私の肉を食べないで

佐久間 譲司

第一章

 「ちょっとお時間よろしいですか?」


 品川駅前の南口広場に差し掛かったところで、近内朱里きんない あかりは背後から声をかけられた。


 朱里は立ち止まり、振り返る。そこには、スーツ姿の男が立っていた。


 花金の品川駅前は、ラッシュアワーに突入し、大勢の仕事帰りの人間で溢れている。このスーツ姿の男も、自分や周りの人間と同じく、仕事終わりなのだとわかった。


 声をかけてきた目的は、おおよそ察しが付く。しかし、朱里はそれを一切顔に出さず、不思議そうに表情を形作って、返答を行った。


 「はい。なんでしょう?」


 少しだけ顔を傾けるのを忘れない。この角度こそ、自分が一番可愛く見えるということを知っているからだ。


 男は、一瞬だけこちらに見惚れた様子を見せ、それから用件を口にする。


 「これから食事でもいかかですか?」


 やはりナンパだった。男はナンパに慣れているらしく、丁寧な物腰で誘いを行う。

 朱里は考える仕草をしつつ、男を品定めする。


 男は長身で、スポーツマンのようにがっしりとした体格をしていた。顔も俳優のように整った二枚目で、女性からモテる男だということが雰囲気だけでわかる。男の全身からは、その自信が漲っているのが伝わってきた。


 うん。合格かな。


 朱里は、思わず口の中で溢れた涎を飲み込んだ。時間的に空っぽの腹が、つい鳴ってしまう。男に聞かれてしまったのではと、少し恥ずかしくなった。


 「はい。私でよければ」


 期待に満ちた表情をしている男へ、あくまで朱里は生娘のように、お淑やかに答えた。こちらも『がっついて』いる事実を悟られるのは、避けなければならない。


 朱里の色よい返事を聞いた男は、ぱっと顔を明るくする。それと同時に、好色そうな顔も覗かせた。食事をした後の流れを、一瞬だけ想像したらしい。残念ながら、それは決して叶わない夢になるだろうが。


 「良い店があるんです」


 男は、こちらを手馴れた様子でエスコートし始める。これまで、こうやって何人もの女を引っ掛けてきたのだろう。


 朱里は大人しく男に従いながら、心の中で思う。男から声をかけられたのが、駅構内じゃなくて良かったと。


 なぜなら駅構内には、いくつもの防犯カメラが設置されているからだ。




 朱里は男に導かれるまま、品川駅近くの居酒屋に入った。ここに至るまでのルートで、防犯カメラがないことはちゃんと確認済みだ。


 朱里は、居酒屋の奥の席に、男と向かい合わせに座る。フライデーナイトの居酒屋は、混み合っており、パーティー会場のように賑やかだった。これなら、自分達の会話を人に聞かれる心配もない。


 男はやってきた店員にいくつか食べ物の注文を行い、その後で、こちらに飲み物を尋ねてくる。朱里はカシスオレンジを頼んだ。この後、『作業』が控えているため、酔いは抑えなければならず、度数低めのものをチョイスする必要があった。


 一方、男はビールだ。道すがらの会話で、大酒飲みと豪語していたため、これから酒を大量に飲むのだろうと思われた。朱里としては、男にもあまりアルコールを摂取して欲しくなかったのだが、仕方がない。それを阻止しても不自然だし、黙っておくしかなかった。ちゃんと『処置』すれば問題ないだろう。


 やがて料理と酒が運ばれてきて、小さな宴会は始まった。


 男はビールを水のように飲みながら、色々と語った。自分の趣味や武勇伝、仕事の話など。


 男は、品川にある上場企業の本社に勤めているらしく、さりげなく高収入もアピールしてきた。ルックスとステータスから、これでなびく女もいることだろうと思う。惜しむらくは、今夜標的にした目の前の女が、ちょっと特殊であることだ。その女の、人に対する着眼点を知れば、おそらく、男は怪物と対峙した時のように目を剥くだろう。


 朱里はカシスオレンジをちびちびと飲みながら、男の話を大人しく聞いていた。時々、適切に相槌を打つのを心掛ける。この手のタイプは、自分の話に女が関心を寄せているとわかったら、さらに饒舌になる。それこそ自分に酔ったように。そうなれば、こちらに対する警戒心はさらに緩むのだ。


 やがて、ひとしきり自分のことを話し終えた男は、こちらへの質問を始めた。


 朱里は、極力自分のことを明かさず、当たり障りのない内容を話す。特に、男が連絡先を聞き出そうとしてきたら、矛先を変えた。ある程度、自分の情報を男に知られるのは問題ないが、連絡先を把握される――正確に言えば、男のスマートフォンに自分の電話番号やメールアドレスなどの個人情報が登録されてしまう――のは、絶対に避けなければならない展開だった。


 お見合いのような堅実な質問のやりとりが終わった後、あまり手応えがないと悟った男は、雑談に移った。そこでふと、何かを発見したような様子で訊いてくる。


 「全然食べてないね」


 テーブルの上には、男が注文した様々な料理が並んでいた。それを朱里は一口も口にしていなかった。食べているのは男だけである。


 そこに男は気が付いたのだ。


 「嫌いなものばかりだった?」


 男は気遣うように尋ねる。朱里は首を横に振った。


 「ダイエット中だから」


 適当に嘘をつく。実際は、テーブルに乗っているような料理を前にしただけで、吐き気を催してしまうのだ。食べるなんてもっての他である。だから、一切手をつける気はなかった。


 ただ、飲み物に関しては、そのような症状は少なく、スムージーなどの半固形物以外のものだったら、大抵、口にできた。


 「そうなんだ。近内さんのスタイルが良いのは、そんな努力をしているからなんだね」


 男は愚直にも、朱里の嘘をあっさりと信じた。この男にとって、目的はこちらの体だけなので、正味な話、目の前の女の食の好みなど、本来どうでもいいのだろう。


 それからしばらくは、男と会話に花を咲かせる。


 それなりに打ち解けたところで、男は次の店に向かう提案を行った。行きつけの雰囲気の良いバーがあるらしい。このタイミングでそんな場所に誘うということは、多少の手応えは感じ取ったようだ。


 朱里は少し考える。行きつけのバーということは、この男の顔見知りがいる可能性が高い。そんなところにのこのこと顔を出しては、こちらの容貌を記憶される恐れがあった。元々、自分のルックスは、他者――特に男――に記憶されやすい傾向があるため、なおさらリスクは増してしまうだろう。わざわざ出向くメリットはないし、もうすでにこの男は、こちらに対し、一切の警戒は抱かないと確信していた。この辺りで『釣って』もいいかもしれない。


 朱里は、額に手を当て、ぼんやりと言う。


 「ごめんなさい。ちょっと酔っちゃったみたい。もう帰るわ」


 もちろん演技で、この程度の酒では、ほろ酔いにすら至らない。しかし、男は真に受けたようだ。


 ガールズハントが失敗したと思った男は、苦々しい表情を顔に刻む。非常に残念そうだ。少しは行けると思っていたせいか、肩透かしを食らったような気分に陥ったらしい。


 待って。そこからの話が大事なのよ。


 男は、それでも気を取り直したのか、やがてすぐに表情を変え、心配げに訊いてくる。


 「大丈夫?」


 「ええ。心配してくれてありがとう」


 まだ未練がある様子の男へ、朱里はそう言った。そして、媚びた声で続ける。


 「ねえ、まだあなたと話したいし、私の部屋に来る?」


 狙った女からのまさかの誘いである。男は、一瞬だけ、喜びと好色に満ち溢れた顔になった。だが、すぐに真面目な顔付きに戻る。


 「……いいの? 確かに近内さんが心配だから、送っていく義務は俺にはあるけど」


 男はあくまで紳士的に振舞おうとする。しかし、そう言いながら、男は唾を飲み込んだ。期待以上の展開に、嬉しさがこみ上げているようだ。


 この時点で、男の喉深くに、釣り針が食い込んだことを朱里は確信した。


 「ええ。お願いするわ。タクシーで帰りましょう」


 それから、朱里はタクシー会社の指定を行う。自分の住むマンションに向かうには都合が良いタクシー会社で、しかも安いためだと男には説明した。その上で、男に店内の電話から、直接電話をさせる。客観的に見れば、朱里の行為は、結構不自然なのだが、多少の酔いと、これから女にありつけるハイなテンションで、男はまるで疑問に思わなかったようだ。


 男が店員に食事代を支払っている間に、朱里は時刻を確認する。二十一時過ぎ。時間的に充分余裕はある。


 二人は、表に出て、タクシーを待った。男はこちらの体調に気を遣いつつも、上機嫌だった。完全に女を手中に収めたと思っているらしい。


 やがて、タクシーがやってきて、二人はそれに乗り込む。


 「下目黒まで」


 朱里は地名と、自身のマンション名を告げる。それを聞いた男は、いいところに住んでいるんだな、と感心した声を上げた。


 「場所は良くても、マンションは古くて、小さいのよ」


 本来、自分の給料なら、もっと良いマンションに移り住むことが可能なのだが、理由があって、それは考えていなかった。そもそも、、必死になって条件に合う物件を探し、今のマンションへと辿り着いたのだ。


 発進したタクシーは、品川駅と並行する道路を進み、八ッ山方面に向かう。


 タクシーの窓の外では、ネオンや街灯に照らされながら、大勢の人間が歩道を往来する姿が見えた。


 その人間達の目的は様々だろうと思う。単に仕事帰りの人間もいれば、これから飲みに行く人間もいるはずだ。中には、恋人とデート、あるいは、そのままラブホテルに直行する者達もいるかもしれない。


 しかし、自分のように特殊な目的を抱えている人間は、少なくともこの景色の中には存在し得ないだろうと確信できていた。


 タクシーは、八ッ山アンダーパスの高架をくぐり、ソニー通りに入る。


 夜の北品川は、車が多く、常に渋滞に見舞われていた。タクシーも遅々として進まない。それに反比例するように、タクシーのメーターは着実に上がっていっている。しかし、料金を払うはずの男は、一切気にする素振りを見せず、楽しそうに会話を続けていた。高給取りというのは事実らしく、多少の出費は痛くないようだ。


 やがて、タクシーは五反田駅を抜け、花房山通りへ。ここからは、ほぼ山手線と並行して走る形になる。


 断続的に後ろへ流れ行く夜の街並みを眺めつつ、朱里は男との会話に興じる振りをしていた。


 飲み屋の段階で気付いていたが、男はあまり頭は良くなく、会話自体はつまらなかった。これでは、同じように、頭と股が緩い女しか心を惹かれないことだろうと思う。内心、うんざりしていたが、これも目的のためだ。割り切るしかない。必要な『接待』だ。


 キャバクラ嬢のように、男との会話を盛り上げていると、タクシーは下目黒に到着した。そして、朱里の住むマンションのすぐ側まで近付く。


 夜では目立ちにくい、くすんだ灰色をした三階建てのマンションがそこにあった。


 朱里は、運転手である初老の男性に停車する場所を指示する。それと同時に、朱里は運転手の様子を窺った。特にこちらに対し、妙な印象を抱いている雰囲気はない。ただ単純に、美男美女のカップルか、あるいは、会社の同僚のようにしか映っていないようだ。この調子なら、他の平々凡々な乗客と同じく、数時間後には記憶から忘れ去られるはずである。


 それからダッシュボードや、ルームミラー付近に目を走らせた。そこには、ドライブレコーダーと思しき装置や、車内カメラのような物体は設置されていなかった。


 当然である。このタクシー会社は、今時珍しく、経費削減のためドライブレコーダーの類を一切設置しない方針の会社なのだ。これは同じ会社の他のドライバーから聞いた話であるため、ほぼ間違いはないはずだ。


 そのお陰で、今夜、自分と男がこのタクシーに乗り、朱里の住むマンション付近で降りたという証明は、非常に困難になる。


 タクシーは朱里の指示通り、マンションから少しだけ離れた位置で停車した。その後、扉が自動で開く。男が運転手に料金を支払っている内に、朱里は外へと出た。


 素早く、マンションの入り口に目を向ける。誰もいない。おまけに、通りにも人がほとんど歩いていなかった。下目黒とはいえ、奥まった場所にマンションはあるため、元々人気自体少ないのだ。


 朱里は心の中でほくそ笑む。ラッキーだ。男がちょうど良い場所でナンパしてきたのもラッキーならば、ここまで都合よく事が進んでいるのもラッキーだ。やはり『目的』遂行の最中は、ツイていることが多い。いつもそうだ。天が私に味方してくれていることの証ではなかろうか。


 「お待たせ」


 支払いを終えた男が、疑問一つ持たない顔で降りてくる。少しマンションから離れた場所にタクシーを停めたことにも、大して疑義の念を抱いていないようだ。よほど頭の中がピンク色に染まっているらしい。


 タクシーはエンジン音を立てて、立ち去っていく。それを見送った後、朱里は男をマンションの入り口へと案内した。男は、浮き足立ったような様子で従う。内心、恋人とラブホテルにでも入るような気分に浸っているのだろう。股間の一物も、すでに、鎌首をもたげている可能性はある。本当に、男とは嫌らしい生き物だ。


 ゴミステーションのある通路を通り、入り口へ辿り着く。それから扉を開けて、内部へと足を踏み入れた。


 内部は、古い診療所の待合室のようなこんじまりとしたエントランスだ。このマンションはオートロックではなく、防犯カメラも常駐の警備員もいない。非常にせせこましい造りである。


 質素なマンションの風景に、さすがに男も驚いたようだ。目を丸くする。


 「結構古いところに住んでいるんだね」


 「ええ。でもとっても良いマンションよ」


 これ以上ないほどに。


 「近内さんが気に入っているならいいけどさ、若くて綺麗な女性なんだから、せめてオートロックのマンションくらいには住んだ方がいいと思うよ」


 それはこのマンションを借りる時、管理人からも言及されたことだ。「あんたほどの別嬪さんがこんな無用心なマンションに住んだら、犯罪に巻き込まれるリスクが増える」と。だが、そんなリスク、このマンションの魅力に比べたら、あってないようなものだ。取るに足らない。


 「うーん、でもこのマンションは他にない魅力があるもの。こう見えて、部屋の中は広いのよ。特に浴室が。大人二人が一緒に入っても、充分余裕があるくらいに」


 朱里は、意味深な目線を男に向ける。男は朱里の意図通りの受け取り方をし、途端、狒々のようなスケベ顔になった。もうそれを隠そうという気概はないようだ。


 「そうか。なら早く中を拝見しなくちゃな」


 男は胸を張って、朱里の肩を堂々と抱いた。それから一基しかないエレベーターまで、優しくエスコートする。朱里は大人しく身を任せた。


 そう。早く行かないと。さっきからしきりに腹が鳴っている。もうお腹がペコペコだ。


 朱里は、自分の肩を抱いている男の逞しい腕の感触を覚え、涎が湧いてくることを抑えられないでいた。




 朱里と男は、エレベータを二階で降り、男と一緒に自分の部屋へと向かう。幸い、マンションの住民とは、誰ともすれ違うことはなかった。そもそも、このマンションは、入居者自体が少なく、他者と鉢合わせする確率が低い物件だ。自分の部屋の両隣も、今は誰も住んでいない。


 朱里は、部屋の鍵穴にディンプルキーを差し込み、扉を開け、部屋に入った。男も後ろから続く。


 扉を閉めた直後、男は、玄関口に立ったまま、朱里の体を求め始めた。背中から抱きすくめ、服を脱がそうとする。


 朱里の態度と、部屋へ入れた事実から、性交を許可したものだと思い込んだらしい。


 「まだ待って。早いわ。飲み直してから、ね」


 朱里はやんわりと、男を押し留めた。男はお預けを喰らった犬のような顔になったが、ここまでくると、いつでも『食べる』ことができると考えているのか、大人しく引いてくれた。


 朱里は、男を玄関から中へと通す。


 2DKの部屋は、先ほど男に説明した通り、都心のマンションにしてはとても広い。玄関から入った部屋がダイニングキッチン、その奥に部屋が二つ並んである。一つは洋室で、もう片方が和室だ。朱里が寝食して過ごしているのは、もっぱら洋室の方で、和室はほとんど物置代わりに使っている。


 「大きな冷蔵庫だね」


 ダイニングキッチンの壁際に置いてある銀色の巨大な箱を見て、男は驚いた声を出した。


 「ええ。料理が趣味だから」


 正確には、業務用の『冷凍庫』である。この冷凍庫を置くために、キッチンの広さも必要だった。


 「へー。いいねー。女の子らしくて。隣の白いのも冷蔵庫?」


 男は、冷凍庫の隣にある一般的な冷蔵庫を指差した。こちらは、『普通』に使っている冷蔵庫である。


 「ええ。そうね」


 「二つも冷蔵庫があるなんて、本当に料理好きなんだな」


 男はひとしきり頷いた後、冷蔵庫から目を逸らした。もうすでに興味を失ったらしく、奥の部屋を覗き込んでいる。別のことで頭がいっぱいらしい。


 朱里は男を洋室へと通した。


 男を中央にあるテーブルの前に座らせ、テレビを点けてやる。静寂に包まれていた部屋に、バラエティー番組の下品な音声が響き渡った。ちょっと前に、両親が買ってくれた55型の少し大きめの液晶テレビだ。この部屋なら、否が応でも目が行ってしまうだろう。


 「お酒を持ってくるわ。ビール?」


 「うん。ビールで」


 男を洋室に残し、朱里はキッチンへ向かう。そして、冷蔵庫を開けた。中は、コンビニの飲料コーナーのように、ほとんどが飲み物で占められていた。少しだけ、野菜などのちょっとした食材や、調味料などが入っている。


 基本、その他の『食材』は、ほぼ全て、冷凍庫の方に保管してあった。悲しいことに、現在その『食材』は、あまり入っていなかったが。


 朱里は瓶ビールと、自分用のお茶をお盆に載せ、キッチンの調理スペースに置いた。


 チラリと、洋室にいる男の様子を窺う。男はテレビを観ており、こちらに注意を払っていなかった。


 朱里は瓶ビールの栓を開ける。そして、キャビネットから、名刺ほどのサイズをした平べったい小袋を取り出した。中にはピンクと青色を混ぜた粉が入っている。駄菓子の粉ジュースのようにも見えた。


 これは、トリアゾラムとゾルビデムを砕いて、粉末状にしたものだ。両者とも、超短時間型のベンゾジアゼピン系睡眠導入剤で、アルコールと併用すれば、失神したかのように、即座に眠りに陥ってしまう。体質によっては、それだけで命を落とすこともあり得るものだ。それほど、睡眠薬とアルコールの併用は禁忌なのである。


 この粉薬は、常に使えるようにと、予め用意していたものだった。


 朱里は、瓶ビールの口から、小袋の粉末を中に流し込んだ。その後で、少しだけ振って、目立たないように混ぜ合わせる。


 粉が完全にビールに溶け出したのを確認してから、朱里は再び瓶をお盆に載せ、洋室へ持っていった。


 「お待たせ」


 朱里はテーブルの上に、お盆を置いた。それから、コップにビールを注ぎ、男に渡す。


 「ありがとう。朱里ちゃんはもうお酒飲まないんだ」


 男は馴れ馴れしく、朱里を下の名前で呼んだ。もうすでに恋人気取りだ。


 朱里は、にっこりと笑って答えた。


 「ええ。体調は良くなったけど、もうお酒は充分かな」


 「そう。まあ体調が戻って良かったよ」


 男は嬉しそうに言う。相手の体調次第では、セックスに持ち込めない懸念もあるので、素直に喜んでいるらしかった。


 「それじゃあ、乾杯しようか」


 朱里は頷き、お茶の入ったコップを手に取る。


 「乾杯!」


 男の明るい声が、部屋にこだました。そして、男は勢いよく、睡眠薬入りのビールをあおって飲んだ。


 朱里はお茶を口にしながら、その姿を見て、強い達成感を覚えた。それから男の『肉』について考える。一体、どんな味がするのだろうか。楽しみで堪らない。




 三十分ほどが経った。朱里の目の前には、ソファに横たわっている男の姿があった。涎を垂らし、死んだように深い眠りについている。二種類のベンゾジアゼピン系睡眠導入剤は、アルコールと共に摂取したことで、覿面に作用したようだ。


 すでにこの状態に陥っては、例え拷問されようとも、容易に目を覚ますことはないだろう。


 朱里はそれでも念のために、男の体を揺さぶったり、強く頬を叩いてみた。だが、男は植物人間のように、何の反応も見せず、眠りこけたままであった。


 朱里は小さく笑う。充分だ。もう男の生殺与奪の件はこちらの手の上だ。後は好きにできる。


 朱里はまず、男のスマートフォンをポケットから取り出して、電源を落とした。これでスマートフォンを介しての探知は不可能になる。そして、『作業』が全て終わったら、バラバラに解体して捨てればいい。


 朱里は男のスマートフォンをテーブルの上に放り投げると、隣の和室に向かった。隅に置いてあるダンボールの中から、綿ロープを取り出す。これは三十ミリの太めのロープで、巨大な猪すら、吊り下げることが可能な強いものだ。


 朱里は、次にソファの前に戻り、男の服をその場で全て脱がした。スポーツ選手のような、筋骨隆々の肉体が露わになる。朱里は思わず、歓声を上げた。これは絶品に違いない。


 朱里は、男の剥き出しになった足首に、ロープを巻き付けて結んだ。それから、キッチン横にある浴室まで引きずっていく。


 息は上がったが、浴室の中に男を引き入れることに成功した。男に話した通り、浴室は広いので、大人二人入っても、全く窮屈さは感じない。余裕を持って、作業を行うことができる。


 朱里はロープを持ったまま、男を見下ろした。ここまでされても目を覚まさないのは、やはり見事と言う他ない。まさに仮死状態も同然だ。


 朱里は浴室の壁に目を向けた。そこには、一本の太い鉄パイプが左右の壁にがっちりと通してあった。


 これはもちろん、後から取り付けたものだ。タイルを外し、その裏にあるコンクリートへ直接ボルトで打ち込んである。そのため、相当な重量物の負荷だろうと、問題なく耐えることができる頑健さを誇っていた。


 朱里は男の両足から伸びているロープを、鉄パイプへ通し、自身の体重を乗せ、滑車の要領で男を逆さに吊り下げていく。


 この作業がもっとも重労働なのだが、大切なのは要領である。この男の体重は、およそ七十キロ程度であるものの、要領さえ覚えれば、女性の腕力でも吊り下げることが可能だ。少なくとも、猪よりは容易だろう。


 実家で農業を営んでいる父親が、近所で仕留めた猪を捌くのを、幾度となく手伝ったことがある。それに比べれば、人の形をしている分、扱いやすかった。


 朱里は男を吊った後、男の体がちょうど浴槽の真上にくるように位置を調整した。適切な位置まで動かした後は、ロープの先端を浴槽の水栓部分へと縛り付ける。そして、男の腕を後ろ手に拘束した。


 前準備が終わると、朱里はホッと息を吐く。額に汗が少し滲んでいた。慣れているとは言え、さすがに大仕事だ。それに本番はこれからである。


 朱里は、逆さに吊り下げられている全裸の男を眺めた。剥き出しのペニスが、弱りきった芋虫のように、情けなく垂れ下がっている。男の逞しい肉体とは反比例して、謙虚なペニスの様子に、むしろ可愛いとすら思ってしまう。


 男は、相も変わらず眠りこけているが、これまでの作業の最中、何度か身じろぎを行うことがあった。そのため、屠殺の瞬間には目を覚ますかもしれない。後で口を塞いでおいた方がいいだろう。


 朱里は一旦、浴室から脱衣所に出る。そこで服を脱ぎ、自身も全裸になった。そして和室に行き、解体用具が入ったボストンバッグを持ち出す。


 再び脱衣所に戻り、ボストンバッグを開けた。


 中には、刃物や電動工具などが所狭しと収められている。朱里はそこから必要な道具を取り出し、浴室内へと持ち込んだ。


 男の口をガムテープで塞いだ後、電動ノコギリの電源コードを、脱衣所にあるコンセントへ差し込む。そして、電源をオンにした。


 浴室内に、ミキサーのような耳障りな音が響き渡った。もしも、両隣の部屋に住人がいたら、この音は確実に聞こえていることだろう。ずっと無人であるのは、本当に運がいい。


 朱里は、回転する電動ノコギリの刃を男の首元に当てた。パッと、血が霧吹きで吹いたように、飛び散る。朱里はさらに力を込めて、男の首にノコギリを押し当てた。


 ノコギリの刃は、見事男の首に食い込んだ。高い音から、くぐもったような低い音に変わり、ノコギリは血と肉片を撒き散らしながら、男の首を切断し始めた。


 朱里は、男の首へノコギリを当て続ける。この電動ノコギリは、猪の首を落とす時にも使われる道具だ。人間の首など、比較にならないくらい簡単に切断されるだろう。


 夥しいほどの血が、男の首から流れ出ている。逆さ吊りで、頭に鬱血しているため、なおさら出血はひどかった。ペットボトルを逆さにした時のように、次々と浴槽内へ血が溜まっていく。


 その時だった。男の目が、カッと見開いた。充血した眼球が、朱里を捉える。


 男は何事か叫ぶが、口が塞がれているので、声にならない。体を激しく動かしても、拘束されているので、風に吹かれる蓑虫のように、ただ体を揺らしただけに終わった。


 昏睡同然の状態から目覚めたばかりとは言え、強い苦痛を感じているようだ。二人で飲んでいた時は常に自信に満ち溢れていた目が、パニックに陥った草食動物のように、激しく動く。顔はたちまち土気色に染まり、口の中から絶叫が漏れ聞こえた。


 朱里はそれでも手を緩めることなく、男の首を切断し続けた。すると、上から水滴のようなものが体にかかった。少しぬるい。何かと思って顔を上げると、次から次に体に生暖かい液体が降り注いだ。


 男は失禁していた。垂れ下がったペニスから、尿が迸っているのだ。あまりの痛みと恐怖のせいで。


 朱里は薄く笑う。まあ、たまにあることだ。猪の解体の時も、おしっこが漏れることがあった。解体されている獲物の、当然の反応だろう。


 朱里は気にせず、尿を驟雨のように浴びながら、作業を続けた。やがて、男の反応がぴたりと止んだ。男は白目を剥いていた。出血による失神に陥ったのだとわかる。首は三分の一ほど切断されていた。結構、持った方だと思う。


 あと少しだ。


 瀕死の虫のように痙攣を続ける男の首に、さらに力を込めて、電動ノコギリを押し当てた。




 切断された男の頭部を、浴槽の真ん中に置く。首から上は必要ないので、血が抜けるのを待って、他の要らない部位と共に廃棄だ。


 朱里は、首なしになった胴体に目を移す。首の切断面からは、大量の血が浴槽内へと流れ落ちていた。


 今は血抜きの段階である。男はアルコールを大量に摂取しているので、入念に血を抜いてから、解体した方がいい。


 血抜きの間に、朱里は解体の準備を行う。骨スキ包丁や糸ノコギリ、皮剥ぎナイフに料理バサミ。手になじんだ道具達を揃えた。


 充分に時間が経過し、血抜きが終わったのを確認した朱里は、シャワーのお湯を熱めに出して、男の体にかけながら解体に移った。


 まずは、刀舟の骨スキ包丁を使い、慎重に男の下腹部に刃を入れる。胃や腸を傷付け内容物を漏れ出させてしまうと、肉が駄目になる。おまけに、ひどい臭気も発生する。それは避けなければならない。


 朱里は、細心の注意を払いながら、男の腹を臍部まで切り裂いた。そこからある程度進んだところで、正中線を抜くようにして、喉元まで一気に開く。


 完全に男の胴体が割れ、内臓が露出された。黄土色と、桜海老のような薄ピンクの色のコントラストが、非常に美しいと思う。


 朱里は、目の前に見えている男の直腸を、左手で内側から掴んだ。それから右手の骨スキ包丁で、肛門周りを切り取る。その後で、でん部から直腸ごと取り外した。


 左手は直腸を掴んだまま、次は喉元にある食道を切断する。そして、一気に内臓を掻き出した。すると、面白いほどに、するりと、大腸や小腸、胃などが、まとめて腹腔から滑り落ち、水風船のような音を立てて、浴槽へと落下した。


 生き物の消化器官は、一本の管が繋がっているだけの状態である。そのため、頭と尾っぽを切断すれば、今のように簡単に取り出せるのだ。それは、も人間も変わらない。


 それから、心臓や肺など、残った臓器も取り除いていく。それらが終わると、ぽっかりと空いた男の腹腔が残された。


 その空洞を見る度に思う。つくづく、父親の手伝いをしていて良かったと。


 当時、母が猪の解体を残忍だと拒絶していたため、朱里が嫌々手伝わされたが、その経験が現在、このように、自分の命を繋げるために役に立っているのだ。父に感謝しなければならない。もっとも、この事実を父や母が知ったら、卒倒すること間違いなしと思うが。


 それから、朱里は黙々と作業を続けた。糸ノコギリを使い、四肢を切断し、皮剥ぎナイフで皮膚を剥ぐ。そして、複数ある骨スキ包丁で、肉を丁寧に切り分けていく。


 解体が始まって、一時間ほどで、男だった生き物は、見事、肉屋に売られているような肉の塊になった。他に、肝臓や腎臓、ソーセージ作りのための小腸も取っておく。


 それ以外の、残った骨や内臓は、全て浴槽内に置いてあった。後は骨を砕いて、頭部と共に密封容器に入れて廃棄すれば、証拠隠滅完了となる。


 一通り作業が終わり、朱里はホッと息を吐いた。結構時間が経っている。空腹と疲労で、眩暈がした。そろそろ限界だ。最終的な片付けは後回しにして、食事にしよう。


 朱里は、精肉した肉や内臓などを、今日食べる分だけを残し、タッパーに入れ、冷凍庫に保管した。それが終わると、シャワーを浴びる。


 全身に付着した男の血を洗い流しながら、朱里は自分の運の良さを改めて実感した。ちょうど『食料』が尽き始めていた頃だった。ものの、実行にはまだ時間が必要だった。それが、向こうからエサが飛び込んできたのだ。まさに渡りに船である。


 全身を流れる暖かいお湯が、疲れた体に染み渡る。自然と鼻歌が漏れた。


 大量に手に入れた『食料』のお陰で、気分が晴れやかだった。狩人の性なのだろうか、古代における狩りで、大型の獲物を仕留めた時は、こんな気分になるのかもしれないと思わせた。


 朱里は鼻歌を歌いながら、手に入れた男の肉について考える。腹抜き六十キロはあった。最終的に精肉された際の過食可能な部位は、全て合わせると、三十キロは越えているはずである。長い間、食い繋げることができる量だ。


 朱里は、笑みを浮かべた。これで、まだ餓死しなくて済む。やはり私には、幸運の女神がついている。




 テーブルの上に料理を並べる。メニューは僧帽筋のソテーと、大胸筋のステーキ、それからスープに赤ワイン。


 朱里は、テーブルに着き、グラスに赤ワインを注いだ。そしてフォークを使い、ソテーにした男の僧帽筋を口に入れた。


 思わず唸る。レモンビュレとはちみつ、バターを混ぜて作った特製ソースは、男の僧帽筋をマイルドな味に仕上げてくれていた。我ながら美味しいと思う。


 続いて、大胸筋のステーキを食べる。こちらは市販のガーリックソースをかけてあった。濃厚な味に、男の逞しかった大胸筋の柔らかい歯応えが、舌鼓を誘う。


 添えてある野菜を食べるのも忘れない。大切なビタミンとミネラルなのだ。通常は、野菜すら口に入れるだけで吐いてしまうのだが、人肉と一緒なら食べることができた。人間は肉だけでは生きていけないので、人肉を食べる際には、極力野菜を添えるように心掛けていた。ちなみにこの野菜は、農家である実家から時々送られてくるものだ。


 朱里は赤ワインを飲む。なめらかでフルーティーな味が口一杯に広がる。これはスペインのアラゴン州で作られた辛口ワインだ。人肉にもっとも合う赤ワインであり、リーズナブルで一般的な人気も高いため、よく購入していた。


 朱里はゆっくりと男の肉を食べていく。男の肉は、どの部位も美味しかった。男は酒豪だったらしいが、体格が示す通り、程よくスポーツもやっているようで、牛肉のように身がしっかりとしていた。朱里の目利き通り、男は上等な肉の持ち主だったというわけだ。


 男の肉を赤ワインと共に堪能しながら、朱里は前から目を付けていた『標的』のことを考える。


 こうして肉が手に入ったため、すぐに仕留める必要はなくなった。だが、それでも、肉は無限に持つわけではない。冷凍庫はまだ余裕があるので、早めに肉は調達しておいた方がいいだろうと思う。


 朱里は、フォークを置き、コンソメスープが入ったカップを手に取る。スープの中にはうずらの卵に似た具が浮かんでいた。男の睾丸である。


 この土日は、男の残骸の処分をする必要があるため動けないが、次の休み明け、仕事終わりに『標的』の様子を確かめてみよう。


 朱里は、男の睾丸を口に含み、咀嚼しながらそう決断した。

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