた。
「やるじゃん。大好き」
梨香は血の筋をなで、舌を這わせ、上目遣いに僕を見た。
「うまく切れない」
「すっぱり思い切りよく刃を引かないと切れない」
頭ではわかっていても、手を動かせない。
「貸して」
梨香は僕の手からカッターを取ると、「いい?」と短く言って、すっと刃を引いた。気持ちがいいくらいにためらいがなくて、その思い切りのよさに声も出せなかった。僕の腕に赤い線が走り、血がたれてきた。梨香はそれをすくうと、自分の下腹部になすりつける。
「脱ごう」
異常な状況と酒と薬で思考能力は失われていた。梨香の言葉に従って、服を全部脱ぐと、梨香も全裸になっていた。くすくす笑いながら固くなっている僕の陰茎に自分の血を塗りたくり、僕の血を自分の下腹部と乳房に塗った。生臭い血の臭いがする。
それから僕らはおそらくセックスした。おそらくというのは、ほとんど記憶がないからだ。断片的にカノジョに噛みつくように求められ、耳や肩や乳房を血が出るまで噛んだことは覚えている。
カノジョも僕の身体を噛んだ。肉を食いちぎられるんじゃないかと思うほどの痛みを腕や肩に感じ、血がぬるぬるして僕らの身体を汚した。
気がつくと、部屋に誰かいた。カノジョではない。男性がふたりいる。はっとして上半身を起こした。すごく頭と身体が重い。薬のせいなんだろうか? 横には梨香が死んだように眠っている。
「あ、起きた」
黒いシャツのやせた方が僕を見た。見た感じはすごく普通だ。
「今、掃除してっから」
確かに掃除していた。床に散らかっているゴミを袋につめている。僕は起きようとして、自分が全裸でベッドにいることに気がついた。このまま布団から出るとまずい。
「手伝えるなら手伝って。ダメなようなら帰った方がいいよ。救急車を呼ぶほどでもないっしょ」
黒シャツはこちらを見ずに、ぶっきらぼうに続けた。このふたりは何者だろう。梨香の知り合い? まさか親戚とか? それにしても全く驚いた様子も警戒する様子もない。普通でいられる状況じゃないと思うのだけど。
「あのさあ。いや、まあいいんだけど。中出しはまずかったと思うぞ」
奥の方でなにかしていたスウェット姿の太った男が僕の方に近づいてきた。怒りのこもった顔でにらまれた。こっちは少し怒っているようだし、暑苦しい感じがした。
「らりってる梨香に中出し決めるとか最低だよな」
「まあまあ、ああいう状況だったし、どうせ薬飲んでわけがわからない状態だったんだろ。梨香もいちおうOKしてたと思うしな。あまり責めてもしょうがない。こいつだって記憶ないだろ」
黒シャツは淡々と掃除を続けている。太った方も、ため息をつくと部屋の隅に戻った。どうやら黒シャツがゴミを集め、太った方が拭いているようだ。それにしても誰なんだ?
「すいません。あの、誰ですか?」
布団の中を手探りでパンツを探しながら訊ねてみた。
「誰って、えーと。オレはガサキでこっちはつよぴん。お前が寝てる間に梨香がまたキャスを開いて、部屋が血だらけだから誰か掃除に来いって言ったんだよ。来なきゃ、シーザーを殺して自分も死ぬって。まあ、やんないと思ったけど、かなりの量の薬を飲んでたし、心配になったから来てみた。で、まあひどい状態なんで掃除でもしてやろうかってわけ」
「梨香とはLINEでやりとりしてて、ここにも来たことあったから」
「え? ガサキさんとつよぴんさん? キャスではお世話になってます。僕、シーザーです」
「知ってるよ。自分らも昨日の放送聴いてたもん」
ガサキが笑った。確かにそのとおりだ。
「そういえば、そうですね」
パンツがあった。布団の中で足を通す。
「自分、学生なの?」
「あ、はい」
「そっか。帰った方がいいんじゃないかな。掃除手伝ってくれてもいいんだけど、薬をやったの初めてだろ。そんな状態じゃないと思うし。無理しないでいいよ」
「ガサキさんはやさしいな。なんで中出し野郎に親切にするわけ?」
「しょうがないだろ。こいつはまだこっち側じゃないんだから」
こっち側? 僕はふたりの会話を聞きながら、服を集めて着始めた。
「あ、こっち側ってのはなんていうか、メンヘラのドロップアウト組ってこと。つよぴんだって、ここに来て梨香とやったんだろ?」
一瞬、耳を疑った。梨香とやった? やったってセックスのこと? ツイキャスではそんなことはなにも言ってなかった。
「あ、それ言うんだ」
つよぴんの反応を見て確信した。間違いない。嫉妬とも怒りともなんとも言えない感情が湧いてくる。
「オレなんか、梨香の裸見ても立たねえ。薬のせいで勃起障害ってのもあるけど、こんな汚ねえ部屋で、頭のおかしい女に迫られても無理だよ」
ひどい言われ方だ。セックスした僕の立場がない。
「梨香は、明け方にツイキャスやって誰でもいいから掃除に来てくれって騒いで、またODして意識を失ったからしばらく起きないと思う。帰っていいよ」
どういうことなんだ? ガサキとつよぴんは、前から梨香の部屋によく来てたっていうのか?
「なんか、納得してない顔してるけど。誰でもいいから助けてほしいっていう状態になることってたまにあるんだよ。病気なんだよ。仕方がないじゃん。そんな時、たまたまオレやつよぴんが来たことがあるってだけ。その代わりにオレの泣き言を聞いてもらったりすることもある。友達みたいなもんだよな」
わからない。そういう関係ってあり得るんだろうか?
「わかんないかもな。わかんない方がいいよ」
僕はよくわからないまま、服を着て部屋を出た。梨香とあのふたりを部屋に残しておいてよいものか迷ったが、呼んだのは梨香だし、昨日放送を聴いて駆けつけた僕がどうのこうの言うのもおかしいような気がした。
マンションの入り口を出ると、向かいの道端に夏希がうずくまっていた。
「ここにいれば会えると思って」
すぐにはなんのことかわからなかった。僕が黙っていると、夏希は立ち上がり、スマホを取り出し画面を見せた。そこには、僕と夏希とのやりとりが残っていた。そうだ。夏希とトークしていた。完全に忘れていた。
── 今、なにしてると思う?
── キャス聞いてるんだからわかる。梨香さんのとこにいるの? 早く帰った方がいいよ。今日の梨香さんはおかしいもん。
── だから一緒にいないとダメだろ。それに原稿もかかなかけら
── なに言ってんの? らりってるの?
── らりってる? なんの話? スパーク大賞に応募するんだて。
── 変な薬を飲まされたんでしょ。帰って寝た方がいいってば。
── 迎えに来て。
── 本気で言ってんの? 迎えに行ったら一緒に帰る?
── わかんない。
── バカにしてんの?
── 怒らないで、ごめん。ごめんってば。
わけがわからないし、全く記憶にない。梨香の言った通りだ。これが前向性健忘というものなんだ。
「悪い……全然覚えてないんだ。学校はどうしたんだよ」
「休んだ」
「なんで? お前、真面目に通ってたじゃん」
「わかんない」
夏希は頬を赤くして怒ったような顔をした。
「心配してくれたのか?」
「違うと思う。でも来なきゃいけない気がした。川名くんが無事だからもういい。帰る」
「やっぱり、心配してくれてんじゃないのか?」
「もういい」
夏希の両目から涙があふれ出した。わけがわからない。
「なんで泣いてんの? 僕のせい?」
「わからない。わからないって言ってるでしょ」
夏希はそう言うと、駅に向かって歩きだした。僕もその後をのろのろついていった。
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