第27話

「……すごいな瓜子は」

 思わず呆然としながら、桃太は言った。

「……? 何が?」

「いや……あの大きな龍の怪物を相手に、あんなにしっかりと交渉をしてのけるなんて」

 桃太は心底感心していた。桃太にとって目の前のあの龍の異形はひたすら恐れるだけの存在であり、自身の主張を通したり、有利になるよう交渉したりなど不可能な相手だった。それを自分と同じ歳のこの小さな華奢な少女がやってのけたということは、あまりにも信じがたいことだった。

「……海神は最高位の妖魔だ。品位の高さも相当なものがある」

 王一郎は言った。

「だが高潔で知能の高い存在でもある。怒らせると大変なことになるが気性自体はそう荒くない。しとしとは冷徹な合理主義者の面が強く穏やかに見えて気位も高いが、びゅうびゅうはやや感情的だが公正かつ寛大であることを是とする鷹揚な性格だ。そして両者の意見が衝突する時は、しとしとの方が譲ることが多い」

「他の妖怪と比べると、遥かに話がしやすい相手なんですね」

「その通りだ。輝彦殿はその特性を知り抜いて交渉を仕掛け、人魚を発見すれば向こう十年生贄は取らないなどという、破格の条件を勝ち取って来た。他の妖魔が相手ではそうもいくまい」

 そう言って腕を組み物思いに耽るような表情を浮かべる王一郎。そんな亭主のアタマを引っ叩き、妻は衣類を差し出して「服を着なさい」と一喝した。何を隠そう、この瞬間まで彼は股間を丸出しにしていたのである。

 ドライブはそこで中断となった。何せ明日の夜明けまでに人魚を差し出さねば桃太の父は大変なことになってしまう。どのようにして人魚を確保するか、四人は議論を交わした。

「父さんに事情を説明して、人魚を返してもらうのは?」

 これは桃太の意見だった。「いや」と王一郎は首を横に振る。

「鬼久保軍医殿はここに来て日が浅い。海神は一度約束したことをそうは破らないが、そのことを軍医殿は納得されないだろう。人魚を捕えていることを白状すれば、それだけ自分が不利になると考えるに違いない。そうした性格のお方だ」

 そう言われるとそんな気がした。戦場と言う極限の状況で、父がどのように振舞っていたのかを王一郎は知り抜いている。王一郎の見立ては正しい、と桃太は判断した。

「こっそり人魚を盗み出すのは?」

 瓜子は言った。「それが良い」と王一郎は鷹揚に頷いた。

「軍医殿には事後承諾で十分だろう」

「……本当に事情を説明しなくて大丈夫なんですか?」

 桃太は言う。

「ああ。大丈夫だ。それにはっきり言うと我はあの軍医殿が苦手なのだ。真正面から舌戦を制し人魚を差し出すことを承諾させるなど考えるだけで胃が痛む。ならばこそ泥にて人魚をかどわかし、すべてが終わってから一発ぶん殴られる方が遥かに気楽だと言えるのだ」

 口調こそ偉そうだが言ってることは情けなかった。

「で? いつ盗み出すの? そもそも人魚はどこにあるの?」

 これは瓜子だ。

「いや……人魚がいるとしたら多分地下室だと思う。ぼくはもちろん、一番信頼している看護師長すら入れない秘密の地下室があるんだ。治療の際、そこにぼくを運び込むのを、何人もの患者や看護師が目撃している」

 桃太は言う。「そこで決まりではないか」と王一郎は頷いて。

「では今すぐにそこに向かおうではないか」

「バカねぇ。鬼久保さんは今病院でお仕事中の時間でしょう? 見付かるに決まってるじゃないの?」

 これは瓜子の母の意見だった。

「なら深夜に忍び込もうではないか。家人たる桃太の助けを借りれば簡単だ。そうだな?」

 水を向けられ、桃太は大きな葛藤を飲み込みながら「はい」と答えたのだった。




 その日の深夜、桃太は自室を抜け出して病院の建物の前にいた。

 桃太にとってそれは大変な冒険だった。桃太の家は子供に厳格であり夜遊びなどまず許されることではなかった。しかもその日は王一郎達を伴って父の秘密を暴きに行くのだ。それは桃太にとって明確な悪事であり今も膝が震え続けていた。

 父親の秘密を探り裏切ることに対する後ろめたさはあった。だがしかしそれは他の何よりも父の為だった。父が人魚を捕らえているのが確かなら、今夜中に人魚を海神に返せなければ海神の逆鱗に触れ父は八つ裂きにされることになる。秘密の地下室に侵入するのもその為なのだと桃太は自分に言い聞かせていた。

 やがて自動車の音がした。

 病院の建物の前に止められた自動車から、王一郎と瓜子が顔を出す。

「ふーはははははっ。待たせたな我が弟子よ!」

 桃太は「静かにっ!」とつい叫びそうになったが、師を相手にそんな物言いをするのは咄嗟に堪えた。代わりに瓜子が「お父さんうるさい」と一言窘め、それから桃太に向き直った。

「寒いね桃太。待った?」

「いいやあんまり。時間通りだしね」

 来ていたのは王一郎と瓜子だけだった。王一郎が来るのは当然として、桃太がいなければ病院の建物には入れない。瓜子は来なくても良かったのだが、人魚を一目見て可能ならば涙を入手する為居合わせたいという、彼女のわがままが通った形だった。

「……病院へはこちらから」

 桃太はいったん王一郎達を自宅へと招き寄せると、渡り廊下を通って病院の建物へと侵入を果たした。そこから地下室の扉の前まで来るまではすぐだった。

「ですが……ここの鍵がどうしても手に入らなくて……」

 桃太は俯いて言う。しかし王一郎は「くくくっ」と不敵に微笑んだ後。

「これしきの扉造作もない。見ているが良い」

 そう言うと王一郎は懐に刺した刀に手をやると、瞬きする程の時間もなくそれを抜き放ち、そして懐に戻した。その間僅か一秒未満でありまさに目にもとまらぬ早業と言う他なかった。

 たちまち扉は縦に真っ二つに両断されそれぞれの面が左右に開かれる。そのあまりの秘技に桃太は愕然と師を見詰めた。王一郎はにやにやとした得意げな笑みを浮かべつつ、ちらりちらりと桃太の方を見やっていた。

「お父さん、すごいっ!」

 あまりの凄さに何も言えないでいる桃太の代わりに瓜子が褒めた。王一郎は「そうだろうそうだろう」と呟いては哄笑し、その哄笑のうるささを「お父さん、うるさい」と指摘されていた。

 そのまま三人は並んで地下室へと入る。

 そこには簡易的な手術台といくつかの医療器具が置かれていた。王一郎の地下室と比べると遥かに清潔に保たれておりスペースも広く天井も高かった。そして何より目を引くのが中央の台に置かれた縦長の水槽だった。

 縦に二メートル、横に一メートル少々のその水槽の中には、緑色の魚の下半身を持った金色の髪を持つ美少女が入っていた。その顔立ちはどこかびゅうびゅうとしとしとに似ており娘と言われれば納得が出来た。もっとも両者は母娘というには外見的な年齢の開きが少なく、びゅうびゅうとしとしとは精々二十歳程度なのに対し、この人魚の外見年齢的には十五歳程に見えた。

「これが……人魚」

 瓜子が感動した様子で水槽に近寄った。見たことのない来客に人魚は戸惑った様子でこちらをじっと見つめている。そんな人魚に、瓜子が声を掛けた。

「ねえ人魚さん。わたしを助けて欲しいの」

 人魚は小首を傾げて瓜子を見詰めた。

「この目ね。義眼なの。人から抉られて本当は空っぽなの。これを治したいのと、後もう一つ、それよりもっと大事な理由もあって……。とにかくあなたの涙が欲しいの」

 人魚は変わらず戸惑ったような表情を浮かべていたが、しかし瓜子の真摯な嘆願により水槽から身を乗り出した。水槽の前に置かれた脚立に立った瓜子の開かれた両手に向けて、人魚は涙の雫を落とし始める。

 瓜子がそれを一口飲むと、「わ、わわっ」と言いながら自分の右目を手で覆った。そして覆っていた手を開くとそこには先ほどまではめ込まれていた義眼があった。

 瓜子の右目は完全に修復されていた。義眼が外れたことでただの空洞があるだけのはずのその目には、瓜子自身の確かな右目が復活していた。それは現代の医学を超越した出来事だった。

「わあっ。あ、ありがとう人魚さんっ」

 狂喜した様子で瓜子は己の頭髪を触り始めた。そして「あれ?」と表情を凍り付かせて、「……こっちは変わってない」と小さく呟いた。

「良かったな瓜子」

 そんな娘の仕草にも気づいていない様子で王一郎は言った。

「だが眼球が復活した話は決して村人達にするでないぞ。その目を失ったことで溜飲を下げている村人達も決して少なくはない。義眼がはまっていると言い張り続ければおそらくバレることはないだろう」

「う……うん。そうだね」

 瓜子は視線を反らしながら王一郎に頷いた。

「では手筈通り……この人魚を寝袋に詰め込んで自動車に運ぶ。桃太、手伝うが良い」

「はい……王一郎さん」

 桃太は頷いて王一郎の作業を手伝い始めた。

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