第8話 水源を失う農村
村の水不足を解決してくれる川は、この村の南側に位置する。
およそ、村の中心部から一キロメートル離れた場所だ。
洗濯、料理、風呂……水を伴うあらゆる生活的な習慣は、この川を頼りにしている。村を覆う結界は川も護っていたので、今までは魔物と遭遇せずに川の水を供給することができた。
ところが、川の結界が壊されれば魔物が侵入するかもしれない。
村の生活を維持するために奮闘する村長にとって、川付近に存在する結界が破られたことは致命的だった。
いまにも込み上げてくる胃酸を喉で押し込みながら、彼は問題の場所へと向かうのだった。
「パパ、川の結界が破られてるよ……」
「あぁ……そんな、有り得ない」
アリシアは、父親の袖をおぼろげな手つきで引っ張る。彼女の暗澹たる双眸には、器から溢れる水のように涙が揺ら揺らと蠢いていた。
「川が……」
「今まで結界を壊されたことは?」
「いや、これが初めてだ……」
割れたガラスのように結界は傷つけられていた。
目を凝らして観察すると、爪のような引っ掻き痕が見える。。
(随分と大きな爪痕だ……かなりの大きさだな)
テュランの視線が、結界の傷跡に注がれる。
テュランを拒んだ結界をこれほどまでに傷つけた犯人の痕跡は強大なもの。何者かが残した存在感溢れる爪痕が、テュランの情熱を再燃させた。
「是非とも戦いたい」と、彼は心の中で本音を漏らす。
と、その時――。
「ガルルッ!」
暴力的に木々を揺らしながら、森の中から姿を現したのは——ワイバーンであった。
巨大な肉体には轟々しい二本の翼が生えており、その身体を囲むのは盾のごとき鱗。
ワイバーンはテュランたちに目を付けると、涎を垂らしながら近づいて来た。その鋭利な殺気が、アリシアと村長を真冬の寒さのように震え上がらせる。
「パ、パパッッ!!!!」
「アリシア、早く逃げなさい。村のほうへ!」
恐怖に怯むアリシアを、村長は決死の想いで逃がそうとする。
「君も逃げなさい! ここは私が食い止める!!」
「オレもか?」
村長の命令が自分にも向けられて、テュランは思わず面食らった。
自分も避難対象に含まれているとは思っていなかったのだ。
(この男……ワイバーンと戦える技量があるのか?)
珍しくも、テュランは人命が心配だった。
もし村長が死ねば、結界の仕組みを聞き出せなくなるかもしれないから。
しかしテュランの不安が伝わる筈もなく、ワイバーンの眼前で堂々と彼は魔導書を開いた。
(あれは……魔術の発動か? 面白そうだ、拝見しよう!)
家族の命を懸けた村長渾身の一撃は至極平凡で、とても期待できるものではない。が、今際の際に繰り出される人間の全力が時には限界を突破しこの世成らざるものを生み出すことがあることを既に知っていたテュランは、村長の覚悟を安逸に見守ることにした。
「
そう唱えると、村長の左手からオレンジ色の炎が出現した。その火球は空中で矢を描き、ワイバーンの鱗に差し迫る。
魔導書のエネルギーを利用し発動された村長の魔術は、ワイバーンに衝突するや否や爆発を起こした。
周囲に熱風が荒れ吹き、落ち葉が舞い上がる。
「やったか?」
矢を浴びたワイバーンは苦しそうに喚きながら、その場に倒れ込んだ。ビクビクと体を痙攣させている。
その姿を見て勝利を確信した村長が、「ふぅ」と安閑に息を漏らした。分厚い魔導書を閉じると、額に流れた汗を袖口で拭き取る。その様子が、彼の緊張を物語っていることは言うまでもない。
(一応戦えるんだな)
「パパ!!!」
ワイバーンに勝利した父の姿を見て、アリシアの目に光が走る。
あの強大な敵を一撃で倒したのだ。彼女の目には、父親の厚顔が英雄の肖像画のように映っていたことだろう。
飼い慣らされたペットが帰宅帰りのご主人様に愛のアタックをするように、アリシアもせわしく父親にダイブした。
自分の懐に飛び込んできた娘の頭をなでなでしながら彼は優しく抱きしめた。
二人の間に流れるのは勝利と安堵。
だが、彼女とは対照的にテュランの目には影が霞んでいた。
(いや……あのオヤジの魔術でワイバーンが死ぬとは思えん。まだなにか——)
と、心のなかで言いかけた矢先だった。
「ガルルルッ!!!」
死んだと思われていたワイバーンが、復活の咆哮を響かせた。
焼かれていた筈の傷口は刹那に塞がり、重い巨体が再び立ち上がる。
ワイバーンは激怒していた。村長の攻撃を浴びたせいで。
人間を一撃でかみ砕く剥き出しの歯や、人を豆腐のように切り裂く鉤爪。そして、風を操る二本の翼。
人を凌駕する身体的な特徴を持つワイバーンは、村長の魔術などかすり傷程度でしかなかった。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! パ、パパ!」
「ま、待ってなさい! いいいいいいい、今……魔術を——」
「ドンドン」と地鳴りような足音を鳴らして、一歩ずつ、一歩ずつ、村長に近づいていく。
だが、アリシアもその父親も腰を抜かしていた。
このままでは二人ともワイバーンに殺される。
「ご、ごめんな………………………ほんとに、ごめ——」
生存を諦めた父親が情けない謝罪を零そうとしたとき、テュランの方が先に呪文を唱えていた。
「”
呪文を唱えた直後、ワイバーンの背中が視認不可能な何かに押し潰されるかのように、破裂した。
魔物の肉体から大量の血の雨が降り注ぐ。
重傷を負ったワイバーンはその場に倒れて動かなくなった。
血だまりが、緑豊かな大地を侵食していく。
「な……なにが起きているんだ………?」
「………………パッパ」
この一連を見ていた二人は、もはや口を閉じることすらできない。
村長のほうは、血に染まったテュランの容姿に釘付けとなっていた。自分が見ているものを信じきれないと訴えるかのように。
「ワイバーン……」
テュランが、ワイバーンの眼前に立つ。
真朱の双眸を向けながら、テュランは嘆息するようにこう言った。
「オマエには飽きた、つまらん」
暗澹の声がテュランから発せられる。
次の瞬間、ワイバーンの顔面が、圧縮されたペットボトルのように鎖の模様を描いて潰れた。刹那の出来事であった。
「い、いったい……君は何者なんだ?」
「んなことどうでもいい。それより、結界はどうする? 塞げるのか?」
村長の畏敬漂わせる質問を、居丈高に一蹴り。
テュランは一興の結界にしか関心を示さない。
「ふ、塞げるが……範囲を狭めようと思う。結界の強度を上げるためにね」
「範囲を狭める? なぜ?」
「結界の防御力は、結界の表面積に反比例するからだ。これ以上結界を壊されないためにも、耐久性を上げないと」
未だ恐怖に震える手で魔導書を持つと、村長は再び呪文を唱え始めた。
すると村長の詠唱に呼応するかのように、村を囲む結界が波打っていく。揺らぐ水面のように。
「ますます知りたいな……」
摩訶不思議な性質を兼ね備える結界。
その全貌を、テュランはよりいっそう解明したくなったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます