第2話

 翌日。

 昨日は勢いで死ね子を図書館に誘ってしまったが、よくよく考えてみると女の子と二人っきりで遊びに行くというのが実は無茶苦茶恥ずかしいことだと、俺は気が付いた。大焦りした俺は慌てて霧香を拝み倒し、一緒に付いて来て貰うことにした。

 見返りに朝食のミートボールを三つも取られた。

 暇な癖に。

「もう時間がないぞ? 暑いからって、そんなだらだらと歩くなよ」

 待ち合わせ場所への道中である。空は雲一つない晴天で、カンカン照りの太陽が、突き刺すような日差しを放っている。どこを歩いても激しいセミの音が俺達を取り囲み、そこに時折、生ぬるい風が木々を揺らす音が混ざった。

「こんな暑い日にまともに歩けませんよぅ」

 霧香は汗をぬぐいながら文句をけだるげな声で言った。

「おまえがちゃんと早く準備をしてくれりゃもっとゆっくり行けたんだよ」

「ズボラ男子の兄さまには分からないでしょうが、女の子の身支度は時間がかかるんです」

「嘘吐け。服なんかまるで選ばない癖に。九分九厘ウンコの時間だったじゃねぇか」

「昨日下痢ツボ押しまくったのはいったいどこの誰ですか」

 なんてやり取りをしていると、待ち合わせ場所にたどり着く。

 塾の前にある公園である。図書館の場所を知らない俺を案内してもらう為に、ここで死ね子と待ち合わせることになっていたのだ。

 ベンチでに腰かけていた死ね子は俺達の到来に気付いて笑顔を向けた。

「暑い中待たせて悪かったな。死ね子」

「ううん。今来たとこだよ。……その子は?」

「ああすまん。妹だ。スイッチをゲットしたがってる当事者だから、連れて来たんだ。割とこういうの強い方だから、戦力にもなると思って……。勝手に連れて来てごめんな」

「ううん。それは全然良いよ」

「おい霧香。自己紹介しろ」

 そう言うと、俺の後ろに隠れ気味だった霧香は、死ね子の顔を見てどこか安堵した様子で一歩前に出て、胸を張って声を張り上げた。

「わたしの名は夏休みマスター・霧香! 誰よりも夏休みを楽しむ者!」

 年上のお姉さん相手にふざけた自己紹介だった。軽めに窘めておくべきか逡巡していると、死ね子が。

「霧香ちゃん、お久しぶり」

 と親し気な笑顔で応じた。

「兄さまに女の影と思い、人見知りをこらえて視察しに来てみたら……よもや死ね子さんでしたか」

 そう言う霧香に、俺は目を見開いて尋ねる。

「知り合いなのか?」

「ええ。数日前、馴れない土地で道に迷っていたところを、自宅まで案内していただきました。色々とお話もして、仲良くなりました。死ね子さんは親切なお姉さんです」

 そんな関係があったのか。というか。

「年上のお姉さんに『死ね子』はまずくねぇか?」

「本人がそう呼べっていうんですもん。それは兄さまも同じでしょうに」

「そうだけど……。まあ良いや。とっとと涼しいところに行っちまおう」

 そう言って死ね子に視線を向ける。死ね子は微笑んで立ち上がる。

「そうだね。すぐ図書館に行こう。ここからそんなに遠くないし、とっても涼しいよ」


 〇


 死ね子の推理はやはり当たっていた。

 『442アン』の番号を持つ本は市立図書館に一冊だけあり、タイトルは『超解説・モールス信号』とある。その本の隙間に、二つ目の謎の描かれた紙が挟まっていた。

「しかし、ナシモトトカズミさんもいい加減ですね」

 挟まっていた紙を取り出しながら、霧香が言った。

「そ、そうかな?」

「そうですよ死ね子さん。別の誰かが借りてたり、紙を捨てたりしてたら、どうするつもりだったんだか」

 そんなやり取りを尻目に、俺は霧香から受け取った紙の一枚を開いた。


 26 13 15 003 01 23


「ううむ……」

 白丸と黒丸の次は、数字の羅列か。

 これだけだと情報が少なすぎて、俺の知り得る限りの謎解き知識では、とても法則性は見いだせない。

 ヒントを求めて、俺は二枚目の紙を開いた。

 そこにはビットくんが登場しており、吹き出しで何やら宣っている。


『今回の謎にはどこにもぼくたちビットくんが見当たらないね。どこにいるのかな?

 謎を解くカギは、君が今持っている本に書いてあるよ! この謎を解いたらスイッチが手に入る! 頑張ってみて!』


「今持ってる本って……これか」

 俺は『超解説・モールス信号』をぱらぱらとめくってみる。モールス信号について、子供がネットでも余裕で手に入れられる程度の、初歩的な知識が書かれていた。

「とりあえず、この本は借りて帰るとして……。この暗号について話し合わなきゃな。どこか席に着いて話そう。あそこの四人掛けが空いて……」

「待ってください。それはまずいでしょう。どこか外で議論をすべきです」

 霧香が眉をひそめて言った。

「え? なんで? ここ涼しいのに……」

「図書館で議論なんかしたら司書さんに八つ裂きにされますよ? 静かにしていないと首の骨をへし折られ、見せしめとして図書館の前に吊るされるって習わなかったんですか?」

「そこまで過激じゃないだろ」

「前の学校の図書室では、わたしの友人の内の三人がそれで英霊になりました。……本を積み上げてお家を作って遊んだばっかりに……恐ろしいことです」

「自業自得なんだよなあ……」

「とにかく、そんな恐ろしい場所で話なんかできません。場所を変えるべきです!」

 大げさな。しかし図書館だと声量に気を使うから議論しづらいってのは確かだ。そう思い、死ね子に良い場所はないかと尋ねると。

「近くにイオンモールあるよ」

 と言う。「えマジですか?」と霧香が目を輝かせたのもあり、そこに向かうことにした。


 〇


「ゲームセンター行きたいです」

 モールに着くなり、霧香がそう言った。

「謎解きをしに来たんじゃなかったのか?」

「まあ良いじゃないですか。せっかく夏休み初日なんですから、遊びましょうよ」

 本来の目的とは異なるが、死ね子はどうやら優しい性格で、俺も妹には甘い方だ。霧香の希望が通り、俺達はイオンのゲーセンにいた。

「うぉおお! 広くて良いゲーセンですね」

 霧香は興奮した様子である。

「そんなにか? 前の街にあったのとそんな変わらないぞ?」

「ははは兄さまの目は節穴ですね。概算にしておよそ1.1278倍程広いじゃないですか」

「細かすぎて誤差だわ」

 絶対にテキトウに言っている。どうやらはしゃいでいるらしい。

 はしゃいだまま、霧香は一目散に千円を崩しに両替機へと向かっていく。夏休み序盤に小遣いを使い果たして泣きを見ないか、お兄ちゃんは心配である。

「付き合って貰ってすまないな、死ね子」

 俺が声をかけると、死ね子は首を横に振って。

「ううん。霧香ちゃんの言う通りだよ。夏休みの初日なんだから、遊ばないとね」

 と、そこで。

「そうですねぇ。何せあなた達は今日を含めて四十連休。この世の楽園にいるかのような解放感でしょう。羨ましさを通り越して妬ましい気持ちです。いっそ殺意すら湧いてきますね」

 唐突に、にこやかでありながら淡々とした声が、俺達の耳朶に響いた。

 振り返る。担任教師の黒岩が、ベンチに腰掛けながら、いつもの張り付けたような笑顔を向けていた。

「しかしこの場所は決して楽園などではありません。子供達からなけなしの小遣いを毟り取るべく、資本主義社会が生んだ悪魔の施設なのです。見てくださいクレーンゲームの筐体の数々を。山のように詰め込まれた魅力的な景品の数々が、あなた達の財布の中身を搾取しようと愛嬌を振りまいているではありませんか。どうかあなた達が散財を積み重ね、小遣いを失くしてひもじい夏を送ることを、先生は神に願ってやみません」

「不吉なことを言うなよ!」

 俺は吠えた。

「つか、なんであんたがこんな場所にいるんだよ!」

「おやおや先生に向かって随分な口の利き方ですね? 休みの日は一秒たりとも生徒の為に働かない先生ですが、しかし激しい体罰を行使するという教師の権利は常時フル活用するスタンスだということを、どうか忘れないでくださいね」

「体罰は教師の権利じゃねぇ!」

 何で夏休み初日からこんな奴に会う羽目になるんだ!

 つか仕事はどうしたんだよ! 今日は平日だろう?

「何故先生がここにいるか? 簡単なことです。『有給』を取ったのですよ」

「……そ、そうなのか」

「ええ。夏休みは、なんだかんだ仕事も少ないので、有休もとりやすいですからね」

「それで……何でまたゲーセンに?」

「先生だってゲームセンターくらい行きますよ? 何せ、夏休みのゲームセンターには女児がたくさんいますからねぇ。学校ではいつも同じ制服を着ている女児の新鮮な私服姿を、思う存分『視察』できると言う訳なのです。神聖にして高貴な休日の過ごし方と言う訳ですね」

「キモいじゃなくて気持ち悪い……」

 太陽系で最低の教師に一票入れたい気分だった。

 そんな大問題教師黒岩からはとっとと離れるに越したことはない。尚も訳の分からない話を続けようとする黒岩を無視して、俺達は霧香の方へと向かった。

 霧香はクレーンゲームの筐体の一つの前で、ぼんやりとした表情で立ち尽くしていた。

「何してるんだ? 霧香」

「あ、兄さま」

 霧香はそう言って、筐体を指さす。

「この筐体が目当てなのです」

「だったらすぐに遊べば良いじゃないか」

「しかし中の景品は今にも落ちる寸前です。ここまでやって諦める人は少ないでしょうし、誰かがやっている途中で両替などで離れたのかもしれません。少し様子を見てから遊ぶのがマナーというものでしょう」

 この辺のモラルは身に付いている子供である。と言うか、根が臆病なので出来るだけトラブルは避けたいのだろう。

 もっとも、備わっているキープ機能も設定されていないし、場所取りの為のものが置かれていたりはしないので、別にすぐ遊んじゃっても問題なさそうには見える。それでも霧香は少しの時間をおいて、周囲の両替機に人がいないのを確認した後、筐体の前に立った。

「これが欲しいの?」

 死ね子が訪ねる。

「ええ。カービィは大好きなキャラクターです。この景品もずっと欲しくて。……しかしブックオフでもネット通販でも見かけませんし、これはまたとないチャンスなのです」

 カービィのオルゴールである。『夢の泉』というカービィの世界にある神聖な泉をモチーフにした台座の上で、カービィが笑顔で星形の杖を掲げている。

 二本の棒の上に乗せられた四角い箱を、クレーンで動かして落下させるという仕組みの筐体だ。しかし箱は斜めにずり落ちかけており、適切に動かせば数百円で手に入りそうである。

 実際、霧香は上手く景品を取った。四百円と小学生にとってはそれなりの金額がかかったが、それでも最後はアームの腹で押すような形で、上手く落とすことに成功したのである。

「霧香ちゃん、すごい! 上手!」

 死ね子は拍手をしてやっていた。

「こいつ上手い方なんだよ。良かったな霧香」

 俺もそう言って祝福した。霧香は照れ笑いを浮かべながら、大事そうに景品を抱きしめている。

「えへ」

 カービィは本当に好きだから嬉しいだろう。スイッチのソフトも動画投稿サイトでしょっちゅう視聴して、いつも遊びたそうにしている。

 こいつの為にも、スイッチを手に入れてやらなきゃいけない。

 今日と言う日も、良い思い出になりそうで、それも良かった。

 そう思った時だった。

「ちょっとぉ。それ、俺らが取ろうとしていた景品なんですけどぉ?」

 如何にも下賤な声が響いて、俺達の前に三人組の男女が現れた。

 男二人、女一人の組み合わせである。年齢は中学生程で、男は二人とも俺よりでかい。

「ハイエナ行為やめてくれる? 誰かが良いところまで進めたのを横取りするなんてのはさぁ、卑怯だろう? 俺らが取るはずだった景品なんだから、返してもらえる?」

 そう言って大人と子供程身長の違う霧香に凄む坊主の中学生男子。卑怯だ。後ろでは金髪の中学生男子が牽制するように俺を睨み付け、威圧することで後方支援している。

 さらにその背後にいる紅一点の女がにやにやとした顔で言った。

「そうだよ。それ、ウチらのだから。持って帰ってメルカリで売りまーす。キャハハハハ」

「待てよ!」

 怯えて顔を蒼白にする霧香を背後に庇い、俺は前に出た。

「あんたら筐体の近くにいなかったじゃないか! 三人いるんだから、誰か一人が筐体の前で場所取りをしてたら良かっただろ? それにこの台にはキープ機能もあるのにそれも使ってなかった。それで横取りされたってのはおかしくないか?」

 俺は三人組の落ち度を指摘する。しかし。

「おい! 敬語使えよ!」

 中学生男子(坊主)は問答無用だった。

「俺らがそこまで動かしたんだからそれは俺らのだっつーの! とっとと寄越せ!」

 そう言って、霧香の腕からオルゴールの箱を強引に奪い取る。

 俺は目の前が真っ赤になり、激しい怒りに支配され、我を忘れて叫んだ。

「何をしやがる!」

 その時だった。

「お客様。店内でそのような行為は困ります」

 店の店長らしき男がそう言って、中学生に声をかけた。

「……なっ」

 中学生(坊主)は絶句して店員を見詰めた。

 見れば死ね子がびくびく震えながら、数人の店員に囲まれて立っている。どうやら騒ぎの途中で、店員に助けを求めに行ってくれていたらしい。

 アタマに来て口論していただけの俺などよりも、遥かに冷静で適切な行動だった。

 名札に『店長』とある年嵩の男が先頭に立ち、背後ではアルバイトらしき若者数人が中学生達ににらみを利かせている。二十歳前後だろう彼らは体格も良く、中学生達よりも肝の据わった態度だった。

 これでは三人組はたまらない。中学生達は不承不承という表情で霧香にオルゴールの箱を返却すると、ふてくされたように立ち去って行った。

「ありがとうございます」

 ぺこぺこと、死ね子が店員達に頭を下げている。店長が安堵の息を漏らし、若者店員達は「大丈夫だった?」と死ね子や俺達に優しい言葉をかけてくれた。

 俺は適切に職務を全うしてくれた立派な店員達と、冷静に彼らを呼んでくれた死ね子に深く感謝した。


 〇


「ありがとうな死ね子。店員を呼んできてくれて」

 モールからの帰りがけ、俺がお礼を言うと、死ね子は「ううん」と首を横に振った。

「こんなことしかできなかったから……。オルゴールが取られずに済んだのは、南方くんが堂々とあの人達に立ち向かってくれたからだよ」

 あのままモールにいるのは何となく怖いという霧香に配慮し、俺達は再び炎天下の中を歩いていた。

 モールのある国道沿いから離れ、ドブ川と田んぼに挟まれた閑散とした脇道を、少しつんとしたにおいを嗅ぎながら進む。ヘドロだらけで脂ぎったドブ川だったが、それでも水の流れる音だけは、妙に涼し気に俺達の耳朶に響いた。

 人がいない。脇道だからだ。どこかテキトウな場所に腰を落ち着けて、本来の目的である謎解きを始めよう、と話し合ったところで。

 物陰から先ほどの坊主の中学生達が現れて、俺達を取り囲んだ。

 俺達三人は絶句する。にやにやとした表情で、坊主の中学生が頭上から下卑た声を俺達に降り注がせた。

「さっきは、良くも恥をかかせてくれたな」

 逆恨みしてやって来たらしかった。どうやら、俺達が人気のない場所まで来るのを、後ろから付けて来ていたらしい。恥をかかされたと言って、執念深い。

「恥をかかせたって……。悪いのはあんたらじゃないか!」

 俺が言うと、坊主は俺の胸を掴んで、俺の肩を続けざまに二回、殴った。

 それなりに痛かったが、動揺する程のダメージじゃない。俺が坊主を睨み付けると、「ガンくれんなよ!」と睨み返して来た。

 紅一点の女が居丈高な声で言った。

「謝んなよー。元はと言えばさ、あんた達がウチらの景品を横取りしたのが悪いんじゃんさー」

「あんたらは諦めてたんだろ!」

 俺は吠える。

「だから台から離れてたんだろ! それを俺達が取ったもんだから、横取りされたみたいでムカつくってだけなんだろ! 通るかよそんな自分勝手な理屈! ふざけるな!」

「黙れ!」

 吠え返されて今度は頬をどつかれる。唇を切って、少し血が滲んだ。

 しかしこんな痛みなど何のことはない。俺はあくまでも毅然とした態度で、じっと坊主のことを睨み返す。

 動揺しない俺を見て、坊主達は苛立ちと困惑を募らせた様子だった。どうやら、押しているようだ。俺はさらなる反論をする為に口を開きかけた。しかしその時。

「あ。あの……その……」

 霧香が俺の前に出て、震える手でオルゴールを差し出した。

「ごめんなさい。これ……」

「あ?」

 坊主がそう言って霧香を睨み付ける。

「返すから……。だから、お兄ちゃんを殴るのはやめて……」

「おい霧香! 渡すことないぞ!」

「だ、だってお兄ちゃん。殴られて。だって。わたし、怖い……」

 幼い頃と同じ口調でそう言って、霧香はその場で顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまう。

 霧香は、滅多に泣くことはない。

 こいつは臆病な性格だが同時に我慢強く打たれ強い。自分が脅かされるだけならいくらでも耐える。屈服しない。大切なおもちゃを差し出したりしない。脅かされたからと言って、そこから逃れる為に自分の何かを差し出すことが、とてつもなく愚かな行いであると知っている。

 バカじゃない。

 でも霧香は優しいのだ。自分が何をされるよりも、俺が殴られることの方が遥かに怖くて嫌なのだ。それを避ける為ならば、せっかく手に入れたオルゴールも手渡してしまうのだ。

「ふん。別にこんなガキみたいなもん、別に欲しくはねぇよ」

 そこで坊主の取った行動は卑劣の一言だった。

 坊主は霧香からオルゴールを引っ手繰ると、あろうことか傍のドブ川に捨ててしまった。ドブ川の緩やかな流れはそれでもオルゴールを巻き込んで下流へと運び、瞬く間にオルゴールは見えない程遠くに行ってしまった。

「キャハハハハ! 良い気味!」

 紅一点の女が、その様子を見て下品な笑いを上げる。

「あーすっきりした。おい、行こうぜ、おまえら」

 そう言って、三人組は俺達を嘲笑しながらその場を立ち去ろうとする。

 俺は目の前が真っ赤になった。

 こいつらは卑劣だ。クズだ。悪党だ。今すぐ八つ裂きにしてやりたい。

 だが俺が殴りかかって喧嘩になったら、死ね子や霧香にも危険が及ぶだろう。そう思ったから、どれだけ肩や顔を小突かれてもじっと耐えて来たのだ。

 だったら……それを貫くべきなのだろうか? 今は歯を食いしばって耐えなくてはならないのだろうか? それが本当の勇気なのだろうか?

 俺はふと霧香の顔を見る。

 泣きじゃくっている。怯えて泣いて、震えている。本当はこの卑怯な三人組よりも遥かにまっすぐでしなやかな魂を持っているのに、ただ歳や体格が上だと言うだけの糞野郎どもに怯え、理不尽に泣かされている。

 ……それを見て、俺は決めた。

 どうするのが正解か、じゃないのだ。

 俺がどうしたいか、でもないのだ。

 この場で最もつらい思いをしている霧香が、兄である俺にどうして欲しいかなのだ。

「てめえらあああああ!」

 そう言って、俺は坊主頭を血祭にすべく、拳を振り上げて突進した。

 突然の反撃と俺の剣幕に、坊主頭は怯む。武道的心得もなければ大して喧嘩馴れもしていないのだろう。卑小な精神性を現したような面食らった顔で、坊主頭は反撃の構えもできずに、ただただ俺に殴られるのを呆けて待ち受けていた。

 その時だった。

「そこまでです。止まりなさい南方くん」

 鋭い声が響いた。

 俺は思わず振り上げていた拳を下した。

「本来ならば、勤務時間外に子供同士が如何にトラブルを起こそうと、そこに介入するような主義を先生は持ち合わせていません。何故ならそんなことをしても一文の得にもならないからです。しかし……」

 大問題担任教師・黒岩だった。近くに止めてある車から降りて、一歩ずつ俺達に近付いて来ている。

「今回は例外です。何故なら、私はあなた達のようなKUSOGAKIが、心の底から大っっっ嫌いだからです」

「きゃ……キャァアアアア!」

 中学生三人組の紅一点である女が、黒岩の顔を見て悲鳴を上げた。

「こいつ……こいつ……黒岩ぁ! あ、ああ……ああああああ! いやぁああああ!」

 怯えを通り越して絶望した表情で顔をくしゃくしゃにして後退る顔面蒼白の女。な、何をいったいそんなに怯えているんだ……っ。

「お久しぶりですねぇ田辺さん。あなたが卒業してから一年と数か月と言ったところでしょうか。せっかく先生が『愛情』を持って『矯正』して差し上げたというのに、すっかり悪ガキに戻ってしまったようで。嘆かわしい限りですねぇ」

 田辺と呼ばれた女はその場で腰を抜かし、子供のように大声で泣きじゃくり始めた。全身を震わせながら「助けて、助けて……」と悲壮極まりない声で呟いている。

「嫌だぁ……もう水飴は嫌ぁ。アワビも嫌だしピンポン玉も嫌ぁああ。助けてぇええ。助けて神様ぁああ。神様ぁあああ!」

 そう言って滂沱の涙を流す田辺。……い、いったいこの二人の間に何があったんだ……。

「な……なんなんだ田辺。このおっさん、そんなにヤバいのか……?」

「こいつは……黒岩は……あたしの尊厳の全てを奪ったの……。思い出すだけで……吐き気が……。う、うぅうう。うぅううおおおおえぇえええ。ゲロゲロゲロゲロ!」

 顔を白黒させながらその場で吐き始めてしまう田辺。

 マジで何なのこの担任教師? いったい何をやったの? 法には触れてないの? 大丈夫?

「心配しなくても先生が『愛』を込めた『指導』をするのは、あなた達のようなKUSOGAKIの中のKUSOGAKIだけです。さて、今のやり取りはすべて録音・録画させていただいています。先生は警察署の少年課ともパイプがありますから、これを使ってあなた達を『どうとでも』することができます。さあどうしますか? きちんと非を認めて、先生の特に大切でもない生徒(クソガキ)達に謝るか。或いは逆らって先生に『どうとでも』されてしまうか。選んでください。先生はどちらでも構いません」

「謝ります! だから、だから水飴だけは! アワビだけは! ピンポン玉だけはぁああ!」

 田辺は俺達に向かって激しく鳴きながら土下座を始めた。

 坊主と金髪はドン引きしてその様子を見守っている。そこだけ切り取ると俺と同じである。

 黒岩は坊主と金髪に向けて、張り付けたような笑みで淡々とした口調で言った。

「さて坊主頭くん。金髪くん。あなた達はどうするつもりですか?」

「て、てめぇ……偉そうに」

 二人は不良としてのプライドからか、恐怖に震えつつも謝ることを躊躇していたが、しかし黒岩の能面のような微笑み面に臆したかのように、やがて苦悶の表情で俺達に頭を下げた。

「ごめんなさい」

 完全勝利だった。形勢逆転にも程があった。

 それから黒岩は三人組から電話番号を聞き出してそれぞれの親に連絡を入れ、さらには俺達の親にも連絡を入れ、「改めての謝罪や賠償は当然として、お子さん達と話をして、被害者側が納得行くように収めてください」と迅速に話をまとめてしまう。

 そうしてようやく解放された三人組を見送った後……「さて」と黒岩は俺の方に向き直った。

「ところで南方くん。あなたは、前の小学校で空手をやっていたと聞いています。それも、かなり強かったと」

 そう言われ、俺は思わず「……はい。そうです」と返事をした。

 敬語である。

「君は先ほど不良たちに殴りかかろうとしていました」

「はい」

「それは何故ですか?」

 そう言われ、俺は先ほどの自分の決断について思いを馳せる。

 あの時、不良共は、もう満足して帰ろうとしていた。だから殴りかかったのは、自分や霧香達を守る為でなく、結局はただ俺がそうしたかったからに過ぎない。

 だがあそこで坊主をぶん殴ったとしても、霧香のオルゴールは戻って来ない。

 殴りかかってトラブルが大きくなったら、霧香や死ね子にも危険が及ぶ。

 だったら、あそこは我慢して、後から親に事情を話して警察にでも行くことも、間違った対処ではなかったような気はする。

 だがしかし。

「……あそこで霧香の為に立ち上がれないようなら、兄貴である意味がないような気がしたんです。自分を鍛えた意味が……ないような気がしたんです」

「そうですか。まあ、気持ちは分かります」

 黒岩は相変わらず張り付けたような笑みを浮かべて、淡々とした声で語りかける。

「基本的に、無暗に暴力を振うのは卑怯なことです。しかし、人には戦わなければならない時があることも、また確かです。そうなった時に、戦いからは決して逃げてはいけません。ですが、その戦わなければならない時というのは、実は一生の内に一度あるかどうかなのです」

「一生の内、一度あるかどうか……」

「ええ。その一回が来るまでは、とことんまで暴力以外の方法を考えましょう。逃げるのでも、他人に頼るのでも構いません。しかしその一回を見極めた時は、遠慮をする必要はありません。戦って下さい。それは勇気です」

「…………」

「その一回の為に鍛えた君の力は価値のあるものです。だから、その時が来るまで、その拳は大切にしまっておきましょう。良いですね? 南方くん」

「先生……」

 思わず、俺は感銘を受けていた。

 こんな大問題教師に、こんなちゃんとした教えを説かれるなんて……。

 とんでもない人ではあるけれど、少し認識を改めるべきなのだろうか。

 そう思っていた俺に、黒岩が言う。

「……と、いう一連のお話は、先生の好きなエロゲーに出て来た台詞のほぼ丸パクリです」

 台無しだよ!

「もちろんロリ系です」

 余計に台無しだよ!


 〇


 その後俺達はそれぞれの両親からの呼び出しで自宅へ戻り、今回のトラブルに対して今後どうするのかを話し合った。

 オルゴールを弁償してもらえればそれが一番良かったが、しかしゲーセンの景品という性質上、金を出せば手に入るというものでもない。ネット通販でも出品はないようで、改めての謝罪と賠償はそれはそれとして、オルゴール本体は戻って来なさそうな雲行きだった。

「残念だったな」

 俺が心底同情してそう言うと、霧香は。

「仕方がないことです」

 と様々な感情をこらえたような顔で言った。

 そんな妹の様子に心を痛めつつも、どうしてあげることもできない。

 暗い気持ちのまま、翌日、俺は塾に行った。

 なんとなく死ね子が隣に座るだろうと思いながら授業の開始を待っていると……やがて異臭を漂わせながら死ね子が現れた。

 ドブのニオイである。

 足元がなんかすごいことになっていた。靴はどす黒い泥で汚れ、白い靴下は完全に変色してゴミ布のようになっている。スカートも淀んだ水で濡れ、その他体のあちこちに泥が付着していた。

 漂わせる異臭に、塾の連中からは「臭いぞ死ね子死ね!」との悪口が飛んだ。

 俺は連中の言い様に嫌悪感を覚えつつ、死ね子に尋ねた。

「どうしたの? 大丈夫なのか?」

 死ね子は全力で走って来た直後のように、息を切らしながら俺の前に立った。そして。

「これ」

 と言って、俺に乾いた泥が若干こびり付いた箱を手渡して来た。

 それは霧香の、捨てられたカービィのオルゴールだった。

「死ね子……おまえ……」

「もしかしたらドブを探せば見付かると思って。下流の方まで遡ったら、塾の時間ギリギリで見付かったの」

「いや、その恰好なら休めよ」

 俺は突っ込みを入れた。

「つか、遅れて来いよ」

 そう言われ、死ね子ははっとした表情で。

「そそ、そうだね、そうすればよかったね。ごめんねこんな臭い恰好で近付いたりして」

「い、いや、そういうことじゃなくて」

「思いつかなくって。早く南方くんに渡さなきゃって、そればっかり考えて……」

「い、いいって。あの、塾の先生には俺から説明しとくから、死ね子は家でシャワーを……」

「そ、そうだね。すぐに行ってくるよ」

 そう言ってそそくさ立ち去ろうとする死ね子の背中に、俺は大慌てで「ま、待って!」と声をかける。

 死ね子はその場で立ち止まって振り返る。

 危ないところだった。

 今すぐ言いたかったのに、言わなくちゃいけないのに、言えないところだった。

「一日中これを探してドブを浚ってくれたんだな。本当にありがとう」

 感謝で胸が一杯になる俺に、死ね子は「良いよ」と微笑んだ。

「霧香ちゃんのことはあたしも好きだもの」

 その微笑みには、死ね子の優しさが強く滲んでいる。

 どれだけ自分が汚れても、悪口を言われても、霧香の玩具を取り戻せたことに満足して笑っている死ね子のその表情に、俺は胸を打たれて釘付けになっていた。

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