第二章 担任の先生の秘密
第10話 久しぶりの登校路
翌朝マンションを出ると、丁度向かいの玄関から姿を現した郁と目が合った。
「お……」
いつもならお互い気が付かない振りをする所だが今日はそうも行かない。
「おはよう」
昨日の出来事に背中を押されてこちらから挨拶すると、「おは」と軽い足取りで駆け寄ってきた。
「仮病はもう治ったのか?」
「まあね。昨日みたいに誰かが凸ってきたら余計困ると思ってさ」
「確かに、あの部屋に入られちゃあ言い訳は出来ないよな……」
「言っとっけど」郁が俺の鼻先に立ち塞がって言う。「私の秘密を誰かに喋ったりなんかしたら、蓮でも許さないから」
「喋らないよ。喋っても、俺の言うこと真面目に聞く奴なんていないし」
「そう断言されるとこっちが悲しくなるなあ……」郁はあからさまに(可哀想だな)という感情を湛えて俺を見つめる。「そのダンゴムシみたいなスピリッツはなんなの? いつの間に蓮に宿ったのかな」
「世間一般で言うところの健全な学生生活っていうのが、俺には眩しすぎるんだ」
ダンゴムシとは言い得て妙だ……と思ったが、最近甲塚にもそう喩えられたことを思い出した。俺という男は、言うなればスクールカーストという大きなピラミッドの底に生息している小動物といった存在だと自覚しているが、いくら何でも立て続けにこうも言われるものか。
「そっちこそ、いつの間にあんなゲーマーになっちまったんだよ。中学の頃はバスケ部でバリバリ体育会系だったじゃないか」
「それはまあ、反動って言うか。高校上がってからは部活も辞めてバイトしかしてないから時間が余っちゃってさ。ていうか、ゲーム自体は昔から好きだったじゃん、私」
「そういえば、郁の部屋って昔も色んな最新ハードがあったっけ……。WiiUを初めて触ったのも郁ん家だったかな」
「うわ、なっつ! そういえば私、蓮にスマブラ勝ち逃げされたままだわ」
「いや、そこまで憶えてないけど……。まあ、確かに思い返せば郁がコアなゲーマーに育ってしまう土壌は整っていたってことかもな。にしてもああいうゲームに嵌まるとは意外だったけど」
「いやいや。何か馬鹿にしてるけど、マジで感動するから。『CLANNADは人生』って名言知らないの!?」
俺の態度が郁のゲーム愛に火をつけたらしく、唾を飛ばす勢いで反論してきた。
「流石に知ってるけど、それ結構上の世代なんじゃ……。ていうか、最早乙女ゲーというよりギャルゲーだし」
それから、郁の「名作はいつの時代でも名作なんです~」だの「男も女も感動するんです~」だの結構鬱陶しいオタク談義が続き、いつの間にやら校門に面している通りに出ていた。
郁のテンションが異様に高いのは、普段こういうトークが出来る友人が彼女にはいないからだろう。俺としても、郁のようにゲームこそやっていないもののどっぷりインターネットの世界に漬かっている側の人間だから話題に付いていけてしまうわけだ。
視界に校門が見えた辺りで、背後から「郁、おはよー!」と女子の一団から声が掛かったので、俺は慌てて郁から距離を離した。
「あ、皆おはよう!」
郁は別段俺に気を掛けるでもなく彼女の友人達に挨拶を返す。そのまま彼女は一団に合流してあーだのこーだのと朝の会話を始めてしまった。
「……」
まあ、成り行きで郁と登校するような形になってしまったが、ここらで潮時だろう。既に女子の中には俺を訝しげな目で見ている者もいることだし、ここはダンゴムシらしく日常の影に姿を溶かすのだ。
俺は野生動物を前にした登山客のように、出来るだけ周囲を刺激しない静けさで正門を抜けていった。
ところが、玄関で靴を履き替えているときにさっきまで女子達と話をしていた郁が駆けてきた。
「……ちょっと。音も無く消えるの止めてくれない?」
「俺と喋ってるとこなんて見られたくないだろ。あんまり校内では俺に構わない方が良いぞ」
「そこまで行くと、自己肯定感が低いのか自意識過剰なのか分からないわ……」呆れた顔で溜息を吐く。「それより、お昼は?」
「昼?」……昼って、多分昼飯のことだよな。「購買のパンだけど」
すると、郁は苛立ったように言葉を足した。
「じゃなくって。どこで食べてるのかって聞いてんの。教室?」
「いや。昼は購買行ってる間に誰かが俺の机に座ってるから、大体中庭のベンチだけど……」
「……えーと、全然風が通らなくて馬鹿みたいに暑いところで?」
「その代わり静かなんだ」
「はあ……まあいいや。じゃあ昼は中庭で落ち合おっか」
「……」
体感三秒ほど郁の顔を眺めてようやく理解した。つまり、彼女は昼飯を一緒に食べようと提案しているのだ。
状況は理解したが、何故そういう話になるのかが分からない。
「……なんで?」
「ちょっと話したいことがあるから」それから声を潜めてこう言った。「人間観察部のこととか色々。特に甲塚さんのことをね」
それから郁は先に靴を履き替えていたらしい先程の顔ぶれに呼ばれて去って行った。
今の今まで考えないようにしていたが、1-Bの俺は当然、同じクラスの甲塚と顔を合わせることになるわけだ。
加えて、クラスにはあの人がいる。
――俺たちの担任、東海道先生が。
……心なしか、足取りが重くなってきた。
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