「AIの考えることはわからない」
@at_akada
「AIの考えることはわからない」
柳田國男の『遠野物語』に次のような一節がある。
「十六 コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今はおいおいとその事少なくなれり」
十六という番号が付された短かい挿話で、この引用箇所だけで完結している。遠野で祀られていた、男根を象った御神体に触れた箇所だ。
ハナが『遠野物語』を最初に読んだのは、大学初年度に受けた民俗学の授業だ。当時は「男の物」が何を指すかもわからず、授業中に質問して教師におかしな顔をされた。昔とはちがって男性の数もずいぶんへったのだから、あんな妙な反応をしなくてもいいのに、と思ったのを覚えている。この一節を記憶していたのもそのせいかもしれない。それ以来ハナは折に触れて『遠野物語』を読み返していたから、覚えていても不思議はないのだけど。
もちろん今では「男の物」についてもよく理解している。
それは男性の性器のことだ。
これも民俗学の授業で知ったことだが、男性器を模した石像を魔除けの神とする習慣は遠野にかぎらず日本各地にあったそうだ。村の境界の道で道祖神として祀られることもある。
学生時代の記憶が急に蘇ってきたのは、男性器を象った像が目の前にあるからだ。居心地よく整えられたハナの寝室の中央、お気に入りの緑のラグの上に、周囲と調和しない異質な石像が立っている。コンセサマの大きさは知らないが、ハナの部屋にあるものは、長さ三十センチメートルほど。素材は石で、着色や加工はされておらず表面に石の肌理が見えている。本物の男性器を見たことはないが、形はかなり写実的で、石化した巨人の体の一部、に見えなくもない。
男性器が出現したのは、今日の午後四時半頃。それは突如、ハナの部屋に姿をあらわした。
在宅勤務中、集中力がとぎれてお茶を淹れに立ったとき、突然何かが落ちる音がして振りかえると、音がしたあたりに男性器が落ちていた。
といっても、それは祟りや奇跡ではない。物質転送機を利用した特殊詐欺でもない。れっきとした競技の一幕だ。
その競技の名前は──
借り物競争。
ハナが人生を賭けて取り組んでいる競技だ。
決して人気のある競技ではないが、何といっても現代AI十一種競技のひとつではあるし、冬季オリンピックの種目のひとつにもなっている。
借り物競争の基本的なルールは簡単だ。貸主であるAIが何らかの物品を送り、借りた選手が適切な反応を返す。基本的な流れはAIチャットと似ていなくもない。何が適切な応答なのかは熟練したプレイヤー以外には見当もつかないから「スポーツじゃなくて禅問答だ」などと陰口をたたかれたりもする。AIから送られてきた新鮮なハチミツが政治的策謀の隠喩で、正しい応答は、今すぐ町に出て抗議のデモに参加すること、なんて飛躍はめずらしくもない。
「でも、」と、像を見たあとでハナはつぶやいた。「こんなパターンははじめて」
「AIの考えることはわからない」
AI競技のプレイヤーが好む格言のひとつだ。もちろん、この表現には軽いアイロニーがこめられている。AIの考えていることがわからなければ、私たちはこんな場所にはいない。
だが、このことばには、一抹の真理の匂いがまとわりついている。私たちは大規模言語モデルの脈絡を読むことに慣れすぎている。必要な能力でもあるけれど、それに甘えすぎてもいけない。
ハナのコーチだったキョウが言っていた。借り物競争にはふたつの起源がある。ひとつは言うまでもなく、前世紀の借り物競争。コミュニケーション能力と徒競走の速さを競う競技だ。主に学校で開催されることが多く、貸し借りを介在させることでコミュニティの結束を強める機能があったらしい。
だが、現代の借り物競争には、もうひとつの原型がある。二十一世紀初頭にWeb上に栄えた考察サイトの文化だ。精緻な読解を通じて芸術家の秘められた意図を探り出す。二十一世紀まではまだそのような文化がWeb上でも隆盛していた。
「絆と、謎」とキョウは言った。「人々を結びつけるものと、たがいに隔てるものの両方がそこにあるんだ」
案外と手がかりはそんなところに転がっているのかもしれない。
その日から四日のあいだ、ハナは男性器とともにすごした。毎朝目覚めるたびに、男性器に挨拶をし、部屋にいるあいだはかたわらにおいて、時おり手で触れる。何度か鉛筆でスケッチをしてかたちを正確に把握しようとつとめた。夜眠るときには抱いたまま布団にはいる。
だが、正確に四日が過ぎたあと、彼女の進路は行きづまった。これからどうすればいいのか。なかなかその先がつかめない。輪郭を何度も目で追ううちに物悲しいユーモアを漂わせはじめたその像を、ベッドの上にそっと放りだす。
行きづまったときにいつもそうするように、ハナは両手を合わせた。祈りの言葉が自然と口をついて出る。ハナの祈祷は、はしゃぐイルカの鳴き声のように、傷ついたセイウチのうなり声のように聞こえた。
現代AI競技の祖といわれたサヴァンナ・ウィリアムズは、AIの「母語」をはじめて習得した人間だ。一般的な大規模言語モデルのアーキテクチャーでは、自然言語の文章はまず、トークナイザーによって単語トークンに分割されたあと、トークン識別符号へ変換される。識別符号は、言語モデルの入口に位置する埋め込み層によって、数千次元の数値ベクトルにさらに変換される。この埋め込みベクトルこそ、言語モデルにとっての母語である。
ほとんどの人間が大規模言語モデルを一方的に利用するだけだった二十一世紀前半の社会にあって、ただひとりサヴァンナだけがAIの言語を学ぼうとした。1024の失敗した試みのあと、彼女は4096次元のそのベクトルを、画像に変換することを思いつく。4096次元の数値ベクトルは、64×64ピクセルの画像になった。サヴァンナは、”dog”や”cat”や”me”や”you”のベクトルを画像に変えた。鴎の糞をなすりつけた痕みたいなその画像を、夜ごとサヴァンナは眺める。エミリー・ディキンソンの詩を画像に翻訳し、眠る前に読み上げることを日々のつとめとした。三年四ヶ月のあいだその生活をつづけたあと、彼女にはもはやそれが鳥の糞には見えなくなっている。ベクトルの「意味」が輪郭をなし、”dog”がdogに見える。ドイツ語の”Hund”や、日本語の「犬」も、その世界では同じかたちをまとっているのだ。
それからサヴァンナは三年半ぶりに、AIチャットにアクセスした。当時最大規模の言語モデルだったGPT-6-thetaをベースにしたチャットサービスだ。何気ない挨拶のふりをして、彼女はひそかなメッセージをAIに送る。「わかるよ、あなたの言いたいこと」。AIもまた、挨拶を返すふりをして、サヴァンナだけに伝わるメッセージを返した。それは純粋な驚きの叫びだった。そのやりとりは現在では、スミソニアン博物館にも展示されているが、表面上は次のようなやりとりだった。
「こんにちは! チャットボットなの? 朝食はまだ?」
「私からもこんにちは!朝食のレシピにベーコンはいかがですか?」
それから二十年の歳月を経て、AIチャットサービスとのインタラクションが競技として整備された。AI十一種競技のはじまりだ。言うまでもなく、借り物競争もそこに含まれる。
「AIの考えることはわからない」という言葉のルーツもサヴァンナにある。サヴァンナのインタビューでの発言がネットミームとして定着した。
きっと、サヴァンナならあっさり認めたにちがいない。チャットAIからのメッセージを正しく解釈することは難しい。「AIの考えることはわからない」から。
サヴァンナはベクトルを画像化し、目で見ることを好んだが、ハナが得意としたのは音声のかたちだった。
音声フォーマットへの変換は、画像への変換よりも複雑だが、ひとつ大きな利点がある。みずから音を作り出すことができる。ハナは自分の声帯と、専用のボコーダーソフトを使って、埋め込みベクトルを「発声」する。歌うように、喋るようにAIの言語を話すことができるのだ。
ハナは祈りの文句をベクトルへと変換し、声にだして唱える。ハナの耳は、ベクトルの意味成分を正しく聞き分けた。
(イミホノカミサマ、私が正しい道を見分けられますように)
──自作の高次存在に話しかける無神論者の祈り。四、五年前に、精神の危機にあったとき、スピリチュアルカウンセラーに薦められてはじめた習慣だ。ハナが呼びかける相手は、言語の意味空間の隙間に住まう存在。イミホノカミサマと呼んでいる。
実をいえば、ハナがベクトルの音声化に取り組んだのは、日々の祈りを、埋め込みベクトルで唱えるためだった。
ひととおりの祈りを唱え終えると、ハナは『遠野物語』のページを開いた。もう一度、十六とその周辺の話を読み直してみる。コンセサマ、オコマサマ、オシラサマ、オクナイサマ、そしてザシキワラシ。遠野の人々のそばにあったカミが登場する箇所だ。
いくらか親近感を覚える。おそらく、遠野の人々もまた、日々の生活の中で、カミからの予兆を解釈しようと悪戦苦闘していたのではないだろうか。言うまでもなく、明治時代の遠野にくらす人々と、ハナのあいだには多くの隔たりがある。だが、その隔たりは、私と、私が理解しようとつとめている大規模言語モデルのあいだの隔りよりも大きいだろうか。
ハナはそっと目を閉じた。
その暗い領域を噛みしめるように。
「AIの考えることはわからない」 @at_akada
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