嫌いなお前の顔を殴る

在都夢

1 マジで殴りたいが殴れたら苦労しない




 都会の大学に行ったお姉ちゃんが残したサンドバッグがある。通販で五万三千円した高いやつ。私は暇な時とかムカついた時とかにそれをしばく。部屋でバシバシ殴ったり蹴ったりしているうちに大抵はスッキリするんだけど、今回ばかりはスッキリどころか実際に財前ミナをボコボコにしたくなる。

 財前ミナは美術部に入った癖にろくに絵を描かないし、駄弁り場みたいに部室を使うから元々私はムカついてるのに今日「なんか顔が嫌い」なんて笑いながら言いやがるからマジでムカついたのだ。

 それで私は思いつく。

 この最高級本革サンドバッグで鍛えた拳を財前にぶち当てたらどうなるんだろう? 泣くかな? いや絶対泣くね。と言うか泣かせたい。

 ムカつきまくってしょうがないから、顔! 顔殴ってやりたい! あー顔だよ! マジで顔! いつもにへにへ笑って調子乗ってる財前のぱっと見美人な顔を!

 殴りたい!

 という気持ちに支配されてだいぶ危なくなってきたので、私は平子に電話する。平子は私の友達でめちゃめちゃ頼りになる。困ったときは平子に相談すれば良い。

「もしもし」

 すぐに平子が出る。

「平子平子平子! どうしよ! 財前殴りたい」

「はあ?」

「もう無理! 明日学校行ったら財前殴っちゃうかも」

「うーん。なんかあったんですか?」

「あったよあった! 聞いて聞いて」

「うん聞きますから」

「ああー! いやもうマジキレそう! 平子〜財前ムカつくよう!」

「それはわかったんですけど」

「あ、うん。なんか嫌いだって」

「財前さんを?」

「いや財前が私を」

「何かしたんですか?」

「別にしてないけど」

「じゃあ何ですか」

「財前がさあ……久しぶりに部活来たと思ったらいきなり……」

「ん?」

「なんか私の顔が嫌いって」

 そう私が言った後に、電話の向こうの平子が息を呑んだのがわかる。そうですそうです。私は傷付いたのです。わかってもらえて嬉しいです。と感動していたのに、平子は、

「え、ごめん。……むふふふ! 面白いんだけど。むふっ。あーそっかあ。それでですか。確かにまあ……むふふ」

 と笑い出す。

「笑い事じゃないって! こっちは『なんか』とか言われてるだよ! ありえないでしょ、『なんか』とか。適当すぎるでしょ! 私の一族全員に喧嘩売ってんのかって感じだよ! 由緒正しい私の顔を『なんか』で済ませるとか許せないって!」

「どこらへんに由緒正しさが?」

「あるの!」

「ふーん、まあ『なんか』扱いが嫌だったんですか? だったら明日、自分から言えば良いじゃないですか?」

「それはやだ」

「どうして」

「いやあ、それだと私が自分のこと可愛いって思ってるみたいじゃん」

「そうでは?」

「……あはは」

「もういいでしょうか」と平子。

「あ、ちょっと待って。思い出したらまたムカついてきた」

 ため息が聞こえてくる。

「じゃあ、思い出そうとしなければいいじゃないですか」と平子は言う。

「無理っす」

「めんどくさいですね。そんなに恨んでるなら、殴ってみればいいんです」

「う……」と私は言葉に詰まる。

「ほら、口で言っているだけで、できるわけないんですよ」

 平子の言うとおり、財前を殴るなんてできない。殴ったら警察沙汰だし、怒られるし、「財前ミナを殴った人」として高校中に広まっちゃうしそのリスクを冒すことを想像すると、財前殴りたいって気持ちがどんどん萎んでいってしまう。と言うか既にさっきまでマックスだった気持ちが、平子と話しているうちにだいぶ減っていて、サンドバッグを殴るだけですみそうにまでなっている。ちくしょー。私の気持ちはどこいっちゃうんだ。退散すんの早過ぎる。

「所詮その程度なんですよ。ももおさん」私の萎みっぷりに平子が言う。「人の怒りなんてそう長く保たないんです。諦めてください」

「私のは保つんだい……五十年ぐらい……」

「お婆ちゃんですけど」

「はあああ……どうしよーおおぉぉ……」

「普通にすれば?」

「そんなあ……」

 平子は「もういいですか? 相棒見なくちゃいけないんで」と言って電話を切る。あーああーもうちょい愚痴らせてよ。






 うちの高校は、クソ田舎にあるから校舎も薄汚いし、周り田んぼだし、教室のエアコンはクソ古い業務用エアコンで冷房を使おうとすると、ううううううんっと大きな音が出る。かびたカーテンの臭いも何故かする。と言うわけで授業に集中できないって理由でエアコンは使用禁止になって教室中暑い。夏は地獄。つか今地獄。

 暑くて仕方がないから、四限が始まる前に部室に行くことにする。あそこには扇風機が置いてある。ちゃんとしたエアコンもある。絵も描ける。あそこは私のオアシス。

 バッグを持ってこっそり出て行こうとすると、平子が私を見て、「さ、ぼ、り?」と口パクする。その通りですな。私は頷く。



 さて、絵についてのみ真摯でありたい私は部室に到着するとすぐ、端から石膏像を持ってきてイーゼルを引っ張り出して、スケッチブックを乗せ、片目を瞑って鉛筆を構える。カッコつけているわけじゃない。鉛筆を定規代わりにして、石膏像(←マルス君)の比率を測っているのだ。

 マルス君の大胸筋から首と肩幅に対しての頭の大きさを大まかに白い紙に描く。これが下準備。ここを疎かにすると後で失敗するのはほとんど確実だから、ようく見て、やる。それでもういいやってところまで終わらせてから細部に入る前に一番暗いところと一番明るいところを見つける。コントラストってやつ。あるいはバリュー(比較)。美しいものというのはそれがはっきりしているのだ。

 全体をなだらかに描き進め、ようやく細部の描き込みに到達したところで、私は自分の眉間にシワが寄ってるのを感じる。仕上げに練り消しを使って、鼻の先端にハイライトを入れる。これで完成……とはいかなくて少し離れた位置から全体を見て、粗を探しまくってようやく完成。

 ここまで二時間半。

 紙の上に描かれたマルス君の出来栄えにうっとりとする。

 我ながらいいじゃん。

 だが良くない。

 もうちょい右肩のボコっとした部分とか腕の断面とか書き込めたはずだ。手抜き感がある。要反省。

 でも良いんだよなあ。

 私はスケッチブックからバリっと紙を千切ってフィキサチーフをかけて、クリアファイルに入れる。どうしても描いた絵はとっておきたくなってしまうのだ。

 部室は美術の時間で使うから、蛇口がある。私は鉛筆で汚れた手を洗う。流水が気持ち良い。家の水じゃないから流しっぱなしにする。窓から風が吹いてきて、さらに気持ち良い。

 とガヤガヤっと音が聞こえてくる。私は振り向かないで、目だけ動かして、誰が入ってきたのか確認する。

 それは憎き財前ミナだった(とその他)。

 まあべちゃくちゃ喋っているのが聞こえたから、誰だかわかっていたけど。

 財前は名前も知らない同学年の女三人と一緒に、黒板手前のテーブルに着いた。財前たちは椅子に座るなり、スマホを出して脚を広げて居着く気満々だった。

 蛇口の水を出しっぱのまま私は、

「うーっす……」

「あ、こんちゃーっす」と財前が普通に言う。うぜえ。昨日言ったこと、忘れたのかよ? 私は覚えてんだけど?

 私はブチ切れているのを悟られたくないから「んー」となるべく適当な風に返事をした。

「立花さん?」

「何? 部員?」

 その他たちが財前に聞いている。

「うちの部員」

 財前は言う。

 お前の部活じゃねえよ。全然来ないくせに。

 私は蛇口を閉めて、デッサンで使っていたイーゼルとは別のイーゼルを引っ張り出す。描きかけの油絵のキャンパスが乗っている。私は財前の顔を見たくないから、その油絵に向き合う。馬の絵。胸筋に浮き出た血管がチャームポイント。私はその続きを描く。パレットに絵具をもりっと盛って、絵皿にとき油を注ぐ。今日は肋骨のところを描くつもりだ。

 描いていると後ろから「うまいねー」とか「馬だー」なんか聞こえてきて、気分がよくなるけど財前が「あの人ねえ、美大行きたいんだって」と言うからぶん殴ってやりたくなる。勝手に言うな! アホアホアホ!

「ミナは美大行く気ないの?」とその他が言うと、

「ええ〜美大? 行かない行かない。私、普通の大学行くから。美大なんて行ったら就職できないでしょ」

 と財前は言う。

 あのさー。行きたい奴がいるんだけど。

 マジで萎える。

 アホの財前のせいで気持ちが抜けた。キャンパス地にただ絵の具を塗ったくってるだけみたいになってくる。とき油もびちゃびちゃに使ってしまう。最悪だ。油絵は乾くのに時間がかかるから、今日はこれ以上進められない。

 でも財前の前で描くのやめられない。なんとなく負けた気がする。描いているふりをするしかない。パレットに出した赤とか黄色とかを適当に混ぜて、黒を作って馬の足元の影を塗る(ふりをする)。ほんと最悪。

 なんで私がこんなしょうもないことをしなきゃいけないんだ。そもそも財前のせいだ。無神経の。

 地獄のような時間を過ごして、ようやくその他たちが帰っていく。だけど財前はなぜか残っていた。ケッ帰れ。

 念じているだけじゃ気が済まないので、私は言う。

「帰んないの?」

 財前は私の言葉を無視してスタスタとこっちに歩いてきて、私の頭の上から絵を覗き込む。で一言。

「ふーん」

 なにそのふーん? やんのか。

 財前はマルス君を見て言う。

「デッサンやってたの?」

 あ、マルス君動かしたままだった。

「やってたけど」

 答えてやったのに財前は黙ったままで、また私の馬の絵を見る。

 少しの沈黙。私は感じたくもない緊張を感じる。財前はめっちゃふわふわした髪とか緩みまくった目つきをして女子って感じなのに、じっくり私の絵を観察しているから、私はまるで予備校の講評会に参加しているような気分になる。

 早く終われ! って思うほどに観察は長くて、仕方なく財前のバッサバサに長いまつ毛を見ていると、財前が言った。

「あんま上手くないねー」

「はあ?」

 なになに?

 何言っちゃってんの?

 私は何でもない風を装うのがやっとだった。マジで喧嘩売ってんだろこいつ。昨日から。

「それってさぁ」私は声が震えないようにしながら言う。「私の顔が嫌いなこととか何か関係あるの」

「ええ〜?」

 と財前はにへにへした。この笑顔は私の一番嫌いな笑顔のやり方だ。言い訳がましくて何でも許される免罪符ぶってて大嫌いだ。

「そんなこと言ったっけ」

「はあっ?」

「嘘嘘覚えてるって。だって嫌いだもん。よくわかんないけど、見てるとなんかむかつくんだよね」

「……理由言いなよ」

「え〜好き嫌いってそんな、理屈付けられるようなもんじゃなくない?」

「あっそ」

 うぜえようぜえよ。何それっぽいこと言ってんだよ。

「で何? 私絵描きたいんだけど」

「あ、ちょっと待って。ん〜」財前は言う。「何というか……ん〜」

 さんざん待たせた財前は私を凍りつかせる言葉を言う。

「芸術家ぶるのやめたら」

 え?

「だからさー授業抜け出したりして、一人でデッサンやったり、孤高の芸術家ぶるのやめたらって言ってんの。恥ずかしいからさー。もしかして自分を客観視できてない? 割とわかることなんだけど」

「は、はあ! そんなつもりないし!」

「だからー。客観的に見たらそうなんだって」

「じゃあ!」私は言う。「あんたが私のこと客観的に見えてるって言うのかよ!」

「うん。だって他人でしょ、私?」

 財前は首を傾げた。

 その通りだった。

「う、うっせーよ! 黙って描かせろよ!」

「逃げないでほしいなー」

「逃げてねえし!」

「別に今、絵描きたいとか思ってないでしょ? ほら、そことか時間潰しに塗ってみましたって感じだし」

「全然ちげえし! 描こうと思ってるし描いてたし!」

「そうかなー?」

「そうだよ!」

「ふーん」

 出た! また「ふーん」!

「でもさ、そんなしょぼい絵描いてたり、芸術家ぶってるうちは美大入んの無理だと思うんだけど」

「はあっなんであんたが決めるんだし!」

「別によくない? どうせ受験の時は他人が自分の人生決めるんだよ? だから私が決めちゃっても大した差なんてないよね?」

「だ、か、ら! あんたは私の試験官じゃない!」

「そうだけど?」

 財前はわざとやっているんだかいないんだか、キョトンとした顔で言う。

 グツグツと煮えたぎった怒りを暴力として吐き出してやりたくなる。どうして財前は私に突っかかってくるんだ。ほっとけよ、私のこと嫌いなんなら。美大行かないって言ったのは財前の方なのに。私は必死で自分を抑えた。机をバンッと叩いて立ち上がってスケッチブックを持ってくると財前に投げつけた。

「そんなに言うならあんたが描けよ! 描けないんだったらもう、ウザ絡みすんな!」

 どうせ財前は描けない。

 財前は美術部に入った癖に絵を一つも描きやしないし、美術部を自分らのグダリ場と思っているような奴だ。そもそも美術部で私より描いている奴を見たことがない。

 だから財前がスケッチブックを手に取って「ん、いいけど」と言った時私は驚いた。マジか。描くのか。描けるのか。ほんとに?

「何描けばいいの?」

 財前に言われて、私はハッとする。

「……じゃあデッサン。そこのマルス像で。そんな時間ないけど」

 五時半。後一時間で下校時刻だ。

「鉛筆は?」財前が言う。

「自分の持ってないの」

「だって今日描くと思ってなかったし」

「じゃあ私の貸すから」

 と言って私はペンケース(筆箱をカッコつけたもの)を財前に渡す。その中には種類ごとの鉛筆が二十四本あって、全部カッターナイフで削ってある。......貸したくねー。

 財前はリラックスした様子で鉛筆を持つ。鉛筆の持ち方は、デッサンやる時の持ち方だった。鉛筆の先端が逆手になるように持つ。ひょっとして財前は中学の頃美術をやっていたのかもしれないと私は思う。文字を書くときみたいに鉛筆を立てて持ってしまうと、力が入りすぎてガリガリやってしまうし、広い面を塗ることができない。いやでも財前は道具の使い方を知っているだけだ。上手いか下手かはこれからわかる。

 鉛筆が紙に触れる。


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