第6話 怪獣の鳴き声
「お、おじゃましま~す……」
そろそろと宮島家の玄関をくぐると、懐かしい香りがふっと俺の鼻腔をくすぐった。それは多分木造の壁に染みついた生活臭で、具体的に言えば宮島父が宮島が四歳の時に止めた煙草だったり、ある夜俺がお泊まり会をした夜のカレーの匂いだったり、いつの間に死んでいた犬の毛皮の匂いだったりするんだろう。俺はそれを憶えている。
「す~……」と、俺に続いて甲塚が玄関を抜けてくる。
「……おい」
廊下に上がったところで、さっきから様子がおかしい甲塚に声を掛ける。
「な、なによ」
「お前、何か変だぞ。さっきから。挙動不審というか……」
甲塚は「何言い出してんの?」と、最早見慣れてしまったキツい態度で言葉を返してくる。「別にキョドってなんかないし」
「あ、そう。……まあいいけどさ」
取り合えず、記憶を頼りに宮島家のリビングまで廊下を歩く。床板は二人分の靴下が擦る音をするすると流した。
「おばさん、宮島今日休んだって聞いたけど。調子悪いの?」
「それが、私もよく分からないのよ。熱は無いとは言ってるけど、とにかく今日は学校に行きたくない、の一点張りで」台所でゆったりと作業をしていた宮島のおばさんが、チーズケーキをカットしながら言う。おばさんの動作は物凄く緩慢としているように見えるがホールのチーズケーキは確かに美味しそうだ。さっきまで行っていたスーパーで買ってきたのだろうか。
「それと、あなたは食器をお願いね」
「あっ、はい」
甲塚が、宮島のおばさんの言うままにフォークとナイフが入った細長い籠を渡される。そこで、初めて甲塚の存在を不思議に思ったらしい。数秒間甲塚の顔を見つめたと思ったら、「あなたは、蓮君の彼女さん?」と言い出す。
「私が?」甲塚は殆ど反射的な速さで頭を振る。「まさか。違いますよ」
「おばさん、そいつは甲塚。ただのクラスメイトだから」
「ふう~~ん?」
そのままシンクで洗い物を始めるおばさんは薄気味悪い笑みを浮かべる。ただでさえ細い目がほぼ線になって、カットしたスイカのように口を開いて笑うのだ。「私はて~っきり蓮君のタイプってこういう感じの子なんだ~ってびっくり」パンッ「しちゃってえ~。だって全然イメージと違う……結構今風というか~」パンッ「でも、蓮君ってこういう感じの女の子と仲良いのね~」
「ちょ……」
甲塚が唖然として固まる。
喋っている内容より、シンクでコップを割り続けながらもなお喋り続けるおばさんに驚いている、というか恐怖しているのだろう。
「別に俺たちは仲が良いわけじゃないから。今日は学校の用事で宮島に会いに来たんだ。今いる?」
「いるわよ~。いきなり学校休むなんて言い出して、今朝からず~っと部屋に篭もりっきりなの。ちょっと様子見てあげてくれる?」
「部屋に篭もりっきりって……もしかして本当に体調悪いんじゃ」
「ああ、平気平気。昨晩からず~っとあの子の部屋でピコピコ聞こえてるもの」
「……ピコピコ?」
宮島に似つかわしくない擬音が突然出現したので、俺と甲塚は思わず目を合わせた。
*
「……宮島のお母さんって、何というか……」
「変わってるよな。ここ段差あるから気を付けろ」
宮島のおばさんに持たされたチーズケーキと、籠に入ったナイフとフォークを運びながら俺たちは廊下を歩いて行く。宮島の部屋がどこにあるかは憶えている。確か、階段を上がって右に曲がり、突き当たりを左に曲がったところの部屋だ。
「ん」
「あの人、温室育ちで育ったらしいんだよな。親が金持ちで、こんな立派な家に住んでるってわけ。だからってわけでもないんだろうけど、家事、というかマルチタスクで色々やるのが苦手らしい」
「……ふーん」
甲塚はこの辺りでは珍しい大きさの家を興味深く見渡しながら俺に付いてくる。
「それにしても、さっき言ってた『ピコピコ』って……」
「ああ……」
宮島の部屋は記憶の通りの位置にあった。拙い粘度細工のドアプレートまで昔のまま。太々とした丸みのある『いくのへや』という文字は、たしかいつかの夏の自由研究で、彼女が作ったものなのだった。
目の前の部屋からは、扉越しに分かるほど大音量の電子音が聞こえてくる。
これは……。
「ゲームか。宮島にそんな趣味があったとは」
「……俺も知らなかった」
「くく、意外な一面発見ね。宮島についてはSNSのアカウントが見つからなかったからもどかしかったのよお……」
甲塚が例のダーキーなスマイルを浮かべて腕を組む。
宮島の下に甲塚を導くのは不本意では無いとは言え、これから起こるであろうことを予想して気分が暗くなる。……甲塚のことだから、ノックも無しにバンと扉を開いては傷心中の宮島に、ショウタロウの弱みについて問いただすんじゃないか……。
と、思ったら。
「じゃあ、……早く、開けなさいよ」
「……」
また、俺のイメージから現実がずれる。
こういうとき、真っ先に自分の手で扉を開くのがこいつのキャラじゃないのか。
「何ぼーっとしてんの。ほら、早く」
「お前、何か変だぞ」
「な、なにが」
「何て言うか……」俺は後頭部を掻きながら言葉を探した。が、貧弱な俺の頭には大した語彙を貯蔵していない。「……コミュ障みたいだ」
「こっ、コミュ障!?」
甲塚は明らかに狼狽している。
「思い返せば、宮島のクラスを尋ねるのも、家に入るのも何だか俺を矢面に立たせてるみたいだし……。おばさんとも何かぎこちなかったし……そうだよ! 冷静に考えれば俺なんかを『人間観察部』に引き入れる必要なんてないじゃないか。分かったぞ。お前さては――人見知りなんだろ」
「な、なん、な……」
甲塚の顔はみるみる耳まで赤くなった。痙攣するように震える唇からは、言葉にならない撥音がどんどん漏れ出てくる。それでもようやくひねり出したのは、「わ、私は裏方専門なんだよっ」という苦し紛れの言い訳と、ピンポン玉が当たったような感覚。猫パンチだ。
しかし、そうなると不思議なのはどうして俺にはこんなに強く掛かってこれるのだろうか?
「もう私のことは良いから! 今は宮島! つべこべ言わずにさっさと――」
「ママァァァァ!」
「!?」
突然目の前の扉――『いくのへや』から飛び出た絶叫に、俺と甲塚はびくりと体を震わせる。
「ンママァァァァ!! お腹空いたァァァァ!!」
今度はドンドンと床板が震えるほどの振動がおまけに付いてくる。多分、部屋の中で絶叫しながら床を踏みならしているんだろう。
「……ええ……。宮島って家じゃこんな感じなのか? 腹ぺこな化け物みたいだけど」
あの甲塚ですら引いている。気持ちは分かるが。
「ほら、家、広いしな……」と、一応尤もらしい理屈を述べても、この現実の前には薄いフォローにしかならない。
あまりにもいたたまれない空気に耐えかねて俺は扉を強めにノックした。このままではどんどん宮島が無自覚に醜態を曝してしまうかもしれない。ならば、いっそのこと俺たちが姿を見せるしかないだろう。
「おーん!」と、ノックの返答のようなものが返ってきた。
「み、宮島……? 入るぞー」
扉を開いた俺の目の前には、驚愕の光景が広がっていた。
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