第11話その叫びは「産声」と呼ばれた

「これが母さんの血……」


無機質な冷たい石壁にその声が反響し、そして虚しく掻き消えてゆく。


その薄茶色の瓶は空気の侵入を許さないほど密閉されていた。

口の部分はガラスの蓋が溶接されており、中身はよく見えないが、それが吸血鬼の血でしかも母のものだと意識するとなぜか身体が震えた。


かつてはワインセラーとして使われていたというその地下室はまるで古城のような作りをしていたが、言い方を変えれば物語に出てくる吸血鬼の隠れ家のようにも思えた。


「そうだ」


伯父さんはそれだけ言うとたかしの手にその瓶を握らせる。


「さあ、飲め」

「え、飲むって……」


たかしは困惑しながら伯父さんの顔を見る。

その表情はとても真剣なものだった。冗談ではないらしい。


「飲めばお前の中にある隠された力が目覚める。今まで眠ったままだったものを呼び覚ますのだ」


たかしは液体が詰まった瓶とそれを持つ自分の手をじっと見つめながら、伯父さんが語った話の内容を反芻する。


吸血鬼の能力や弱点にまつわる話は嘘ではないこと。

だが、全てが真実でもないということ。そして半吸血鬼の自分には、純血の吸血鬼に比べると眠ったままの力が存在しているということ。


「大丈夫だ。心配はいらない」

「は、はい」


そうは言われたもののまるで実感がわかない。

それに、伯父さんが自分の母親の血を保存している理由が気にならないわけでもない。


それともこれが吸血鬼なりの弔いなのだろうか?


たかしは無理矢理にでもそう思うことで不安を振り払おうとする。


(だけど……これってマジで母さんの血なのか……?)


薄茶色のガラスの中には黒っぽい液体が入っているが、見た目ではそれが人の血なのか吸血鬼の血かどうかは判別できない。だがこのまま迷っていても仕方ないだろう。


たかしは指先の力だけで溶接された蓋を持ち上げる。すると、バチンという音と共に蓋が外れ、湯気のような白い煙が立ち上った。


「うっ……」


たかしは思わず顔を背け、息を飲む。

長い間、密閉されていた瓶の中から漂ってきたものは、まるでむせ返るような薔薇の臭いだった。


(これが……本当に……?)


こんな匂いのする血があるものだろうか?

その強烈な香気にたかしの頬を冷や汗が流れる。瓶を持つ手が震えているのがわかった。


(いや、なんなんだよこれ!?お、おかしいってマジで!)


たかしの嗅覚が、視覚が、聴覚が、味覚までもが狂わされる。


耳が火傷しそうになるほど熱く、耳の下がずきずきと強烈に痛み始めた。喉はうねり、眼球の奥が熱くなって、視界が歪み、目の前の血の小瓶に釘付けにされた。


たかしは少し香りを嗅いだだけだ。


それだけで目から火花が飛び散り、内臓は焼けるように熱くなり、身体の内側から何かが飛び出すような錯覚を覚えた。たかしの意識は混濁し、自分に起きているこの反応が ”飲め” なのか ”飲むな” なのかさえ分からなくなってしまっていた。


(お、俺はどうなってるんだ……?)


しかしそう思った次の瞬間、たかしは口に含んだ小瓶を傾けて、中身の液体を喉の奥に流し込んていた。


それは甘かったかもしれない。または塩辛かったかもしれない。

あるいはもっと別のものだったかもしれないが、たかしの舌や口の内側を灼くように通り抜けた液体は、その瞬間に味覚と嗅覚を奪い去っていった。


「……!?」


変化はすぐに訪れた。


急に体が縦に伸びて、頭が雲を突き抜けていったかのような奇妙な感覚を覚え、恐ろしくなり、たかしはたまらず目を閉じた。


そして頭の上か、または首のすぐ後ろかどこかで何かが裂けるような音がした。


「たかし!」


すぐ傍に居たはずの伯父さんの声が遥か遠方で聞こえる。


(なんだ、おじさんは何を焦っているんだ……?)


気が付くと目の前が明るかった。

目を閉じているはずなのに、どうして眩しいのだろうか。


(あれ、俺……なにをやってたんだっけ……)


確か自分は吸血鬼の話を聞いていて、それから……。


(ああ、そうだ……)


そして自分の母親の血を飲んだのだ。

それを思い出した瞬間、たかしは全身が凍えるほどの恐怖に襲われた。


(何が起きている……)


……体が揺れている。

地震だろうか。

気のせいではない、足元から激しい揺れが伝わってくる。


違う。音に共鳴し、共振し、振動し、揺れているのだ。


誰かが叫んでいる。


誰だ。伯父さんか?


……違う。


叫んでいるのは俺だ。

俺だ。俺が叫んでいるのだ。


(止められない、どうなっている!?)


「たか、し……?!」


伯父さんの声は怯えており、震えていた。

彼は慌ててたかしの手から瓶を奪い取ろうとしていた。


それにどれ程の意味があったのかはわからないが、とにかくその行動は叶わなかった。


その握力によるものか、あるいは彼の手が発する高熱によるものか、たかしの手の中の小瓶はどろどろと融解し、床へと滴っていく。


伯父さんの顔は驚きと、恐怖に歪んでいた。

たかしには伯父さんのその表情の理由がなぜなのかわからない。


ただただ、胸の中で熱い衝動が渦巻いている。


血管という血管が脈打ち、細胞のひとつひとつが沸騰するように震えている。

視界は真紅に染まり、全身は燃え上がるように熱く、口からは絶え間なく叫び声のようなものが溢れ出していた。


薄暗い地下室がなぜかとても眩しく感じられた。


目を閉じていても、開けていても同じ景色が見える。見てもいないはずの情報までが頭の中に流れ込んでくる。


暴れまわる音の反響が作り出したその情報はあまりに膨大で、そしてあまりにも異質だった。


たかしの脳裏に地下の隠された構造が鮮明に浮かび上がった。


地下にいながらにして自分の叫び声が屋根瓦のいくつかを破壊してしまったことがわかった。


音の震えが池の水面を禍々しく波立たせ、花瓶を割り、ガラスを砕いたことまでも理解出来た。


喉が焼ける。肺が潰れる。心臓が張り裂ける。

それでもたかしには声を止めることが出来なかった。


たかしは思う。

従姉妹が出かけていてよかったと。


たかしには自分の体の奥底から吐き出されるそれが、生物の発するものとは思えなかった。


彼の叫びを聞いた虫は破裂した。

気を失った小鳥たちは次々と地に墜ちた。

小動物たちの内臓は破壊され、ねずみやイタチが血を吐いてのたうち回った。


木々からは水分が奪い取られ、葉は萎れ、腐った果実が大地に落下していった。


花が彩りを失い、枯れ果ててゆく様子が頭の中に流れ込んで来た。


どれくらいの時間が経っただろうか。


すべてが終わった時、たかしにははっきりとわかっていた。


自分がこれまで何をしていたのか。

そして自分がこれからどんな存在になろうとしているのか。


それが誰にも止められないことさえも。


「伯父さん、終わりましたよ」


たかしは口元についた母親の血を拭うと、部屋の片隅で呆然と立ち尽くしている伯父さんに声をかける。

壁にもたれかかり、汗を浮かばせた彼の姿はあまりにも弱々しく見えた。


「終わった、のか……?」


伯父さんは怯えるようにしてたかしの方を見る。そこには自信に満ち溢れた様子の甥がいた。


「はい」


目の前の美しい青年は目を細め、にっこりと微笑んで見せる。


それは伯父さんが、これまで下等な連中に対して常にそうしてきたものと同じく、計算され尽くした笑顔だった。


「すまない、私はとんでもないことをしてしまったようだな……」


「いいんですよ。今は気分爽快ですから。むしろ感謝しています。ありがとうございます」

「あ、ああ……」


伯父さんはたかしの笑顔に気圧され、思わず後ずさる。

そしてすぐに壁に背をぶつけると、観念したかのように肩を落とした。


「何か異常は……」

「いえ、特には……おっと、そういえば目の前が眩しく感じるかもしれません。後は喉が渇いたかな」


たかしはわざとらしく喉に手を当てて、渇きをアピールするような仕草をみせた。

その言葉に、伯父さんは少しだけほっとしたような顔を見せたが、しかしまだ安心したわけではないようで、不安げな視線をたかしに向ける。


「……そうか……一緒に緑茶を飲もう。緑茶には吸血鬼の苦しみを抑える効果がある」

「はい、ありがとうございます」

「……」


「どうかしましたか?」

「いや……」


伯父さんはぎこちない笑みを浮かべると地下室から出る階段を上ってゆく。

その後ろ姿を見送りながら、たかしは小さく後ろを振り返った。


(さよなら)


それは何に向けての言葉だったろうか。


母に対する別れか。

それとも、かつての自分に対する言葉だったのだろうか。どちらにせよたかしの心は晴れやかだった。


心労からか階段を踏み外しそうになっていた伯父さんの背中をたかしはそっと支える。


「す、すまない……ありがとう……」

「あの、伯父さん」


「どうしたんだ……?」

「お茶を入れるなら俺がやりますよ。疲れてるみたいだから休んでてください」

「えっ……?ああ、そうだね、お願いしようか……」


伯父さんは驚いたように目を見開いたが、やがて素直にたかしの提案を受け入れた。

そのことに満足すると、二人はゆっくりと歩き出す。


(それにしても……)


そして地下室を出る直前、たかしはもう一度後ろを振り返る。


(本当に隠し事の多い人だな……)

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