第10話

 目を覚ますとそこは知らない天井だった。 

 桃太は自分が白いベットに寝かされているのに気が付いた。一見してそこは誰かの寝室のようで、それもおそらくは少女の寝室だった。枕元には熊や兎のファンシーなぬいぐるみが転がり、正面には大きな箪笥の隣に微妙に柄の違う白いワンピースが何着も吊り下げてあった。使い込まれた勉強机には教科書類ではなくビー玉が数個転がっており、遊びっぱなしで放置された形跡があった。本棚には児童書と漫画本が同じくらいの量と、少量だが大人向けの小説も置かれており、それなりに空いたスペースにはぬいぐるみや少女人形の類が飾られていた。隣にある整理棚の中身は文房具なども混ざっていたが、収納物の大部分はオモチャだった。

「起きた?」

 その声は桃太のすぐ隣から聞こえ、振り向くと数センチ先に瓜子が寝転んでいた。桃太は思わず仰天する。一つのベッドのすぐ傍で瓜子が横になり桃太の様子を見守っていたらしかった。

 想像するにここは瓜子の部屋であり瓜子のベッドらしかった。鼻息がかかる程の距離にある瓜子の顔はシミ一つなく、その小ささは両手に収まる程で、顔の美しさは完璧に造形された芸術品のようだった。そしてその全体からそこはかとなく甘く香しい匂いがした。

 桃太は思わず体を起こそうとした。すると、「ああん布団めくれる」と言って瓜子が腕で制止して来た。

「なんで一緒に寝てるの?」

「桃太気絶したから家まで運んで来た。桃太細い方だけど背ぇ大きいから、運ぶのに脚引っ張るしかなかったけど、それはごめん。そんでとりあえずわたしのベッドに寝かせたら、なんか隣で寝たくなった。だからそうした」

 そして「えへへ」と言いながら布団の中で桃太の身体に腕を絡めて来た。それは単なる幼い戯れと甘ったれであり、瓜子がまだ十二歳の小学生であることを差し引いても、不埒な目的などはなさそうだった。

 この少女のそのあたりの観念が著しく未熟であることはあらかじめ承知している。しかし対する桃太は実はなかなかのむっつりであり、隙を見て父の部屋に忍び込んでは猥褻な本を熟読する程だった為、自分の今置かれている状況に少なからず動揺した。

「我が聖姫瓜子よ! 猿の妖魔の封印に成功したぞ! これしきのこと魔王たる我にとっては造作もない。ふーははははっ!」

 言いながらノックもせずに部屋に入って来たのは瓜子の父である王一郎だった。無造作に扉を開け放つその無神経さは、今は良くても、瓜子が本格的な思春期を迎えた際何らかの諍いタネになりそうである。

 それはともかく、王一郎が目の当たりにしたのは一つのベッドで乳繰り合う娘と薄汚い少年の姿である。王一郎が憤怒の表情を浮かべるのは無理からず、桃太が恐怖を感じる間もなくその大きな手で胸倉を掴み上げられ、壁に押し当てられた。

「何をしておるかこの糞尿野郎めぇええ! 無限奈落に落としてくれようかああ! 我がその禁じられし力を解放すればその薄汚い首と胴体は泣き別れになると知れぇえ」

「ちょっとお父さん! 桃太のこといじめないでよ!」

 娘の制止に王一郎は渋々桃太を解放した。そして事情を瓜子から聞いて、桃太への敵意を消し止めた。

「なるほど……。父に甘え毎夜その胸に縋り眠った、失われしあの日々のように、学友相手に無垢なる戯れを起こしたということか。しかし娘よ、其方も齢を十二を迎え心身の発育著しく、その魂は成熟に向かっている最中であろう。然るに異性への振る舞いには再考が必要であると心得よ。ようするに、その……男の子と添い寝とかお父さんそういうのどうかと思うっ!」

「良いじゃん桃太とは仲良しだもんね。ねぇ桃太、別に良いよね?」

 そう水を向けられ、桃太は「ぼくにはなんとも……」と言葉を濁した。しかし王一郎の睨むような視線を見て、「お父さんの言うことは聞くべきだと思うけど……」と蚊の鳴くような声で言い添えた。

「しかし童よ。さとりに憑かれるとは愚鈍だな。討魔師の我がいなければ、貴様はその社会的信頼を著しく損ねていたに相違ない」

「……それについては、その、すいません。というかさとりはどうなったんですか?」

「今しがた封印して来たところだ」

「ど、どうやって?」

「造作もない。ただ捕まえて檻に入れ、布を被せるだけだ」

「心を読む妖怪を、どうやって捕まえることができたんですか?」

「ふん。分かっていても避けられぬ攻撃はある。瞬劇の速さにて迫り来る魔王の腕から逃れることなど、この世に生まれしその時から既知であっても不可能だ。もっともそれは達人の腕があってこそ。並の猿を遥かに凌駕する機敏さを持つさとりを捕まえられる者など、この狭い村には我しかおらぬ」

「すごいな……」

「さとりは一度目が合った者に取り憑くが、一定時間目を合わさないことで、憑依状態から脱する。さとりは今我が秘密の地下室にて幽閉中だ。これだけ距離を取れば心を読まれることもないだろう」

「お父さんの地下室って、捕まえて来た色んな妖怪が檻の中にいるんだよね」

 瓜子が目を輝かせながら言った。

「わたし、一回で良いから見てみたいなあ。ね、ね、お父さん。やっぱりダメ?」

「娘よ……すまないがそれだけは叶えられぬ。地下室に満たされた壮絶なる妖気に耐えられる者など、魔王たる我を覗いてこの村に一人たりともいないのだ」

 そう言って高笑いをする王一郎に、瓜子は唇を尖らせて見せた。

「とにかくだ。童よ、これでもう何も心配することはない。精々、のどかなる安逸をむさぼるが良い!」

「あ、ありがとうございます」

「娘の頼みだ。気にするな。それに……さとりが手に入ったのも思わぬ収穫だったしな」

 そう言って不敵に微笑む王一郎が、桃太には恰好良くも見えた。腰に刀をぶら下げ妖怪退治に精通する彼は、まるで活劇の主人公のようだった。

「とにかく……お世話になりました」

 桃太は王一郎に頭を下げ、瓜子にも「ありがとう」と礼を言った。

 瓜子からは「ちょっと家で遊んでいかん?」と誘われたがもう帰らなければならない時間だった。親子に見送られ家を出ると、夕焼け空を眺めながら帰路に着く。

 ……さとりに心を読まれ、その内容を暴露されたことを思い出す。

 桃太は顔から火が出る程恥ずかしくなり、戯れとは言え「死にてぇ」と口を吐く程げんなりとした。




 翌日。

 学校に行くと、クラス全体で向かうことになっていた満作の葬式を無断で欠席したことについて、瓜子と桃太は教師からそれぞれ一発ずつの拳骨で制裁された。

 それなりに痛かったが、一発で済ませてくれるだけ、体罰の度合いは東京の小学校のそれと比べて緩やかだった。ネチネチと説教されるよりは潔く一発殴られれば終わりになる方がありがたく、沙汰が終わった後桃太は思った程の罰を受けなかったことに安堵していた。

 やがて授業が開始される。

 学友の葬式の翌日にも関わらずその日は抜き打ちの小テストが行われ、その日の内に帰って来た。当然のように満点を取った桃太の答案を覗き込み、瓜子が「すごいね」と目を丸くした。

「勉強は得意な方なんだ。瓜子の八十点も上出来だろう?」

「あの先生のテストで満点ってわたし初めて見るよ。絶対に満点は取らせないように難しい問題二つくらい混ぜて来るのに、桃太ってばすごいんだね」

 一瞬『これで?』と言いたくなる桃太だったが、そんなことはおくびにも出す訳にもいかなかった。名門小学校に通っていた桃太にとって、田舎の平凡な学校のレヴェルというのは未知であり、そこにある大きな差異に度々カルチャーショックを受けていた。

「へぇ。桃太くんって勉強できるんだ」

 そう言って、桃太の答案を覗き見る女生徒の姿があった。

 級長の須藤綾香だった。肉体の発育が良く百五十センチの上背を持ち、生半可な大人に匹敵しかねない程胸や尻も発達した女子だった。顔の作りも良い方で、眉の太い上品な顔立ちで、全体の雰囲気は大人びていた。

「わたしは八十五点だったわ。いつもは満点に少し届かないくらいの点が取れるんだけれど、今回のテストは難しかったから」

「綾香ってクラスじゃ一番頭良いもんね。誰かに負けたのって初めてなんじゃない? でもそれ桃太が凄すぎるだけだから、心配いらないよ」

 瓜子がそう言って口を挟んだ。綾香はぴくりと眉を動かしてから、剣呑な顔になって視線を一瞬だけ外に反らせた。

「やっぱ無視だよね。知ってるもんね。でもわたし平気だもん気にしないもーん。無視するんだったらさずぅっと耳元で悪口言ったげる。綾香のばーかばーかばーかばーかばーかっ」

「ちょっとバカバカ言わないでよ。うるさいわね」

 綾香が上品な笑みを浮かべながら、作ったような笑顔を瓜子に向けた。

「そんな何度も言わなくっても、もう無視なんかしないわよ。瓜子」

 そう言われ、瓜子は表情を消してぽかんと口を開けた。そしてしばらく肩を震わせると、感極まった様子で声を発した。

「本当に……? なんで無視しないでくれるの?」

「そりゃあそうでしょう? あんたを無視しろっていうのは満作の命令でしょ? その満作がいなくなったんだから、今更あんたを無視する理由なんてないでしょ?」

 そう言われ、瓜子はみるみる目に涙を貯め始めた。そして「わぁーいっ」と言いながら綾香の身体に飛びつくと、抱き着いてそのあちこちに頬ずりを始めた。

「やったぁ! やったぁ! もう無視されなくて済むぅ! みんなの仲間に戻れるんだぁ! やった! やったぁあああ!」

 綾香の肩に捕まって瓜子は幾度となくその場を跳ねた。そのはしゃぎようは凄まじく、見ている桃太の方にまで喜びが伝わって来る程だった。

 仲間からの無視は瓜子の心にそれだけの外傷を残していたことが見て分かり、それが解消されたことに桃太も喜びと安堵を覚えていた。同時に、これで自分は瓜子の『唯一の友達』ではなくなったことを思うと、微かな痛痒な胸の奥で響いた。

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