私の居場所

メンタル弱男

私の居場所



 なんでもない夏のことです。

 歯を磨きながら朝のテレビ番組を見ていると、どうも頭に引っかかる映像が目にとまりました。


「このまま勝ってくれたら、リーグ優勝も間違いないですね」

「ええ、ファンはみんな期待していますよ」


 昨日の野球のダイジェストが流れていく中、タレントのありふれた言葉がふわふわと漂っていました。その時、私の目が何かを捉えたのです。


「いやぁ、この打球は凄かったですねぇ」


 それは一人の選手が思い切りバットを振り抜き、心地よい高音が響いた直後でした。小さな白い球が彗星のように素早く弧を描き、火種を待ちながら燻り続けていた外野席のもとへと吸い込まれていったその瞬間です。


 立ち上がり両手を上げて喜ぶたくさんのファン。ただその中に一人…………軽く俯いたまま座っている男がいました。


「この一発で決まりましたから! よくこの終盤で試合を動かしてくれましたよね!」

「直近の試合ではなかなか結果を出せていなかった分、ここで取り返しましたよ」


 テレビの画面はスタジオに移り、野球解説者が先程のバッティングの解説を行なっています。ただ、私の目はもう何も見ていませんでした。ソファにもたれてじっと前を向いたまま、声にならないひとりごとを呟きます。


 ずっと頭に残る、一人の男の姿。

 あれは確か……。


「ね、どうしたの? そんなぼうっとして」

「……え?」


 一緒に暮らしている佳奈が隣に座り私の膝に手を置きましたが、私の顔を見るなり慌ててティッシュを取って手渡してきました。


「歯磨き粉がいっぱい垂れてるよ! ほんとに、朝から何してるの?」

「ごめん、考え事してた」

「もう……しっかりしてよね」


 口もとを拭うと、白い歯磨き粉の中で藻のように滲む赤い血を見ました。その不気味な赤はティッシュの上を緩やかに流れていきます。


「磨きすぎじゃないの? いったい何分磨いてるの」


 佳奈の言葉を聞きながらゆっくりと洗面所へ向かいました。「今日も晩御飯食べてくるから、遅くなるよ」と返事のない私に佳奈の声が続きましたが、私は声ともとれないような曖昧な返事で応えました。


 歯磨き粉を吐き出すと、何かが潰れるような不快な音を立てました。少しだけ水を流すと赤い血が渦を巻き、そこに何もなかったかのように排水溝へと吸い込まれていきます。その無情な流れは、まるで忘れてはいけないことも簡単に忘れてしまう、この毎日のようで…………。


 不意に何かを感じて顔を上げました。

 鏡の中から、口もとが白い自分が私を見ていました。


「疲れた顔…………」


 ため息が溢れました。その時ふと、先程テレビで見た『座った男』が、目の前の鏡面に映り込んだような気がしました。


 条件反射のように首を右に捻って後ろを確認しましたが、薄暗い廊下には何も見えませんでした。


 もう一度鏡を見て、間違い探しをするかのように隅から隅まで確認してみましたが、もちろん何もおかしな所は見当たりませんでした。


 今のは、なんだったんだろう?


「じゃあ、行ってきます」


 鏡を左から右へと横切る佳奈の姿。私は「いってらっしゃい」と鏡に向かって呟きました。


「あれ……?」


 私は目の前の光景が先程までと少しズレているような、まるで夢から覚めた時のような不安な感覚を抱きました。そして、その時まで気がつきませんでしたが、ずっと頭の中で考えていたあの男…………。


 彼の姿と重なる、過去の自分の失敗。そして現在の私に繋がる虚しい希望。いつまでも抱き続ける理想郷への地図と悲しい言葉。彼は私の過去なのではないかという考えが、頭をきつく締め上げるのです。


 私は忘れかけていた記憶を掘り起こすように鏡の中の自分を凝視しました。何かが欠けている、そんな気がしてならなかったのです。


 私の居場所はここなのでしょうか?

 そんな思いに取り憑かれ、意識が朦朧とし始めました。私はふらつく頭をなんとか持ち上げ、鏡から目を逸らしませんでした。やがて周りの景色に白く靄がかかり……いえ、もしかしたら黒く染まっていたのかもしれません。自分の体から私自身が引き剥がされるような、そんな勢いをもって私はとうとう何も見えなくなりました。


          ○


「あ、気がついた!」


 それは佳奈の声でした。


「大丈夫? 頭痛い?」

「いや、大丈夫……ここは?」

「病院よ、家で倒れて気を失って……」


 どうやら私は数日の間、眠っていたようです。あの日、私の職場から佳奈に連絡があり、彼女が慌てて帰宅したところ、洗面所で血の滲んだ泡を吹いた私が仰向けに倒れていたそうです。


「心配した……何があったのよ、あの後?」

「ごめん。自分でもよく分からないんだ……よく思い出せない」


 実際には気を失う寸前まで、はっきりと覚えていました。それでも、私は心のうちに留めておこうと思いました。


「でも、何もなくて本当に良かった」佳奈が窓の外を眺めて笑いながら言いました。


「ありがとう」


 遠くに海の見える窓からの景色は、何かの合図で動き出したかのようにどこかぎこちなく、そしてそれが優しいものに見えた気がしました。


 人は日々生まれ変わっていくという思いが、胸の底に眠っています。そして私の居場所は……。


 ゆっくりと顔を上げ、青い空を仰いで、私は確かな温もりの中で再び瞼を閉じました。




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私の居場所 メンタル弱男 @mizumarukun

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