枯れ谷の大公

 礼を取った姿勢のまま、頭も挙げられずにウルリーケは凍り付いていた。

 要らない、帰れ、とはどう考えても明確な拒絶だ。

 これが歓迎に聞こえる人間がいるなら、むしろお目にかかってみたい。

 法のもとでは夫婦である筈の相手は、歓迎していないどころか全面的にウルリーケの存在を拒否している。

 固まってしまったウルリーケを見て顔色を変えながら、ヘルムフリートが叫ぶ。


「おい、スヴェン!」

「代理で式をしたというなら、お前がそのまま娶ってやればいいだろう」

「そもそも代理結婚になったのは誰のせいだと思っている!」


 温和な皇子の声に怒りが滲む。

 確かにスヴェンの言う通り、ウルリーケは帝都の皇帝陛下の御前にて代理をたてて結婚式を済ませている。

 その際に花婿の代理を務めてくれたのが皇帝の息子であるヘルムフリートである。

 しかし、彼はあくまで代理なのだ――本来の花婿であるスヴェンの。

 婚儀に際してもスヴェンは城から出てくることはなく、かといって皇帝がギーツェンに赴くわけにはいかず。

 仕方なく代理をたてての式を挙げる事となっただけである。

 ウルリーケが法のもとに婚姻を結んだ相手は、間違いなくこの冴え凍る銀の大公なのだ。

 労わるように促されて、姿勢を正したウルリーケは、改めてスヴェンを見る。

 ヘルムフリートの非難を受けても、スヴェンは顔色ひとつ返る様子がない。

 要らないという主張を撤回する様子を欠片も見せないスヴェンを見て、ヘルムフリートが大きく嘆息しながら呻くように告げる。


「スヴェン。……これは、皇帝陛下の勅命だ」


 その言葉を聞いて、僅かにスヴェンの表情が動く。

 ヘルムフリートは気が進まぬ様子ではあるが、手にした勅書をスヴェンに示す。

 玉璽の印が押された皇帝の命令を告げる書面は、確かにウルリーケを妃とするようにスヴェンに命じている。

 不快そうに眉を顰めるスヴェンは、ここに至ってようやくウルリーケへと視線を向けた。

 裡まで見透かすようなしろがねが、恐れを含んだ菫色とぶつかる。

 すぐに溜息と共にスヴェンは逸らしたが、視線が外れる間際にそこに見た感情にウルリーケは僅かに戸惑いに揺れる。

 スヴェンの冷たい銀色の瞳の中に、ほんの一瞬だけ……気のせいと片づけられそうな刹那、哀しみがあったような気がしたのだ。

 苦いものを滲ませた険しい表情のヘルムフリートは、なおも諭すように続ける。


「陛下がお決めになった事だ。彼女がお前の妻となった事実は動かせない。私は彼女を連れて戻るわけにもいかない」

「……本当にありがたいことだな……!」


 事の経緯を狼狽えながら見守るウルリーケの前で、ヘルムフリートの言葉にスヴェンは吐き捨てるように皮肉を口にする。

 どうなるのだろうか。

 自分は、どうすればいいのか。

 ここで本当に追い出されたとしたら、何処にいけばいいだろう。

 帝都に連れて戻ってもらっても、自分にはもう……。

 そう考えながら、ウルリーケは自分の考えに嫌気がさす。

 目の前のこの人は、望まないのに命令だと花嫁を押し付けられて迷惑しているのに。それよりも自分の将来と保身を考えてしまっている。

 これは皇帝陛下の命令による結婚なのだ。

 どれ程不本意であろうと、この方にも拒む事は出来ない。

 逆らえず、ここに辿り着いた自分と同じように。

 如何に皇帝の甥であっても、拒絶は肯定への叛意と取られる可能性がある。

 ましてや、これは『あの人』が皇帝に望んだ事なのだ。

 スヴェンが、ここであくまでウルリーケを拒絶すれば、確実に皇帝陛下の機嫌を損ねる事になる。

 ウルリーケは無言のまま俯いてしまう。

 ヘルムフリートは一度視線をウルリーケに向けた後、低い声で呟く。


「……お前も……『知って』いるのだろう?」

「………」


 はしばみ色の厳しい眼差しの向く先で、スヴェンは沈黙していた。

 ヘルムフリートの問いは何を意味しているのかは、少し理解できる。

 多分この辺境にもウルリーケを取り巻く『事情』は知れているのだろう、と思えば苦いものが胸に満ちる。

 対するスヴェンの沈黙は否定なのか、肯定なのか。

 恐る恐る伺うように視線を向けるものの、スヴェンの表情からはウルリーケには察する事すら出来ない。

 その後、誰も口を開く事はなく、痛い程に沈黙がその場を支配する。

 あまりに重い静寂がどれ程の時間、場に満ちていたことだろう。


「…………俺に、必要以上に近寄らないというなら、置いてやる」


 やがて、深い溜息が聞こえたかと思えば、スヴェンが苦々しい表情で口を開いた。

 それが、ここに置いてもらえるという事だと認識できるまで少しの時間を要した。

 きょとんとした表情を浮かべてしまったウルリーケの横で、ヘルムフリートが表情に明るい光を取り戻す。


「フィーネ、フェリクス。適当な部屋を見繕ってやれ。……なるべく、俺の視界に入らない場所に」


 控えるフィーネとフェリクスに苛立ったようにそう言い残すと、スヴェンは踵を返して階上へと戻って行く。

 呆然としたままそれを見送りかけたウルリーケだったが、我に返ると去り行く背に向かい声をあげた。


「あの!」


 少しばかり裏返りかけた声に、自分で狼狽えてしまうし。声も大きくて、はしたないかもしれない。

 振り返る事はないが、スヴェンの足が止まる。

 心の中の戸惑いを何とか押し隠そうとしながら、ウルリーケは深く頭を下げた。


「……ありがとう、ございます……」


 胸の裡には様々な思いや考えが過ぎっていて、言いたい事をうまく纏める事が出来ていない。

 しかし、これだけはと思いウルリーケは絞り出すようにして感謝を口にする。

 頭を下げていたから、スヴェンがどのような表情をしていたのかは分からない。

 スヴェンは何も言う事なく、そのままその場から姿を消した。


「……良かったな、ウルリーケ」

「ヘルムフリート様、本当にありがとうございます」


 ようやく安堵したように表情を緩めながら言うヘルムフリートにも、ウルリーケは感謝の礼をとる。

 それを制しながら笑う優しい皇子が居なければ、今頃どうなっていただろう。

 事の次第に戸惑い、まだ心は平穏を取り戻したとは言えないが、ウルリーケは心からの感謝を伝えた。


 しかし、ヘルムフリートがすぐに出立する旨を告げると、ウルリーケの表情は途端に曇る。

 フィーネとフェリクスも驚いた様子で、せめて少しお休みになってからでも……と引き留める。

 苦笑したヘルムフリートは、麓の村で待たせている部下たちが気になるし、そもそも送り届けたらすぐに帰還するように命じられているのだという。

 休む事なくあの道のりを再び、と思えば心配しかない。

 けれども、次の任務が既に命じられているのだと言われれば、それ以上は何も言えなくなってしまう。

 おそらく、ウルリーケがそれを知れば心を痛めるだろうと黙ってくれていたのだろう。

 ウルリーケと使用人達の見送りを受けながら、ヘルムフリートは慌ただしく、それでもウルリーケを安心させようと笑顔で言葉をひとつふたつかけて、立ち去っていった。


 道中共にいてくれた優しい人の姿が見えなくなると、途端に寂しさと不安とが襲い掛かって来る。

 夫となった人には歓迎されることなく、見知らぬ寂しい辺境で始まるこれからの日々。

 不安しかないとしても、それでもウルリーケはここで生きていくしかないのだ。

 ここに居られるようになった事をせめて感謝しなければ、と思っていたウルリーケに、フィーネが声をかける。


「ウルリーケ様、こちらへ。お部屋へご案内致します」


 フィーネに促されるままに、瀟洒な造りの城内を案内されながら進む。

やがて通されたのは、フィーネがウルリーケの為に用意したという部屋である。

 スヴェンの居室のある東翼とは離れた西翼に整えられた部屋は、上品な設えの美しい部屋だった。それでいて、壁紙の色や調度の色調に加えて、飾られた小物類が心を寛がせてくれる細やかな気遣いに満ちている。

 つい先ほど追いかえせと拒絶されかけた相手に対して、即興で用意できる部屋ではない。

 主が望んでいない相手に対して、何故このような準備が出来たのだろうと不思議に思っているとフィーネが笑った。

 おそらくスヴェン様は要らないと言っても、この皇帝陛下の命令で居る以上断れない。何だかんだと言っても、最終的にはこの城に留めると思っていた。

 その上で、自分の居室とは離れた場所にしろと言う事も予想できたので、この部屋を準備しておいたのだという。

 ウルリーケは思わず目を見張ってしまった。

 仕えて長いのだろうと推測できる 何とも行き届いた忠誠である。

 一通り部屋についての説明をすると、少ない荷物の荷解きをしてくれた後、用事ありましたらと言ってフィーネは部屋を辞した。


 部屋に残されたウルリーケは、一人途方にくれたように佇んでいた。

 何をしてようか分からずに立つウルリーケは、視界の隅にある鏡台の中に自分の姿を見出す。

 鏡の中の自分は、寄る辺ない子供のような顔をしていた。

 大きく息を吐き出して頭を左右にふると、窓へと歩み寄る。

 厚い硝子の向こう側。窓の外には、灰色の枯れ谷の寂しい光景が広がっている。

 きっと、緑や花があったなら、夢のように美しい光景になるだろうにとぼんやりと思うウルリーケ。

 豊かな色彩を拒絶するような厳しい光景が、自分を拒絶した怜悧で美しい男性と被る。

 スヴェンに纏わる話は、ウルリーケとて知っている。

 先帝の皇子であり、皇后が産んだ正当な皇子であるのに何故皇太子とされなかったのか。皇位継承権を与えられず、この辺境の城に暮らすようになったのか。

 あの人もまた、他者の勝手な思惑に翻弄され、傷つけられ、そしてここに居る。

 何故か、ウルリーケはスヴェンが一瞬だけ見せた哀しみの色が忘れられない。

 流れるようにして辿り着いたこの場所で、これから何が待っているのか。

 自分は、自分達はどうなっていくのか。

 分からない事だらけであるけれど、自分はここで生きていくしかないのだ、とウルリーケは自分に言い聞かせるように、改めて心に呟いた……。

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