第43話壁で塞ぐことは出来ず、鎖に繋いでおくことも出来ない

「あたけ、大丈夫か?タクシー呼ぶぞ」


「ああ、俺はいいよ……歩いて帰るから……」

「そうか、気をつけろよ。危険を察知したらすぐ俺を呼べ」


「なんだそりゃ、はは、子供じゃあるまいし……」


あたけは乾いた笑い声を漏らすと、たかしの背中にしがみついているありちゃんを見る。


(ありちゃん……)


たかし!ありちゃんなら俺が責任を持って家まで送っていくよ!

そんな風に言えたらどんなに楽だろうか。


でも仕方ないじゃないか。


たかしはありちゃんの上司でチームのリーダーだし、何より俺にはありちゃんの大きな体を持ち上げるような力はないんだから。


(たかしの指示通りにちゃんとトレーニングしてたら結果は違ってたのかな……)


たかしは特にこれといった感慨もなさそうにスマホを見つつ、何も言わずに指を動かしている。

ありちゃんの部屋への道でも検索してるのだろうか。


(大丈夫だって……たかしにとって、ありちゃんは部下で後輩で取り巻きの女の一人で、特別な存在ってわけじゃないし……)


一方でありちゃんはたかしの首に丸太のような腕を回し、ぐるぐると唸りながらたかしのうなじに顔を擦り付けている。


「ぐむ……めっちゃ美味しそうな匂いがするっす……はふ……先輩……ふぎゅ……」


「……」

「……」


あたけは苦しげな表情を浮かべると視線を足元へと落とす。


「……あたけ、どうした。気分でも悪いのか?」

「え?あ、ああ……少し頭が痛いかな……じゃあもう帰るよ、今日はありがとう」


「ああ、お疲れ」


たかしたちが遠ざかっていく気配を背中に感じながら、あたけはよろよろと街を歩いて行く。


本当は同じ方向に行くことだって出来た。

だけど、そんなの無理だろ。これ以上惨めな気分になるのは嫌だ。


「へ……へへっ……」


神経をざわつかせるにぎやかな光、鼓膜がへこんでしまうような絶え間ない喧騒。

今が夜だと告げているのは、ビルの谷間で申し訳なさそうに肩を竦めている暗闇だけだろう。


あたけはビルの壁に背中を預けながら浅い呼吸を繰り返す。


「ありちゃん……」


目を閉じれば瞼の裏に浮かんでくるのは、ありちゃんの愛らしい笑顔。

そして、たかしの笑顔。何もかも見透かしいて、謝ればすぐにでも許してくれそうな優しい微笑みだ。


俺にはそんな、皆の楽しそうな顔しか思い浮かばないのに、胸の奥から込み上げてくるものはこの気持ちは何だろう?


あたけにはわからない。ただ涙が頰を伝っていく。

あたけは顔を上げられないまま、ずるずると背中を擦るとその場にうずくまってしまう。


「……いいんだよ」


あたけは思う。


(だって今日は本当に楽しかったから……)


そうさ……楽しかったんだからいいんだ……。


俺たちは何も変わらない。

ありちゃんはかわいいし、たかしは優しいし、これからもいつも通りでいればいい。


そうだ……俺はずっとこのままでいいんだ。


あたけは自分に言い聞かせるように呟く。


「へ……へっ、へへへっ、大体さ、何がいいんだよ。あんなゴリラみたいな女……」


そんな心にもない悪態をついた瞬間、喉から込みあがるような嗚咽と共に熱い涙が噴き出してしまった。


「ありちゃん……ありちゃん……うっ、うっ……」


あたけは泣いていた。


誰もいない真っ暗な路地裏で声を殺し、さめざめと泣く。


「ぐっ、う、ぶうっ……ぐすっ……」


この涙は誰のせいでもない。

あたけの弱さと悲しみから生まれたものだ。


こんな気持ちは初めてだった。


みんなの前から姿を消してしまいたい気持ちと、ずっとみんなと一緒にいたい気持ちが混ざり合っていた。

酔っ払ってふらつく足に力を入れて、あたけは立ち上がろうとする。


あたけは心の中で言い聞かせるように呟く。


(俺はありちゃんが大好きだ……けど、ありちゃんは俺よりもたかしが好きなんだ……だから仕方ないんだ……)


愛する人の幸せを本当に願うなら、それがどんなに辛いものでも耐え抜かなきゃいけなゃいけない。


「うっ、うう……ぐすっ……」


ありちゃんとたかしが結ばれると言うのなら祝福するべきだ。

その未来のために俺は出来る限りのことをしよう。そうする以外、自分に何が出来るというのだろう?


「へへ……俺はいいやつだな……」


ぼろぼろと大粒の涙を流しながら笑うと、あたけは自分の頰を両手で叩き、よろよろと立ち上がる。


そしてあたけは自分に言い聞かせながら、闇から這い出そうと進み出す。

きらびやかな光の下、喧騒の中に身を投じれば、俺の苦しみは終わり、自分の弱さから解放されることが出来るんだ。


そんな気がした。


「……なわけーだろ」


──……お前ら、俺を誰だと思ってる。


俺は吸血鬼だ。

そうとも、俺は誇り高き血の君主の一族だ。


闇を統べる支配者に連なる血族であり、夜の頂点に座する存在だ。


俺は祖先の……いや俺の自身の魂を汚すわけにはいかないんだ。たかしに守られ、お姫様みたいに扱われて浮かれてる場合じゃねーんだよ。


「……ああ、気持ちいいな」


酔っ払い火照った体が、夜の風によって冷やされていく。とても心地良かった。

ビル風に前髪をなびかせながら、あたけは一人夜の街を歩いていく。


あたけの目の前に人だかりがあった。


ありふれた、実につまらない喧嘩だ。ギャングの抗争だろうか、集団で行われているという点を除けば。


ただ、そのつまらない喧嘩でも周りに群がっている野次馬どもはそれなりに盛り上がりを見せており、暴力の渦はどんどんと熱気を帯びていた。


「ありちゃん……」


ふらつきながらもあたけは狂気に彩られた人の群れの中を縫うように、前へ前へと進んでいく。


あたけは喧嘩など見てもいないし、誰からも見られていない。


「ありちゃん……」


あたけは小さくため息をつく。

彼女のことを思うとあたけは胸が高鳴り、息苦しくなり鼓動が早くなる。


人混みを抜けた先にはガードレールに叩きつけられ、いつ死んでもおかしくないような男が血反吐を撒き散らしながら呻いていた。


欠けた歯が男の側で血に塗れて転がっている。


上着に手を入れた男が何か叫んでいるが、あたけは聞いてもいない。

淡々と歩みを進めるだけで、あたけは避けもしない。


(俺は君のことが好きだ)


避ける必要などなかった。


やがて数人の男たちが走り出し、憎悪と怒号が最高潮に達した時、あたけの体は水に垂らしたインクのような漆黒のうねりとなり、流れるように暴徒の間をすり抜けていた。


闇は逃げもしないし、退きもしない。

ただいつも傍らにいて、人間が足を踏み入れるのをじっと待っているだけだ。


人間がどれだけ火をくべて、あの手この手で喧しく音を鳴らしてその住処を汚らしく照らして拒もうとも、闇は常にそこにあり続ける。


あたけが通り過ぎた後、暴徒たちのある者は蒼白になると胸を押さえてうずくまり、またある者は体を震わせながら地面に激しく嘔吐し始める。またある者は白目をむいてその場に転がっていた。


「……うるせえな。悩んでる時に……」


小さく舌打ちをすると、あたけは人だかりを避けて歩みを進める。

しばらく歩いてから振り返ると、先ほどまでの熱狂は嘘のように消えて、どよめきや悲鳴が飛び交っていた。


誰もあたけを追おうとしない。

誰もそれが吸血鬼の仕業だとは分からないから。


あたけ自身もそれが自分のしたことだとは思っていないから。


闇がすべての痕跡を消し去っていく。


「はあ……何が祝福だよ……バカが」


ため息をつき、紫色に染まった前髪を指先で弄ぶ。


「……せめてありちゃんに告白してみせろよな」


そう呟くと、やがてあたけの姿は夜の中へと溶けるように消えていった。

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