誘拐を誘発する誘惑
「動くな!」
買い物客でにぎわう昼下がりのスーパーマーケットで、突然の怒声が響いた。
店内にいた客たちは悲鳴を上げ、床に伏せる。店の奥では、黒いフードを被った女が、一人の幼い子供の腕を掴んで立っていた。
女の手には銃が握られていた。
「動くな! 警察を呼んでみろ、こいつの命はないぞ!」
犯人の叫びに、店員が震えながら非常ボタンを押す。それから十分と経たないうちに、店の周囲は野次馬と警察、そして報道陣で埋め尽くされた。テレビカメラが幾つも向けられ、ヘリコプターが上空を旋回する。
「要求を聞かせてくれ」
拡声器越しに、交渉人の声が響いた。女はしばらく沈黙した後、低い声で呟くように言った。
「……逃げ道を用意してほしい」
それはありきたりな要求だった。手元の銃は震えており、子供を抱える腕には力がこもっている。
緊張した膠着状態が続き、やがて特殊部隊が突入の機を狙う中、女は突如として子供を抱え上げ、ドアの外へと駆け出した。
すぐさま警察が女に駆け寄った。
女は抵抗することもなく拘束された。
女が地面に膝をつき、子供をそっと差し出す。その顔には安堵の色が浮かんでいた。
警察に保護され、泣き叫ぶ子供の姿に違和感を覚えた刑事がそっとその頬に触れる。やせ細った体、青白い顔、腕には無数の痣があった。
「……この子、虐待を受けていたのか?」
警察が子供の自宅を調べると、そこには荒れ果てた部屋と、ほとんど空の冷蔵庫があった。実の親は育児放棄をしており、子供は飢えと衰弱に苦しんでいたのだった。
「……どういうことだ?」
しばらく何も語らなかった女は、観念するように取り調べで静かに語った。
「わたし、ずっと見ていたんです。あの子が、ご飯もろくに食べられずに、いつも泣いているのを。助けたかった。でも、誰も気づいてくれない。わたし、子供を育てたこともないから、どうしたらいいのかわからなかった」
彼女の犯行動機は、報道陣を驚かせた。独身の女が、ただ子供を欲しがった末の暴走かと思われていたが、実際は違った。
そして結果的に、メディアの前で衰弱した子供の姿が晒されたことで、子供は正式に保護されることになった。
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