第18話

「ありがとう輝彦さん」

 そう言って頬から滲んだ血を拭いながら、瓜子は立ち去った。

「ありがとうございます」

 桃太が同じように礼を述べると、輝彦は「気にしないで」と一言口にして。

「いつもこんな調子なのかい? 困ったことがあるのなら、村をあげて注意を促すこともできるよ。何でも言って欲しい」

「いいよ別に。輝彦さんは親切にしてくれたけど、でも村民会って基本わたしの敵じゃん」

 瓜子が言うと、輝彦は被りを振ってから厳かな声で答える。

「そんなことはない。村民会はすべての村人の味方だ。もちろん、君のことだって例外じゃないよ。頼ってくれて構わない」

「それって建前でしょ。皆から嫌われてるわたしの肩持ったら人気が下がるじゃん。そのくらいのことはわたしだって分かるんだもんね」

「瓜子さん。我々が重んじるのは、あくまでも公正さだよ。人気取りの為に動く者がいたとしても、そんなのは極一部に過ぎない。本当に困った時の一選択肢として、我々の存在は常にアタマに置いておいて欲しい。いつだって力になる準備はあるんだ」

「……分かった」

 腑に落ちないような表情を浮かべつつも、瓜子は首を縦に振った。

 「無理しないでね」という言葉を残し、輝彦はその場を歩き去って行く。

「顔の傷は大丈夫? 手当が必要なら、父さんの病院に……」

 桃太が声をかけると、瓜子は「大丈夫だよ」と首を横に振って。

「それよりさ。ちょっと聞いて欲しい話があるの」

「何かな?」

「わたしが前に何をしでかしたか。どうしてわたしが嫌われているか。どうしてわたしの片目が抉り取られたか」

 それを聞いて、桃太は息を飲み込んだ。




 川沿いの道に一つベンチが設けられていた。

 桃太と瓜子は並んでそこに腰かけていた。沈みかけた太陽は宵闇の中で溶けかかっていて、朱色の光がとろとろに滲み出していた。淡くなった光を受けた細切れの雲が空のあちこちにまばらに散っている。冷ややかさを孕んだそよ風が瓜子の豊かな髪を揺らしていた。

「毎年のお正月になると、海神様に赤ん坊を一人生贄に捧げてるって話はしたよね?」

 桃太は頷いた。この時になると、桃太は瓜子からだけでなく、色んな人からその話を聞いていた。それはこの村の生活と切って切り離せない儀式として、諦念を持って村人たちに馴染んでいるようだった。

 山奥に住んでいるという鬼の一族。その略奪から守ってもらおうと、村人達は海に住む海神に助けを求めた。海神はそれを了承した。毎年一人の赤ん坊を生贄とすることを見返りに。

「わたしずっと前からそれ大嫌いでさ。確かに、生贄を捧げて海神様に味方になってもらえば、自分達で鬼と戦うよりずっと少ない犠牲で村が守れることは分かるよ? でもだからって、そんなことするべきじゃないってわたしは思うの」

「それはどうして?」

「だって嫌じゃん。せっかく生まれた赤ちゃんなんだよ? 誰だって自分の子供が生贄に選ばれたら命懸けで抵抗して当然だと思う。武器を持って暴れたり、子供を連れて村を逃げたりしてさ。そしたら生贄なんて選びようがなくなるし、仕組み自体が破綻する。そうなるはずだとわたしは思うの」

「……でも、実際にはそうなっていない。確かに不思議だね。住めるところの限られた大昔ならともかくとして、今の時代、とうしてそんな仕組みが破綻しないで続いているんだろう?」

「親たちが平気で子供を差し出しちゃうからだよ。不平も言わず、暴れもせず、子供を隠しも逃がしもしないでさ。……でもわたしには、それがどうしても理解できない」

 好きで差し出している訳ではないだろう。だが、公平なくじ引きで決まったことだと言われ、圧力を掛けられれば屈してしまうものかもしれない。万に一つ生贄から我が子を逃れさせたとしても、引き換えに鬼が村を滅ぼしてしまうのだから。

「……他に方法がないってことなんだろうね」

 桃太は言った。

「誰だって他に方法があるのならそうしたいに決まってる。そしてその方法を探し続けている。けど今はそれが見付かっていないから、村は今の形でずっと続いている。そういうことなんじゃないのかな?」

「違うの。皆ちゃんと方法を考えてないの。今の状態を受け入れてるの。それが嫌なの」

 瓜子にはそう見えているらしい。だがそれを理想しか知らない子供の戯言と片付ける気には、桃太はならなかった。瓜子がそれだけ村の行く末を考えているように見えたからだ。

「こんな状態が続くくらいだったら、いっそ結託して鬼に立ち向かえば良い。鬼を滅ぼせば良い。鬼たちとの闘争に負ければ村は滅ぶけど、でもそれは今の状態を続けたって、同じことじゃない」

「……確かにそうだ。こんな村で子供を産みたがる人は誰もいないのだから、徐々に人口が減って緩慢な滅びを迎える。それは確実に訪れる運命だ」

 桃太は言った。そして、心からの意見を一つ言い添える。

「けれど、それは一番痛みの少ない滅び方でもある。言ってしまえば、この村は病床で死を待つ老人のようなものだ。痛みの伴う一か八かの荒療治を試みて苦しみの末に死ぬくらいなら、いっそ安らかにその時を待ち受けた方が、幸せだということもできる」

「……本気でそう思う?」

「思うよ。ただ、ぼくは所詮よそ者だ。いつかこの村を出ていくものだと思っている。仮にこの村で奥さんを貰ったとしても、この村では絶対に子供は産ませない。他所で家庭を作るよ」

「誰もがそう考えたらこの村はどうなるの?」

「滅びる。でも、それは自然な成り行きであって、悪いこととは違う」

 桃太が言うと、瓜子は俯いて黙り込んだ。

 太陽はほとんど沈みかけている。空は闇の部分が大半を占め、散り散りに浮かんでいた空もあまり見えなくなっていた。桃太は自然と月の存在を探し、それはあっけなく見付かった。鮮やかな黄金色の、怜悧に輝く十六夜の月だ。

「……去年の生贄は、千雪の弟だったの」

 漏らすようにして、瓜子はそう口にした。

「千雪は泣いてたの。ずっと楽しみにしていた弟だったのに、生まれてすぐに死んじゃうなんておかしいって。お父さんやお母さんがそれを受け入れているのもおかしいって。何が『仕方がないこと』なのか分からないって」

 桃太は黙ってその話を聞いていた。様々な感慨が心の中に浮かんだが、今はそれを口に出すべき時ではなかった。瓜子の話が終わるのを、ただ受け身でじっと待ち受けた。

「だからわたし達は、赤ん坊を助け出す作戦を立てた。赤ん坊は村長の屋敷に預けられていて、年明けと共に行われる儀式と共に、海神に食べられるのを待っていた。大晦日の日に、わたし達は屋敷に侵入して赤ん坊を盗み出そうとしたの」

 川の流れる音が耳朶を打つのはほんの数瞬で、瓜子は一つ息を継いだ後で話の続きを始める。

「待ち合わせの場所に、いつまで待っても千雪は来なかった。正直に言うと、そんな気はしてた。わたしも帰ろうかとちょっとだけ思ったけど……でもね、結局わたしはそれを実行した」

「……上手く行った?」

「行った。窓を割って屋敷に侵入した。赤ん坊が屋敷のどの部屋に預けられてるのかは、お父さんから聞いて知っていた。討魔師として、お父さんも儀式に参加するから詳細を知るのは簡単だった。お父さんは何でも話してくれた」

「それにしても……良く上手く行ったね」

「運も良かったよ。途中で何人か大人に出くわしたけどさ、村民会はお年寄りが多いからね。かけっこならわたしのが速かった。一度だけピンチになったけど、持って来た小刀を振り回したら、何とかなった」

「……それで。生贄を失って、村はどうなったの?」

「大変なことになった。大晦日の午前零時……つまり年明けを迎えたら海神が村にやって来るんだけれど、生贄が用意できてなかったから、怒り狂って嵐を引き起こした。洪水が起きて、儀式を見に来ていた大人二人と子供五人の合わせて七人が流されて死んだ」

「瓜子はその間、ずっと赤ん坊を連れて逃げていたの?」

「そうだよ。大変なことになったのは分かってた。抱いているこの子を差し出せば、嵐は止んで皆助かるってことも。このまま逃げ続ければ、海神様は去ったとしてもすぐに鬼が山奥から降りて来るってことも。そして略奪が起きてもっとたくさんの人が死ぬってことも、わたしは分かってたんだ」

「それでも、瓜子は逃げることを選んだ」

「そう。その時のわたしはね、赤ちゃんの手足だったの」

 瓜子は自分の選択に何の疑問も抱いていないことが分かる、しなやかな声で語る。

「村にいる大人も子供も、自分の手と足で、災厄から逃げることができる。この子以外の赤ちゃんも、誰かに抱いて貰えれば同じように逃げることが出来る。でもこの子にはそれが出来ない。自分の運命を自分で選べない。ただ何も分からず、何も知らず、何もできないまま、自分以外の誰かの都合の為に殺されて行く」

 言いながら、自分の両手をじっと見つめる瓜子の目には、そこに抱きしめられていた赤ん坊の姿が映っているようだった。

「そんなのって酷いと思った。この子にだって抵抗する権利はあるはずだと思った。この子の代わりにそれができるのはわたしだけだった。村の人達は、自分達の力で、自分達の命を守る為の行動を取れば良い。村の人達がわたしからこの子を取り上げようとするのは当然だけど、この子の手足であるわたしがそれに抵抗をするのも、また当然だってわたしは思った」

「それでどうなったの?」

「嵐の中、赤ちゃんを連れて道路を歩きながら、夜明けまではどうにか逃げ延びた。朝が来ても空には分厚い雲がかかっていて、ちっとも明るくならなかった。そんな雲の切れ間に首が二つある龍が踊っていて、それが海神様だった。わたしは歩けなくなって、木の幹に座り込んで気絶してたら、気が付いたら大人たちに囲まれていた」

「……捕まったんだね」

「一日遅れになったけど、その赤ん坊は無事に生贄に捧げられて、嵐は止んだ。来年以降も海神は変わらず村を守ってくれることになった。罪を問われたわたしは殺されかけたけど、お父さんが死に物狂いで頑張ってくれたのもあって、片目をえぐり取られるだけで済んだの」

 言いながら、瓜子は義眼のはめ込まれた己の右目に手をやった。

「大人が二人と子供が五人、洪水で死んだのはわたしの所為。だから、そのことで色んな人から恨まれている。綾香のお姉さんは死んだ子供の一人だし、さっきの中学生のお母さんも、死んだ大人の一人なんだろうね」

「顔は覚えてなかったの?」

「忘れてた!」

 瓜子は元気の良い声でそう言い放った。

「色んな人に囲まれて非難されたり殴られたりしたの覚えてるけど、でもその一人一人の顔なんて、ちゃんとは覚えてない。知ってるのは死んだ人たちの名前だけ。在原弘、末崎千尋、須藤京香、鈴木勝、西園健一、十文字廉太郎、乾奈津美! 以上!」

 そう言ってベンチから立ち上がり、瓜子は桃太の方にはかなげな笑みを向けた。

「わたしがこの話を今桃太にしたのはね、さっきの人に、『何も知らない桃太を誑かした』みたいに言われたのが嫌だったから。今、桃太は全部知っちゃった訳だけど、どう? わたしと友達やめたくなった?」

「なってないよ」

 桃太は即答した。

「君は命の恩人だし、そうでなくともとても素敵な女の子だ。過去にどんな咎を抱えていても、ぼくには関係ないよ。ずっと友達でいよう」

「ありがとう桃太」

 そう言って、瓜子は桃太の胸に飛び込んで来た。

「桃太なら絶対そう言ってくれるって、わたし、分かってたもんね」

 その言葉には何の欺瞞も孕んでいない。

 その魂に一切の歪みはない。

 真っすぐに、無邪気に、大勢の犠牲だけを置き去りにして、微かな穢れも纏わぬ笑顔で、ただじゃれついて来る。

 そんな瓜子が持つ大きな危うさを認識しながらも、しかし桃太はその暖かい身体を受け入れ、抱きしめたのだった。

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