つがいの琉金
一田和樹
第1話 ツイキャス
カノジョの部屋の白い壁をだいだい色の琉金が泳ぐさまは、すごく不安で恐ろしく、それでいてきれいだった。僕らは琉金におののきながら長い時間を過ごした。死と狂気はあらゆるものを魅惑的にする。その虜になった僕らは二度と戻ることはなかった。
カノジョは、ツイキャスというインターネットの生放送サービスで、いわゆる”顔出し”放送をしていた。生放送の配信者の半分くらいは自分の姿を映さず声だけの放送をしているし、顔を出していてもマスクなどで顔の一部を隠していることが多い。でも、カノジョは常に顔をまるごと見せていた。
短い髪に真っ白な肌。不健康にやせ細った身体。整った顔は美人の部類に入ると思うのだけど、放送の時は常に瞳孔が開き気味で怖い。でも、妙に人を惹きつけるものがある。声も低くて特徴がある。
そして向精神薬を大量に服用し、ろれつの回らない状態で、おかしなことを口走る。琉金が泳いでいるとか、死んだ友達が会いに来たとか、本人も幻覚だとわかっていて、見えている幻覚の内容を視聴者に解説してくれる。
「あのね。今、琉金が見えるんだ。そこの白い壁あるでしょ。そん中を泳いでる」
カノジョが壁を指さすと、画面にリスナーからのコメントが入力と同時に表示される。
── 白い壁に琉金ってきれいですね。
「うん。すごくきれい。怖いけどね」
── 怖いんですか? きれいなのに?
「幻覚はなんでも怖いよ。不安で手が震えてくる。でも、きれいなんだ」
仄暗い狭い部屋の中、カノジョは昔ながらの丸いちゃぶ台を前にあぐらを書いていた。きれいなTシャツと短パン姿を最初見た時にはどきりとした。
だらだらと雑談をしながら缶ビールを二缶くらい呑んだ後で、カノジョがおもむろに大きなクッキーの缶を持ってきた。
「なに飲もうかな」
── デパス?
── マイスリー?
リスナーからのコメントが並ぶが、理解できない。デパスってなんだ? 検索をかけて向精神薬の一種だとわかった。
カノジョは缶の蓋を開けると、画面に向かって中を見せた。錠剤がたくさん入っている。あれが全部向精神薬なんだろうか? カラフルできれいだ。
── すごい、うらやましい。全部デパス?
「ううん。マイスリーやレキソタンもあるよ。あとねえ。ハルシオン、エリミン、ワイパックスとかエビリファイとかもね」
聞いたことのない名前……全部薬なんだろう。後で調べよう。
── エリミンは禁止になったんじゃ……
「その前にたくさんもらってたのが、まだ残ってるんだ」
── 分けてくれー
昏い部屋で繰り広げられる会話は、僕にとって初めて聞く事ばかりで刺激的だった。薬のこと、メンタルクリニックのこと、らりって記憶をなくしてやらかしてしまった話。そして病気のこと、自傷のこと……僕は、カノジョの話に夢中になった。
その頃の僕は、ある専門学校のノベルコースに通っていた。学校を間違えたことは入学してすぐにわかった。入学初日、同じ学科のクラスメイトの顔ぶれを見、教師の話を聞いた時点で後悔し、自分自身を呪った。なぜ、大学ではなく、専門学校にしてしまったのか。よりによってなんでノベルコースなんていう、お先真っ暗な学科を選んでしまったのか。
ノベルコースというのは、小説家になるための学科で、今どき小説といえばラノベしかないのでラノベを勉強する。ラノベを書くのに勉強が必要なのかという気もしたけど高校三年生だった僕は、大学で他のことを学びながら片手間で小説を書くよりも専門的に小説を書く勉強をした方がプロになれる確率が高くなると考えた。
そこそこのレベルの私立大学なら受験すれば入れたと思う。自分自身の名誉のために言っておくとFランより上の大学だ。でも、四年も勉強したくなかったし、専門学校に行って二年間勉強して小説家になれるなら、そっちの方がお得だと判断した。受験勉強もしなくて済む。
間抜けだ。卒業生で小説家になった人間が一握りしかいないというのは知っていたが、ここまでレベルが低いとは思わなかった。そもそもろくに小説を書いたことも読んだこともない人間が集まっているっていうことが理解できない。小説家になるつもりなら、せめて小説を読んでくれ。逆立ちもしたことのない人間が体操選手になれると思ってんのか?
当然のことながら専門学校での成績は常にトップクラスだったし、創作系の授業でも目立ちまくった。当たり前だ。ほとんどのヤツはアイデアや設定までで力が尽きる。本編を書き上げることができない。小説を書かなけりゃ小説家になれるわけないだろ。
常に頭にあったのは、どうやったらデビューできるかということだ。もちろん年相応に女の子にも興味はあったし、小説家になるなら早く童貞を卒業しておきたかった。でも、そういうきっかけには恵まれなかった。
女の子とセックスする代わりに、いっぱしのサブカル気取りで中野、高円寺、阿佐ヶ谷界隈をうろつき、週末にはシューゲイザーのライブやクラブに顔を出した。
二年生になると、先生から紹介してもらった記事の仕事で、フリーライターとして小遣い稼ぎもできるようになった。すぐに小説家にはなれなくても、地道にキャリアを積んでいけば文章で食えるようになるかもしれないという思いと、こんなんじゃダメだと思いがいつも頭の中で戦っていた。
二年生の夏になる頃には僕の焦りは頂点に達していた。
そんな時、ツイキャスにはまった。誰でも無料で生放送を行うことができる。人気のある人の生放送には数千人が視聴に訪れるが、人気のない過疎と呼ばれる生放送ではリスナーが数人あるいはゼロのことも珍しくない。普通の放送と違って生の声が聞けるのが刺激的で興奮する。
生放送には放送主(略して主)がつけたタグや紹介がついていて、それで検索しておもしろいものを探し出す。僕は、「小説」、「創作」といった言葉で検索をかけておもしろそうな放送を漁った。
そこでカノジョ、梨香に出会った。梨香は自称アーティストで絵を描いたり、文章を書いたりしているようだった。だが、梨香は創作家である以上にメンヘラだった。
放送をしている時、必ずといっていいほど梨香はODしていた。ODとはオーバードーズの略で、薬物の過剰摂取のことだ。ある種の風邪薬、咳止め、向精神薬、睡眠導入剤を大量に服用したり、アルコールと一緒に服用することで、高揚感や多幸感を味わうことができる。酒を呑んで現実を忘れるのと同じで、お手軽な現実逃避方法のひとつだ。やり過ぎれば依存する。知らなくて当たり前。まともな人間のすることじゃない。ちなみに、僕もその放送でODのことを初めて知った。
カノジョをツイッターでフォローし、ツイキャスで見かけたおもしろそうな人もついでにフォローした。ほとんどがメンヘラと呼ばれる人たちだったので、僕のタイムラインは自傷画像や希死念慮のつぶやきの沼になった。今まで見てこなかった社会の闇(病み)って感じだ。
なにがそんなに自分を惹きつけるのかわからないまま、僕は梨香の放送にはまった。常連となり、コメントを書き、ツイッターで会話し、梨香に名前を覚えられるようになるのに時間はかからなかった。
僕らはある意味似たもの同士だった。
「医者? 行ったことあるけど、もう行かない。あいつらなにもわかってくれないし、行ってることばれたら、周りの連中にキチガイ扱いされるじゃん。哀れみとかいらないし、かわいそうなんて言われたら殺したくなる。あたしはちゃんと生きてるの」
僕はメンタルクリニックや精神科を受診したことはないけど、その気持ちは痛いほどわかった。上から目線で見られたくない。確かにノベルコースに来るような僕は間抜けだし、いろいろ足りないところはある。でも、それをわざわざ自分で認めて哀れみを誘うようなことはしたくない。
ある日、授業が終わって家に帰ろうとした僕は、同じ学科の倉橋夏希(くらはし なつき)に呼び止められた。彼女ではないが、仲のいい女友達だ。真っ黒のおかっぱ頭にメガネの委員長タイプ。見るからに処女の頭でっかち。読書家で小説家か編集関係の仕事に就きたいと言っていたので僕と気が合った。本も読まない小説家志望ワナビの中で、話をできる相手の選択肢がきわめて少なかったとも言える。
ビジュアルは悪くないが、真面目すぎてあまりおつきあいする気にはならなかったので、適度な距離を保っていた。
「ちょっといいかな?」
いつも思うんだけど、夏希はなぜ真っ正面から人の目を見て話すんだろう。目を見て話すようにしろと言われたことはあるけど、そんなことしているヤツいないし、されたらひどく困る。実際、僕は夏希に見つめられると、どうしていいかわからなくなる。
「メシ? いいよ。どこ行く?」
僕は目をそらしながら答える。夏希とはいい距離の友達だから呑みに行ったり、食事したりはしょっちゅうだった。投稿や小説の話が中心だ。
「違う。もっと大事なこと」
「もっと大事なこと? 投稿の話じゃないの? お前、どっかの新人賞に投稿するって言ってただろ」
「……それはもう送った。いいからちょっと」
夏希はそう言うと、すたすた先にたって歩きだした。僕はわけがわからず、後をついていく。周囲の生徒たちが遠巻きに見ているのがわかる。僕らはつきあっていないが、周りはそうは思っていないようだ。否定するのも面倒なので、ほっておいてある。これがブスだったら積極的に否定したと思うのだけど、夏希はぎりかわいいので許せる。上から目線だけど、たいていは夏希から誘ってくるから少しくらいはいいだろう。
校舎を出ると、夏希は僕に身体を寄せてきた。嗅いだことのない香水の匂いがして、どきっとした。こいつでも香水をつけてるんだと驚く。
「川名くん、死にたいとか考えてるなら止めてよ」
頭の中に大きな「?」マークが浮かんだ。自殺? なんの話だ?
「あたしも梨香さんの放送を聞いてるんだ。コメントしないで、いつももぐりんだけどね。川名くん、毎回放送でヤバいコメントしてるでしょう」
事情がわかった。僕は梨香のツイキャスでは自傷やODあるいは自殺を肯定するような発言をたくさんしている。あれだけ見たら、死にたがりのメンヘラだと思われても仕方がない。
「勘違いすんなよ。あれは梨香さんに合わせてるだけ。下手に止めた方がいいなんて言うのはしらけるじゃん。空気を読んでるだけ」
「ならいいけど。それにしたって、気をつけた方がいいよ。川名くん、最近、元気ないもん」
「そんなことない」
元気がないと言われて、少しいらっとした。善意で言ってるんだろうし、本当に心配してくれてるんだろうけど、そんなこと僕の勝手だ。生活指導される覚えはない。
「……焦ってるんでしょ。わかるよ。あたしだって焦る。このままじゃ、小説家にもなれないし、編集関係の仕事もできないって気がするもん」
思わず、怒鳴りそうになった。確かに焦ってると自分でも思うが、わかった風に諭されるのは腹が立つ。この状況で焦らない方がおかしい。
「違う。僕はお前と違う」
僕はそう言うと、夏希から離れた。早足で駅に向かって歩く。
「待ってよ。あたし、なにか悪いこと言った? なら謝るから」
後から夏希の声が聞こえてきたが、僕は振り向かなかった。とにかく怒りが収まらない。言われなくても、わかってるんだよ。なんでお前に言われなきゃいけなんだ。「その通りです。よくわかりましたね。ありがとう」なんて言うと思ってんのか。
やり場のない怒りを抱えたまま、スマホでツイキャスのアプリを起動した。梨香は放送していない。舌打ちして、足早に家に帰った。
ほとんどの売れっ子は、大きな新人賞からデビューしている。僕が細々と続けているフリーライターから這い上がった人は限られている。同じ文章を書く仕事でも、フリーライターと小説家の間には万里の長城よりも高くて長い壁があるんだろう。新人賞に投稿して賞をとらなければ先がない。
ここの学科の連中の投稿先ときたら、ピクシブか、なろうか、カクヨムだ。大手の新人賞になんか投稿しないし、そもそも小説を書き上げられないヤツが大半だ。
そういう現実がどんどんわかってきたら焦るのが当たり前だろう。
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