第四章 アイをワスれたケモノ

                    1


 八月一日。


 その日は、朝の五時から、朝陽は喧騒としていた。


 朝陽には十二本の公開道路オープンロードがあり、それを目安として朝陽全体を地区に区切っている。一本目から時計回りに三本目までの区画をA地区、三本目から六本目までの区画をB地区……といったように分けられている。そして、地区ごとに小中高の教育機関が揃えられている。

 つまり、朝陽に高等学校は五校存在し、そこへ朝陽に住む全住民を集めるのだ。

 新夜の発表と同時に、準備は進められた。朝陽は日本有数の人口を誇る都市であるため、むしろ半日というのは少ないぐらいだ。

 しかし、驚くほど移動はスムーズだった。一番は新夜による言葉が大きいが、急がなくとも心配がない状況において、わざわざ気持ちの良くないことをしようとする人はいなかった。それほどまでに人々は魅了され、掌握されていた。

 学校に在籍している生徒とその親族は、所属の教室へ向かい、その他の人達は体育館や文化館、食堂や空き教室など、空いてる所に順に案内された。その全員が、ほとんど手ぶらの状態なため、余分なスペースが生まれずに、地区の全員が入ることができた。

 人を押し込んだ箱詰め状態は、もし正常な人が見たら正気を疑いたくなる光景だろう。まるで出荷待ちの商品みたいだ。

 午前八時には、全ての地区で移動が完了した。


 三年E組。

 今この場に、二人の生徒がいない。

 そして、今の状況に、形容しがたい心のつっかえを感じている者が、二人いた。

 波澄はずみ久礼波くれは

 有頂天な両親をよそに、神妙な面持ちだった。

 それは、この場にいない二人を想ってのことか、それともこの状況そのものに対してか。

 おぼろはじめ

 すこぶる笑顔な母親の話に、引きつった笑みと心のこもってない相槌が続く。嬉しくないわけではない。むしろ嬉しいはずだ。頭は嬉しがっているのに、心には小さな隙間がある。おそらく、有次と翔がいないことへの不安なのだろう。

 他の者も、もしかしたら同じようにしこりがあるのかもしれない。が、それ以上の歓喜と希望と高揚にかき消されてしまっているのだ。

 

 八時四十五分。

 突如として、教室の扉が開けられた。

 乱暴ではないが、静かでもない、慣れた手つきで、扉を開いた。

 教室中の視線が一気に集まる。

 教室に入ってきたのは、篝翔と一人の少女。

 翔は、大きめのリュックサックを背負っていた。

「翔!」

 真っ先に駆け寄ったのは、サッカー部の西東拓哉と片岡総一郎。

 翔も二人の元へ近づき、サクヤは入口付近の壁に、腕を組んで様子を見ていた。

「拓哉、総一郎、すまなかった。」

 翔が謝ったのは、部活のことに対してだ。


                    *

 

 三年。最後の年。部活動一丸となって努力に励んでいた最中、翔は姿をくらました。

 数日行方知れずで、誰も連絡が取れなかったことから、教師たちは親御さんに連絡をしようとした。

 有次の親戚はおらず、唯一の家族の幸一とともに消えたため、お手上げ状態だった。警察に届け出たが、進展はいつまでもなかった。

 翔の両親は海外にいたが、なんとか連絡が取れた。

 しかし、既に本人から連絡がいっていたらしく、

『息子が自分で考えてやっていること。心配御無用。』

 とだけ言われて切られてしまった。

 実はその後、まもなくして、翔は拓哉に電話をしたのだ。

「もしもし。」

 非通知を訝しながらも通話ボタンを拓哉は押した。

『……もしもし、翔だ。……その、久しぶり。』

「翔! おい、お前本当に翔か!?」

 拓哉は驚いて、思わず立ち上がってしまった。

「一週間もどこほっつき歩いてるんだよ!」

 拓哉は怒っていた。ただそれは、心配から来るものだった。

『ごめん。』

「謝罪なら直接聞く。どこにいるんだ今は。早く帰ってこいよ。」

『……。』

「どうした?」

 いつもの翔らしくない、悄然とした様子だ。

『落ち着いて聞いて欲しい。……俺はあと三ヶ月帰らない、と思う。』

「は? どういうことだよ。三ヶ月も帰らないって、……部活はどうすんだよ。」

『部活は辞める。』

「!!……――。」

 激しく動揺したが、不思議と怒りは収まっていった。

「話を聞こう。」

『……俺は、拓哉と、部活のみんなと、一緒に全国に行くって夢、忘れたことなんて一秒もない。ましてや、世界を救うこととサッカーを天秤にかけて、サッカーが小さいものだから、と選んだわけじゃない。もう、自分から逃げたくないんだ。目をそらさずに、そして救ってやりたい。たとえ俺以外にその役割ができるやつがいても、関係ない。これは、あいつの戦いでもあり、俺の戦いでもあるんだから。』

「………………はぁ。」

 ため息をついた。

。お前は変わってない。」

 翔の無茶苦茶に振り回されるのは、今に始まったことじゃない。それに、翔が誠実なやつだと、心から理解している。

 正直、思うところがないことはない。翔がいなくなれば、全国の夢はかなり遠ざかるだろう。それだけ、翔が部活の連中に与えていた影響は大きいのだ。

 それでも、しっかりと前向いて、歩くべき道が見えてるなら、言うことは何もなかった。

「状況は全く読み込めないが、気張れよ! 負けたりしたら、俺がはっ倒してやる。」

『ありがとう、拓哉。本当に俺は周りに恵まれた。』

「照れるだろ。」

 二人とも、何を話せばいいのかわからなかった。気まずい空気になる前に、拓哉から別れを告げた。

「じゃあ、またな。」

『うん、また。』

 もの惜しげに、両者は通話を切った。

 しばらく、スマホの画面から目を離せなかった。

「どうすっかな。」

 後ろ頭を掻きながら、そうボヤいた。


                    *


 結果的に新夜の起こした騒動で、大会どころではなくなったが、だからといって彼らの三ヶ月がなくなるわけではない。そう思うと、謝らずにはいられなかった。

「怒らないの?」

「馬鹿だな。怒りたいけど、そんなことよりも、心配したんだぜ。」

 その一言は、翔の心に染み渡った。

 しかし、

「それに、。」

 心が、ズキっとした。

 周りを眺める。

 クラスのみんなが、自分が今ここに居ることを歓迎してくれている。

 みんな、笑っていた。

 笑顔だった。心から。

 でもそれは、植え付けられた感情だ。

 ふと、端にいるサクヤと目が合った。

 その目は、幻想ユメを映さない。

 ただ、目の前の現実だけを、捉えていた。

「…………。」

 すると、横から、

「ねえ、篝君。」

「委員長。」

 それに、隣にははじめもいた。

「有次君は……?」

 二人とも同じことを気にしているようだった。

 翔は、どう答えようか迷っていた。

「……あいつは、……ここには来るけど、会いには来ない。」

 二人の目をしっかりと覗く。

 その眼差しは、支配などされていない純粋なものだった。

「もしかしたら、別人に見えるかもしれない。でもな、あいつは、何も変わってない。なんも、変わってないんだ。」

「何言って……。」

 それ以上、翔は何も言わなかった。

 時刻は、そろそろ九時になる。

 サクヤは壁から背中を離し、窓に向かって歩き始めた。

 言い得ぬ圧力に、教室の親子たちは道を開ける。

「おい、時間だ。」

 翔も一緒に窓に近づく。

「そうだな。」

 サクヤは、窓側の壁を蹴破った。

 教室に大きな穴が空く。

 突然の轟音と衝撃に、女子たちが叫ぶ。

 他の親子たちも、騒然とする。

「気を付けてな。」

「誰にもの言ってやがる。」

 サクヤはこちらを一瞥もせずに、勢いよく穴から飛び降りた。

「篝君。」

 胸に手を置いて心配そうにしている波澄たちに、翔は優しく笑いかけた。

「俺が必ず、守ってみせるから。」

 この場にいる全員が、その言葉の意味を理解できなかった。

 この場だけではない。世界中の全員が、今から起こる事を理解できないだろうし、批判の声を浴びせるかもしれない。感謝なんてきっとないだろう。

 それでも、翔は誓う。

 みんなを守ると。


                    2


 時刻が九時になった。

 その瞬間、曇天の空は一瞬にして青空へと変わった。

 一帯の雲は吹き飛び、溢れ出した光を背に、空から新夜がゆっくりと舞い降りる。

 それはまるで、降臨した神様のようだった。


 終末の日、最後の審判が下り、悪人は地獄へと向かうことになる。

 しかし、これは審判ではない。これは救済。平等で公平で優しくて温かい。怖いことなんて一つもない。ただ眠るようにそっと目を閉じるだけ。それだけで、万人が救われる。

 どんなに素晴らしいことだろうか。

 人々は歓喜し、涙を流し、ある人は手を合わせ、ある人は手を伸ばし、ある人は頭を垂れた。

 そして口々にこう言った。

「新夜様!」

「新夜様!!」

「新夜様!!!」


「相変わらず、演出が好きなやつだ。」

 唯一グランドに立つサクヤは、そう呟いた。

 ゆっくりと降りてくる新夜は、サクヤを見ていなかった。

 正確には、もう少し上に視線が向けられていた。

 学校の屋上。

 その縁に、颯爽と立っていた。

 透き通った白銀の髪。

 左眼を覆う真っ黒な眼帯。

 もう一人の、『王冠』を手に入れた青年。

 かつての名も、今ある名も、もはや意味はない。

 なぜなら、ここにいるのは、ただの……


「終わりにしよう、cipher。」


 新夜は、口元を歪ませる。


faker!」


 cipherの左眼が、黒白に輝く。

 自分の前に、渦が生まれる。そこから、渦と同じ大きさの、どす黒くて紫がかった『闇』の仮想質量が押し出される。

 cipherの左眼の能力は、『ダークネス』。

 視界内の任意座標に、能力の起点となる渦を創り出し、そこから仮想質量が飛び出てくる。

 飛び出た『闇』は、自由に動かすことができる。途中で軌道を変えたり、形を変えたり、有限であるが伸ばすこともできる。

 ただし、起点の渦を創り、そこからでないと『闇』を生成できないという制約がある。


 対して、fakerの右眼は、静かに燃えるように、白く輝いた。

 屋上から足を踏み出した。

 落ちる寸前に、何もなかった空中に、灰色のもやがかかったような『壁』が創り出された。

 そのまま段々と『壁』を階段状に創り、グランドへと降りようとする。

 そのかん、cipherの『闇』が学校を襲う。人間の大きさよりも一回り大きな渦が、cipherの前に数多に創られ、そこから先端の尖った『闇』が、目にも留まらぬ速さで押し出される。

 しかし、それが学校へ届くことはない。

 その前に、灰色の『壁』が行く手を阻む。

『壁』が『闇』を防ぐ度に、ドンッとくぐもった音が響き渡る。

 降りる最中、cipherの攻撃が止むことはなかったが、fakerはその全てを目も向けることなく、平然と防いでみせた。

 お互いの顔に、疲れなどあろうはずがない。

 これはただの準備運動。

 この、常人には理解できない現象の数々に、人々はより一層の喜びを示した。

 なぜなら、cipherが本物の神様に思えたからだ。

 理解できない事象を神聖視するのは、年代が経っても変わらない。

 fakerが地面に降り立つ。

「有次君?」

 波澄には、グランドに立つその男が、自分の知る久遠有次とは別人に見えた。

 容姿だけではない。

 雰囲気が、もう人のものとは思えなかった。

「翔くん、有次くんのあの姿は……」

 はじめの質問に、翔は歯痒い感情を抑えられなかった。

「有次は、何かを失うことで強くなれる。その在り方は、とてもいびつだ。それでも……それを解った上で、ただ一つを除いた全てを捨てた。」

 誰が悪いわけじゃない。

 ここには、被害者しかいないのだから。

「ただ、一つ?」

 その答えを、翔は口にしない。

 これが最後じゃない。

 ここから始まるんだ。

 (勝つぞ、有次。)

 勝って、みんなに話すんだ。

 謝罪も感謝も全て伝えて、そこから始まるんだ。

 新しい人生が。

 

 fakerは、前に歩を進める。

 サクヤがこちらを見て立っていたが、構わず通り過ぎる。

 サクヤも、fakerの後を何も言わずについて行く。

 同時に、cipherも地面に足をつけた。

 双方、立ち止まる。

 その距離、およそ百メートル。

 学校内からグランドが見えるのは、三年E組のような、グランドに面した教室や職員室などだけである。そのため、他の場所にいてグランドを見れない大勢の人達が、面した教室に殺到したり、外に飛び出したりした。

 しかし、その歓声も、騒音も、両者には届かない。

 距離的にはそこまで離れていないが、異様な隔たりがあった。

 しばらく見つめ合ったfakerとcipher。

 fakerは目線を外すことなく、横に手を向ける。

 サクヤは手のひらを重ね、その姿は変容する。

 fakerのぶきへと。

 cipherは、自分の手元に、小さな渦を創る。

 そこから、細長い『闇』の剣が出てきた。

 渦から剣を取り出すと、渦は消えた。

 『闇』は渦を起点とする制約があるが、渦が消えた後も、能力を解除しない限り『闇』は残る。ただし、渦と繋がっていなければ、『闇』の形状変化は行えない。

 この黒と紫の蠢く『闇』は、神眼の能力で創られたもの。

 神眼とは文字通り、神の眼。

 ヴァイスを固めた武器とは一線を画す。

 つまり、この武器は、向こうの刀サクヤにも劣らない。

 前回の戦いで、cipherは一度だけ、右眼の『支配』ではなく左眼の『闇』の能力を使った。そもそもfaker側は、cipherがもう一つ神眼を有していたことを知らず、突然の能力行使だったため、その詳細をほとんど把握していない。

 これは、cipherにとって、大きなアドバンテージだ。

 戦いにおいて、情報というのは力よりも重要である。

 あえて能力を控えたり、能力を誤解させるように行使してみせたりすることもできた。そうすることで、fakerの頭には得体の知れない能力がよぎる。警戒が薄ければ意表を突く攻撃を仕掛けられるし、余計に警戒し続ければ、それを逆手にとることも出来る。

 しかし、学校への攻撃と剣の生成によって、そのアドバンテージを自ら手放した。余裕がない、というのもあるが、勝負をしたいという思いが強かったからだ。


 両者、構える。

 夏だというのに、両者の間は、冷たく、静かだった。

 目も、耳も、全ての感覚神経が、目の前の敵に集中する。外部の存在の一切が切り捨てられ、ここには二人しかいない。

「…………。」

「…………!」

 動いた。

 fakerだ。

 極限まで予備動作が少なく、そして一瞬にして間合いを詰めようとする。

 瞬間、黒白が煌めく。

 fakerの背後に渦が幾つも創られる。鋭利な『闇』が襲う。

 だが、押し出された直後に、灰色の壁が『闇』を防ぐ。『闇』の線状に対して垂直に壁を展開し、完璧に『闇』を受け止める。

 壁に当たった『闇』は消滅した。これは、cipherが『闇』の出力を上げて『壁』を破ることよりも、新たな起点を創り、別の角度からの攻撃を優先したからだ。

『闇』が放出され、『壁』に阻まれる。その攻防がfakerの背後で繰り広げられている中、fakerとcipherも衝突していた。

 漆黒の剣と鋼の刀がぶつかる。金属音とは異なる、鈍く低い、重々しい音が空気を震わす。

 cipherの予想通り、『闇』で創った剣は、神の武器サクヤと同等の強度だ。何度衝突しても壊れることはないだろう。

 fakerは斜め上から刀を振り下ろす。

 cipherは下から受け止めようと剣を動かすが、動かない。

「!」

 剣の根元あたりに、灰色の壁が展開されている。そこにつっかかって剣を振り上げられない。

 剣を消し、もう一度手元に『闇』の剣を創り、横に振り抜く。

 fakerは後ろに飛んで

 開いた間合いを利用し、cipherは自分の正面に渦を三つ創った。放たれた『闇』は一直線にfakerを襲う。

 真横へ飛んで回避したが、通り過ぎた『闇』は軌道を鋭角に変え、再び襲ってくる。

 今度は上へ回避した。

 それを予見していたcipherは既に飛んでおり、fakerの上を取っていた。

 自分の上に現れた影に、驚くことはない。

 灰色の壁を、今度はcipherとの間に展開した。cipherの頭から腰あたりまで隠れるぐらい。

 剣を防御しつつ、壁から飛び出て見えるcipherの足を掴み、思い切り振り回して地面めがけて投げ捨てる。

 cipherはくるくると回りながら落下し、背中から地面に激突した。地面が振動し、亀裂が入る。

 ダメージはほとんどない。すぐさま体を起こし、重力まかせに真上に落下してきたfakerを避ける。

 十分な間合いをとる。

 fakerが地面から刀を引き抜いている間に、体と心を落ち着かせる。

 fakerとcipherの戦いは、いわば容量の削り合いだ。

 fakerが特別なだけで、神眼というのは眼という性質上、視界内に能力が絞られる。両者が向き合っているならば、敵の後方に能力を展開するのが自然だ。自分の前に展開もできるが、自分の視界が埋まる危険があり、次の能力展開に繋げにくく、そもそも神眼の弱点とは、死角となる背後からの攻撃だ。背後の攻撃を対処しようとしたら後ろを向く必要があり、そうすると敵から視線を切ることになる。視界内という条件にとって、正面と背後の挟撃ほど厄介なものはない。

 しかし、その例外が、今代のfakerだ。

 彼の与えられたギフトは、その弱点も制約も全て克服するものだ。

 cipherはfakerを背後から神眼ダークネスで攻撃をし続け、fakerはそれをギフトを駆使して、神眼リジェクトで防ぎ続ける。『闇』の出力を上げようと集中すると、目の前に割く意識が薄くなる。しかし、それはfakerにも同じことが言える。どれだけ眼前の敵との戦闘に意識を残しつつ、相手の意識を他所に向けさせられることができるか。そのバランスが崩れた時が転機となるだろう。

 一見、fakerの方が優位に思える。

 ギフトと合わせた、死角なき防御。それは絶大であるが、特筆すべきはその応用性にある。

 足場としての活用はもちろん、視野を遮ったり、攻撃の軌道妨害にも使える。自身の体の近くに壁を展開すれば、壁が破られる可能性があるが、相手が剣を振ろうとした瞬間に剣の近くに展開すれば、いくらcipherであろうと壁を破るほどの威力は生まれないだろう。

 加えて、発動条件がほぼないと見なせるので、常にこの全てを考慮した行動が求められる。思い切りの行動は、それが防がれた時の反動が大きいが、力を散漫させて勝てる相手ではない。

 止められた時の、瞬刻の切り替えが求められるわけだが、それについては、cipherのギフトが生きてくる。

 思考分割。

 元々は複数人を支配した時のためのものだが、思考を分割してすぐさま別の思考へのシフトが可能であり、分割された思考領域を並列接続することで、高速演算が可能となる。また、神眼に割く容量を、あらかじめ分割しておいた独立思考に任せることで、容量の削り合いにおいては優位に立てる。

 そして、純粋なフィジカルは、cipherが上だと断言できる。翔への譲渡による弱体は、それ以上のチーム力を生み出すことでカバーできるが、高校に集まった人を守るために戦闘には参加して来ない。代わりにサクヤがいるが、力関係では、fakerやcipherより弱い。


 純粋な個としての力か、束ねた力か。


「『ダークネス』!」

 fakerを取り囲むよう四方八方に渦を展開する。

 逃げ場がない。

 しかし、fakerは前に出た。

 渦から『闇』が出てくる前に、渦を断ち切った。

 渦は空に消えていく。

 cipherは目を細めた。

 (やはり気付いて。)

『闇』は渦からしか出せないという制約は、つまり渦が消えてしまえば『闇』を出せなくなるということだ。

 が、そんなことはいずれわかること。

『闇』で剣を創り、fakerの一太刀を受け止める。

 剣を少し傾けて受け流し、懐へ入る。

 これが、『拒絶リジェクト』への堅実な対抗策だ。

 fakerは上に飛び、cipherの頭を飛び越え背後に回ろうとした。

 足の裏は空へ向き、振り上げられた『闇』の剣を弾く。

 そこまで大きく飛んでいないため、cipherは上に攻撃しながら一緒に体を回転させる。

「!」

 fakerが刀を離していた。

 刀は、真上よりやや後方。faker自体は真上よりやや前方。

 二人は真上で分かれて落ちてくる。このまま時間が経てば、視界内に両者を収めることは難しくなるため、刀を手放したと確認した直後に手を打つ。

 左眼を、fakerへ向ける。

 渦を創り始めた瞬間、fakerの右眼が白く輝いた。サクヤの足元に『壁』が創られる。

 サクヤは、全快ではないとはいえ、本物の神。決して無視できる存在ではない。

『壁』を使って不意をつこうとしても、『王冠』を手に入れたfakerとは違い、サクヤは以前と空を飛べない。一度『壁』に足をつけて力を込めて蹴る、この行為からは逃れられない。

 そのため、急いで首を回し、足をつけた瞬間を狙って、サクヤの背後に渦を創り、先んじて『闇』を押し出す。

 サクヤには、fakerのようなギフトはない。

 そのまま、背中から『闇』に突き刺される。

 はずだった。

 サクヤは『壁』に足をつけなかった。

 無視したのだ。

『闇』はサクヤの頭上を通過した。

 そして、fakerが自身の足元にできかけの渦に、

 それに何十キロの重さに耐えるだけの……

 思考を捨て、切り替える。

 自分の能力については、自分が一番理解している。

 できないことが起きているということは、外部の要因が絡んでいる。

 cipherからは確認できないが、予想通り、黒い渦の裏に、見えないよう巧妙に『壁』を創っていた。

 サクヤの足元に『壁』を創ったのはブラフ。少しでも意識を逸らし、かつ見えないように展開することで、確実に不意を突いた。

 斜め上の角度から、足を振り下ろす。

「!」

 今度は、fakerが驚いた表情を見せた。

 cipherは、肩の辺りで、かろうじて受け止めていた。

 fakerの足首を強く両手で握り、一回転して投げ飛ばす。

 サクヤとは反対方向に。

 fakerとサクヤの分断。随分距離が離された挙句、サクヤはまだ地面に着地していない。

 cipherはすぐさま腰を落とし、追撃の姿勢をとる。

 今のfakerでは、武器でもフィジカルでも劣っている。

 この状況はまずい。

 fakerはいち早く体勢を立て直し、速度を殺そうとする。

 サクヤは、空中にヴァイスを集める。当てる必要はなく、ただの時間稼ぎの攻撃。はなから当てる気がなく、むしろ進路を妨害するためのものだ。

 二人とも、それぞれ行動に入ろうと構えた瞬間を見計らって、cipherが中腰のままくるりと反転した。

 反転した先には、fakerではなく、サクヤがいる。

 (こっちか!)

 サクヤを持っていないfakerを叩くよりは、サクヤそのものを攻撃した方が楽であり、他のメリットがあるとcipherは考えていた。

 それは、サクヤ本体のダメージが、刀になった時の武器の評価を決めるのではないのか、と。つまり、サクヤが傷つけば刀はその分弱くなり、刀にできた傷はそのまま本体にフィードバックされるのではないか。

 やってみればわかること。

 間合いを詰め、『闇』の剣を創る。

 サクヤは、神でありながら自由飛行ができないため、空中ではfakerのアシストがない限り不自由だ。

 サクヤに、この『闇』の剣を止める術はない。そしてかわすこともまたできない。

 まさに、必中の一撃。

「舐めるなよ。」

「(止めた!?)」

 サクヤはヴァイスを歪な形だが、剣の軌道上に集中させた。

 そして、剣を止めた。だが、必死の様相だ。一撃を防ぐだけで手一杯だろう。

 cipherは、その理由を考えなかった。切り替える。

 体をねじってサクヤを蹴り飛ばす。

 ヴァイスに集中したせいか、防御姿勢に入れず、脇腹をえぐられる。

 地面に衝突し、ワンバウンドしたサクヤの首を掴み地面に押し付ける。その状態のまま、地面すれすれを飛ぶ。

 ガガガガガッ、とグランドの地面がサクヤの体によって削られる。

 歯を食いしばり、何とか反撃しようと振りかぶると、cipherはサクヤの攻撃方向の力を利用して回転し、投げる。

 学校の塀にぶつかったが、勢いは止まらず学校外の車道に転がり出た。学校外に人はいないため、物音一つない大通りに、大の字で倒れた。

 すかさず馬乗りになった。既に手には『闇』でできた剣が。

 サクヤの口の端から血がこぼれるが、cipherを無表情で睨みつける。

 この好機は逃せない。頭を空にし、ただ機械的に腕を動かす。

「ぐっ!」

 横から脇腹を蹴られた。

 (もう追いついたのか!)

 向かいの高層ビルの壁面に体が突き刺さる。

 その衝撃でビルに亀裂が入り、真っ二つに折れた。

「……。」

「……。」

 fakerとサクヤは、見つめ合う。

 お互い無表情で、言葉を交わさない。

 代わりに、サクヤは倒れたまま腕を天に向かって伸ばす。

 小さな手の平を、fakerはがっしりと掴む。

 そのままサクヤを起こすように、その体を刀に創り変える。

 ドーンッ! と背後で大きな音がする。

 倒壊したビルを突き破り、猛スピードでこちらにcipherが迫ってくる。

 振り向きざまに弾く。

 地面に片足つけたcipherは、空中に飛び上がり、体を反転させ視界にfakerを捉える。

 fakerの足元の地面に、巨大な渦ができる。

 空中ではなく、地面に渦を創ったのは初めてだったため、fakerは咄嗟に、渦を消すよりも回避を選択してしまった。

 横に逃げて間に合う保証はない。上に逃げる。

 下から『闇』が迫る。

 空中に『壁』を創り攻撃を防ぎながら上昇する。しかし、そのスピードよりも下から上がってくる『闇』の方が速かった。

 途中で横に飛んだが、『闇』は追尾してくる。

 上に逃げるよりも横に逃げる方が速い。空中を振り切るが、目の前にcipherが現れる。既に剣を振ろうと構えていた。

『闇』の剣を受け止めるが、衝撃で後方に吹っ飛ぶ。が、すぐに自分の背後に創った『壁』で、追尾してきた『闇』を防御しつつ方向を百八十度変え、攻撃態勢に入る。逆に今度はfakerが突き飛ばす。cipherも同様に剣で受け止めているが、背後に突然『壁』が現れ、なんの防御姿勢をすることなく背中から『壁』に衝突した。

 怯むが、左眼だけは見開いたままだ。

 無数の渦が、fakerを取り囲む。その大半を『壁』で防ぐが、数が多い上に、隙間を通り抜けるように軌道が折れ曲がってくるため、全てを『壁』で防ぐことはできない。到達した『闇』は、避けるか刀で逸らすかしなければならない。

 fakerはcipherと異なり、積極的に飛行能力を行使しない。これには複数の理由が絡んでいる。

 まず、熟練度の差が挙げられる。fakerが『王冠』を手にしたのは数日前。ろくな試用はできていない。cipherが空中戦を仕掛けてくるのは、こういった事情も含まれる。また、fakerは『拒絶』で創り出した『壁』を利用すれば、飛行能力を使わずとも空中戦に適応できる。咄嗟の行動に弱かったり直線的な移動しかできないなどのデメリットはあるが、下からの攻撃を防ぎながら移動できたり初速を得やすいといったメリットもある。

 今回の攻撃の問題は、自身と起点の渦ぐんまでの距離が近いところにある。小さい球の中に閉じ込められたように、行動が制限される。

 空中だと分が悪い。

 地面に降りようとするが、その経路だけは執拗しつように阻んでくる。

 (くっ……)

 頬、脇、ふくらはぎに、避けきれずすり傷ができる。

 目の前の攻撃を避けるので精一杯だった。

 そのため、気付けなかった。

 球の外から狙う陰が。

 渦が消えた箇所から、cipherが一直線にfaker目掛けて突撃してきた。『闇』の剣を前に構えて。

 運悪く、fakerの背後だった。

「ッ!!」

 一瞬で体をcipherの方へ向け、刀で弾こうとするが、遅かった。

 かろうじて軌道は逸らせたが、胸を狙った剣は、左肩あたりを貫通した。

 返り血が、cipherの体を赤く染める。

「ぐっ!」

 ここで怯んでいるようでは、立て続けに攻められる。それこそ致命を免れなくなる。

 左手でcipherの腕を掴み、突進してきた力を利用し、腕一本でcipherを投げようとする。投げる先に『壁』を展開し、そこへ叩きつける。

 衝撃でcipherが一瞬怯んだ隙に、『壁』を消し蹴り飛ばす。

 さらに、地面に向かって斜めの角度で落ちて行くcipherに向かって、刀を投げる。刀は、fakerの手を離れた一秒後に人のかたちへと戻る。その瞬間、足元には既に『壁』が展開されている。更なる加速を経て、サクヤの踵がcipherの下腹にめり込む。

 cipherの左眼が勢いよく見開く。

 サクヤの背後に起点の渦が生まれる。

 それでも、サクヤは構わず足に力を込めた。

 蹴り飛ばすのと、『闇』がサクヤの腹部を貫通したのは同時だった。

 凄まじい速度で地面に衝突したcipherは何回もバウンドし、学校に戻ってきた。

 グランドに大の字で倒れているcipherを見て、学校中は不安でどよめき立つ。喜んでいるのは翔だけだった。

 所々から、新夜様、と心配する呼び声が聞こえる。

 (うるさい。)

 雲一つない晴天を見上げる。

 太陽が、とても眩しい。

 三羽の鳥が、視界を横切る。

 自分も空を自由に飛べるというのに、あの鳥たちを羨むのは何故だろう。


 (どうして……どうして、わかってくれないんだ。)


 fakerとcipher。

 両者は、全く同じ道を歩んできた。

 例えば、スタートして最初の一歩目から真反対へ歩き始めた者が相手なら、それが自分にとって理解できない存在であることに納得がいく。

 しかし、今の今まで、無限に連なる分岐点で同じ選択をし続けた相手が、最後の二択、たったその二択で、自分と真反対の道へ進んだ。

 だから、許せない。

 だから、怒りが湧いてくる。

 だから、理解できない。

 その選択が。その立場が。その考えが。


 どうして。

 その答えは、もう帰ってこない。


                       3


 昨日さくじつ

 首相官邸。

「約束の時だ、月影! さあ、fakerを殺そう!」

「主様、なにを……。」

 動揺を隠せない月影と、高らかに笑う柏田。

「配備は予定通り済んでいるな。」

「はい……。ですがそれは、万が一fakerが敗れた時のためのものでは。」

「何を言ってるんだ。fakerを殺すために決まっているだろう!」

 えらく上機嫌で、月影の言葉を右から左へ受け流し、笑い続ける。

 (おかしい! 兵器配備については今の映像と関係ない! そこに齟齬があるということは、やはり。)

「主様、前回cipherにお会いになられたのは、いつ頃でしょうか。」

「そうだな、五月の頭ぐらいじゃないか!」

 予想よりも直近のことだった。

 柏田が『支配』されていて、現在裏同盟と一切連絡が取れないことから、他の首脳陣も『支配』されている可能性は大だ。それが数年も前からならば、首脳のみならず、軍関係者、政府中枢までもcipherに『支配』されている可能性が高い。しかし、たったの三ヶ月前なら、そこまで大人数の『支配』は難しいかもしれない。そもそも、『支配』に人数上限があるのかも把握していない。

 軍関係者が、それも上の階級の者が『支配』されていれば、これから起こるであろうfakerの戦いの邪魔になる。最悪、fakerを殺してしまうことも考えられる。

 (今、自分がすべき事……。)

 ふと、月影は有次との会話を思い出した。

 

                    *


「月影は、総理の執事とかメイドとかなのか?」

「?」

「だって、総理の言葉は絶対なんだろ?」

「ええ、それが何か?」

「お前の意志はないのか?」

「……私は、あの人に拾われました。あの人の言うことを聞くのは当たり前のことです。」

「ふーん。つまんないね。」

「面白い方がいいですか?」

「違うよ。自分が納得できるかできないかが重要だ。たとえ失敗しても、楽しい結末にならなくても、満足できればそれでいい、それが人生だ。まあ、あんまし人に言えた立場じゃないけどね。」

「難しいですね。」

 苦笑いをこぼした。

「助けられた。その人に恩を感じる。それは結構。だがな、それだけで自分の人生全てを決めちゃうのはダメだ。もしお前が俺に拾われたら楽しむのか? 犯罪者に拾われたら人を殺すのか? お前の意志はどこにある。お前がそれを本当に望むのなら止めはしない。それがお前という人間の形だからだ。たとえ周りに嘘をついていても、自分の正体を隠していても、心の奥底にある、一本の芯。それだけは偽ってはいけない。現に、俺は今みんなに自分のことを隠してる。」

「でもそれは、言えませんし、言ったとしても信じてもらえない可能性が高いです。」

「お前の言うことは正しい。けどな、俺という人間性までは偽ってない。だからたとえ俺が正体を打ち明けたとしても、みんなそれを許容してくれるさ。」

「……それは、どういういったものから生まれるのでしょうか?」

「人によって違うと思うが。」

「では、あなたの場合を聞かせてください。」

「愛だ。」

「アイ?」

「俺はみんなを愛してる。その愛だけは裏切りたくないんだ。そのことを証明し続けるために、自分を偽りたくない。fakerや鴇矢ときや有といった肩書き全てとっぱらって、顕になった本当の自分だけは曲げたくない。隠したくない。それが俺の生き方であり、芯だ。」

「………よく分かりません。」

「そうか。月影にもわかる時が来るさ。」

「そうでしょうか。」

「ああ、きっと。」


 

「それと、様付けはよしてくれ。」

 

                    *


 (今、私がやりたい事。)

 心に生じた、ある願い。

 過去の自分からは、想像できないことだった。

「主様、fakerへの攻撃を止めてもらうことはできませんか?」

 努めて冷静に言う月影に反して、柏田は怒りを見せた。

「何を言ってる!? fakerはだぞ! もしかして、一緒にいて情でも移ったのか!? お前のは、目標に近づき、目標と親睦を深め、重要な情報を聞き出すことだ。いつも通りの仕事だろ!? お前らしくないぞ!」

 柏田は不貞腐れたように目を逸らし、窓の外を見る。

 その背中に、月影は声を震わせながら言葉を紡ぐ。

「主様。私は、あなたに拾ってもらえたこと、とても感謝しています。私の過去を全て知った上で、私を傍に置いてくださって、それだけで私は幸せでした。こんな人間でも、多くの経験をさせてくれました。それが普通の人とは違うことでも、決して喜ばれることのないことだとしても、それでも、あなたの元にいて、私は幸せでした。その気持ちに、嘘偽りはありません……。」

 一度口をキュッと結び、込み上げてくる感情を抑えると、一転していつも通りの顔に戻る。

「私の主はあなただけです。お供します。」

「そうか。それは、良かった。」

 柏田は安堵の表情を見せた。

 彼にとっても、月影は必要な人材なのだ。

 もう少し正直に言えば、月影がいない生活を想像できないぐらい、身近な人になったのだ。

 月影は、その表情を見て、嬉しかった。

 でも、もう戻れない。

 決心が揺らぐ前に、柏田に近寄る。

 スーツをめくり、内側に手を入れる。


 部屋から、物音は無くなった。

 やがて、部屋から月影が出てきた。

 部屋から出てくる者は、他にいなかった。

 ずっと。


                     *


「緊急連絡コード一〇M。繰り返します。緊急連絡コード一〇M。こちら月影、こちら月影。」

「こちら現場司令官、勝又修一であります。月影殿、いかがなさいましたか。」

「司令官、オープン回線で、私の指揮下にある全隊員に繋げてください。今すぐです。」

「しかし、」

「司令官! 今すぐです!」

「りょ、了解しました。…………。」

 ピー、と音が鳴る。

「全隊員へ、こちら代理指揮官、月影。私の指揮の元朝陽周辺に配備した兵器郡の一切の使用を凍結します。内閣総理大臣柏田浩之本人の了承がない限り、兵器の使用を禁止します。これに違反した者は一級厳重処罰を課します。いいですか! 兵器郡の使用の一切を禁止します! 持ち場をすぐさまに離れ、施設にて待機せよ!」


                    4


 cipherはピクリとも動かない。

 しかし、fakerとサクヤは攻撃しようとせず、学校へ戻る。

 三年E組に空いた大穴。壁際に立つのは翔しかいない。

 それもそのはず。ここは三階だ。しかも、この学校の一階は高層ビルの一階よりも厚い。三階までの高さは、ビルの五階に相当する。

 その大穴に、二人はやって来た。空中を歩いて。

 そして、翔の隣に降り立つ。

 倒れたcipherを見て喜んでいた翔だが、二人の状態を見ても同じようには喜べなかった。

「おい! 大丈夫か!?」

 サクヤの元へ駆けつける。

 いつもは犬猿し合っている翔とサクヤだが、サクヤの方が一目で重傷とわかると、真っ先に駆け寄るのは、彼の性分と言えるだろう。

 後ろに適当に置かれたリュックサックを取った。中から清潔な白い布、ガーゼ、包帯が大量に出てきた。

「こんなんどうってことねぇって。」

「いいから、服上げて。」

 サクヤは渋々折れて、服をたくしあげて、お腹を露出させる。

 へその左上当たりを、『闇』は貫通していた。幸い、傷口は大きくなかった

 タオルで血を拭い、傷口にガーゼを大量にあてて、上から包帯を体一周ぐるりと巻く。何周もして、固定させる。

 fakerとサクヤが、攻撃よりも翔の元で手当をしているのは、長期戦に備えてだ。

 二人にとって、この程度の傷、どうってことはなかった。痛みがひどくて戦いに支障が出るようなことは決してない。

 二人とも、もはや人とは異なる存在である。しかし、人のかたちをしている。どんなに体の構造が進化しようと、人のかたちをしている。故に、血を流し続ければ、不利な状況に陥る可能性もゼロじゃない。fakerとcipherの実力は拮抗しており、長期戦が予想されるため、ここで一度手当をした方がベストだろうと考えたのだ。

 fakerも自分で肩の手当を始める。

 ふと、途中で手を止める。

 cipherが動いたからだ。

 サクヤを手で制すると、大穴から飛び出して行った。

 翔は、何も言わずに、黙々と怪我の手当をした。


 cipherの体は、倒れた状態のまま浮き始めた。

 空中で姿勢を正し、学校とは逆側にゆっくりと移動する。

 かなり離れただろうか。こちらからは豆粒程度の大きさに見える。

 大穴近くで『壁』に乗ったfakerは、その様子を注意深く観察していた。



 目を閉じ、周囲に耳を澄ます。

 ここには一人しかいない。

 目障りな人形も、余計なノイズも、届かない。

 心地よい微風と、体が洗われるような日光。

 バサバサと翼を動かして、鳥たちが通り過ぎて行く。

 一歩引いてみれば、こんなにも世界は美しいのに、どうして地上に楽園はないのだろうか。



 目を開く。

 黒白が、地上を照らした。



 人々は、これが何なのか理解できなかった。

 遠くの景色が、真っ黒の『闇』に変わったのだ。



 cipherは自身の正面に、巨大な渦を創り出した。

 円形の渦は、地面に接し、半径は数百メートルに及ぶ。

 cipherよりも高く大きい渦によって、fakerからは目視で姿を確認出来なくなった。

 fakerはすかさず大穴から教室に戻る。

「翔、サクヤ、みんなを頼む。」

 一方的に言い放って、再び飛び出して行き、グランドに降り立つ。

 サクヤも応急処置が終わり、翔と大穴に立つ。

「これはまずいぞ。」

 珍しくサクヤは険しい顔をした。

「有次なら大丈夫さ。」

「………。」

 翔は、サクヤの言葉の真意に気付いていない。

「みんな! できるだけ穴から離れて! 廊下側の壁に張り付くように固まって! そして姿勢を低くして衝撃に備えて!」

 意図はわからないが、翔の言葉だからか、教室の人たちは指示通り動く。


 fakerは、グランドを歩く。


 もはや、自分は正真正銘何者でもない。

 大事な記憶を捨て、心を切り離し、感情の大半を殺した。

 思いつくありとあらゆる自分の血肉を捧げた。

 時折、自分のことがわからなくなる時がある。それでも、たった一つ胸に残った『これ』が、教えてくれる。

 もう、自分のやりたいことはわからないけど、やらなくちゃいけないことを、教えてくれる。




 しばらく、緊張と静寂が突き抜けた。




 同時に、右腕を上げる。

 手の平を広げ、前に突き出す。

 己の意志を体現しているようだった。


 

 それより先の全てを壊すため。

 それより後ろの全てを生かすため。




「ダークネス!!」



 遠くに映る『闇』が、一瞬にして目前に迫る。

 人々の視界もまた一瞬で、『闇』に覆われた。

 厳かで尊く、けれど冷酷で無情。あれほど求めていた終焉きゅうさいに、本能的に恐怖したのだ。

 しかし、視界の黒は、別の色にすり変わる。



「リジェクト!」



 霞がかった灰色の『壁』が、『闇』よりも大きく展開される。


 


 重いものを持った時、始めはとても重く感じるが、次第にその重さに慣れてくる。降ろしてみると、体が軽くなったと錯覚するだろう。

 刺激が一定だとしても、感じ方は一定ではない。

 例えば、『これは重いもの』と認識してからそれを持った時と、『これは軽いもの』と誤認した状態で持った時とで、感じ方はどう変わるだろうか。当然、後者の方がより重いと感じるだろう。


 簡単な話、ただ想定を上回っていたのだ。

 手を抜いていたわけではない。

 全力だった。

 全力だったけど、全てを懸けてはいなかった。

 百パーセントだったけど、百二十パーセントは出せていなかった。


ちから』と『ちから』が衝突した。

 その瞬間、ピシッと音がした。

 卵の殻にひびが入ったような、小さな音。だけど確かに聞こえた。

 fakerの耳に。

 何故なら。

 大きく開いた透き通るような白銀の瞳に、亀裂が入ったのだから。

 自身の瞳を真っ二つにするかのように。


 わざわざ遠回りしているかのように、体を巡り巡ってその刺激は遅れてやってきた。まるで助走を設けていたと言わんばかりに、急激に、迸るように、その刺激が脳へ大量に送られる。


「ガアアアアアアッッッッ!!!!!!!!」

 全身の細胞が、震える。

 眼の奥の神経が、ビキビキビキッ、と悲鳴をあげる。内部を焼かれているような、強烈な苦痛。

 結膜が真っ赤になり、とめどなく血が溢れてくる。

 立っていられなかった。その場に倒れるように膝から崩れ落ち、左手を地面につく。

 眼窩がんかに沿って、指が肌を強く押し付ける。眼球が飛びててしまいそうなほど、強く。

 視界は赤しか映さないが、それでも眼を閉じるわけにはいかない。

 ここを通すわけにはいかない。

 壮絶な力の衝突によって、『壁』の背後の空気が震えていた。『壁』は空間的に遮断するものだから、音も衝撃も届かないはずだったが、空気の振動が高速で伝わり、それが風圧のように襲ってきた。

 学校の窓ガラスは全て割れ、グランドに近い壁や柱がボロボロと崩れていく。

 翔があらかじめ教室の人たちを廊下側へ寄せていたため、幸い怪我人はいなかった。恐らく他の場所では、大怪我をしている者も少なくないだろう。

 この事態に、翔は焦燥していた。

「おい! 有次は大丈夫なのか!!」

 サクヤは苦い顔を示した。

 明らかに、『壁』の強度を『闇』の出力が上回っている。

 本来ならそれでも問題はない。

 攻撃を逸らしてしまえばいいのだ。

 射線に対して垂直に『壁』を展開するのではなく、角度をつけて斜めに展開すれば、強度が下回っていても受け流せる。

 だが、それはできない。

 理由は、『闇』が自在に軌道を変えられるからである。

 攻撃を受け流せば、それは軌道を変えて再び襲ってくる可能性がある。一人で戦っている分なら、むしろ最小限の出力のみで攻撃を受け流し続けた方が、疲労は少なくなる。

 しかし、彼は背後を守る存在。受け流した『闇』がくるりと反転して、背後から学校を襲ってくるかもしれない。cipherと違い、その都度あの出力を止められるだけの『壁』を展開するのは、蓄積される疲労が未知数だし、後手に回り続けることを意味する。

 この戦いは、常に相手の予想の裏をつき、先手を取って主導権を握ることがカギとなる。

 つまり、真正面から全ての『闇』を受け止めるのがベストなのだ。

 これが、サクヤの懸念であった。

 真正面からの火力勝負では、負ける可能性が高いのがわかっていたからだ。

「ア"ア"ア"ア"ア"ア"ァ"ァ"ァ"~~~~~ッッッ!!!!」

 際限なく押し寄せてくる痛みを、無理矢理力に変換させていく。

 fakerに、思考する余裕はなかった。

 ただ、ありったけの力を注ぐことしかできない。

 だから、気が付かなかった。

 初めに気付いたのは、サクヤだった。

 目視は出来ないが、『壁』越しに感じる『闇』の力が、時間とともに、少しずつだが増していた。

 穴から飛び出そうとするが、やめた。

 不思議に思った翔に、簡潔に状況を説明する。

「『闇』が大きくなってる。」

「!」

 翔が何かを話す前に、それを遮って一方的に話す。

「時間の問題だ。これ以上増大を続けたらさすがにもたない。cipher本体を叩こうとも、遠すぎるし役不足だ。」

「じゃあどうする!?」

「向こうの『闇』をヴァイスで覆って食い止める。できるだろ?」

『壁』を指さしながら、挑発的な視線を翔に向ける。

 迷うことはない。

 友が苦しんでいる。

 それを助けるために、今、ここにいるのだから。

「やってやるよ!!」

 満足気に笑ったサクヤは、手の平を前に突き出す。

「お前が道を創れ! 私がそこに通す!」

 頷いた翔も、手の平を『壁』に向け、目を閉じる。

 翔のヴァイス操作は、fakerやcipherにも引けを取らない。サクヤと比べると上だろう。

 だから、これは翔にしかできないことだ。

 ヴァイスの総量で上回っているサクヤだけがいてもできないことだ。

 かつてないほど、集中する。

 (要領は変わらない。大事なのは、イメージの固定。)

 まず、向こうの『闇』のかたちを、正確に把握しなければならない。

 目標は大きいが、常にかたちが更新されていく。それを含めた全てを、掴まなければならない。

 頭を空にして、神経を研ぎ澄ます。

 果てのない暗闇の中、そこに隠れたさらなる『闇』の糸口を感じた。

 (掴んだ!)

 そこから、デッサンしていくように、『闇』の輪郭を徐々に露わにしていく。

起点まで包めよ!」

「わかってる!!」

 真円のトンネルのようなイメージをができ上がった。ここから変化速度を考慮し、『闇』の表面に添わせるようにイメージを固定させる。

 そして、一気にそこへヴァイスを流し込む。

 こちらからは見えないが、向こうの『闇』が全て金色の光に包まれた。

 が、膨張は止まらない。翔の保有量では、ヴァイスの層が薄いのだ。

「サクヤ!!」

 今度はサクヤが翔の創った道を感じ取り、そこへヴァイスを流し込む。

 一気に層が厚くなった。

 道に流れ込んできたヴァイスの量が多すぎて、鉛を背負ったような重い負荷が全身にのしかかる。

 イメージが崩れかける。

「こらえろ!」

 ぐっと食いしばり、必死に道を維持しようとする。

 サクヤによって、『闇』の膨張は止められた。

 あとは、この状態を、『闇』が止むまで三人が維持し続けられるか。

 (もう、もた……ない…………)

 翔が骨組みを創り、そこに肉付けするのがサクヤだ。翔はこのまま自分が崩れれば、全てが終わると強く自覚していた。



 自分は弱い。

 有次のような特別な存在じゃない。

 サクヤのような神さまじゃなくて、ただの一般人だ。

 分けてもらったヴァイスが少ないからといって、それを理由にはしたくない。

 強さとは、弱さの自覚から始まる。

 有次のように気高く、サクヤのように猛々しく、二人のように強くなりたい。

 しかし、今の自分にはできない。さっきまでも、戦いを見ているだけだった。

 肩を並べて戦う実力がないことを、一番自覚している。

 今できないことをどうこう考えても意味が無い。

 今の自分に、できることをやる。

 自分が一番弱いなら、せめて一つのことでいいから、役に立ちたい。貢献したい。

 あいつを助けてやりたい。

 だから。



 道に注ぐヴァイスを、全て道の維持に割く。

 ヴァイスの層が一旦薄くなり、『闇』の力が上回る。

「サクヤ!!!」

 変化を感じたサクヤは、より多くのヴァイスを送る。

 一回りも二回りも層が厚くなり、むしろ『闇』を押し返す勢いだ。

 上げていた腕が震え、力が抜けていく。一瞬でも気を緩めると、全てが終わってしまいそうだった。

 全身の神経が悲鳴をあげ、鼻と口から血が溢れてきたが、粗末な事だ。

 ふと、少し前にいるサクヤの体が目に入った。先程刺された傷が開いたのか、左腹部が真っ赤になっていた。

 有次も必死に耐えている。

 自分が台無しにするわけにはいかない。

 すると、急に『闇』の膨張する力が増大した。

 体中の細胞が絶叫し、大量の血を吐き出す。

 fakerやcipherたちは先天的に大量のヴァイスを授かるため、過度なヴァイスの保有や使用、損失などに耐えられる。しかし、翔は後天的につくり変えられた体であるため、それらに耐えられない。

「踏ん張れよ!!!」

 fakerも、この力の増大を感じていた。

 これは、最後のあがきだ。

 ここを耐えれば、恐らく攻撃が終わる。

 展開された『壁』が歪曲し始め、所々ヒビが入る。

 


「「ハアアアアアァァァァァ!!!!!!!!!」」



 fakerも翔も、とっくに限界なんて超えていた。

 だから、叫ぶ。

 己の意識を保つために。気力を振り絞るために。

 そして何より、諦めない意志の表れだ。


 灰色の『壁』の真ん中に、大きく亀裂が入る。

 亀裂が次の亀裂を呼び、『壁』がボロボロと崩れといていく。

 (まだ、ま、だ、……!?)

 一瞬、力が弱まったと思った。

 と、『闇』の波動が止まった。


 翔は、その場に倒れた。

 体が痙攣していた。

 サクヤも座り込む。苦しそうに傷口を押さえていた。

 何が起きたかわからないが、血まみれの翔に、クラスメートたちが近寄ろうとした。


 同時に、fakerもその場に倒れた。

「ハァーー、ハァーー、ハァーー。」

 閉じたまぶたから、血が溢れてしたたる。

 上手く頭が回らない。

 思考もまとまらない。

 それでも、立ち上がろうとする。

 まだ、戦いは終わっていない。

『壁』は緩やかに崩れ去る。

 無理矢理ギフトを発動する。ノイズと耳鳴りが酷いが、何とかciphherを捉えた。

 敵の位置は確認できたが、それはあくまで座標がわかるだけで、敵の状態までははっきりとわからない。

「サクヤ!! 翔!!」

 fakerは必死に声を絞り出した。

 これほどの出力。

 cipherも相当弱っているはずだ。

 この機会は逃さない。

 仲間の有無が命運を分ける瞬間だと思った。

 今なら翔の攻撃も有効打になるだろう。

 サクヤなら仕留められるかもしれない。

 しかし、fakerは知らない。

 彼らが助けてくれていたことを。

 彼らも自分と同じように弱りきっていることを。

 空間が晴れる。

 cipherの状態を確認しようと、無理矢理目を開ける。

 視界は真っ赤だが、かろうじてcipherの姿は目視できた。

 まだ空中にいた。

 パッと見た感じ、疲れているように見えないが、右眼を片手で押さえて、左眼からは何かが流れているように見える。

 景色が真っ赤だからわからなかったが、実際、cipherの左眼も同様に大量の血を流していた。

 右眼を押さえていたのは、左眼に力を集中させていたためだ。

 やはり予想は当たっていた。

 今なら………。

 

 cipherが、笑った。

 押さえていた手を退け、右眼を見開く。

 時間が遅く感じた。

 今の自分は、恐らく能力を使えない。神眼は、ただ見れば能力が使えるわけじゃない。ある程度の演算処理が出来なければならない。極度の疲弊は、能力の使用に支障をきたし、使えなくなることもある。

 今が、まさにそういう状態だった。

 だから、cipherも能力が使えないと思った。

 仮にまだ右眼ドミネイトが使えたとしても、だからどうしたというのだ。『壁』の後ろも衝撃が凄まじく、人間たちへの被害も未知数。今cipherを見てる人はそういないだろう。

 また、fakerには仲間がいる。今のこの状況はむしろ不利だろう。

 なのに笑った。

 それが不思議で、不気味で。



 ここで一つ。fakerの知らない事実を述べよう。

 それは、cipherの右眼に付随するギフトだ。右眼の能力は知っていても、そのギフトまでは知らなかった。

 思考分割。

 cipherは、左眼の能力においては百パーセントの力を発揮していた。だが、それは左眼の全力であって、cipherの全力ではなかった。思考を分割して、右眼の能力が使える程度の演算能力を残していたのだ。

 では、何故そのリソースを残していたのか。

 全てをつぎ込めば、もしかしたら勝てたかもしれない。だけど、負けていたかもしれない。その場合、仲間がいるfaker側が有利なのは明白だ。

 つまり、本命じゃなかったのだ。あの攻撃が。


 そして、光った。

 視界の赤を晴らすように、白銀の光明が見えた。



「『支配ドミネイト』。」



 この場にいる全員の脳に衝撃が走った。



 fakerにとって、それは軽い偏頭痛のようなものだった。しかし、覚えている。同じ感覚を。


 サクヤにその類は全く効かなかった。しかし、その衝撃は感じていた。そしてそれがどんな能力かも解った。


「っ!」

 一瞬、意識が飛びそうになる。

 fakerとは違い、翔は『支配』の能力を受けたことがない。そのため、今の衝撃が何なのかはっきりと解らなかった。しかし、直感的に何なのかを理解した。

 (まさか、今のは!?)

 どうして自分が能力を受けたのか。昨日の演説の時は、新夜の眼をしっかりと見ていたのに『支配』されなかった。今回は眼を見ていないのに何故か対象となった。

 意識を保ち、体を必死に起こす。

 もし予想通りなら、心配するのは己の体じゃない。

 立て膝の状態まで体を戻し、ゆっくりと反転して後ろを向こうとした.

 ドンッ。

 何者かに押された。

 いや、違う。

 体当たりされた。

 体が穴から外へ放り出される。

 体をよじって、自分の背後を確認する。

 驚いた瞳に映ったのは。


 朧一。

 西東拓哉。

 片岡総一郎。


 翔の体にしがみつくように自身の体を押し当て、自分たちごと穴から飛び出た。

 放り出された四人は、空中で視線が交差した。

 翔にはわからなかった。

 どうしてこんなことを。

 そして、本人たちもわからなかった。

 どうしてこんなことをしているのかを。

 彼らの目は、救いを求めていた。

 四人とも、ビル五階相当の高さから落ちている。

 地面に落ちようと、翔に傷はない。

 しかし、普通の人だったらどうだろう。

 腕を伸ばそうとするが、体が言うことを聞いてくれなかった。

 全快の状態なら、すぐさま地面に着地して、全員とまではいかなくても、一人や二人助けることができたかもしれない。

 でも、体が動かなかった。

 ただ、絶望を感じている友たちの顔を眺めがら、落ちていくしかなかった。


 グシャッ。


 むごい音がした。

 翔はとっさに受け身を取り、体にダメージはなかった。

 顔を上げると。

「…………。」

 言葉が出なかった。

 三人が、地面に倒れていた。

 そして、血の海をつくっていた。

 はじめと総一郎は、背中から地面に落ちたようだ。瞳孔を開いたままピクリとも動かない。そして拓哉は、頭から落ちて、首がおかしな方向を向いていた。

 開いた口が何かを紡ごうとするが、声が上手く出なかった。

 (どうして……どうして…………)

 

 

 その瞬間を、fakerも見ていた。

 (あれは『支配』! どうして!?)

 cipherの右眼の神眼の能力、『支配ドミネイト』。

 対象と目が合ったことを条件に、対象の全てを掌握し『支配』する。

 それなのに、何故だ。

 

 学校に集まった地区の全員が、狂ったようにグランドへ飛び出してきた。意味もなく大声を上げ、敵対心を剥き出しにして突撃してくる。

 明らかに、普通ではない。『支配』されていた。

 cipherは自ら能力を開示した。それが、ほんとうである保証はどこにもない。自ら嘘の開示をし、それがあたかも真実であるように能力を発動させる。

 右眼の能力について、こちらは

 目が合ったら能力が発動できるなんて、嘘だった。


 まだ、眼の能力は使えない。

 迫り来る群勢をかき分けて前へ進む。多少手荒な手段を取ったが、殺すことはしなかった。

 彼らは、目は血走り、涎を垂らしながら、力任せに腕や足を振り回した。単調故にかわしやすかったが、全員が口々にこう呟いた。

「お前のせいだ!!」

 皆、怒っていた。

 攻撃の原動力は、怒りだった。

 それは鴇矢有かつてのじぶんにまとわりついた、呪いの言葉だった。

 世界を滅ぼす原因をつくり、そして逃げ出した。度々悪夢に彼らは出てきて、同じことを叫んだ。

 鴇矢有にとって、それはとても悲しいことだった。自己の救済を目指していたが、彼らを救おうと努力をしてきたのは確かだ。しかし、結果的に正反対の結果を生んでしまった。その事が申し訳なくて、後悔しかなくて、その感情が悪夢として現れていた。

 今度も同じだった。彼らを守りたかった。

 しかし、彼らからしてみれば、それは余計な行為だった。まさに救済されようとしているのに、それを邪魔している奴、と認識されてしまった。演説による方向づけの影響もあるだろう。群衆の感情が『支配』によって増大され、表に剥き出しながらfakerに襲いかかってきたのだ。



 お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。



 お前のせいで、俺たちは救われなかった!



 人混みの中をひた走るfakerに、呪いの言葉が降り注ぐ。

 彼の空の心を貫いた。

 群衆を抜け、校舎に近づく。

 そこには、友の死体に顔をうずめる翔がいた。

 一度止まり、死体を一瞥する。

「ごめん……守れなくて、ごめん…………」

 ボロボロに泣きながら、翔は言った。

 生きて目の前に立つ友に向けての言葉でもあり、死んだ友への言葉でもあった。

「………………すぐに後ろから人間たちが押し寄せてくる。お前もすぐに退避しろ。」

 そう言い残して、大穴に向かって飛び、三年E組の教室へ入った。

 そこには、サクヤ以外に、一人だけいた。それ以外の人は皆、グランドへ殺到したのだろう。

 波澄久礼波。

 頭を抱えながら座り込んでいた。

 fakerが来たことに気付くと顔を上げた。

「有次……君?」

 立ち上がり、おぼつかない足取りでゆっくり近づいてくる。

 しかし、急にスピードを上げて突進してきた。手には、割れたガラス片が強く握り締められていた。

 fakerの腹へガラス片が刺さった。

 深くは刺さらなかったが、波澄の手に、生温かい血がつたう。

「お前のせいだ!」

 そう言い放った瞬間、その言葉に波澄自身が一番驚いていた。

 fakerの表情は、変わらない。

「嫌っ! 違うの! や、やめて!」

 懸命にガラス片を離そうとするが、体は逆により強くガラス片を握り、より深く突き刺そうと力を加える。

 自分の手が裂け、fakerと波澄の血が混じる。

「違うの有次君! わたし、わたしそんなこと……お前がいたから私たちは!! ……ちがう……ちがう、そんなことを言いたいんじゃ…………」

 表情がコロコロと切り替わる。

 自分の心とは無関係に体が動いてしまう。大切な人を傷つけてしまった。その事実に波澄は泣いていた。泣きながら、fakerへの恨み言を口にした。

「…………。」

 fakerは、一切抵抗しなかった。

 サクヤがこちらに向かってきた。

 手には、ヴァイスで創った金色の剣が握られていた。

 fakerは、サクヤを見て、首を横に振った。

「…………。」

「…………。」

 サクヤは、fakerの瞳を覗く。

 その瞳には、覚悟が見えた。

 踵を返し、穴から飛び降りて行った。

 教室には、二人しかいない。



「ごめん。」



 片手にヴァイスで刀を創り出し、抱き締めるようにして、波澄の胸へ刀を刺した。その感触は、とても鮮明だった。

 刀を消すと、波澄の体は一気に力が抜けて倒れそうになった。それを抱きとめる。

 血を吐きながら、波澄は言葉を紡いだ。

「有次、君。」

 小さな手が、fakerの服を弱く握る。

「私ね……有次君のことが…………――」

 口は微かに動いたが、続きの言葉が紡がれることはなかった。

 それでも、彼女は満足そうに微笑んだ。

 全身の力が抜け、二度と瞼を開かなかった。

 その美しい顔に、ポタ、ポタ、と血が垂れた。

 fakerの右眼から流れた血が、頬をつたい、こぼれ落ち、彼女の頬へ落ちた。

「ごめん、もう君を想って泣くこともできない。」

 頬に落ちた彼の血は、彼女へと染み込んでいった。



 サクヤは翔を通り過ぎて、向かってくる群勢に、その刃を突き立てる。

 五、六人をまとめて串刺しにする。金色の剣が血に染る。

 乱暴に剣を抜き、襲いかかる人間の首を次々にはねていく。

 バタッ、バタッ。

 一つ、また一つと、むくろが増えていく。

 路傍に捨てていくように消えていく命に、戦慄した。

 頭では理解している。これは最大限の優しさでもある。『支配』された者の末路は死しかない。cipherを殺せば能力は解除されるだろうが、盾に使ってくるのは目に見えている。その人たちを殺さずにcipherを殺そうとすることはできない。仮に追い込んだとしても、そうなれば『支配』した人間を皆殺しにするだろう。一つ命じれば簡単に首が落ちるのだから。実際、『支配』された人々は、無理に体を使われ、骨が折れながらも体を動かし、泣き叫んでいる者も少なくない。救いという観点から言えば、殺してあげるのも手段の一つだ。

 啼哭ていこくと激情が混じった表情をまざまざと見せつけられ、尻込みしてしまった。

 すると目の前を、友が通り過ぎた。

「お前はここにいろ。」

 そして走り去り、無表情で人を殺していく。

 自分もやらなくちゃいけないと思った。

 自分たちの戦いは、殺すか殺されるかの戦い。戦闘不能にして終わり、なんてことはない。それは死にかけた有次を見た時から覚悟していた。覚悟していたはずなのに、手が震えて仕方なかった。

 そんな自分を心底嫌悪した。しかし、fakerからしたら、それはとっくに捨てたもの。そういう翔のことを誇らしくもさえ思っていた。

 だから、血にまみれるのは、自分だけでいい。



 歩くと、チャプ、チャプ、とまるで水溜まりの上を歩いているような音がする。違うところは、水が全て鮮血であることだ。

 グランドは、真っ赤な瘴気に覆われていた。無数の屍を縫うように前へ進む。もげた首たちがこちらを向いているような気がした。

 cipherがグランドへ降り立っていた。

 左眼の下に血の跡があるが、結膜の色は戻っており、今の時間でかなり回復したことだろう。

 cipherは、fakerより少し逸れた方向へ指さした。

 それまでギフトは使っていなかったため、気付かなかった。まだ、一人いた。正確には、今、学校にやって来たのだ。

 校門から、一人の男が入ってくる。


                    *



 官邸を飛び出した月影は、神奈川の朝陽までの行き方について少し立ち止まって考えた。

 全世界へ向けた新夜の映像によって、日本はお祭り騒ぎだ。待っていられなくなり、朝陽へ殺到し始めた。

 公共インフラは壊滅状態。

 当然、車に乗り込むわけだが、あまりにも数が多すぎた。一般道ですら渋滞で全く進まなかった。

 朝陽に入る手段は、地下鉄と公開道路オープンロードのみである。地下鉄は現在、朝陽の職員がいないため、朝陽行きは運行していない。公開道路にも普段は検問のような検査場が設置されているが、同様に職員が不在なため、そもそも道が塞がれてしまっている。つまり、現在朝陽に入る手段はないのだ。

 しかし、月影は例外だ。

 何とか朝陽周辺に辿り着いた時には、九時前だった。

 車を乗り捨て、係員用の出入口を専用カードで開け、そこから朝陽へ入った。

 ひたすら走った。

 誰一人いない、物音一つない死の街を駆ける。

 ただ、この言葉を伝えるためだけに。

 

 そして、学校に辿り着く直前。

 脳に衝撃が走った。


                    *


「…………月影。」

 ゾンビのような足取りで、頭を抱えながら月影が歩いてくる。

「有次さん、私……あなたに……伝えたいことが、あります。」

 十メートル離れたところで止まる。

 スーツの内側に手を入れる。

 素早く抜いた手には、拳銃が握られていた。

 パンッ、パンッ。

 躊躇いなく二発発砲された。

 どちらもfakerの眉間を正確に狙ったが、顔を反らすだけでかわされた。

 銃を持っていない手をまたスーツの内側へ潜り込ませ、銃を打ちながら走る。五メートルを切ると拳銃を放り投げ、スーツからナイフを取り出す。体の近くで握り、一気に腕を伸ばしてfakerの胸を突こうとした。

 ナイフを持った腕を軽く払い、懐へ入ると、月影の胸を刀で貫いた。

 苦しそうな顔はしなかった。むしろ刺された瞬間、嬉しそうに笑った。

 寄りかかるように月影の体が倒れた。受け止めて、静かに地面へ寝かせる。

「今まで、すみませんでした。」

 血を吐きながら、それでも言葉を振り絞る。

 もうよく前が見えていないのか、あてもなく腕を空へ伸ばす。

 fakerはその手をがっしりと掴んだ。血まみれで滑りそうになったが、それでも離さないように、強く。

「ありがとう……ござい……まし、た……。」

 今まで見たことのない、いい笑顔だった。


 (ああ、私みたいな人間が、やりたい事を見つけ、幸福を感じれるなんて…………)

 

 そのまま、月影の魂は体から離れていった。

 それでもしばらく、手を握っていた。


 月影がただのエージェントでないことは気付いていた。それを月影本人も知っていたのだろう。それでも口にしなかったのは、表面上でも関係を壊したくなかったからだ。月影にとって有次との関係は思っている以上に心地が良いもので、その気持ちが余計口を固くしていた。

 かつて、月影にこう言った。やりたい事がいつか見つかると。どんなに人に言えないような人生だったとしても、幸せになる権利ぐらい、平等に与えられるべきだ。だからいつかは、自分のやりたい事を見つけて、思うがままに生きて欲しい。そう思っていた。

 やっとその一歩を歩き始めた矢先に、彼は逝ってしまった。

 悲しいはずなのに、涙を忘れてしまった。





「……サクヤ。」

 隣にいる少女の

 腕を伸ばし、胸に手を置こうとしたが、寸前でガッと手首を掴まれた。

 fakerは悪魔の瞳を覗き、そして悪魔はfakerの瞳を覗いた。

「…………。」

「…………………………。」

 長い沈黙の間、両者共に一瞬も視線を逸らさなかった。目で会話しているようだった。

 そして、サクヤが顔を逸らした。

 手を離す。

 fakerはサクヤの胸にそっと手を置き、。不思議と血は流れず、胸から光が溢れ出す。

 手首までサクヤの内部に入れると、そこからゆっくりと引き抜いた。

 金色に輝く球を掴んでいた。

 少女の体は力なく倒れ、やがて末端から光の粒子に分解されて霧散した。

 球体を優しく己の胸へと誘う。

『いいのか。』

 サクヤの声が脳に響く。

 わかっている。これがどういうことなのか。

 cipherの思惑通り、もうしがらみは無くなった。ここに、守るべき存在はいない。

 球体が胸の中に入っていく。

「宿れ、サクヤ。」

 fakerの魂は、悪魔の魂に侵食された。

 彼は魂の半分を切り捨て、そこへ悪魔の魂をはめ込み、融合させる。

 fakerとcipherは、その魂を少しずつ変化させ、それによって体も昇華していった。だが、彼らは未だ神に昇華していない。

 fakerは悪魔と融合することで、その魂を神に近いものへと変えていく。その変化に、体はきっと長くもたない。

 露出した左腕に、漆黒の網目模様が、何かを縛りつけるかのように浮かび上がる。

 左手にヴァイスを集約させる。

 少し、色が透き通っていた。

 金色が主体のホワイトゴールドに輝く刀を創り出す。

 雰囲気が一変したfakerと対峙し、ギスギスとした死の匂いが濃くなる。

 (神との融合……長くは続かない。けど、だからこそ!)

 先にcipherが動いた。

 駆け出したcipherは、両手に『闇』の双剣を創り出す。両方とも逆手に持ち、一気に懐へ入り込む。

 合わせるように刀を振るうが、より低くかがんでかわす。立ち上がるように下から首元へ剣を向ける。

『壁』を擦る。

 伸びきった上半身にfakerの足がめり込む。

 一回地面に衝突した後、空中で体勢を立て直す。しかし、その時には既にfakerが頭上を取っていた。

 fakerの一振りを受け、地面に激突する。手がヒリヒリとするほどの威力だった。

 間髪入れず、fakerが刀を立てて落ちてくる。瞬時に双剣を消して刀より大きな剣を創り出し、地面に寝そべりながら受け止める。

 fakerは馬乗りになるような形になり、刀身にも片手を添えて、全体重をかけてくる。徐々に、徐々に、刀が剣を押していく。

 黒白の閃光。

 前後左右の四方向から、『闇』がfakerを襲う。

 白銀の閃光。

 その全てを『壁』で難なく防ぐ。

 眼前で火花が散る。『闇』が自分にめり込んでいく。

 もう一度黒白の光が見えた。

 視界が『闇』に覆われる。

 瞳と数ミリ離れた程度の位置に、起点の渦が創られる。『壁』を挟むのが困難なほど近かった。一瞬で瞳と渦の隙間に『壁』を展開するほどの余裕はなかった。やむを得ず顔を横に反らす。顔が反れるとどうしても体の重心も傾く。それを利用してcipherは手持ちの剣でfakerを押し退ける。

 馬乗りの状況は脱したが、fakerは押し退けたられた直後、空中の『壁』に手足をつき、すぐさま反転して再度振りかかる。cipherは倒れた体勢のまま体を宙に浮かし、体を回すようにして刀を受け流す。

 空中で自由に動けるのがcipherの強み。

 地面に着地することなく、攻撃を仕掛ける。


 バチバチバチバチッ、と周囲にその衝撃が伝わる。

 金色の刀と漆黒の剣。

 幾度となく衝突する様を、翔はただ見ていた。

 もはや、彼らの戦いは神の領域に達している。

 地面が、草木が、建物が、空間が、超絶な力の摩擦に耐えられず、壊されていく。

 もう、戦いに入る余地はない。彼らからしてみれば、翔は常人よりかは幾分か強い程度にしか思えないだろう。

 翔は、秋田へ逃げた時の生活を思い出していた。


                    *


 有次は、日に日に有次じゃなくなっていった。

 笑い合うことは無くなった。会話も簡素に済ませ、昨日の会話を覚えてない時もあった。

 幸一も決して口にはしなかったが、いつも悄然しょうぜんとしていた。

 自分が弱いからだと言い聞かせて、毎日特訓をした。

 その日は、幸一も付いて来た。

 何かを話したそうな雰囲気だったが、気付かぬふりをした。

 夕暮れが近づくと二人で家へ帰った。

 木でできたログハウスで、玄関を開けるとすぐにリビングが広がり、二階には寝るだけの最低限の空間しかない。

 だから家に入ると、椅子に座る有次が見えた。窓からの燈色の光が逆光となり、シルエットのように輪郭のみ表していた。

 風が吹き、木の葉が揺れたことで差し込む光も揺れた。

 そこで色が現れた。よく見ると、手には日本刀が握られていた。そしてその手は、燈を塗り潰すような赤だった。

 慌てて幸一が電気をつけた。パチッという音と同時に、露出したまま吊るされた一個の電球が、昼白色にリビング全体をほのかに照らした。

 食卓代わりにしている大きなテーブル、四つの椅子、淡い栗色の床。もう見慣れてしまった風景に、見慣れたくない赤が広がっている。

 右手には日本刀が握られていて、テーブルの上に置かれている。左腕はダラリと力なく垂れている。うなだれた状態で両瞼は閉じられており、それどころか誰かが帰って来たことすら気付いていない様子だった。左目からは血が今でも溢れ続けていて、顎あたりと伝った左手の指先からポタッ、ポタッ、と床に血溜まりを形成している。

「兄……さん……?」

 幸一の声で、ようやく醒めた。

「……ああ、おかえり。」

 こちらに向かって首を傾け、何事もないようにそう言った。

「少し気付かなかった。」

 立ち上がろうとした時に、ベチョッと血を踏んだことで、ふと思い出した様だった。

「すまない、汚しちまったな。」

 それが、あまりにも普通だったから。異常な光景なのに、あまりにも何事もないかのようにしていたから。

 詰め寄り、有次の両肩を強く掴み、激しく揺らす。

「おい! この血は何だよ! どこか怪我したのか! もしかしてcipherでも来たのか! なあ、有次!」

 有次の心は微動だにしていなかった。

 右手を刀から離すと、かたちがサクヤに戻った。左手で顔に触れ、手に付いた血を無関心に眺める。

「左目をくり抜いたんだ。」

「…………。」

 その言葉の意味が、全く解らない。

「どうしてそんなことを……。」

 元から目が悪かったのだろうか。でもそんなこと一度も聞いたことなかった。もしかしたら左目を怪我したのかもしれない。それでやむを得ず。

 そんなことを考えていると、有次は自ら答えを述べた。

らなかったから。」

「…………どうして……。」

 再度同じことを聞いた。

 返答はなかった。


 生物は、環境に合わせて姿を、構造を、機能を変化させていく。

 地上に合わせた構造に組み替えた。地中に必要な機能を伸ばし不必要なものは切り捨てた。深海で生きていくために新たな形へと姿を変えた。

 これも、同じことだと言うのか。

 こんなものが、進化と呼べるのか。

 もしそうなら。


 とても耐えられない。

 


 ある日、夜遅くに有次はひっそりと起き上がった。一階へ降りて行く物音で目が覚めた翔は、有次に続いて階段を降りた。

 有次は玄関の扉をゆっくりと開けて、外へ出た。慌てて後を追う。

 その日の夜は半袖でも寒さを感じなかった。

 バタバタとした音で誰かが付いて来たのに気付いているはずだが、振り返ることなく有次は森の中を進む。

 二人きりになるのも久しぶりだった。

 何となく話し掛けづらくて、ちょっと離れて付いて行く。

 しばらく歩くと、小さな池に辿り着いた。

 少し斜面になっている所に、有次は腰を下ろした。

 遅れて、翔も隣に腰を下ろす。

 お互い口を開かず、目の前の池を見つめた。

 こんな山奥に、人口の光は届かない。そのため、星本来の輝きが燦々と池の水面に映る。

「こんなに綺麗な所があったんだな。知らなかったよ。」

 有次の表情も、少しほころんだように見えた。

「こんなこと、前にもあったな。」

 有次がそんなことを言った。

 それは恐らく、去年の夏、日本に帰ってきた時のことだろう。

「そう……かな。でも前は真ん丸の月が見えた。……今日は見えない。」

「そう……だったな。」

 ぎくしゃくした会話に、心が沈みそうになるが、どうしても聞きたいことがあった。

「なあ有次、お前は。」

「……。」

 直ぐには答えなかった。その沈黙が何を意味するのかは、わからない。

「俺は自分のために生きてる。だから大丈夫。翔が心配することは無いさ。一つも。」

 優しく微笑む横顔は、自分の知るいつもの友人の顔だった。


                    *


「勝て…………勝て、有次!」

 その言葉は、届かない。

 けれど、その想いは届くはずだ。


「サクヤ、もっとだ。」

 左腕に浮かび上がる漆黒の網目模様が、少しずつ大きくなった。

 黒の侵食が進む。

「!?」

 その変化を直ぐに体感した。

 同じ一撃でも、受け止めた時の重さが違う。

 fakerの連撃に、『闇』が耐えられず剣が壊れる。

 しかし、それを囮として間合いを詰め、顔目掛けて右拳を突き出す。

 のけぞってかわした。『壁』では防がない。

 そのまま地面に両手をつけ、後方に一回転する。振り上げた足がcipherの鼻をかすめる。

 低い位置にある頭に蹴りを入れる。寸前でガードされたが、力任せにガードの上から蹴り飛ばす。

 fakerの体が地面を激しく転がる。

 転がる先の地面に渦を創る。それを確認したfakerは、地面を思いきり叩き、体を浮かす。浮いた高さに『壁』で新たな地面を創る。下からの攻撃を防ぎながら立て直す。すぐさま飛び降り、左手にヴァイスを集中させようとする。

 その瞬間、体中を鋭い電流が走った。

「ッ!!」

 左手がピクピクと痙攣する。力が入らない。

 砂を巻き上げながら、cipherが突進してくる。

 ギィィィンンンン!!!!

 大きな音とともに、砂埃が舞う。

 翔からは戦況が見えなくなった。

 (どうなった?)

 ブォンと舞い上がった砂埃が風圧でかき消える。

「かはっ!」

『闇』の剣は砕け、白金の刀に血が流れる。

 みぞおちから左鎖骨の辺りまで斬られ、cipherが血を吐く。

 肉を断つ感触が残ったまま、攻撃の手を緩めない。

 cipherはすぐに剣を創り直すが、それも十回を打ち合う前に壊れた。

 ジリッ、ジリッ、と少しずつcipherが押されていく。

 fakerは、cipherから見て斜め下の方向へ体を移動し続けることで、相手の視界に自身を極力晒さないように動く。現状cipherは劣勢に立たされているのに、敵を視界で捉えづらく、動き続けるfakerを『闇』で攻撃する余裕はなくなっていった。

 次第に防御が回らなくなり、至る箇所に切り傷が増えていく。

 剣を砕かれるのはまずい。そう思ったcipherは、より強く硬い剣を創る。

 しかし、純粋な力で押し切られ、校舎に吹き飛ばされる。

 fakerのフィジカルが強化されている。それも、現在進行形で。cipherの優位が一つ消えた。

 戦場は校舎内の空き教室へ移った。

 後を追ってきたfakerへ先制攻撃を仕掛ける。

 攻撃をかわすのではなく、受け止める。

 始めの勢いは段々と衰え、またもや押され始める。

 今度はcipherが相手の刀をなるべく受けずにかわしていく。フィジカルの優位性は逆転したと言えるが、それでも空中のアドバンテージが残ってる。

 空中で自由に体をねじり、最低限の接触で刀をいなしていく。

 fakerは神と融合したことで力を手に入れたが、それは時限爆弾付きだ。表に出さないだけで、決着をはやる気持ちが攻撃に現れていた。力任せに単調な攻撃が増え、更なる負荷を恐れてか眼の能力をほとんど使わなくなっていた。逆に、cipherは小さく細かな攻撃を増やし、確実にダメージを蓄積させようとする。やっている事が以前とでは逆転していた。

 fakerの顔が歪む。と同時に左手が不気味に開き、ピクピクと痙攣した。

 その隙を逃さない。強く踏み込み、剣を振り下ろす。

 剣が、fakerの眉間へと迫る。

 バチンッ!

 何かに弾かれた。

 右眼の輝きは、ダイヤモンドに光を当てたように美しかった。

 だが、cipherにとっては好都合。眼を使うとは、リズムが乱れていることを意味している。

 fakerの意識は上へ向いていた。がら空きの胴体に、cipherの左足が刺さる。

 足が浮き、体が後方へ飛ぶ。

 直後、cipherの重心が前に傾き、足を動かそうとした瞬間、ドンッと衝突音がした。

 fakerが、自分の真後ろに『壁』を展開し、そこへ自らの体をぶつけたのだ。飛び始めの勢いがそのままの状態で『壁』に体を意図的にぶつけたため、衝突に苦悶の表情を見せたが、反作用の力を利用してcipherの顔面を蹴った。

 そこからの切り返しを予想していなかったcipherはノーガードだった。視界が一瞬眩んだ。彼らの戦いにおいて、頭への攻撃はより効果的と言えるだろう。

 回転の勢いを殺すことなく、着地してから体を回し、よろめくcipherの腹へ左拳を突き刺す。

 体が折れ曲がり、大量の血を吐く。壁を壊しながら五つ隣の教室まで吹き飛んだ。教室内は白煙に包まれ、端に集めて置かれた机や椅子が散乱し、いくつも外へ飛び出た。


 

 頭上から、いつも使っていた学校の机が降ってきた。真横の地面に突き刺さる。

 (有次!!)

 中の状況がわからない翔は、もどかしい気持ちを必死に抑えた。

 自分がいたところで、足でまといになるだけ。そう自分に言い聞かせる。

 (でも、このまま何も出来ないままなら、何の為に……何の為に!)

 ジリッ、と靴が地面を擦る音がした。

「!?」

 もう動ける者などいないはずだ。

 空耳かと思ったが、周囲を見渡すと校門に一人の少年が立っていた。

「幸一!!」

 (目覚めたのか!?)

 昨日の朝食に、月影からもらった強力な睡眠薬を食事に混ぜた。有次の話では、最低でも今日中は眠っているはずだ。

 幸一は顔面蒼白だった。それは、ここまで走ってきて息が切れている、からじゃない。

 校門から動かず、決して学校の敷地内に入って来ようとしない。

 入って来られなかった。

 この酸鼻で残酷で、この世の地獄を再現したかのような光景を目の当たりにして。

 人が、人がたくさん死んでいる。

 血、血、血。

 首がもげ、手足が千切れ、五臓六腑を撒き散らし、無造作にあちこちに折り重なっている、人だったものたち。

 この学校全体が、数万を超える人間を捨てるゴミ箱に思えた。

 翔は慌てて駆け寄る。幸一は有次最大の弱点となり得る存在。急いでcipherから隠さなければ。

「幸一! なぜ来た!」

 両肩を強く掴み、激しく揺する。

 cipherとの戦いの規模は凄まじく、知らない内に巻き込まれて死んでしまう可能性もある。目の届く範囲に居た方が安全なのではないか、と考えもした。だが、自分の例もある。手が届くからといって、助けられるとは限らない。

 幸一は、新夜の演説さえ知らない。だから、町が無人なのも、兄たちがどこへ行ったのかも、目の前に大勢の死体が転がっているのも、どうしてなのかを何一つ知らない。

 目が覚めて、みんなを探しに外へ出て、学校に行けば、誰もいなくても情報は手に入ると思ってここまで走ってきた。

 予想はできるし、その状況を作ったのはこちらだ。幸一には何一つ非はない。だけど、幸一は自分の存在の重要性を理解しているはずだ。だから、つい強い口調で問い詰めてしまった。

「翔さん……兄さんは…………」

 幸一はこう続けようとした。

 戦っているの?

 翔もかつてはそっち側の人間だった。だからこそ痛いほどその気持ちがわかるし、言ってやれる言葉がなかった。そっち側に、選択肢は無いのだから。

 突然、バァン! と何かが破裂したような大きな音がした。幸一の視界を、真っ黒な物体が高速で通過し、ドォォォンとグランドに深々と突き刺さった。地面が激しく揺れる。

 大きく舞い上った土煙から現れたのは――――


 

 

 少し遡り、どこかの空き教室内。

 体に力が入らない。どこまで殴り飛ばされたのか。

 朧気な視界に、fakerが飛び込んできた。

 自分と同じ白髪。左眼には黒の眼帯。右眼は透き通って無機質めいた白。左腕には漆黒の網目模様。握られているのはヴァイスの刀。

 確実な死が振り下ろされる。

 動け、動け!

 弱々しく、左眼が黒白に点滅する。

 自身の右肩辺りの床に、起点の渦を創る。飛び出た『闇』は先端が丸く、肩を下から押し出して無理矢理体を回そうとする。右腕を振って左横を向くような体勢になろうとした。

 ゴンッ、と右手が何かに当たった。横を向くと、視界いっぱいが霞がかった灰色だった。

「!?」

 そこで気付いた。

 左手側、右手側、頭上、の三方が、『壁』によって囲まれていた。

 逃げ場はなかった。

 

 ここで終わるのか?

 全てを捨てたというのに、自分さえも殺したというのに。

 それでも、足りないのか?

 何が足りないというのだ。

 ……そもそも、間違っていたのか?

 誰かに縋るしかなかった自分が、一人で立とうなど。一人で何かを成し遂げようなど。

 思えば、ことごとくで失敗する人生だった。

 それでも、願ってしまう。手を伸ばさずにはいられなかった。未完成故の欠陥だったとしても、それが自分を形成している核なのだから。


『私を守ってね。私もリッカを守るから。』

 微笑む彼女の顔が見えた。

 それは、かつての誓い。



 

 僕が、全てを変えてみせる!!




 三度目の人生においても成し遂げることが出来ないという、自己への深い絶望。しかし、それを乗り越えようとする、強い意志。願い。そのつよさ。

 常人では到底手に入れられない『何か』が、樹のその先へ辿り着くために必要ならば、今この瞬間。

 これをもって、彼は昇華した。

 


 

 激しい光とともに、fakerの体は弾き飛ばされた。

 グランドに、高速で鋭角に突き刺さる。グランドに転がっている数万もの死体にくへんが、その衝撃で飛び散り宙を舞う。

 校舎全体に亀裂が走り、崩壊する。

 翔は幸一を担いで、慌てて校舎の影から退避する。

 振り返ると、瓦礫と一緒に落ちる波澄の姿が見えた。そして、さっきまで自分の周りに倒れていた友人たちも、崩れた瓦礫の中に消えていった。

「翔さん!」

 その声で我に返り、降ってくる瓦礫群をかわしてさらに遠くへ逃げる。

 友人たちとの思い出の母校が、跡形もなく壊れた。

 残ったのは瓦礫の大地と、宙に浮いた一人の青年。

 髪の色と同じ、白銀のオーラを薄く纏っている。そして、左眼の色が、右眼と同じ白銀に揃っていた。

 内からサクヤの声が聞こえた。

『至ったのか。0の世界サイファに。』

 それは、現世うつしよの理から外れた世界。

 神の世界。

 ゆっくりと立ち上がり、口に溜まった血を吐き捨てる。

 fakerは認識を改める。

 こいつは、成ったのだ。

「兄さん!!!」

 幸一の声が荒地に響き渡る。

 その声は、確実にfakerに届いた。

 振り返りはしない。

 胸に染み渡り、生きる意味をくれる。それだけで、十分だった。

「……サクヤ、。」

 魂の侵食は加速する。

 自分が自分じゃ無くなるまで、全てを捧げよう。

 左腕が、真っ黒に染まった。肩を超えて鎖骨や脇腹辺りを超えても浸食は止まらず、およそ半身全てが漆黒に染められた。

 集約するヴァイスは、より白く、より透明で、より輝いていた。

『闇』で創られた剣は、十字架をかたどったような形だった。



「神様気取りが。」

「地に堕ちたケモノが。」

 

 

 両者の姿が消える。

 バチバチバチッ、と電撃のような衝撃が空気を震撼させる。

 刀と剣が一度衝突しただけで、風が瓦礫を運び、大地が割れ、気候が変わる。

 幸一は、立っていることすら難しかった。翔が支えていることで何とか立っていられる。

 もう翔の目ですら追えない速さで戦いは繰り広げられている。衝撃と音だけが置き去られた。

 背後から一際大きな音が聞こえた。慌てて振り返ると、ガガガガとfakerの体が、地面にめり込みながらグランドを横切る。

 fakerはすぐに体勢を直し、グランドから校外へ駆ける。その上空を、全く同じ速度でcipherは飛んで追尾する。

 ぐんと速度を上げて、前へ出る。一気に急降下し、頭上から剣を振るう。

 fakerは真横へ飛び回避するが、cipherはピッタリとついて来る。後ろ走りのような体勢で応戦する。

 もう一度真横へ飛ぶ。今度はcipherの視界から消えた瞬間真上に飛び、その頭上を取る。空中での直線的な移動による急な方向転換は、fakerが空中でcipherに勝てる要素だろう。

 完全に死角に入った。

 しかし、死角には既に起点の渦が創られている。

「!!」

 あらかじめ渦を創っていたのではない。今、創られた。それも死角に。

 神眼とは、元々神の力と同等の能力を、『眼』という制限下で再現する器官に過ぎない。

 もうお互い手札は出尽くした。cipherの手持ちに、fakerと同じように死角に能力を展開する何かはないはずだ。

 だったら、考えられることは一つだけ。

『神』への昇華。制限からの脱却。

 つまり、cipherは正真正銘成ったということだ。

 同時に展開された渦が多い。数十もの『闇』が襲いかかる。加えて、それぞれが触手のように自由に動いて来る。

 かわすだけでは埒があかない。

 その半分を『壁』で防ぎ、残りは自分で斬る。

 紛れてcipherが上昇して来る。

 その瞬間、放出された『闇』を全て『壁』で防ぎ、迎え撃つ。斬ること自体が餌だった。

 だが、それを見切っていた。

 振り向きざまの唐突な一振を寸前でかわす。体を縦にくるりと回し、振り上げた踵がfakerの背中に直撃する。

 内蔵にまで響き、真っ赤な血を吐く。垂直に落ちてクレーターを作る。

 周囲の住宅が、狼に簡単に吹き飛ばされた藁の家のように、跡形もなく消える。瓦礫は四方へ飛び散り、さらに遠くの高層マンションや住宅を壊す。

 盛大な土煙の中でも、容赦なく無数の『闇』が襲う。

 ブォンと煙から一つの影が飛び出す。fakerが一直線にこちらへ向かってくる。

 cipherはfakerの方向へ右腕を突き出した。

 自分を中心とした広範囲に神経を巡らす。渦を創るとき、特有の力の流れが生まれる。これはcipherに限った話ではなく、fakerの『壁』も同様に、展開の直前に微かな予兆がある。

 fakerは『闇』以外の可能性も考えていた。腕を前に突き出す動きは、能力のためのモーションだろう。しかし、今のcipherに果たして必要だろうか。能力を使うことは簡単なことじゃない。戦いの最中であれば、それが難しくなる局面もある。腕を使うのは、精確な座標とイメージの補助としてで、特に腕である必要は無いが、最も簡易的な方法だと言える。サイファへと至ったcipherがその挙動を示せば、それが罠だと考えるのは自然の流れだった。

 その思考の方向性は間違っていない。

 抜けている点は、神に昇華したことで得た、もしくは可能になった事柄についてだ。

 自分の真正面に、つまりはcipherの伸ばした腕の先から、とても些細な流れを感じた。今まで感じたことのないものだった。しかし、渦はいつまで経っても発生しない。

 そして、正面の空間が、不自然に歪んだ。水の中に入れたコインの遠近感が錯覚するように、cipherとの距離感が消失した。

「う"っ!!」

 突然、真正面から何かに押された。

 自身とcipherの間には何もない。なのに、cipherがどんどん遠ざかっていく。

 まるで、見えない大きな壁に上から押されたみたいだった。

 速い球を打ち返した方がより遠くへ球が飛ぶのと同じように、猛スピードで何かに激突したfakerは同程度の速度で地面へ落ちた。遠く離れた翔にも伝わるほど地面が揺れる。

 大量の血とともに、体力や気力も体外へ漏れ出す。

 点滅する視界をどうにか保つ。襲い来る『闇』をヴァイスを操作と神眼で防ぎながら、体をうつ伏せにする。手を着いて、体を起こそうとする。

 ポタポタと血が落ちる。こめかみ辺りから流れていた。瓦礫でも擦ったのか、空気の振動か。

 体の損傷が想像以上に大きい。サクヤとの融合による負荷が限界に来ている。感覚が薄くなったせいで、消耗を正確に把握できていなかった。

 体を支える腕がプルプルと震え、力が上手く入らない。

 cipherが降りてくる。

 降り注ぐ『闇』の雨を防ぐので、眼のリソースは全て使い果たしている。そのため、cipherの直接攻撃は自力で対処しなければならない。

 歯をくしばり、鞭打って思い切り体を回転させる。cipherを弾き飛ばし、その反対へ飛び距離を開ける。

 が、ここで気付いた。

 cipherをはじき飛ばした先。

 そこには、自分の能力で展開した『壁』が残っていた。

『闇』を防御してから消えるまでの一秒にも満たない短い間に、ピンポイントでcipherが飛んで来た。

 今までの攻撃が、このような可能性を高めるためのものだったのか。どちらにせよ、確率の高い低いに関わらず、その偶然は訪れた。

 タンッ。かろやかに『壁』を蹴る。

 fakerの足が地に着く前に、既にcipherは間合いを詰め、強く踏み込んだ。両手で『闇』を掴み、左腰辺りに構える。

 それは、fakerを一刀両断にする。

 fakerには、飛行のリソースどころか、体を満足に動かす力がもう残っていなかった。

 万策尽きた。

 それでも、諦めない。

 まだ死ねない。

 右眼が、弱く灯る。今にも消えそうな篝火のように。

 自身の右方、肩の高さに『壁』を創る。それはとても薄く、透明だった。

 最後の力を振り絞って、右腕を『壁』に向かって伸ばす。『壁』を押して、体を右に傾ける。

 それが、彼にできる、最大限の抵抗だった。



 傾けた体を沿うように、『闇』の剣が振り上げられた。

 伸ばしていた右腕が体から離れ、鮮血とともに宙を舞った。


 


(…………サクヤ。…………後は頼んだ。)

『お前は、どうしてここまでする。』

 fakerは答えない。ただ緩く微笑むだけだった。


 


 さらにもう一歩踏み込み、振り上げた剣を振り下ろす。

 まだ、fakerの体は宙に留まっている。

 かわす術などない、はずだった。

 ブンッとくうを斬る。

「!」

 少し視線を上げると、横から足が伸びてきた。

 寸前でガードしたが、ずっしりと重い蹴りだった。自ら蹴りの方向と同じ方向へ飛び、衝撃を緩和する。

 左腕の網目模様が、剥がれ落ちる。

 透き通る白髪が、全てを呑み込む漆黒へと変わっていく。

「お前はそういう奴だよ。」

 一滴の雫が、頬を伝う。

 その瞳は、髪と同じく、冷たく深い黒。

 声色は同じなのに、fakerの体を通して別の誰かが話しているような、どこか別人めいた雰囲気を感じる。

 体が宙を浮き、高度を上げる。

 周囲の景色が白金色に輝き始めた。

 地面から、瓦礫から、何もない空間から、光の粒子が現れ、空高くfakerの体の周りへ集まっていく。

 ヴァイスとは本来、普通の人間には見えない。しかし、今満ちているものは、人間に見えるほど濃く凝縮されている。まるで、質そのものが異なるようだ。

 確証はない。でも、纏う雰囲気が自分と似ている。先ほどまで左腕に浮かび上がっていた漆黒の模様がなくなり、髪色や神眼の色が黒く変わった。

 並列された思考が、入力された変数をもとに瞬時に答えを導き出す。

 (まさか、!?)

 朝陽全体が光り輝き、やがてその光全てが一つに集約する。fakerの背後に。

 軽く腕を振った。

 集約したヴァイスが勢いよく弾けた。

 小さな粒子が幾つも集まって群を成す。無数の群が生き物のように自由に空を飛び回る。

 一つの群がcipherに正面から近づいた。

 虫を追っ払うように手の甲で払い除けようとした。

 触れた瞬間、皮がめくれ肉を裂いた。

 鋭い痛覚が襲い、慌てて後方に飛ぶ。

 手の甲から血が流れる。

 息つく間もなく、次々と粒子群は襲って来た。

 驚くことに、極小の粒一つ一つが体を貫通する力を秘めていた。それら全てを近距離で対処するのは不可能。

 上へ飛ぶ。

 粒子群たちも劣らずの速さでついて来る。

 そのしつこさは尋常じゃない。『闇』で攻撃しても防御しても、一度散らばってからもう一度群に戻ることで回避している。

 そうとなれば、本体を叩くしかない。

 粒子群を避けながら、遠くにいるfakerの体の背後に起点の渦を創る。

 しかし、一つの群が渦ごとさらって行った。

 思考を切り替える。

 間接攻撃が効かないなら。

 ぐんと加速して、一時的に追尾してきた粒子群を振り切る。

 遠くに見える一つの影目指して、一気に詰める。

 新たな群を創り妨害してくるが、『闇』の剣を握りしめて粒子群の中を突っ切る。

 顔や腕に切り傷ができるが、この機会を逃さないために、無理を通して進む。

 ヴァイスの刀と『闇』の剣が衝突する。

 ギィィン!! と耳障りな音が空を埋め尽くす。

 cipherは両手に力を込め、全体重を込める。ぐぐっと剣を押し込む。

「やはり悪魔かっ!!」

 しかし、それ以上の力で逆に押し込まれた。片腕なのにだ。

「違うな。私がお前の神だ。」

 視線が交差する。

 顔も声もfakerだというのに、全てが今までと異なる。

 秘めた力強さと、暗く冷たい黒の瞳。けどどこか魅惑的で、艶めかしくて、悪魔的だ。

 ギリッと奥歯を噛み締める。

「僕がcipherだ!!!」

 悪魔の真横の景色が不自然に歪んだ。先刻fakerが地面に突き落とされた時と同じように。

 悪魔は、腕をその方向へ伸ばした。

 何もないはずなのに、何かを手で止めていた。

「なっ!」

 cipherの口から思わず声が漏れた。

「空間自体を『支配』したのか。神様になったつもりか?」

 初めて怒りを顕にしたが、そうなると視界が狭まり、思考が制限されてしまう。

 力任せに剣を振るうが、横から迫る粒子群に気付かなかった。 寸前で何とか剣で受け止めるが、バチバチバチッと火花を散らし、剣がへし折れた。cipherは上体を回すが、右腕の側面の皮が大きく剥がれ落ち、肉が露出する。

 それでも前に進む。粒子群をすり抜けて、再び悪魔に接近する。今度は悪魔の方も前に出てきた。

 両者をすっぽりと覆うようにヴァイスが走った。悪魔は自身とcipherをヴァイスの円中に閉じ込めた。cipherの空間を歪曲させてぶつける攻撃や『闇』による外部攻撃を、一切受け付けない。

 逃げ場を無くす。

 しかし、cipherに逃げる気など毛頭ない。距離が離れるほど不利になるのはこちらだ。

 武器を持つことなく、悪魔は素手で殴りかかってきた。

 拳ごと叩き斬ってやるつもりで剣を振るった。

 剣との衝突の直前、拳が内側からほのかに輝いた。

 バリンッ、と剣を砕いた。

 ほんの少しだけ間合いがあったのが救いだった。咄嗟に腕で防御ができたが、ミシミシと骨が軋む。

「ッ!」

 左脚を振り上げる。

 悪魔はfakerの体を使っているため、右腕がない。

 つまり、右からの攻撃に対して防御できない。

 後ろに退くか、上下に避けるか。

 しかし、悪魔は首だけ動かして、脚に頭突きした。

 階段にでもぶつけたかのような言い難い刺激が、全身を駆け巡る。これには表情を歪めた。

 何ともない様子の悪魔は、cipherの股の間に足を振り上げる。

 手で止める。

 止められた足を軸にして体を回転させ、悪魔は逆足を振り回す。cipherは上半身を仰け反らせてかわす。股の下で押さえている足を掴み、地面に向けて投げる。

 悪魔が操るヴァイスは、cipherの肉体に容易く傷を残せる。それほど殺傷力が高いヴァイスで包囲した円内は、まさに逃げ場をなくした監獄のようだが、条件は悪魔も変わらない。ヴァイスに衝突すれば、悪魔自身もタダでは済まない。

 だから、ヴァイスによる包囲を解除した。

 悪魔は地面に衝突する前にベクトルを変え、地面すれすれを飛ぶ。cipherも後を追う。

 進路上の建物は、彼らにとっては薄皮同然だった。朝陽中を鬼ごっこのように飛び回る。

 挑発するかのようにスピードを上げた。cipherもそのスピードについて行く。

 動く災害だった。彼らの通過した場所には、数秒遅れて突風が巻き起こり、家だろうとマンションだろうと関係なく崩壊させた。

 悪魔は、ヴァイスで粒子群を幾つか創り、cipherに向けて放つ。迎撃しても埒が明かないことがわかっているため、空間を押し出すことで軌道を曲げる。加速して横に並んだ。

 刀を創り出したのを見て、こちらも剣を創り出す。

 片腕が無いということは、バランスが取りづらいということだ。また、戦う上では体を激しく動かす必要があり、これは自らバランスを崩す要因を作ってしまう。cipherが剣を振るった時、それが腕が無い側からの攻撃なら、わざわざ体を反転させるか回避するしかない。そこにいつか隙が生まれると考えたのだ。

 放った粒子群を使って、cipherを引き剥がす。cipherはまたそれらを振り切って再接近する。それを何回も繰り返しながら、両者は移動して行った。


                    *


『お前、本当にあれをやるのか?』

「ああ。このままじゃcipherには勝てない。」

『……恐らく、…………』

「わかってる。だから、それを気取られないように上手くやってくれ。」

『小細工は苦手だ。』

「…………サクヤ。…………後は頼んだ。」

『お前は、どうしてここまでする。』

 質問に答えることなく、その魂は深く沈んだ。


                    *

 

 ピシッと亀裂が入る。

 体の内側に。

 一度亀裂が入れば、広がるのは時間の問題だ。

 徐々に体の感覚が失せていく。


 

 悪魔は、意味もなく飛び回っているわけではない。

 客観的に言えば、自ら不利の状況を作っている。

 片腕がないため、近接は避けるべきだ。初めのように遠距離から制圧し続けるのがベストだ。せめて地に足を着けた方が、空中よりかはバランスが保ちやすいだろう。

 しかし、実際はcipherと並走して飛行しながら斬り合ってる。

 ある所を目指していた。

 戦っている間に随分と離れてしまった。

 朝陽第一高等学校。

 茫然と立ち尽くしていた翔は、遠くから誰かが物凄い速さでこっちに向かってくるのを感じていた。

 瞬きよりも短い刹那。真横を通り過ぎた誰かと、目が合った。何故かとてもスローモーションのように感じ、顔をしっかりと確認できた。

 髪も眼も黒かったが、それは親友の顔。状況はわからないが、何かを訴えているように見えた。

 激しい旋風が巻き起こり、ハッと我に返った。

 幸一を抱きかかえるが、自分ごと飛びそうになる。戦闘機が通り過ぎてもこうはならないだろう。

 悪魔は翔を通り過ぎると、直角に曲がり、天目指して上昇する。

 追尾して来たcipherも同様の進路を辿る。

 悪魔は徐々に速度を落とすと、背を地に向け、空を仰いだ。ぐんぐんとcipherが距離を詰めて来ているのに、焦っている様子はない。

 腕を空に掲げた。

 ポンッ、と手の平サイズのヴァイスの塊が空へ放たれた。

 cipherが剣を前に構えると、高く打ち上げられたヴァイスの塊が一気に弾けた。

 空を覆い尽くす程全方位に散らばった。

 あまりの輝きに、cipherの目が眩んだ。突然大量の光が入ってきたために、一瞬視界が真っ白になった。

 視界に黒が混ざりこんだことで、直感的に両腕を体の前に構えた。強い衝撃が加わり、地面へと叩き落とされた。

「ハァ、ハァ、ハァ。」

 もうそろそろ体力が限界だった。

 神に成り、絶大な力を手に入れたが、その使い慣れない力を長時間酷使したことは、想定以上に消耗が激しかった。今の状態で、空間『支配』を行使することは難しい。

 だが、悪魔を追い詰めていることは確かだ。このまま押し切れば、十分に勝つ自信があった。

 地上を燦々と照らしている光が、一箇所に集まった。一時的に空を埋め尽くした莫大な量のヴァイスが、悪魔の手元で凝縮し、刀を創る。

 それは、一撃で大地を破壊できるだろう。

 勝負を終わらせにきた。

 こちらも望むところだ。

「『ダークネス』!」

 この一撃で終わらせてやる。

 死力を注ぎ込む。

 渦から、薄く細く研ぎ澄まされた剣が生まれる。

 掴んで引き抜く。触れずとも斬れそうなほど、禍々しく鋭い。


 


 くうに立ち、白金の刀を携えるは漆黒の姿。

 地に立ち、暗黒の剣を携えるは白銀の姿。



 

 奇しくも、先程とは構図が逆となった。

 悪魔は、重力に身を任せて落下を開始する。

 cipherは腰を少し落とし、剣を腰の横に構える。

 悪魔は階乗的に加速し、引力すら味方につける。

 cipherは足腰に力を入れると、地面が耐えられずにひび割れ揺れた。

 あと一秒。とても長く感じる。

 悪魔が体を縦に回転させ、刀に遠心力を乗せる。

 一度心を落ち着かせ、一気に剣を振り上げる。


 黒と白が交差した。


 キィーーン。

 短く甲高い音が残響した。

 刀が宙を舞う。

 cipherの顔は、驚きに変わる。

 何故なら、交差する直前、

 悪魔の行動を理解できなかった。悪魔にとって、あの刀は最後の力を振り絞って創り上げたものだ。ここで勝負を避ければ、もう戦う力が残っていないはずだ。それを解っていたからこそ、こちらも全力を注いで立ち向かったのだ。

 全力の一撃は刀を空高く弾き飛ばしただけで、拍子抜けもいいところだ。行き場を失った力によって上体が反れ、後ろに倒れそうになる。

 そこで、目に入った。

 くるくると空中を回る刀。弾かれた衝撃で

「!?」

 それは、fakerが悪魔のかたちを刀に変えた時のそれと、全く同じだった。

 目だけ下に動かし、地面に着地した悪魔を見る。

 感情が希薄な無機質な瞳。

 白銀の瞳。

 姿かたちに差異はなけれど、その本質なかみの変化は感じ取れる。

 (フェイカーッ!!)

 空中の刀は、かつて悪魔が人のかたちを持った時の少女の姿に変わった。



 戦闘において、情報というのは重要な要素だ。特に、実力が拮抗すればするほど、それは勝敗を大きく左右する。

 単に知らなかったのなら、その情報をインプットすればいいだけの事。それよりも、掴んでいた情報が嘘だったとわかった方が、戦闘中の場合には、生まれる隙が大きくなる。

 例えば、本当は体がたずフラフラの状態で、あと少し押されたら負けてたかもしれないのに、さもまだ余力を残しているように振舞って、相手に余計に力を出させたり。

 例えば、完全に体からfakerの魂が消え失せたと思わせて、実はほんのわずかの確率で帰れる程度の細い糸が繋がっていたり。

 仮に悪魔が完全覚醒したのなら、人の器といえど、cipherに負けることはないだろう。

 つまり、全てがブラフ。今の一撃も、悪魔にとっては全力で最後の一撃だったが、これで勝つ気は毛頭なかった。

 悪魔がcipherに勝つ確率は、初めからゼロだった。

 全ては、この隙を作るため。

 cipherはさっきの一瞬一撃が勝負所だと思ったが、二人が懸けたのは、今、この瞬間だ。



 右眼から、白銀の光が迸る。

 サクヤの足元に『足場』が創られる。

 と同時に、fakerとサクヤ、両者の手にヴァイスが集約する。

 正面と、少し上の角度からの攻撃。

 cipherに、力はほとんど残っていない。『支配』はおろか、『闇』ですらまともに使えない。

 距離を取り、形勢を立て直す時間が必要だ。

 仰け反ったような姿勢を直そうとしたその時。

 ダンッ。

 強く地面を踏みしめる音が聞こえた。

 

 視線がそちらを向く。

 映ったのは、一人の少年。

 (篝翔!!!)

 ヴァイスの武器を構えて、cipherから見て左方から突進してきた。その距離およそ十メートル。

 他に気を取られ過ぎていて、翔の存在を失念していた。いや、正直に言えば、翔のことを無視していた。非力な存在だと決めつけていた。一番の驚きは、もはや神同士の戦いと化したこの戦場に、足を踏み入れて来られる勇気を持っていたことだ。

 だが、弱いからこそ、ここまで近付けた。

 cipherの頭によぎった一抹の不安。それは、翔の攻撃に対してではない。あの程度のヴァイスでは、肌に傷を付けることすらかなわない。だが例えば、こちらに抱きついて、自分ごとやれと言ったらどうだろう。抱きつくまではいかなくても、自滅覚悟で特攻して来たら、消耗しきってる今なら隙は作れるかもしれない。そしてそれは、致命的だ。

 並列に繋がった思考がフル回転し、一つの解を導き出す。

 ほんの少しだけ、さらに首を横に動かした。

 神と成ったcipherに、『見る』という制約は存在しない。元々神眼に備わっていた能力を、視界の外でも発動できるようになった。『闇』を、翔の進路上に壁として大きく展開すれば簡単なのだが、そこまでの力は残っていない。出せるのはか細い『闇』のみ。中途半端な能力行使は体力の無駄使いになる。正確に、ピンポイントに、最低限の出力で、足止めをしなければならない。

 そのために、一度翔に関する情報を取り込む必要があったのだ。

 本当に一瞬。ちょっとでも座標を手に入れれば、それだけでいい。

 都合が良いことに、三人のタイミングは微妙にズレていた。サクヤとfakerに関しては、fakerの方が遅れている。空から高速で落ちてきたのだ。着地してから次の行動に転ずるまでのラグが生まれてしまった。その点、サクヤはただ足元の『壁』を蹴るだけなのだからここに若干の時間差が生じるのは仕方がない。そして、翔はそのサクヤよりも早くcipherに辿り着く計算だ。実力差を考えると、タイミングを誤ったとしても不思議じゃない。

 翔、サクヤ、faker、の順で自分の元に到達する。個々に対処できる時間が存在する。それが、一瞬でもサクヤとfakerから視線を外すという選択肢を後押しした。

 視界に、翔を収めた。

 起点の渦さえ創ればいい。

 翔の進路上の腰の高さに、渦が発現する。細い『闇』が飛び出た。翔はそれを全力で防御したが、ヴァイスを打ち砕きながら遠くへ吹っ飛ばした。

 バッ、と正面やや上を向く。

「!?」

 

 視界に、サクヤの姿は見えなかった。

 (どこに……!?)

 視界に映らないほどに低く、fakerはcipherの懐にすべり込む。

 悪魔を手にして。

 fakerはサクヤの魂に干渉する時、いつもサクヤの手を取っていた。cipherには、さも手を合わせることが条件のように見えただろう。だが実際、そのような条件など存在しない。そう印象づけるための行動に過ぎない。

 fakerは、自分より少し前にいるサクヤの足首を掴んだ。少女の輪郭は溶け、彼の手元に刀を生み出す。刀が創られる過程で、地面を這うように低く腰を落とす。

 三人のタイミングがズレている。それは連携ミスなどでは断じてない。

 サクヤが作った隙。翔が作った刹那。

 それは全て、彼の決着のため。

 それぞれが独立した思考回路たちが、この状況を打破しようと騒ぎ始めた。

『右へ飛べ左へ回避上へ逃げろしゃがめ能力を使え闇だ闇闇いや支配だ空間を敵を世界を全て!――――……もう終わりだ。』

 刀は、cipherの胸を刺し貫いた。

 驚くほどに軽やかに、冷たく、まるで誘われたかのように、華麗に。

 顔を上げると、目が合った。

 それは、穏やかな表情だった。

 友の、家族の面影が重なった。

 fakerは、瞳を閉じた。

 こみ上げてくる何かを抑えて、刺した刀をそのまま横へ動かした。内臓や肉を裂き、体の外へ出た刀の力を利用し、くるり回転して今度は両眼を斬った。

 バタンッと背中から倒れたcipherの頭に、刀を突き刺した。


 そして、静寂が訪れた。


 刀をゆっくりと引き抜く。

 裂かれた脇腹からは内臓が飛び出し、両眼からは血の涙がとめどなく溢れた。頭に空いた穴からは、大切な何かがこぼれていった。


 

 ここに、決着は着いた。


 

 ドサッと、fakerは崩れ倒れた。

 体が重いし、意識がはっきりしない。高熱のまま立って歩いた時のような、体が鉛のように重く思うように動かないあの感覚より酷かった。

 それでも必死に立ち上がろうとした。ピシピシッと体の内側から音が聞こえるが、そんなことは気にしなかった。

 誰かが体を起こすのを手伝ってくれた。肩を借りた状態だが、何とか立てた。

「しっかり立てよ。」

 自分よりも身長の低い少女が隣で支えてくれていた。身長差のせいでバランスが取りにくいが、それをどこか嬉しく感じていた。

「有次!」

 駆け寄って来たのは、茶髪の少年。身長が自分より高い。

「兄さん!!」

 今度は後ろから声を掛けられた。少女と同じぐらいの年齢だろうか。

 (そうか、俺は…………ユウジと言うのか。)

 キョトンとしている有次に、幸一は抱きつきながら泣いた。翔は、心配している反面、喜びが隠しきれていなかった。

 

 少年の頭を優しく撫でる。

 ジリッ。

 グランドの砂を擦る音がした。

 一同がその音の方向を振り向くと、cipherが腕を動かし、手の平を空に向かって広げていた。

 目に見えない莫大な力の波動が、cipherの体から上空へ放たれた。それは数秒続いた後、止まった。

 cipherの体は、ピクリとも動かなくなった。

 そして、体が崩壊し始めた。足や手先からパラパラと輪郭が無くなっていき、やがて、体は全て灰のような塵となった。

 塵は風に乗って、遠くへ運ばれて行った。

「何だったんだ、今のは。」

 不可解な現象に恐怖を感じたが、cipherの体は跡形もなく消え去った。そのことは絶対的な勝利を意味する。だから何も問題ないと、そう解釈した。

 だが、初めに有次が異変に気付いた。次にサクヤ。

 二人が空を見上たことで、翔も気付いた。

 その顔からは、段々と血の気が引いていき、汗が噴き出した。

「おいおい、何だよあれ。」

 全く状況がわからない幸一は、不安に駆られた。

「何か起きたんですか!?」

「月が……月が、落ちてくる。」

 翔自身も、自分で口にして初めて認識した。

 cipherが最後にしたことは、かつて有次が翔にしたことと同じだった。

 ヴァイスの譲渡。

 結果だけ見れば、仲間を作ったことで有次は勝利を掴んだ。皮肉なことに、その事実が無意識にcipherの体をそうさせた。

 手が示す方向、cipherの体の真上には、ちょうど月があった。

 そこへ自分のヴァイスを送り込んだのだ。翔の時に有次の記憶が流れ込んだように、月にはcipherの意志が伝わった。

 月は引力に引っ張られるように地球に接近する。しかも、加速し続けている。タイムリミットは数十分といったところだった。

 到達する時の速度を考えると、その時が地球の終わりだということは誰にでもわかる。

 有次が、サクヤから離れ、一人よろよろと歩き始めた。

 例え全人類が力を合わせようと、短時間であの月を壊すのは不可能だ。

 人類には。

 翔は、横を通り過ぎる有次を掴もうと手を伸ばすが、寸前で止まった。

 この状況をどうにかできるのは、もう有次しかいない。自分ではどうすることもできない。それが解っているから、有次を止めることを躊躇ってしまった。

「有次っ!!」

 それでも、呼ばずにはいられなかった。

 有次は一度立ち止まり、首だけ後ろを向いた。

「俺は死なないさ。だから、心配ない。」

 朗らかに笑って、そう言った。

 感情を無くしたはずの心で。

 翔は、それを信じるしかなかった。

「何をする気だ。」

 強い語気で、サクヤはその背中に問うた。

「一つの宇宙セカイ生成するつくる。」

 有次は彼らの反応を見ることなく、前へ歩いた。

 みんなから距離をとると、胸に手を置く。

 (もう、自分が誰なのかはわからないけど、このは本物だから。)

解/開/回カイ。」

 胸から、そして全身からヴァイスが溢れ出る。

 より集まって、細い束を作り、それらがぐるぐると回転しながら円環を形成する。時間経過とともに、円環は大きくなり、回転も速くなる。ヴァイス同士と空気との摩擦で火花が散る。

 巨大な円環は有次の頭上に昇り、エネルギーを蓄え始める。

 有次は躊躇することなく、右眼に指を突っ込んだ。左眼と同じように、右眼をえぐり出した。

 後ろから何やら声が聞こえるが、もう彼には届かない。

 右眼を上に放った。

 円環を構成している細い束が次々とほぐれていき、凄まじいエネルギーを持った細い束が、右眼を核として球を創り始めた。

 体からヴァイスが漏れ出なくなると、力が抜けたように両膝が地面に崩れ落ちた。その後、上半身もゆらゆらと揺れて前に倒れそうになった。

 両側から、体をがっちりと掴まれた。

 左側からは、筋肉質で力強い腕に掴まれた。必死に声を掛けてくれる。恐らく、励ましてくれているのだろう。

 右側からは、小さな体が支えてくれる。

 何も見えないし、何も聞こえないけど、君達が、空っぽの身体に意味を与えてくれる。

 右腕を、空へ伸ばす。

 虚ろな意識で、それでも口を動かす。

に、太極有り。」

 頭上の高密度で巨大な球は、さらに膨張しながら上昇していく。その眩しい輝きは、太陽のようだった。

「これは……両儀を生……じ、両儀……は四象、を……生じ、四象、は、八卦……を……生ず。」

 言葉に合わせて、球が二つに、四つに、八つに分かれる。

「八卦は……吉凶を、定、め……、」

 全てを失った男は、それでも胸の残り火に従う。

「吉凶は………………大業……を、生ず…………」

 八つの球は、細長い弓矢のようなかたちに変貌した。




「リジェクト。」

 


 

 腕がだらんと垂れて、体から力が完全に抜けた。

 重くなった体に、温もりはなかった。

 翔が横から顔を覗き込むと、血だらけの顔は、それはもう幸せそうに満ち足りていた。


 

 言葉と同時に、八つの矢は放たれた。

 既に地球の外縁近くまで接近していた月へ向かって、空をけた。


 衝撃も、音も無かった。

 ただ、光った。

 月は跡形もなく消滅し、光は散らばった。

 全世界に、その光が降り注いだ。

 それは、優しくて、温もりに溢れていた。

 人々は我に返り、ただ空を仰いだ。

 光が降り注ぐ限り。

 いつまでも。




 有次の体は崩壊を始めた。cipherのように。

 体の末端から塵となっていった。

「兄さんっ! 兄さんっ!!」

「有次っ! おい、有次っ!!」

 どんなに泣いても、どんなに叫んでも、何も変わらない。

 翔は後ろを振り返り、サクヤに向かって声を荒らげた。

「何でなんだよ! 有次は自分の全てを失ってまで俺たちを生かした。救ってくれた! それなのに……それなのに、その見返りが何にもないなんて! おかしいだろ! こいつは自分のために戦ってるって言ったけどそんなのは嘘だった! だってそれだったら、全てを捨てた後、戦い続けることはなかった! そうだろ? 自分の全てを失ったのに自分の為に戦えないだろ? あいつは結局自分ではない誰かのために戦った。そして人類を救った。世界から賛美を受け、英雄扱いされてもおかしくない。大勢に囲まれてみんなとその後の人生を幸せに暮らすんだ。好きなもん食べて、好きなことして、誰かに好かれて、誰かを好きになって、夢を叶えて。それほどのことをしたんだ。誰も文句が言えないぐらいのことを、やったのに、…………なあサクヤ教えてくれよ。俺にはわかんないよ。何でこいつは、何にも言わないで! こんな幸せそうな顔してるんだよ! おい有次! なにか言えよ! 恨み言でも感謝の言葉でもなんでもいいから! 今の気持ちを教えてくれよ! 何で! 何で何も言わないんだよ!」

 それでも、少しずつ体が消えていく。

「こいつらは莫大なヴァイスをその身に宿し、それが力の源になっている。だが裏を返せば、ヴァイスへの依存性が高まることを意味する。完全に体から無くなれば、燃え尽きた木が灰となるように、体が――」

「そんな理屈知らねぇよ!」

 八つ当たりだとわかっている。本当は、どうしようもなくて、サクヤに縋っているだけだ。

「有次の体はどうすれば……!?」

 後ろを振り返ると、サクヤは泣いていた。表情は変わらず真顔だった。なのに、両目から、とめどなく雫がこぼれた。

 それを見て、二人は察した。

「兄さん……僕、まだ何も……。」

 ただ、泣いて、泣いて、泣いて、そして。

 有次の体は全て塵となり、空へ還っていった。



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る