何れその想いを何と呼ぶ

 日々は更に流れ行き、そろそろフィンストーゼの株分けをウルリーケが考え始める頃。

 庭園は時間が経つにつれ、まるで魔法にでもかけられたかのように様変わりしていった。

 灰色と茶色の光景はもうそこにはない。緑が活き活きと陽射しを受けて輝き、そこに淡い色調から徐々に鮮やかな色が花開いている。

 それこそ、本当のおとぎ話のように美しい光景が出来上がりつつあった。

 歩いてみて回ってからウルリーケのもとにやってきたスヴェンが、庭園の代わり様にしみじみと呟いた。


「これが、いわゆる『緑の指』というものか……」

「そう言われた事はあります。……きっと、お父様に遠慮してのお世辞だったと思います」


 スヴェンも双子達も、ウルリーケがする一つ一つの説明にその都度とても感心した顔を見せてくれる。そして、手放しで褒めてくれるのだが、これが中々に慣れない。

 全て父に教わった事通りにしているだけ、ウルリーケ自身の功績ではないと思うからだ。

スヴェンはそれを聞いて何か言いたそうだったが、一つ溜息をついただけだった。


 ウルリーケは、父が生前口にしていた皇宮の表の庭園ではなく、秘された庭園を目指したいと思っていた。

 表の庭園は、皇宮の威容に相応しく人の手にて整えられた華麗な庭だった。

 生垣は幾何学的に常に整えられ、鮮やかで艶やかな花々が咲き誇る美しい庭だった。

 それとは対照的に限られた人間のみが立ち入る事ができる秘された庭園は、自然の色調を尊重し、あるがままの美しさを良しとするものだった。

 ウルリーケは一度だけ父に連れられて足を踏み入れた事がある。

 かつて幻の花があったという庭園は、樹々と花々が調和する風景画のような場所だった。

 あの場所には、他の場所には存在しない数々の貴重な花が存在しているのだと父は語っていた。まるで、この大地から失われてしまうのを防ごうというように……。

 幼き日の彼女の心を捕らえたあの風景を、出来ればこの場所に再現したいと願っているのだ。父ほどの力はないけれど、出来る限りを尽くしたいとウルリーケは思う。


 薬草や食用の区画もあると聞いてスヴェン達はとても驚いていた。

 野菜も美しい花をつけるし、薬草や香草はとても香しいのだと教えると揃って感心した風だった。

 いずれ庭園で野菜や果物も収穫できるようになるという話を、厨房の料理人は大層喜んでいるとか。

 今までは村から相場より高めのものを仕入れていたとか。

 しかし、それも村で食べる分が足りていないと断られる事もあり、その為商人たちに保存のきく食材を多めに仕入れさせているらしい。

 慎ましい食事をするよう躾けられていたウルリーケは気にならなかったが、確かに日々の食事の材料は限られていた気がする。

 スヴェンも元々あまり食に頓着しない性質とのことで何も言われなかったが、料理人としては中々もどかしい思いを抱えていたのだという。

 生育が早いものは早々と厨房に持ち込まれその日の食卓を彩り、いつしか共に食卓を囲むようになっていたスヴェンは顔を綻ばせてくれた。


 スヴェンは、寒くなる前に何とか頑丈な硝子を調達するから、温室を再建してはどうだろうと提案してくれた。

 庭園の花で、幾つかは寒さにあまり強くないものもある。ギーツェンの冬は予想以上に厳しいと聞いてウルリーケが心配していたのを覚えてくれていたようだ。

 嬉しくて咄嗟に返事が出来なかったが、ウルリーケの顔を見てスヴェンは察してくれたようである。

 ウルリーケが頑張ってお礼をと思っている時、フェリクスがスヴェンを呼びに来た。

 何でも村から何かの案件が持ち込まれたとかで、スヴェンの裁可が欲しいとの事である。

 すまないと言い残して、スヴェンは足早に去って行ってしまった。

 礼が言えないままに終わってしまったウルリーケは、自分の不甲斐なさを嘆く。

 如何に領地に対しては自治状態を認めているとはいえ、領主としての執務が全くないわけではない。

 それに対応しながら、スヴェンは何時もウルリーケの庭造りを手伝ってくれている。

 ウルリーケはいつもスヴェンに心配りをされてばかりな最近の自分に気付いていた。

 だからこそ、と思う。何か少しでもお返しできればと願ってしまう。

 何もできない事を嘆いているだけではなく、何か出来る事はないだろうか。

 そう思いながら歩みを進めていた時、ウルリーケは緑の区画であるものを目にして足を止め、目を瞬いた。

 そして、何かを思い定めたように頷いて、それへと歩みだした……。

 


 暫くして、ウルリーケはスヴェンの執務室の扉を控えめに叩いた。

 入室を許可する応えがあり、緊張した面持ちのウルリーケは自分を落ち着ける為にひとつ息をすると、中へと足を踏み入れた。

 スヴェンは何かの書類を確認していたようだが、ウルリーケの姿を目にすると顔をあげ、彼女を見た。

 そして、目を軽く見開いた。


「……どうした? それは……」


 スヴェンの銀色の眼差しは、ウルリーケが手にしたトレイに注がれていた。

 そこには、ポットとカップ。それに素朴な焼き菓子が乗った皿がある。


「……幾つかの香草を茶葉と合わせて煮だしたお茶と……。簡単ですが、焼き菓子です……」


 スヴェンの注目が自分が持っているものにあると気付いて、ウルリーケは口籠りかけながらも、消え入るような声で説明する。

 ウルリーケの様子とその言葉を受けて、スヴェンがやや驚いた様子で問いかけた。

 

「まさか、お前が……?」

「……ご迷惑だったでしょうか……」


 ウルリーケの手製の品なのかと問うスヴェンに、頷きつつ震えかけの声で答える。

 フィーネがスヴェンに茶を差し入れようとしているのを止めてまで、自分にやらせて欲しいと頼んだのだ。厨房にも頼み込み、菓子を焼かせてもらい、庭園から収穫した疲労に効果のある香草で茶を入れて。

 こうして持ってきたはいいものの、段々ウルリーケは不安になってくる。

 素人の自分の用意したものより、フィーネや料理人が用意した品のほうが望ましかったのではないかと。

 少しばかり蒼褪めながらも、スヴェンの言葉を待っていると。


「いや、そんな事はない。……有難い」


 スヴェンは軽く首を振り答えたが、そこには不快そうな様子はなくて密かに安堵する。

 どこか戸惑っているようであり、落ち着かない様子なのは気がかりではあったが……。

 ウルリーケは気を取り直して茶を注ぎ、焼き菓子の皿と共にスヴェンの前に並べた。

 スヴェンははにかんだような表情で、カップに口をつける。


「優しい香りがする。……美味い」


 茶の香気にスヴェンの表情が緩んだのを見て心の内に喜びが灯り、続いて焼き菓子を口にしたスヴェンの言葉にウルリーケは思わず目を輝かせていた。

 安堵の息を零してしまったウルリーケの見つめる先で、スヴェンがふと何かを思い出したような表情を見せる。

 ウルリーケがどうしたのだろうと目を瞬いていると、少しの沈黙の後にスヴェンは呟いた。


「この焼き菓子は……。母上が、一度だけ作ってくれた事がある」


 驚愕して言葉を失ったウルリーケに、スヴェンは話してくれた。

 ヴィルヘルミーネ皇后が生きていた頃の、あるスヴェンの誕生日の事だった。

 息子の誕生日だというのに、皇帝は政務に忙しいと顔を見に来る事もなく、それらしい祝いの宴が開かれるでもなかった。

 スヴェンはその頃既に『あの噂』を耳にしていた。だから別に父に祝われなくても構わないと思っていた。

 母に祝われる事もないだろうと思っていたのだという。

 母は、彼を一度として抱き締めてくれた事はない。様子を確かめに顔を見に来る事はあっても、基本的には教育係である女官長に任せたきりだった。

 スヴェンは母にも愛されていないのだと諦めていた。だから、誕生日に両親が居ないという状況を特段嘆く事もなかった。

 しかし、その年だけは違ったのだという。

 ヴィルヘルミーネは手ずから菓子を作り、スヴェンと茶の時間を持ったのだという。


 ――皇后が病の床に臥せったのは、それから程なくしてだった。


 懐かしさと寂しさの入り交じる複雑な笑みを浮かべるスヴェンを見て、ウルリーケは暫く何の言葉も紡げなかった。

 喜んでもらえたのだろうか。哀しい事を思い出させてしまったのだろうか。

 戸惑いに心が揺れながらも、ウルリーケは何とか絞り出すようにして口を開いた。


「……私の手作りを差し上げるなんて、失礼になるかとも思ったのですが……」

「待て、ウルリーケ。……それだ」


 そんな大切な思い出のお菓子だったのに、と紡ぎかけた言葉を途中で制しされ、ウルリーケは驚きを露わにしてスヴェンを見た。

 スヴェンは不機嫌とは言えないが、少しばかり苦い表情を浮かべながらウルリーケを見ている。

 気になっていたが、と前置きしてスヴェンは溜息と共に言葉を紡ぎ始めた。


「……お前は、些か謙遜が過ぎる。いや、褒め言葉を受け取れない……信じられていないのでは?」

「……実際私は不器用ですし……何もできないのは、本当の事なので……」


 渋面にて溜息交じりに告げられた言葉に、ウルリーケは困惑して縮こまってしまう。

 物心ついたころから、不器用だと嘆かれ続けていた。

 作り上げたものに及第点が貰えた試しはなく、自分に褒められるところはこれといって無いと思っていた。

 その内心を察したように、スヴェンはもう一度大きく溜息を吐く。

 恐る恐る見つめた先、そこには怒りや苛立ちなどではなく、ウルリーケを気遣う表情がある。


「園芸に関する知識と技能は、皇宮の技師にも負けないものだと俺は思っている」


 スヴェンは静かに言い聞かせるように語り始めた。ウルリーケは、恐縮しながら黙ってそれを聞く。


「それはフィーネやフェリクスもそうだし。城の人間もそう言っている」


 フィーネもフェリクスも、そして作業を手伝ってくれる者達も、皆揃ってウルリーケを褒めてくれていた。

 ウルリーケが成し遂げた事を肯定し、認めてくれていた。


「城の奴らはウルリーケが家政についても知識が深いと感心していたぞ。相談にのってやったと聞いたが」


 侍女が困っていた様子だったので、改善案を提案してみたのだ。

 いずれ何処かに嫁いで女主人として家政を采配するのだからと、必要な勉強を怠った事はなかった。ただ、それが認められた事は殆ど無かったが……。


「それに、菓子作りも上手だ。それは俺が保証する」


 締めくくるようにスヴェンが称賛を口にする。

 皿の焼き菓子は何時の間にか綺麗に消えていた。

 ウルリーケは、この城に来てから多くの人に認められていたし、称賛される事が増えていた。ただ、ウルリーケがそれを『お世辞だ』として受け入れられなかった……信じられていなかっただけで。それを受け入れて得意になってしまう事が怖かっただけで……。


「お前は、俺を信じているか?」

「勿論、信じています!」


 スヴェンは、首を軽く傾げながら問いかける。

 ウルリーケはすぐに頷きながら、必死にそれを肯定する。


「フィーネとフェリクスは? 城のやつらは?」

「二人の事も、信じています! 皆の事もです!」


 重ねて問いかけられた言葉にも、ウルリーケは弾かれたように頷き肯定を返す。

 それを見たスヴェンは、表情を和らげたと思えば穏やかに告げた。


「それなら、その『お前が信じられる』俺やあいつらが言っている事を信じろ」


 その穏やかな声と向けられる優しい眼差しに、胸の奥から何かがこみ上げてくる。

 胸に満ちていく何かに言葉が紡げないウルリーケに、スヴェンは続ける。


「お前に価値が無いと言っていたのは、母親……お前の旧い『世界』だろう?」


 思わず息を飲んで目を見開いてしまう。

 そう、ウルリーケにそれを言い続けたのは他ならぬあの人だ。

 愛娘と慈しむ様子を見せながら、お前には何もない、何もできないと言い続けた人……。

 世界の外に出た筈の今も、ウルリーケの足には母が長い年月で作り上げてきた鎖が絡みつき続けていたのだ。

 それ故に自分は自信を持つのが怖かったのだということに、ウルリーケは気付く。


「お前は、自分が思っている以上に多くの事が出来ている」


 スヴェンの優しい言葉が、大地に染み込む水のようにウルリーケの心に拡がっていく。

 ウルリーケの心を満たし、新しき芽吹きを迎えられる大地へと変えて行こうとする。

 スヴェンは立ち上がり、ウルリーケの側へと歩み寄る。

 そして銀の双眸で菫の眼差しを真っ直ぐにとらえながら、告げた。


「自信を持て、ウルリーケ」


 その言葉を耳にした瞬間、何かが弾けた。

 透明な光を称えた雫がひとつ頬を伝わって落ちる。

 スヴェンは一瞬狼狽したが、すぐに落ち着いて優しい表情になった。

 伝い落ちる涙はあの日とは違う、温かで優しいものだったから。ウルリーケの表情には哀しみや拒絶ではなく、徐々に湧き出るような喜びがあったから。


 今、ウルリーケの足に気付かぬように絡みついていた鎖が一つ、解けて消えた――。


 ウルリーケは言葉なく涙を流し続けた。

 そんなウルリーケを見てスヴェンは何か逡巡していたようだったが、不意にウルリーケの視界が変化する。

 気が付けば、ウルリーケはスヴェンの腕の中に居た。

 優しく自分をとらえる腕を感じながら、どこか夢見心地の耳にスヴェンの言葉が触れる。


「思えば、随分とあの言い方も卑怯だったな」


 何のことか分からずに疑問を浮かべながら見上げるウルリーケ。

 東翼に来いと言った時の事だと言われて、思わず更なる問いを込めてスヴェンを見てしまう。そんな彼女に、スヴェンは苦笑しながら説明を紡ぐ。


「俺が、お前に東翼に来てほしかったんだ。……お前と同じ場所で、暮らしたかったんだ」


 ウルリーケと過ごす時間が増える度に、別れ際が辛くなっていったのだという。

 東翼にて、離れた西翼に帰ってしまった彼女を思い、何とも言えない気持ちになった。

 だからこそ、あの日あの提案を持ちかけた、と何処か照れくささを隠すようにスヴェンは言う。


「これが、普通の人間がいう『愛』なのかは、自分でもまだ自信がない」


 愛という感情に触れて来なかった。

 むしろそれを厭うようにして生きて来た。儚く移ろうものだと遠ざけてきた。

 だから名前としては知っていても、今自分が抱いているものがそうなのかは分からない。

 けれど。


「だが……お前と一緒に、確かめていきたいと思う。それだけは確かだ」


 それは多分、愛の告白と言えるものであるのだろう。

 そう呼ぶには些か変っているけれど、それでもその言葉に宿る真摯な想いは確かなものだと感じる。

 だから、ウルリーケもまた自らの内にある願いを告げる。


「私も、スヴェン様と同じ気持ちです」


 自分もまた、これが愛であるのかが分からない。そう呼んでいいものなのか、或いは違うのか。

 今は分からないし、きっとこれは一人では答えに辿り着けない。

 だから、とウルリーケはスヴェンを見つめて確かな声音で続く決意を紡ぐ。


「一緒に、確かめていきたいです」


 ウルリーケの答えを聞いて、スヴェンの表情に湧き上がる喜びが滲む。

 次いで、スヴェンはウルリーケを慎重に力をこめて、抱き締めていた。

 抱き締められたのは、これで二度目。

 一度目はあの嵐の夜、ウルリーケを庇う為に抱き寄せてくれた力強い腕を今でも覚えている。


 そして、今。

 ウルリーケを抱き締めてくれている腕は気遣うように優しくて、とても温かで。

 とても、しあわせな想いを与えてくれるものだった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る