第二章 友

                    1


 二人の間を、冷たい冬風のような緊張感が包む。

「………………。」

「………………。」

 ただジッ、と睨みつける。

 相手も、こちらから目を離さない。どこか観察しているような様子だ。目は合っているのに見ていない、そんな風に思った。

 新夜はこちらに顔を近づけてきた。左手を有次の右肩に軽く乗せ、耳元で囁くように、

「足りない。何もかも。」

 新夜はスっと顔を遠ざけた。

 有次はその言葉の意味を理解できない。が、無表情を貫く。

「僕の名前は、草薙くさなぎ・ラーンウォルフ・新夜しんや。」

久遠くおん有次ゆうじ。」

 短く応答する。

「……。」

 お互い、名乗ったというのに全く反応がない。有次の場合、目の前の男の名を既に知っていたからだが。

 しばらく沈黙と観察が続いた。

 有次が気付いたことは二つ。彼の方がはるかに強いこと、そして、全く戦意が感じられないことだ。

 新夜の存在は、まるで何度斧を振っても小さな傷しかつかない巨大な樹のようだ。樹を切ろうとしているこちらが、逆に無力感を与えられる。人間一人の手ではどうしようもない自然の理。そのような漠然とした力を新夜から感じるが、当の本人にはそれをこちらに向ける気が毛頭ないらしい。

 それどころか、悲しそうな顔をした。

 表情の変化はないが、有次にはそう見えた。

 何故、と思うより先に、自分を憐んでいるのかと憤りを感じた。

 拳を強く握りしめる。

 しかし、今は何より、状況が最悪だ。

 この学校にどれだけの生徒が在籍している。ここで事を起こしても不利になるのはこちらだ。まして力の差を考慮すると、余計最悪だ。

 悟られないように、無表情のまま新夜を睨み続けるが、内心では必死に打開策を模索していた。

 この長い沈黙を破ったのは、新夜でも有次でもなかった。

「有次……」

 背後にいた翔が一歩、こちらに踏み出すが、

「来るな!」

 たったの一歩で止まった。

 初めて聞く友の怒号に、ビクッと体が強張ってしまった。

 今の教室の異様な空気感は、クラスメイトの誰もが感じたことのないものだった。空気が鉛みたいに重く、そして体に絡み付いてくる。恐怖と圧迫感で呼吸するのを忘れてしまいそうになる。一言では形容できない状況の中、勇気を振り絞って踏み出した一歩は、友人の声で無に帰した。

「僕は何もしないよ。」

 そう呟く新夜に対して、

「今は、だろ。」

「……。」

 肯定も否定もしない。

 今の有次に新夜を止める術は、恐らくない。単独であれば話は別だが。

 つまり、この場の決定権の全ては新夜の手の中にある。

 それでも、諦める訳にはいかない。この状況を正しく判断できるものがいれば、有次はライオンに噛み付こうとする子猫に見えるだろう。

「本当に、今日は君を見に来ただけなんだ。クラスが同じだったのは僥倖ぎょうこうだったけどね。そういうことだから、また明日からよろしくね、久遠有次君。」

「おい。」

 一度は真横を通り過ぎた新夜の背中に、有次はこう問いかけた。

「何故だ。」

 何に対して何故なのか、それは言葉にせずとも二人の間では伝わっている。

 新夜は立ち止まったが、答えない。

 有次は、新夜がどう出るのか様子を窺った。下手に刺激しない方が良かったかもしれないが、黙って見過ごすことが出来なかった。

 しかし、何も答えない。じっと立っているだけ。

 有次からは背中越しで表情が分からない。

 結局最後まで何も言わずに、教室を去っていった。

 彼が扉を開けた瞬間、外にいた生徒たちの声が一気に押し寄せてきたが、すぐに扉を閉めたため、教室は再び静寂に支配された。

 終始、新夜の感情は謎のままだった。

 沈黙の時間が続く。

 他の生徒達は、そもそも何が起きているのか理解できなかった。突如現れた転校生、おまけに有名人。楽しく会話していたところ、それまでがまるで茶番だったみたいに有次と話し始める。話の内容は聞き取れたものだけでも全く理解できなかった。そして謎深まる二人の関係。どこからどう切り出せばよいか。

 有次も有次で動かない。動けない。

 さも対等な関係を装っていたがそうではない。有次はずっと虚勢を張っていた。

 実力の差が開きすぎている。

 彼が去った今、手足はプルプルと小刻みに震えていた。そんな自分に情けなさと悔しさが込み上げてきたが、グッ、と歯を食いしばる。

 ここで自分が折れるわけにはいかない。目を逸らしてはいけない。なぜならこれはもう


 そんな彼に歩み寄る人物がいた。

「有次……。」

 茶髪の少年。彼の数少ない友達。

 歩み寄ったものの、何て声をかければいいのかわからなかった。普段表情を、感情をあまり表に出さない彼が、こんなにも悪意に満ちた言動を誰かにするのは初めて見た。

 声に反応して振り返る。

「翔……。」

 有次は、一度も目を合わせようとはしなかった。

「……ごめん。」

 一言。たった一言だけそう残して、教室を去っていった。

 誰も彼を止める者はいなかった。


 いつの間にか教室の外にいた生徒たちはいなくなっていた。


                    2


 三年E組の担任教師こと伊守いもりレナは、朝から憂鬱であった。

 彼女の人生は、全体的についていない。

 内外から注目を受けている都市の高校教師、というのはそう簡単になれるものではない。しかもこの若さで(二十七歳)。しかし、それは彼女の上辺しか見ていない。

 まずは名前。下の名前の「レナ」は、カタカナ表記で正式に登録されている。なぜカタカナなのかと言うと、特に意味はない。

 彼女の両親は、明るく元気溌剌はつらつで賑やかな人物だ。そして、残念なほどにバカだった。

 子供というのは、親に関して大きく二つに分類される。

 尊敬して憧れるか、嫌いで尊敬も憧れもないかだ。

 例えば、父親が警察官だったとしたら、正義のヒーローのように街を守る立派な存在だと感じる子と、忙しくて全然遊んでくれないから好きじゃないと感じる子がいる。

 伊守レナは(もちろん)後者である。

 両親によって被った恥辱の数々を挙げるときりがないが、親のような人物を生み出さないようにするために、彼女は教師を目指した。

 が、先程も述べた通り、伊守レナはついてない人である。

 晴れ晴れ教師になってからというもの、担当するクラスはどこも問題児ばかり。テストの点数は低いし、遅刻欠席が多いし、親に難癖つけられるし、他の先生からも色々言われたり、もう散々であった。他にも、朝が早くて夜が遅いから自由な時間がなかったり、周りからは結婚報告がちらほら……。


 そんな彼女、伊守レナの目下頭を悩ませている問題は、とある転校生についてである。


 朝陽市は世界から注目を受けているだけあって、外国人の割合は高い。特に留学生は珍しいものではない。一クラスにだいだい二、三人ぐらいはいる。しかし、彼女が現在受け持っているクラス、三年E組には留学生がまだいなかった。この学校では、留学生の話が持ち上がると、その留学生の情報を元に、彼ないし彼女達ができるだけ快適に学生生活を送れる可能性の高いクラスを選出する。そういうことでまだ合う留学生が来ていない現状で、しかも三年生の他のクラスはどこも留学生が既に在籍しているのだった。よって学年主任の教師からは、次の留学生が来たらよっぽどの理由がない限り君のクラスに入ってもらう、と聞いていた。留学生がやってくること自体問題はなかった。むしろどんな子が入ってくるのかワクワクもしていた。


 四日前だっただろうか。

 ついに高校三年生の留学生がやってくるかもしれないとの情報が入ってきた。校長と教頭、そして学年主任の教師が話し合った結果、E組で問題ないという結論に至った。その日の夕方過ぎ。留学生についての資料を帰り際に渡された。気になってその場で見ることにした。

 before

 (どんな子かな。可愛い女の子とかがいいな~。クラスの男たちも鼻の下伸ばして少しでも高校生らしい落ち着きを……)

 after

 (え!? ちょと待てちょと待て。……んー、どゆこと!? だってこの子、有名人じゃん!! しかもお父さんが大企業の大社長とか。もし授業でミスしたら学校に乗り込んでくるかもしれないわ! どうしよう。難癖つけられて教師を辞めさせられたら…………)

 周りから見たらさぞや滑稽な様子だっただろう。急に目をカッ!! と見開いて書類二度見三度見したと思ったら、冷や汗をかいたり頭を両手でガッシリ掴んで机に伏せたり。

 四苦八苦の末、

 (·····帰って寝よ。)


 現在。

 今日は朝からどこも転校生かれにまつわる話題でもちきり。職員室から教室までの間、ため息しか出なかった。

 (そういえば今日はなんでこんなにうるさいの? またSNSで変なもんでも流行ったのね。)

 職員室を出て階段を上がっていると、ちょうど上から多くの生徒たちが降りてきた。そのほとんどは三年生ではなく一、二年生だった。上の階に行けば行くほど上学年のフロアになるため、この騒ぎの根源は三年生にあると推測できる。それだけでもう十分悪い予感しかしない。


 そんなこんなで朝から憂鬱な教師は、自分が受け持っている三年E組の教室に入るのだった。

 そう、三年E組に入ったはずだ。

 新学年になってからそんなに月日は流れてないけど、このクラスはみんな打ち解けるのが早く、いつも明るくて賑やかなクラスだった。ちょっとうるさすぎたりやんちゃなところもあるけど、そういう面は彼らのいいところだと彼女は理解していた。

 しかし、教室内は異様な空間だった。生徒全員が席を立っていて、後方を向いていた。全体の空気は張り詰めていた。しかし緊張のそれではなかった。部活の顧問にひどく説教された後の、最初に話す内容によってその後の場の空気が決まってしまうようなものだった。誰かが楽しい話題を振れば段々と空気は変わっていくが、話題が説教に関するものだったら、そのまま沈んだ空気が続いてしまう。教室内もこれに近かった。初めに声を上げた人が全ての流れを作ってしまう。だから全員が互いの顔色を窺っていたのだ。

 そして驚くほど教室内は静かだった。

 そんな中、担任の教師が入ってきた。有次と入れ替わる形で。しかも教室前方の扉から。故に彼女は全ての視線を集めることとなった。

 流石の先生も面を食らって、半歩後ずさりしてしまう。

「みんな、ど、どうしたの……??」

「「…………」」

 帰ってきたのは、助けを求めているような視線のみ。

 全く状況が飲み込めない伊守レナは、正確な対処を図る。

「とりあえず、みんな席に座って。」


                   3


 生徒たちの話を聞いたところ、生徒たちも何も状況を把握していなかったので、伊守レナはこの話題を一旦切った。時間が経つと、朝の騒ぎは横に置いておいて、生徒たちはいつも通りの学校生活を送っていった。一名を除いて。


 篝翔はサッカー部に所属している。サッカーを始めたきっかけは小学生の時、友達からの地域クラブへの勧誘だった。そこからはサッカー一筋の、サッカー大好き少年となった。そのおかげでぐんぐんと成長していき、中学生の時には県選抜に選ばれるほどだ。

 朝陽第一高等学校サッカー部は県有数の実力校であり、全国を何度か経験している。彼はこの部のエースストライカーである。キャプテンの素質は皆無だったが、彼を中心としたチームとなっていることは間違いなかった。

 現在は高校三年生。受験を控えているが、その前に全国高等学校総合体育大会、総体やインターハイなどと呼ばれているものが、予選を含めると、早いところでは六月ぐらいから開かれる。これが部としての最後の公式大会だ。当然翔を含めたサッカー部全員が、この大会で念願の全国大会出場を目標に、日々練習に励んでいる。彼らに残された時間は三ヶ月を切っていた。

 


 帰りのホームルームが終わったと同時に、翔に近寄るクラスメートが二人。

 一人は西東さいとう拓哉たくや

 もう一人は片岡かたおか総一郎そういちろう

 二人ともサッカー部のメンバーである。そして西東拓哉はサッカー部の部長キャプテンでもある。

「翔、行こう!」

 ホームルームが終わった瞬間、部活へ直行するのは三人にとっていつものことだ。だから拓哉は多くは言わなかったが、帰ってきたのは間の抜けた返事だった。

「……ん、ああ。そうだな。」

「……どうしたんだ今日は。いつもなら我先に教室を出ていくのに。」

「…………いや、行こうか。」

 ギギギッと大きな音を立てて椅子を引いた翔は、ふらっと教室を出ていった。

 二人は不思議に思う。彼の性格からこんなに深く考えたり悩んだりすることは少ないと知っているからだ。しかもここ最近で翔は一番部活動に力を入れていた。周りにも伝わるほどの情熱や熱意がチームを活性化させているのは事実だ。

 翔の背中を追いかけながら二人は、 

 (おい、どういうことだ、拓哉。こんな翔見たことねえぞ。)

 (わかんねえ。変なもんでも食ったか?)

 そんなヒソヒソ話にも気付かない翔は、やはり朝のことが気になって仕方なかった。


 ふと、いつの間にか練習着に着替えていることに気が付いた。

 いつものように準備運動を行い、パス連、シュート練を全体で行う。頭は別の思考で一杯なのに、体はいつものように動く。まるで、勝手に体がいつもの動きをトレースしているようだった。本人に自覚はないが、それ程まで彼にとってサッカーというのは自分の一部なのだ。

 それは、スポーツ選手にとってはこの上なく素晴らしいことだ。試合本番では、どんな選手であれ、普段とは違う緊張感を持ち、日ごとに周囲の環境、天候、コンディションが異なる。これらは選手から本来の実力を削ぎ落とすが、そんなものに囚われないぐらい体に練習を染みつかせれば、必ず成果に繋がる。勝負の世界において、思考とはカギであり枷でもある。仮に人間と同じように動けるロボットがいたら、そのロボットの最大の強みは、一定のパフォーマンスを維持できる点だろう。圧倒的な差をつけられようと、どんなに相手が強かろうと、感じる心がないのだから、指示されたように動き続ける。これは人には難しいことだが、近づくためには膨大な練習量を積むしかない。

 その観点から言えば、翔がいかに優れた選手であるかは語る必要もないだろう。実際、県選抜にも選ばれる実力者だ。

 ただ、どんなに優れた選手でも、突発的なアクシデントには対応できない時がある。

 特に、注意力が散漫になっている状態では。

「翔!」

 誰かが自分の名前を呼んだ、気がする。

 拓也の声のような、気がする。

 記憶が曖昧なのは、正面からノーガードで顔面にボールが当たったからだ。

 付け加えると、鼻血を出して気を失った。

 無様過ぎて笑いもしない。



 幸いと言うべきなのか分からないが、救急車を呼ぶバカが現れる前に意識を取り戻した。

 さすがに保健室送りになったが、驚くほど頭の中は空っぽだった。

 十年振りに意識を取り戻した人はこんな気持ちなのだろうかと、ぼんやり考えていた。

 ただ、空白の頭にも、たった一つの光景が焼き付いていた。

 友達の苦悶に満ちた顔だ。


 振り返ると、楽しいことばかりの人生だった。

 辛いことはあっても、悲しいことは少なかった。

 何日も考え込んでしまう悩みなんて覚えてない。

 友人たちにも恵まれ、いつもワイワイ楽しく過ごしていた。

 これからも、それは変わらない『当たり前』だと、きっと誰もが疑っていないだろう。

 今日も相変わらず平和で、明日も平和で、平和について考えたことがないくらい平和だ。

 世界は笑顔に満ち満ちていて、大抵の不幸は微々たるもので、すぐに幸せで埋もれてしまう。

 だから初めて見た。

 あんなにも死んでしまいそうな人間の顔を。

 手が触れたら壊れてしまいそうだった。

 来るなと言われたら、気持ちがすくんでしまった。それ以上手を伸ばせなかった。

 怖くなった。理由はよく分からないけど、怖かった。

 だから、心のどこかで、こう思うことにした。

 有次のことだから、明日になったらひょっこり現れて、いつものように無愛想な挨拶を返してくれる。


 本当はわかっていたのかもしれない。

 実は有次のことなんか深く考えてなくて、他人事のように思っていたことを。



 俺は今、あいつのことを胸を張って友と呼べるのだろうか。


                    *


 今の季節、どこを見ても桜が目に入る。高台に登ればそれは壮観であろう。

 母親が幼い子供を連れて散歩をしている。老人が道端のベンチで景色を眺めている。

 そして、ワイシャツ姿のまま、昼前の住宅街を歩く一人の青年。

 スマホを取り出し、何回か画面をタップした後に、耳にあてた。

 画面の名前欄には、ここ書かれていた。

 月影つきかげ、と。

 すぐに繋がった。

「どうされましたか?」

 聞こえてきたのは、若い男性の声。

「…………時が来た。」

「……ということは、現れたのですね。」

「ああ。」

「……勝てますか?」

「痛い質問だな。実を言うと、ほぼ確実に勝てない。今は様子見で、こちらから手を出す気はないが、…………」

「承知しております。」

「もし俺からの連絡がなくなったら…………そういうことだ。その時は…………、すまない、無責任だな、俺は。」

「いえ、念の為いつでも一帯の住民が避難できるよう手配します。ですがまずは、あなたの命を優先してください。あなたがいなければ元も子もありませんから。」

 そこで通話は終了した。

 木々を通り抜けて鋭い風が吹いた。少し肌寒かった




あるじ様。cipherが現れました。」

 とある建物の一室。立派な木製のテーブル、高級なソファ。床一面には赤色の絨毯が敷かれている。壁際には箪笥やショーケースの類が置かれており、数多くの賞状や勲章が飾られている。中央からやや後方には大きな机となんとも座り心地が良さそうな可動式の椅子が置いてある。机は、座って右手側の下に物を収納できる三段の引き出しが付いている。巨大な勉強机のようなデザインだ。

 そこよりさらに後方、窓際に二人の人物が窓の外に目を向けている。窓、といっても全面ガラス張りであり、そこからは町を一望できた。どうやら高層マンションの上層階の一室のようだ。

 一人はまだ二十代だろうか。年齢の割にはとても精悍せいかんな顔立ちをしている。もう一人は五十代ほどの男性。中年故か、恰幅の良よい体型をしている。

 若い男は手にスマートフォンを持っていた。彼が先程の有次の通話相手。名前は月影つきかげ。半歩後ろから丁寧に尋ねる。その佇まいはメイドや執事のようだった。

「いかが致しましょうか。」

 もう一人の、月影に『主様あるじさま』と呼ばれている男性は少し悩んでから、口を開く。

「fakerはなんと言っておる。」

「勝てる可能性は限りなく低い、と。」

「う~む……。」

 またもや男性は考え込んでしまう。月影は肯定も否定も提案も、何一つ示さず、ただじっと待機している。次の指示を待っているのだ。

「『』に緊急招集をかける。月影、また連絡があったら何よりも優先して私に伝えろ。」

「承知致しました。主様。」

 男性が去っていった後、月影は部屋に一人残された。頭の中で、今後の自分の行動を確認していた。ふと、大きな机の端に置いてあった、三角柱の真ん中をごっそり抜き取ったような置物に目を向ける。その置物は、底面ではなく面積の大きい側面を机につける形で置かれていた。実際は名前を記したものである。それが少しズレていた。回り込んでズレを正す。


 そこには、こう書かれていた。柏田かしわだ浩之ひろゆき、と。


 部屋全体を見回し、特に問題がないことを確認すると、月影も部屋を出て行った。


                    4


 翌日、通学路。

 いつもならこの時間ぐらいにここを通るはずだが、見当たらない。

 心の不安が膨れ上がる。

 あの時声をかけておけば良かった。そういう後悔が後を立たない。

 自然と早歩きになっていて、いつもより少し早く学校に着いた。教室の扉を開くと、

「有次!」

 窓辺の席、肘を机について、手のひらに頬を乗せ外を眺める。いつもの有次がいた。

 ホッとした。これが正直な気持ちだった。でも後から考えれば、なんと無責任なんだろうか。何もせずに、ただ待っていただけなのに不安になったり安堵したり。そんな資格はないんじゃないのか?

「有次、昨日は…」

「……ごめんな、大きな声出しちゃって。」

 でも、顔をこちらには向けてくれなかった。ずっと外を見ていて、表情がよく見えない。

 少しの間、何と切り出そうと考えた。友人の前だというのに、何故かよそよそしさがあった。

「ゆう――」

 キーンコーンカーンコーン

 鐘の音で遮られた。

 先生が教室に入ってきたことで、渋々自身の座席へ向かった。

 踏み込めない。


 朝のホームルームにて

「じゃあ皆さんに、改めて転校生を紹介するわ。入ってきて。」

 入ってきたのは、昨日も見た銀色の髪の好青年。

 名前は、

「改めて、僕の名前は、草薙ラーンウォルフ新夜。一年という短い期間ですが、どうぞよろしくお願いします。」

 盛大な拍手でクラスは彼を迎え入れた。

 高校三年の時に他所から転校してくるケースはとても珍しい。受験も絡んでくるし、大抵は本人もあまり馴染もうと思わないのだが、彼に至っててはその問題は心配ないだろう。

「彼は知っての通り有名人です。外にはマスコミが複数確認されています。他のクラスや他学年からも無数の人が彼に押し寄せることは、先日の件からもわかることでしょう。ですので、各々節度をもった行動を心がけるように。草薙くんも、その辺はわかってね。」

 今日も一目見ようと、学校の周りには住民達が、校内は入り口から教室まで生徒達が群がっていた。昨日の教訓か、今日は朝早くから多くの生徒と警備の人たちが、校内のみならず校外に及んで誘導や注意喚起にひた走った。そのおかげか昨日のようなお祭り騒ぎにはならなかった。

「もちろんです。伊守先生。こちらこそ先日は申し訳ありませんでした。以後気をつけます。」

「分かってるならいいんです。君の席は中央の一番後ろの席よ。座って。」

「わかりました。」

 教卓の横から、机と机の間の通路を通って一番後方へ移動した。

 その一挙手一投足がクラスの目を引く。自然と目で追ってしまう。異性というよりも、人間としての美しさを感じられた。

 新夜が着席したところで、いつも通りのホームルームが行われた。

 終わってから次の授業までの間、クラスメイトが新夜の席に殺到した。四方八方から質問を浴びせられても悠々と振る舞い、その度に大きな歓声が湧き上がる。

 そんな彼らを他所に、ひとり席を立ち上がり、有次の席へ向かおうとしたところを、誰かに後ろから引っ張られた。

「委員長!?」

 波澄はずみがいつもより元気なさそうな顔をしていた。

「篝君、ちょっと。」

「どうした?」

「それはこっちのセリフよ。有次君にさっき話しかけたら、しばらく一人にしてくれって言われたの。やっぱり昨日のことで何かあったのかな?」

「………。」

 俯くことしかできなかった。

 有次は、自らの主張を極力しない人間だ。たとえ嫌な事があっても黙ってやり過ごす、そういうタイプだ。その有次がはっきりと口にしたということは、やはり何か大きなものを抱えているのかもしれない。

「委員長、後で話があるんだけど。」

 そろそろ一限の授業が始まってしまうため、一旦話を区切った。

「じゃあお昼に生徒会室で。」


                    *


 それからというもの、授業の合間や休み時間には、白髪の青年は常にクラスメートに囲まれていた。

「ねぇ、草薙くんのその髪は染めてるの?」

「地毛だよ。僕が生まれた時から白かったよ。」

「マジすごくない? 白っていうかもうシルバーに近いじゃん。めっちゃきれい。」

「ありがとう。」

 そうニッコリすると、周りを囲っていた女子たちは一撃でハートを射抜かれた。と言っても、周りには女子しかいないのだが。

 いきなり高スペックの有名人がやってきたら、青春を謳歌したい男子諸君の中に快く思わない者がいてもおかしくない。教室の隅で固まってヒソヒソと話している男子たちを、新夜も女子たちも知らない。

 一人の女子生徒が、おそらく(女子なら)みんなが気になっていて、かつ聞きにくい話題へ踏み込んだ。

「草薙くんはさ……」

「新夜、でいいよ。」

「う、うん。じゃあさ新夜くんはさ……彼女? みたいな人はいるの?」

「あたしも知りたい!」

「アタシも! 気になる!」

 急に熱が上がって、みんなで新夜に肉薄する。しかし、当の本人はなんてことないように、

「そういう関係の女性はいないね。」

 と、サラッと言った。

 教室中に歓喜の声が響き渡った。



「えー、今日は、大問二十一から三十までです。いつも通り四十分経ったら答え合わせをします。では始め。」

 重々しく話すのは、三年E組他幾つかのクラスを担当している数学の教師。この高校の三年生を担当している数学教師の中では最年長で、あと数年で定年を迎えてしまう。

 旧時代的な授業スタイルで、内容はあらかじめ予習してきて授業内ではひたすらに問題を解かせる、というものだった。なんのひねりもなく面白味は皆無の淡々とした授業。しかし解説は一番わかりやすく、質問しに行けばわかるまで丁寧に教えてくれることから、どこか憎めない、むしろ裏で人気が跳ね上がっている教師なのだ。

 ピッタリ四十分間、教室内にはペンを走らせる音のみが独り歩きしていた。

「はい。そろそろ終わりにしてください。では大問二十一の問一、わかる人?」

 ただ問題を解かせるのではなく、アウトプットもさせるぬかりのない授業。

 彼らが解いている問題集は、分野・章ごとに十問ずつ大問が用意されており、十の倍数の大問に近づいていくほど難易度は上がっていく。初めの方は基礎的な問題だが、最後の方は大学入試にも応用が利きそうな発展問題だ。この問題を解くというよりは自分で精一杯解いて、その上で解説を聞いて納得することで力をつけられるのだ。だから教師側も初めから正解することを求めているわけではない。

「じゃあ最後の問題、わかる人?」

 クラスの優秀な生徒なら時々正解に辿り着く者もいる。が、この問題は誰もわからなかったようだ。

 先生が誰も手を挙げていないことを確認して解説に移ろうとしたとき、

「先生。」

 教室後方から声はした。一同振り返ると、今日入って来たばかりの転校生が手を挙げていた。

「解けたのかね?」

「はい。」

「では発表したまえ。」

 新夜は静かに立ち上がると、ホワイトボードに答えを書いていく。

「初めに条件のa、bについて場合分けをします。a=bならば、大問二十七問二の条件式がそのまま使えます。a≠bの時は、与えられた条件式の両辺の自然対数を考えると、前問f(x)、g(x)を用いてf(a)=g(b)が成り立ちます。ここで方程式を解いて――――」

 ホワイトボードに自分の答案を書き写しながら解説までしてしまった。それはもう教師のそれと同じだった。

 新夜が自分の席に戻るまで先生も含めた全員が呆気にとられてしまった。



「新夜くん、頭いいんだね!」

「いくつもの大学を卒業したってほんと?」

「正式に卒業したわけではないんだよ。ただその試験に合格したってだけだよ。」

「それ普通にすごくない? じゃあさ、高校の勉強ってやっぱり簡単?」

「んーと、思ってたほど簡単じゃないね。意外と忘れてること多いし。それにここの高校のレベル結構高いからね。みんなだって今難関中学の模試を受けて満点は取れないでしょ。」

「じゃあじゃあ、あれは? あの~、えーと、なんか小っちゃくて映像映し出すやつ。名前なんだっけ?」

「『アーク』、だったかしら。」

 隣から別の女子が助け舟を出す。

「そうそうそれ! その『あーく』、って新夜くん開発に協力してたって本当なの?」

「ああ、アークか……。」

 新夜は少し困ったような顔をした。今までどんな質問にも軽快に答えてきたが、こんな様子は初めてだった。



 『アーク』

 宙を浮くことが出来る球形小型デバイス。サイズは片手に乗る程度のものだ。

 二年前。新夜の父でありスパーク社の社長、ウィリアム・ラーンウォルフがこのアークという製品を公式発表した。

 これは、単体で空中にモニターを投影し、映像を流すことができる。SF作品に出てくる何もないところに立体映像を映し出すホログラフィック技術のようなものを、二次元映像に限定してだが可能にした革命的な製品なのだ。記録した映像のみならず、リアルタイムの映像も流せる。さらに、このデバイス自体がルーターのような機能を備えているため、一定間隔ごとにアークを配置していけばどこにでも映像を流すことができる。

 広告や宣伝、災害時の警告や誘導まで行える汎用性から、日常に普及すれば生活は一変するだろうと言われている。しかし、まだ商品化、量産化の目処はたってない。現在はより改良を重ねており、太陽・風・熱など様々な自然エネルギーをアーク自身のエネルギーに変換する超小型汎用発電装置を取り付けることでバッテリー問題や、どんな雨風や強風、あらゆる状況下にも耐えられる耐久性に着手したりと、世間の期待はうなぎ登りで上がっている。

 ここで登場するのがウィリアムの息子こと新夜。新夜の知名度は、父ウィリアムの事業が成功し始めた頃から徐々に上がっていった。これには複数の理由が少しずつ関与している。第一に、ウィリアムの扱っている事業がまだフィクションの存在と思われた電脳技術だったということが世間の注目を集めた最初のきっかけだ。アークはウィリアムにとってはまだまだ通過点でしかなく、ゆくゆくは脳にマイクロチップを埋め込み、脳の電気信号をそのチップを通してアーク本体に送ることで、操作なしで自由自在にアークを動かせるようにしたいと彼は公言している。もっと先の未来では、漫画やアニメのような世界が待っているかもしれない。そう万人に思わせる彼の事業は、大いに社会の目を引いた。大ブレイクした俳優の周囲や私生活にメディアが関心を持つのと同じように、彼の息子に関心が集まるのは時間の問題だった。

 次に大きな要因は、新夜の頭脳だ。ウィリアムが有名になると、どうやら息子がずば抜けた頭脳を持っているということが判明していく。取材した記者はさぞ驚愕したことだろう。まだ十三歳の少年が、世界でも有数の大学の試験を難なく解いているのだ。しかも当時、少年は学校や塾に通ったことがなく、通信教材の類もほとんどなかったのだ。加えて様々な分野に精通していて、その明知は奇跡、と言われるほどだった。

 次第にSNSやメディアに顔が出るようになり、その端正な顔立ちと銀にも似た美しい白髪しろかみ、そして形容しがたい神秘的なオーラは多くの人を魅了した。彼自身も、露出を毛嫌うことはしなかったため、知名度は緩やかに膨れ上がった。

 決定的だったのが、アークの公式発表でのことだ。質疑応答においてアークの名前の由来について聞かれたとき、ウィリアムはこう答えた。

「アークは方舟arkからきています。創世記において、ノアは方舟を作り、家族と動物たちを連れて大洪水から逃れました。私が開発したアークも、皆さんをより良い未来へ導けるようにと考え、こう名付けました。と言いましても、本当は息子が名付けたんですけどね。」

 当初は皆笑いのネタぐらいにしか思ってなかったが、よくよく思えばその息子さんは頭脳明晰でいらっしゃる。もしかしたら開発に携わっていたのではないだろうか。疑問は渦巻き、尾ひれのついた噂だけが拡ひろがり、事実は未だにはっきりしたわけではないのだが、いつの間にか彼はすっかり名の知れた有名人となっていたのだった。



「あれはちょっと手伝ったぐらいだよ。開発メンバーに加わったわけではないし。」

 すると一斉に周りの女子達が食らいついてきた。

「それって、開発に関係はしてたってことだよね!」

「う、うん。まぁそうなるね。」

 キャー、と歓声がまた教室に響いた。

 当の本人は何が起きているのわからずキョトンとしているが、周りは大興奮だ。

「アタシたちが初めてじゃない?知ったのって。」

「そうよきっと!噂が本当だったなんて!」

「マジヤバくね!」

 ここでやっと新夜は気づいた。

「ああそういうことじゃなくて、別に噂が本当ってわけじゃ……」

「でもお父さんのお手伝いをしてたんでしょ?」

 慌てて火消しに回ろうとしたが手遅れだった。墓穴を掘った自分を後悔しても、今更だ。

 素直に降参ポーズをとって、

「ネットには流さないでくれよ。」

「「ハーイ!!」」

 お母さんに自慢しよとか、友達に知らせないと、などなど新夜は聞こえないふりをした。



 体育の時間、グランドにて。

「お前ら! 来たばかりの転入生にいいようにやられて、そのままでいいのか!」

 そう発破をかけたのは、体育担当の熱血教師。ちなみに陸上部の顧問である。

「あいつ上手いな。確か未経験って言ってなかったっけ?」

「多分未経験。だってルール全く知らなかったし。」

「……マジか。」

「というかさっきから黄色い声が止まないのは何故?」

「バカ、一々口に出すな。みんなわかってるよ。」

「あそこ、二階から四階までの窓。ほとんど女子の顔でぎっしり。」

「だから言うなって。」

「くそ、このままいいようにやられっぱなしなのは嫌だな。」

「おう、そうだな。周りの声黙らせようぜ。」

 このチームは今、一致団結を果たした。


 勝ち負け、というよりも、引き立て役という表現が一番似合う。そんな試合だった。


 ここに、タオルで汗を拭いて休憩している男子がいる。

 彼の名前は、西東さいとう拓哉たくや

 サッカー部の部長キャプテンをやっている。先に一つ言っておくべきことは、キャプテン=一番強い、というわけではないことだ。特に団体競技においてはみんなのまとめ役が必要であり、キャプテンとなったものは、どちらかと言うと精神的な面の主柱になることが多い。普段の練習において、ヘラヘラとふざけながらやってるキャプテンがいたとして、果たして周りも真剣に練習に取り込めるだろうか。

 彼の所属している朝陽第一高等学校サッカー部において、一番強い選手、つまりエースは篝翔である。これは自他共に認めていることであり、だからこそエースは責任感を強く持ち、キャプテンはこれを考慮してチームをコントロールし、メンバーはサポートし貪欲に勝利を求める。拓哉自身も最高のチームだと思っている。実際彼らは県有数の強豪チームであり、今年で悲願の全国大会を目指しているところだ。

 彼と翔の初めの出会いは、小学生の時に所属していた地元のサッカーチームでのことだった。それから中高と、ずっと一緒の学校で一緒にサッカーをやってきた仲だ。

 (…………。)

 グランドでプレーをしている翔を見て、昨日から様子がおかしいことが気になっていた。

 元気がないこともそうだし、何よりサッカーをしているのに笑っていなかった。

 サッカーをしている翔は、どんな時でも楽しそうにプレーしていた。体育であっても、声は出すし周りと笑い合いながら楽しむはずだ。

 それが今は、黙って気の抜けたプレーをしている。

 ボーッと考え事をしていると、隣から、

「水分補給に気を付けてね。今日は暑いから。」

「おお。サンキュ。」

 あさっての方向を向いていたから、差し出された共用のスクイズボトルを意識せずに受け取った。ちょうど喉が渇いていたから、ぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。

 ふと横を見ると、

「!! っんゴホッゴホッゲホッ!!」

 まさか横に立っていたのが噂の転校生だった。

「大丈夫か?」

「あ、ああ大丈夫だ。」

 西東拓哉は転入生、新夜のことがあまり好きではなかった。正確に言うと好きになれなかった。

 先ほどのサッカーの試合を見ていて、体育の時間といえど彼のパフォーマンスはおそらく自分のレベルを超えていると感じていた。

 圧倒的な才能、運動神経センス

 これでイケメンで頭もよくて性格も良いときた。嫉妬すら覚えてしまう。特に人一倍努力を積み重ねてきた者にとって、生まれ持った才能は嫌悪の対象でしかない。

「お前、さっきの試合。本当にサッカーやったことないのか?」

「うん。試合前にちょっとだけ教えてもらったんだ。サッカーって面白いんだね。知らなかったよ。」

「……そうか。」

 しかしどうしてだろう。彼自身にもよくわからなったが、実際に話してみると不思議と嫌味な感じがしなかった。 

 人当たりもいいし、温厚で誰かを下に見たり、自分のことを得意げに話すこともない。なにより他人との接し方がうまかった。彼自身とても輝いた存在なのに、一緒にいても隣を歩いてくれるような、歩幅を合わせてくれるような、それで苦しく感じない絶妙な距離感。

 こちらが勝手に鼻につく奴と思っていただけかもしれない。

「ねえ、君のことなんて呼んだらいい? 名前が長いからどう呼んだらいいのかわからなくて。」

「新夜、でいいよ。この名前気に入ってるんだ。」

「わかった。俺の名前は、西東拓也。サッカー部の部長をしている。もし興味があったら一度来てみてくれ。」

 二人は授業が終わると教室まで一緒に戻った。




 新夜の女子人気は言うまでもないが、男子達と良好な関係を築くのに、そう時間はかからなかった。

 この学校の昼食事情は、半々で弁当派と購買派に分かれていた。食べる場所は特に指定がなく、外で食べる者も少なくないが、教室のほうが机と椅子があり食べやすいことから、教室で昼食をとる生徒が一番多い。

 基本的に男子は同じ部活動の連中と固まって食べることが多い。例えば野球部の生徒が多くいるクラスには、昼になると他クラスから野球部の仲間たちがそのクラスに集まってくる。その点E組はそういった固まった人数のグループがなく、男子達の多くは他クラスに行ってしまう。そのため、普段E組は女子達のたまり場と化しているのだ。そこに噂の転校生を投下したらどうだろう。

 答えはご覧の通りの有様だ。新夜を中心にぐるりとガールズであふれている。そんなことは気にも留めず、新夜は平然と自分のバックから、ギリギリ片手で乗るくらいの小包を取り出した。上面でがっちり結ばれた結び目をほどくと二段の弁当箱が姿を現した。両段の蓋を開けると、上段にはおかずが、下段には白米がびっしりと敷き詰められていた。

「新夜くんはお弁当なんだね。」

 周りの女子の多くはは購買で買ってきたパンを食べていた。

「親に作ってもらってるの?」

「いや。自分で作ってるよ。」

「「「えっ!?」」」

「……今何か変なこと言った?」

 周りの反応に戸惑いを感じたが、すぐに質問攻めをくらうのであった。

「新夜くん料理もできるの?」

「料理ってほどじゃないよ。そんなに珍しいかな。」

「うんうん珍しい。なかなか自分で弁当作る男子高校生はいないわよ。」

「そうかな……。昔からずっと作ってたからそんなに気にしたことなかったよ。」

「ねぇねぇどんな感じに作ってるの?」

 こう質問してきた女子は、見るからに炊事や家事ができなさそうなわんぱく少女といった印象だった。

「今日ので言うと、これはほれんそうとベーコンを適当な大きさに切ってバターで炒めただけ。この鶏肉は冷凍してあったものを解凍して、適当に火を通して味付けしたんだ。最後に卵焼きを作っておしまい。それ以外の具は昨日の余り物だったり、パック詰めされたものを移しただけだったりするんだ。」

「何かポイントとか工夫してることはあるの?」

「そうだね……。朝だからそんなに手の込んだことは出来ないんだ。だから例えば、作る順番を考えるんだ。今日だと肉を料理した後に卵焼きを作ると、仄かに肉の風味が卵焼きにうつるんだ。」

 今度は別の子が、

「見たところご飯には何ものってないけど、ふりかけとかごま塩とかで食べないの?」

「これはね、一見ただご飯が詰められてるだけに見えるけど、」

 そこで一旦言葉を区切ると、箸を取り出して少量のご飯をとってみせた。すると、下層に黒いものがご飯の上にのっていた。もう白がわからないぐらいに。

「初めにご飯を半分ぐらいの高さまで入れる。そしたら海苔を上に敷き詰めて醤油をかける。その後また上からご飯をのせているんだ。簡単なのり弁、てとこかな。」

 日頃から購買でパンを買っている女性陣はただただ感心の声しか出せなかった。なぜなら、彼女達は弁当など作ったことがないのだから。

 それから彼らは昼食を食べている最中、なぜか新夜による料理講座が開かれるのであった。

 食べ終わり、しばらく会話を楽しんでいると、

「なあ新夜、この数学の問題わからないんだど、教えてくれない?」

 横からクラスの男子の一団が輪に入ってきた。

 それまで新夜と楽しくお話ししてた女子達は腹を立てて、

「ちょっと男子! いきなり入ってきてどうゆうことよ。質問なら先生に聞けばいいでしょ。」

 何だと、と女子と男子の言い争いが起こってしまった。

「僕は教えることぐらいわけないよ。」

 女子の顔は険しくなり、反対に男子の顔は明るくなった。

「ちょっと新夜くん、こいつらを甘やかしちゃダメよ。」

「なにお堅いこと言ってんだよ。別にいいじゃねえかよ。」

「そう言って、結局は宿題見せてもらう魂胆でしょ。」

 ギクっと明らかに体が強張ったのが見えた。

「あいつらが去年、どれだけクラスの平均点を落としていたか知ってるんだからね。」

「い、いや〜、そんなことないって。ただ普通に教えてもらおうと――」

「目が泳いでるわよ。」

「………………。」

「フフフッ。」

 意外にも笑ったのは新夜だった。

 それにつられて周りの空気もたちまち和んでいった。


                    *


 昼休み。

 篝翔、波澄久礼波、朧一、の三人は、生徒会室の前に来ていた。

「既に許可は取っているから。」

 というのも、生徒会室には無断では入れないようになっている。

 この学校の規模は大きく、かつ世間の注目を集めることが多いため、生徒会の仕事は他の学校と比べて多岐に渡り、責任を伴う仕事も任されることがある。それほど生徒会とは簡単な思いでなれるものではなく、務まるものでもない。学校の威厳と体裁を保つためにも、生徒会室が遊び場になるということはあってはならないのだ。選挙などでメンバーが入れ替わる時期に近づくと、希望者は入室を許されることもあるが、それは冬のことである。

 簡単に言えば、生徒会室は一般生徒にとって入りづらく近寄り難い場所なのだ。

 生徒会室は、入ってみると普段の教室よりも二回りも大きかった。それは生徒会の構成人数が多いからだ。まず、生徒会長が一人。副会長が二人、男女一人ずつの構成だ。次に、書記、二人。監査は三人。会計、広報、庶務は四人ずつ。それぞれ二年次以上の生徒で男女問わない。となっている。外部の先生方を招くときに生徒会の助けを借りることもあるため、メンバーは多くなっており、生徒会室は一種の会議室になっていた。長机が中央に置かれていて、囲うように椅子が多数置かれている。正面と後方の壁にはホワイトボードが壁に埋め込まれていて、数々の資料がマグネットで留められている。

 翔は、実は生徒会室に入るのが初めてではないため、遠慮なく空いている席に腰掛けた。一方はじめは、オドオドしながら翔の隣の椅子に座る。

「最近は特に何もないから、問題ないわ。」

「やけにすんなり許可が降りたのは、そのためか。」

「いいえ、私の信頼よ。」

「はいはい。」

 生徒会は、仕事によっては一般生徒に見せられないものを扱うことも時々ある。そういう時は一般生徒を同伴させることは難しくなるが、今はそうじゃないようだ。

 各々持参した弁当を机に出した。

「それで、話って……」

 はじめは、ついさっき翔に簡単に誘われてやって来ただけで、どうしてここに集まってのかを知らないでいた。

「朧君も感じているでしょ? 有次君の様子が変だって。」

「……うん。」

「まあ、変っていうか、人とズレてるって点じゃあいつも通りさ。相変わらず何考えてんのかわかんねぇし。」

 (それに、俺はあいつのことをそんなに知ってるわけじゃなかった。)

 有次といる時は楽しかった。だから、有次が何を考えているのか、深く考えることはなかった。

 楽しい、それは自分にとってとても重要なことで、きっとそれを理由に無意識のうちに様々なことから目を背けてきた。

 だから、今、有次のことがわからないでいる。

「でも、今回は違う。何がどう違うのかうまく説明できないけど、これだけは断言できる。」

 たとえ有次のことをよく知らなかったとしても、一緒に過ごしてきた時間だけは正直だ。

「同意ね。有次君は、自分から積極的に誰かと関わろうとしないけど、それは多分、人との関わりが嫌いだからじゃないと思うの。」

「うん。僕も有次くんと友達になったのは、有次くんから話しかけてくれたこときっかけだから。」

 波澄ははじめのその言葉を受け止めて、少し俯き、二人にこう問いかけた。

「……去年、有次くんが不登校になったのを覚えてる?」

 はじめは頷いた。

「篝君は知らないと思うけど……」

「いや、あいつから聞いてるぞ。」

「ホント!?」

「ああ。こっちに帰ったときに、な。」

「じゃあ、どうしてかワケを聞いたの?」

「そこは言わなかった。いずれ話すって。」

「………そう。私にもね、その核心だけは話してくれなかった。私は、彼がとても大きな闇を隠してるように思えて、でも、彼から話すのを待つしかないのかな……。」

 三人の箸が止まった。

 翔は、この場にいる三人が今、共通の友に向かって同じ悩みを抱いていることに気が付いた。

「委員長とはじめは、昨日の会話聞こえたか?」

 明確に誰と誰の、どこでの会話かは言わなかったが、昨日と言えば察しがついた。

「僕、あんまり聞こえなくて。」

はじめは少しだけ遠くにいたからな。」

「私は近くにいたから、何となく聞こえたわ。」

「俺にも聞こえた。有次は転校生のことを『サイファー』と、そして転校生は有次のことを『フェイカー』と呼んだ。それがどういう意味なのかはわかんないけど、なんか嫌な感じだった。」

 昨日の教室での出来事を思い出す。

 “お前がサイファーだな。”

 “そう、僕がサイファーだ。初めまして、フェイカー。”

 そのときの様子は、とてもじゃないけど、穏やかなものではなかった。

「でも、二人の父親は今共同研究してるぐらいだし、もともと知り合いだった、とか?」

「私そこが引っかかるのよね。」

 そう言って、弁当のから揚げをほおばり、もぐもぐとゆっくり咀嚼して後に飲み込んだ。

「二人は、お互いに名前とは別の呼び名で呼び合った後に、何故か自己紹介したの。相互認知してた呼び名を持っていたのに、まるで初対面みたいだった。」

 その説明は、翔が何となく引っかかっていたつっかかりを上手く言語化してくれた。

「…………。」

 結局ああだこうだここで話し合っても、答えは出ない。

「なあ、今日の放課後、幸一に会いに行こうと思うんだけど、一緒に行くか?」

「こういち、って誰?」

「有次の弟だよ。血はつながってないけどな。」

 はじめは有次の弟のことは知っていたが、その名前までは知らなかった。

 というのも、有次と弟の幸一は、このあたりではちょっとした有名人なのだ。世界平和同盟が設立されて一番初めに行ったのは、『言語の統一』と『一人っ子政策』だった。

 それから百年。政策後に生まれた子供たちは既に年老いて、亡くなっている者も少なくない。その全員が、兄妹がどういうものなのかを知らない。世代を重ねる毎に、『きょうだい』という単語自体薄れていった。知識的には知っているが、馴染みがなくてよくわからない、というのが現状だろう。

 基本的には、養子などを引き取って義兄弟を作ることも許されていない。差別をなくすためだ。

 だが、例外的な事例で兄弟が認められる場合もあり、世界規模では一定数いる。有次と幸一もその一つだ。

 だとしても、兄弟というのは珍しいもので、父親が企業の社長というのもあって地域では名が知れ渡っているのだ。

「……でも、幸一くんに会いに行くってことは、有次くんの家に行くってことだよね?」

 はじめは、今の有次と話してまともに相手してくれるのかを危惧したが、

「さっき連絡したら、今日は部活で夕方まで学校にいるって。」

 自宅に向かうのではなく、幸一の通う学校に直接向かうという意味だった。

「篝君は部活いいの?」

「ああ。一応昨日派手にぶっ倒れたばっかりだからな。…………そういえば、今日誰にも心配されなかったんだけど、…………まあ気のせいか。」

「気のせいよ。」

「うん。気のせいだよ。」

 三人の止まっていた箸が一斉に動いた。


                    *


「なあなあこの間さ、幸一の兄貴を見たよ。」

「マジ!? 俺見たことないよ。」

 午後六時十分。朝陽第一中学校サッカー部部室兼更衣室。

 汗まみれの少年たちが、制服に着替えながら会話している。

「どこで見た?」

「それはこの前の週末だった。商業区のスポーツショップを巡ってたんだけどな、遠くに幸一を見つけたんだ。そしたら隣にいたんだよ、兄貴が!」

 誇らしげに語る少年に、食い気味で耳を傾ける少年たち。

 この学校のサッカー部で、実は有次はレアキャラだったりする。

 そんな部員たちに呆れながら、早々はやばやに着替え終える。丁度、ポケットに入れたスマホが振動した。

『着いたぞ(^^)』

 それは、翔からの連絡だった。

『今から行きます!!』

 打ち終わって、再びポケットにスマホをしまい、

「じゃあ僕は先に上がりますね。」

 部員たちに言ったというよりは、部室に向かってとりあえず言ったかたちだった。



「まままま、置いていくなよ、幸一。」

「まだ話は終わってねぇ~ぞ~。」

 両脇を悪友に固められる。

 部室を出てから、一直線に校門へ向かう。もちろん両耳のノイズを無視して。

 校門までは、徒歩で五分もかからない。

 日はまだ完全に落ちておらず、はるか遠くの残照が空を淡く染め、視界が真っ暗になることはなかった。

 そうでなくとも、普段から親しい人は背格好のシルエットと雰囲気だけで判断できる。

 だから、校門の外にいる三人組の内の一人が翔だとすぐに気付けた。

「お待たせしました。」

「こっちも着いたばっかだ。悪いな、急に。」

「いえ、大丈夫です。……それで話って。」

「そのことなんだが、……」

 幸一は、翔から話があると連絡を受け取ったとき、その内容がどんなものなのか気になってしょうがなかった。だというのに、寸前で翔が話を止めたのは、決して翔の意図するところではない。

 幸一のすぐ後ろにいた二人の少年が目に入ったからだ。

「お、お兄さん……?」

 そう口にしたのは、先ほど部室内で幸一の兄貴を見かけたと誇らしげに語っていた少年だ。

「え!? この人幸一のお兄さんなの!?」

 話題がホットな状態に加えて、まさかのご本人登場で、年相応の驚き方を見せてくれた。

「ちょっと待って。なんでそうなるのさ。」

 振り向きながらいち早くツッコむ幸一。

「だって、さっきの話で幸一の横にいた人は……」

「……僕、その人が僕の兄さんだって言ったっけ?」

「……。」

 全く言い返せず固まった二人だが、誰もが予想しなかったことを言い放つ。

「だよなー。そうだと思ったよ。」

「確かに。こんなチャラそうな人が幸一の兄貴なわけないか。」

 あっはっはっ、と笑い始めた。

「なーんだ、ただの見間違えか。あんな堂々と言ったのに恥ずいな。」

「その時は人混みでよく見えなかったんだろ? まあ、仕方ないさ。……ところで、幸一はこの後この人たちと何か用事?」

「う、うん、一応……。」

「そっか。じゃあ俺たち先に帰るな。」

「じゃなー。」

 ポカンとしている幸一に、一方的に言いたいことを言って、横を通り過ぎて校門から二人は去った。

 少しの間、彼らの談笑は聞こえ続けた。

「…………最近の中坊はこんなにも生意気なのか。」

 やや声が小さい。どうやらご立腹だ。

「翔さん、彼らは正直なところがいいところなんですよ。」

 苦笑いしながら友人をフォローしつつ、火消しを試みる。

「まったく…………兄さんは悲しいぞ!」

「あなたは兄さんじゃないでしょ。」

 波澄の呆れたツッコみで場は静まり返った。



「こいつの名前は朧一。クラスメイトだ。」

「初めまして、久遠幸一くん。僕は朧一。有次くんとは去年同じクラスだったんだ。」

「そうだったんですか。」

 幸一を加えた四人は、ゆっくりと帰路を歩き始めた。

「そんでこっちは――」

「久しぶりです。波澄さん。」

「そうね、半年ぶりくらいかしら、幸一君。」

「…………え、知り合い?」

 そう言った翔はデジャブを感じた。

「私、幸一君のこと知らないって言ったっけ。」

 それは、さっき幸一が友人に向けて放ったセリフのオマージュになっていた。この場合、相手を挑発するように言った波澄には、明らかに翔を馬鹿にする意図が含まれている。

「あっははー、意外と世界は狭いなんて言うけど、ホントだったんだなー。」

 怒ってないよと言わんばかりの棒読みは、誰がどう見ても怒っているのだが、表に出さないあたり、少しは精神面で大人になったということなのだろうか。

「町で有次と一緒にいるところでも見たんか。」

「違いますよ。最初はうちに来たのがきっかけで知り合ったんです。」

「…………うち!? おいおい、有次の家に行ったのか委員長。大胆だな。」

 後で詳しく、と幸一の耳元で小さく呟いたが、波澄には筒抜けだ。

「べ、別に、私はただ有次くんが心配で――」

 もう段々と暗くなってきて顔色は見えづらいが、波澄が顔を赤らめているのは想像に容易い。

 翔はニマリと笑みを浮かべ、

「別に理由までは聞いてなかったんだけどな。もしかして、俺何か言ったっけ。」

「ッ……」

 殴りかかりそうなほど強く拳を握りしめたところで、一はじめと幸一が止めに入った。

「喧嘩は止めようよ、二人とも。」

「そうですよ。それに、話って何なんですか?」

「お、そうだった。」

 話を元に戻す。

「昨日の有次はどんな感じだった? なんかいつもと違うとことかなかったか?」

「そうですね、特には。でも、今日から翔さんの家にお泊りなんですよね? 何かあったんですか?」

 えっ、と波澄とはじめはつい声を零してしまった。

 しかし、

「それがな、あいつ急にふらーっとどっか行っちまってよ。どーこほっつき歩いてるんだが。」

 後ろ頭に手を回しながら、翔は面倒くさそうにそう言った。

 暗くて、横を歩いてた二人の驚いた顔が幸一にばれなかったのは幸いだった。

「昨日は電話でしか話してないので、放課後は見かけてないですけど、兄さんのことですから、ふらっと帰ってきますよ。」

「それもそうだな。」

 翔はそう言って、笑った。




 道中は、幸一と翔が主にサッカーの話をして盛り上がった。

「へぇ~。じゃあ、幸一くんがサッカー部に入部したきっかけは、翔くんだったんだ。」

「はい。」

「有次君がやってないのに、急に始めた理由がわかったわ。」

「兄さんはスポーツとか全くやりませんから。遊びに来る翔さんに少し教わって、それで部活に入ったんです。」

「幸一はな、才能あるんだぜ。飲み込み早いし、時期エースさ。」

 幸一の肩をポンポンと叩きながら、誇らしげに語る。まるで、自分が育てたんだすごいだろと自慢しているみたいだ。

 だが、実際に今でも時稀に指導をしていたりする。

 本人曰く、

「指導が出来てやっと一端いっぱしの天才なのさ。」

 運動やスポーツを嗜まない波澄や一にはよく分からない領域だった。

 翔の指導内容や方法、幸一の部活での様子を話していたら、いつの間にか幸一の自宅に通ずる一本道の前だった。

「では、僕はこっちなので。」

「ああ、また今度な。」

 各々挨拶を言い合って、幸一は一人、明かりのない家に向かっていった。

 暫く幸一の背中に手を振り続けた三人は、やがて先へ歩き始めた。

「僕、有次くんの弟さんと初めて会いましたけど、いい子ですね。」

「だろ? どっかの無愛想な兄貴とは大違いさ。」

 駄目な父親と自由人な兄と一緒に暮らす幸一は、自然と大人びた十四歳へと成長した。目上の人に対しても、尊敬を忘れずに、しかし謙遜し過ぎない適度な距離感を築く。話している側も、過度な気遣いをせずに済むから、フレンドリーに接することができる。初対面で幸一に悪印象を持つ人はさほどしかいないだろう。

「そんなことより。」

 波澄は、ずっと気になっていたことを聞く。

「さっきのあれは――」

「もちろん嘘さ。」

「やっぱり。」

 答え合わせに近い質問だった。

「あれって、有次くんが翔くんの家にいるって話?」

 はじめの質問に翔は頷く。

「あいつは、幸一にも嘘をついてどっかにいるってことだ。」

「でも、どこにいるんだろ。商業区のお店はどこも二十三時に閉まっちゃうし、朝陽には、ネットカフェや漫画喫茶、朝まで営業しているカラオケはないから………ホテルは高いし…………」

 波澄も頭を悩ます。

 試験都市として、犯罪や堕落に繋がる要素は排除しているのも特徴の一つだ。仮に家を失って所謂ホームレスのような状態に陥っても、世界平和同盟の支部に行けば、大抵は何でも解決する。この朝陽で二十四時間営業している店など、居住区のコンビニぐらいだ。

 ホテルに関しても、朝陽では平均価格がとても高く、ただの高校生が簡単に泊まれるようなホテルを、彼らは知らない。

 問題なのは、家に帰ってないであろうはずなのに、そんな様子が確認できないことにある。

 (誰いない時間帯に家に帰って、着替えを回収。商業区の銭湯に行けば、服は制服だし、翌日登校しても特に違和感は残らない。でも、どこで寝たのかしら。ホテル?)

 世界最先端の試験都市で、平和に暮らしてきた女子高生には、ダンボールを使って路上で一夜を明かしたり、公園の茂みに寝そべって寝るなどの選択肢は出てこなかった。 

「どれにせよ、あいつはやっちゃいけないことをした。」

 翔は怒っていた。

 この時、二人は翔が何に対して怒っていたのかを知らない。


                    5


 翌日の朝。

 未だ止まぬ新夜人気で、今日も学校は三年E組を中心に騒がしかった。

 朝のホームルームが開始される五分前。

 教室の後方中央。新夜の座席を沢山の女子が取り囲むのは、たった一日でこのクラスの日常風景となった。

 前方の教卓の近くでは、波澄と一が一緒にいた。翔が登校してくるのを待っているのだ。

 窓際やや後方の座席には、昨日と同じように有次が静かに外を眺めている。教室に流れ込む風を一身で受け止める姿は、風景に溶け込んだ自然そのものだった。

 ガラガラガラ、と少し荒々しく教室の扉が開いた。しかし、女子たちの会話のボリュームと比べたら、小さなノイズだ。

 入ってきたのは翔だ。

 波澄が気付くのが遅れた理由は、翔が後方の扉から入ってきたからだ。翔の座席は一番前。だからいつもは前方の扉から入ってくる。そのつもりで二人は視線を前方の扉に集中させていたのだ。

 教室に入ってきた翔は、そのまま新夜を囲う女子の一団を通り過ぎ、窓際のある席へ近づいて行く。波澄が翔に気付き、横の一を小突いたのはこのタイミングだった。

 翔は有次の席に片手を着いて、何か喋った。

 声が小さかったのか、それとも周りが騒がしかったのか、どちらにせよ波澄たちまでは声が届かなかった。

 その数秒後、

「いいから来い!!」

 教室中に響き渡った怒声は、室内全員を一瞬にして黙らせた、

 その声を出したのは、翔だった。

 近くにいた女子たちが翔を見てびっくりしていた。

 唯一驚いていないのは、一番近くにいた有次だ。顔色一つ変えない。

 翔はずかずかと後方の扉から教室を出て行った。翔が消えた後、驚きで静まり返った教室に、今度は場違いな椅子と床が擦れる耳障りな音が響いた。

 みんなが唖然とする中、有次も後方の扉から教室を去った。


                    *


 まだバッグを背負った状態で、翔は廊下を傍若無人に歩く。

 ついて行くには距離が離れた位置で、両手をポッケに差した有次が黙って歩く。

 二人は階段を上がる。

 どんどん人気が無くなり、やがて聞こえてくるのは自分たちの足音のみとなった。

 一番上まで上った。

 一層頑丈に閉ざされたドアは、屋上に繋がっている。

 朝陽に限った話ではなく、安全性の問題からどの学校でも屋上は立ち入り禁止だ。

 そんな当たり前の常識を知っていてなおここにやって来たということは、もちろんそういうことだ。

 翔が目線を右下に移す。

 ドアの横の壁には、消火器が取り付けられていた。収納されていたプラスチックの箱を開け、手を伸ばして箱の内側をまさぐる。

 チャリン、と音がすると、間もなくして手を引っ込めた。鍵を持っていた。

 裸の鍵をドアノブに差し込むと、するりと簡単にロックが解除された。

 普段全く使われていないドアは、ギギギと重々しく開いた。

 新しい風が吹き抜ける。

 屋上の端には、大型の変電設備や電気設備がフェンスで囲われている。それ以外は目立ったものが置いておらず、開放的な屋上だ。

 翔に続いて有次が屋上に入ると、ドアは勝手にバタンと大きな音をたてて閉まった。

 朝陽が高層都市であるように、この学校も一般の学校よりは階数が高い。一階には昇降口や保健室、体育館などがあり、二階が一学年フロア、三階が二学年フロア、四階が三学年フロアとなっている。五階以上は、職員室や授業で使う教室などが敷き詰められており、屋上は十階だ。

 学校は居住区にある。商業区であれば十階は低い部類だが、居住区はマンションと一戸建ての割合は五分五分だ。特に、日照権の問題から、高層マンションは同じ地区に乱立されないので、屋上からの景色は格別だ。

 家の屋根は意外とバリエーションが豊かだ。同系色の色でも、日焼けで色褪せ、全く同じ色は存在しない。物珍しい風景ではないが、よく観察すると日常風景の美しさを感じられる。

 だが、屋上の二人は、外の景色ではなくお互いしか見ていない。

 冷たい表情で。

「有次。お前、幸一に俺のところにいるって嘘ついたな。」

「…………。」

「俺に嘘をつくのはいい。でも、幸一にはそんなことするなよ、弟だろ。」

「…………。」

 たった一つの嘘。小さな、しょうもない嘘。そう他人に捉えられてもおかしくないが、先日からの有次の様子の変化を考慮した時、翔にとってこの嘘はただの嘘では済まされないと思った。他にも重大な嘘を、弟の幸一にしているのではないか。そう思わせるには、翔にとって十分な状況だったのだ。

「確かに、俺に兄弟はいない。だから、俺にそんなこと言う権利があるかはわからない。でも――」

「話はそれだけか?」

 ため息を零して、有次はそう言った。

「…………は?」

「だから、話はそれだけか? なら教室に戻るぞ。そろそろホームルームが始まる。」

 早々と目線を切り、ドアへ戻る有次。

 翔は大股で近づき、その背中をぐっと掴んで無理やり自分の方を向かせた。

「お前、それ本気で言ってんのか?」

 有次は、答えない。

「俺の知ってる久遠有次は、弟思いで優しい奴だ! 俺の知ってる久遠幸一は、そんな兄が大好きな少年だ! そんなお前にとって、ちっぽけな話かこれは!」

「じゃあ聞くが、お前は俺の何を知ってるんだよ。」

「!」

 有次は、自分の肩を掴んでいる翔の手を乱暴に払った。

「常々思っていたことだが、お前は俺に、……いや、兄弟というものに対して、美しい目で見過ぎだ。そんなに美化されるほど、俺は綺麗じゃない。俺は…………」

 そこで言葉を切った。何か言いたいことを、一瞬ためらったようにも見えた。

 ただ、それよりも、有次の言葉が深く翔の心には刺さっていた。

 何も言い返せず、図星だったから。

 さも有次のことをよく知った風に話したが、その実有次のことを何も知らないし理解していない。有次と幸一の兄弟を、どこか清く尊い存在のように思っていたのも事実だ。

 なによりも、本人から言われたことが、翔には余計に刺さった。

「もういい。これ以上、俺に関わるな。」

 今度こそ、有次は屋上を去った。

 止めることは、出来なかった。


                    6


「この後、空いてる?」

「え?」

 冗談抜きに口からこぼれてしまった。そしてそれは自分だけではなかった。クラス中の女子が同じように固まっていた

 どうしてこうなったのだろうか。一度自分の胸に聞いてみることにしよう。

 私の名前は波澄はずみ久礼波くれは。朝陽第一高等学校、三年E組の学級委員長と生徒会長を務めています。自分で言うのも変ですが、私は『真面目』が好きです。友人と派手に遊び回るよりは、勉強したり読書をしていたい人なのです。しかし、別に自分とは違う好みを持っている人を、蔑ろにしたり疎外に感じたりはしません。今日E組に転入してきた草薙・ラーンウォルフ・新夜くん。逆に名前が長いせいか覚えてしまいました。彼は誰が見てもかっこいいと思うほど容姿が整っていて、性格も良好、頭も良いのです。他所から見ていても完璧と言えるかもしれません。ですが彼はまだ学校に来て間もない。できる限りのサポートはしてあげたいと考えていました。でも彼の周りにはいつも沢山の人がいるので、私が出来ることは少ないのかもしれません。と、思っていたら彼から声をかけられました。ちょうど帰りのホームルームが終わって帰りの支度をみんながし始めた時でした。彼は当然女子人気がとても高いです。狙っている女子が多いのも知っています。そんな彼が私に予定を聞いてきたのです。驚愕です。私は彼とほとんど話したことがありませんから。なぜ彼がこんな質問をしてきたのか皆目見当もつきません。

 全く意味のなかった自己回顧を済ませた波澄は、あくまで自然な形で相手に尋ねてみる。

「空いてるけど、私に何か用事でも?」

「うん、まだ部活動とかよくわからなくて。色々と案内して欲しいんだ。」

「……せっかくだけど、私じゃなくてもいいんじゃないのかしら。」

「実は生徒会にも行ってみたいんだ。」

「…………なるほど。」

 その一言で、周りの女子たちは察した。どうして彼が波澄に声を掛けたのかを。 

 一般生徒の立ち入りが基本的にできない生徒会を見学したいなら、生徒会のメンバーにお願いするのが合理的だろう。それに、丁度このクラスには生徒会長がいるのだから。

 誰かからそのことを聞いたのかもしれない。そう思った波澄は、

「先生の許可をもらいに行く必要があるけど。」

「もちろん構わないよ。」

「そう。なら大丈夫よ。今すぐ行く?それとも時間を空ける?」

「いや、今からでお願いするよ。」

「わかったわ。じゃあ職員室に行きましょう。」

 数人ぐらいはついて行くと言ってくると思ったが、見当は外れた。改めて、生徒会は学校の中では少し浮いていると実感した。



 学年主任の先生を訪ねた二人は、すんなりと許可を頂けた。理由は二つある。一つは、新夜は三年生であるのにこの学校のことを詳しく知らず、一年でこの学校を去ることになるので、いち早く学校に馴染んでもらいたいということ。もう一つは、波澄が教師陣からとても信頼されているということだ。そして二つ目の理由から、教師が引率することもなく、鍵だけポイと渡されたのだ。仮に別の生徒会メンバーが同じことをしても、こうはならないだろう。

 波澄は、新夜が自分に頼んできた最たる理由は生徒会だと思い、学校案内よりも先に生徒会室へ向かった。新夜も異論はなさそうだった。

 放課後の校内は静かだ。雨が降れば、体育会系部活動の面々が校内で活動してそれなりに騒がしくなるのだが。

 廊下を歩く二人に会話はない。

 新夜は楽しそうに校庭の部活動の風景を眺めている。波澄は、少し新夜に苦手意識があるのだ。といっても、新夜自身にというよりは、新夜を取り巻く女子たちの熱気のようなものが苦手なのだ。

 生徒会室に着くと、早速中に入る。質素な長机に椅子。あまり散らかっておらず、使われていない空き教室のように見える。

「今は特にやることないから綺麗なんだけど、体育祭が近づくと足の踏み場がなくなっちゃうのよね。」

 新夜がどこまで生徒会を知りたいのかがわからないため、とりあえず、適当に座って、と言った。

 波澄は先に窓辺により、窓を開けて換気をする。

 無風だったが、気持ち的にはまだマシだろう。

 ふと、隣に新夜が寄ってきて、外を眺める。

 その横顔は、和やかで、懐かしんでいるようで、実際は何を考えているのか解らない。

「新夜君は、生徒会の仕事に興味があるの?」

 新夜は間を空けてから、波澄の方を向いて、

「……言いにくいんだけど……、実は生徒会には興味はないんだ。」

「?」

 怒りの感情はなく、純粋にどうしてという疑問が湧いた。

「本当は二人きりで話がしたかっただけなんだ。」

 新夜は少しだけ口角を上げてこちらを見つめてきた。何か理由があるにしろ、悪意がないのはわかった。

「それならここでなくてもいいんじゃないかしら。」

「それが、多分他の女の子達が集まってきちゃうから。なかなか、ね。」

「まあ、そうね。あの様子だったら。でも私に話なんて何かしら?」

「久遠有次について聞きたいんだ。」

 その一言で、場は奇妙な緊張感に包まれた。

 波澄は慎重に口を開いた。

「気になってたんだけど、二人は知り合いなの?」

「知り合いの定義によるね。知っているかと言えば前から知っていたよ。お互い、父親に通ずるところがあるからね。」

「そういえば、今は父親同士が共同研究を。」

「そう。だから知っていると言われれば知っている。けれど会ったことはなかったんだ。だから知りたいんだ。彼のことをもっと。」

 波澄は態度を低くして、

「なんかごめんなさいね。いろいろと詮索する空気にしてしまって。この間のことで、二人の関係性がわからなくて。」

「気にしないよ。」

 相手を見て、波澄は胸をなで下ろした。肩の重たさがスっと取れた気がした。

「で、有次君のことだけど、私そんなに彼のプライベートを知ってるわけじゃないわよ。」

「いいんだ。君の知ってる彼を、僕は知りたいんだ。」

 そこで新夜は椅子を指さした。座ろうというジェスチャーだった。頷いた波澄は一つの椅子を引いて座ると、新夜は机をはさんで向こう側の椅子に座った。

 新夜が座ったところで、波澄は久遠有次とのこれまでを語り始めた。


                    *


 私が有次君と初めて会ったのは、去年のこと。クラスが同じだったの。うちの学校は人数が多いから、学年が上がった時に、それまでのクラスメイトと同じクラスになることは滅多にないの。だからクラスが変わるとほとんどの人とはじめましてなんだけど、彼は印象に残った。

 上手く表現出来ないけど、不思議な人だと思ったわ。決して近づきすぎず離れすぎず、奇妙な距離感と雰囲気を持っていた。彼は自分から誰かと触れ合ったりしようとしないから、初めのうちは全く話したことがなかったの。

 接点を持つきっかけになったのは、新学期が始まってからニヶ月ぐらい経った頃。

 彼は、学校に来なくなったの。



 元々彼と友達になったクラスメートはいませんでした。だから常に教室の机が一つ空いていても、いつしか誰も気にならなくなっていきました。私は一年生の頃から、いや、小学校のころからずっと学級委員長をやってきたから、去年も例外じゃありません。

 日が経つにつれて、彼のことが気になっていきました。不謹慎なことかもしれないけど、どうして学校に来なくなったのかそのワケが気になりました。

 その年の七月中旬。例年よりも気温が落ち着いていて、印象的な夏休みの始まりでした。私は夏休みに入っても、生徒会の仕事があったため学校に何日か登校していました。

 仕事を片付けて生徒会室を出た時の事です。担任の伊守先生とばったり遭遇しました。扉の真ん前にいた先生は、驚いて持っていた書類を幾つか落としてしまったのです。

「すみません、先生。」

 お互い腰を下ろして書類を取ろうとしました。特にその書類を覗くつもりはありませんでしたが、たまたま書類は表向きに落ちていたため、内容が目に入ってしまった。

「これ………以前配られたプリントですか?」

 拾った書類を先生へと渡すと、先生は困った顔をしていました。

「そうなの。これは同じクラスの久遠君のよ。」

「えっ?」

「彼、一月ひとつき前ぐらいから学校に来ていないでしょ?特に仲の良かった友達もいなかったみたいだから、溜まったプリントを定期的に家に届けてるの。声は聞けてるんだけどね、直接は会えてないの。」

「そう………ですか。」

 自分の想像以上に彼は複雑な状況かもしれない。興味本位で彼のことを気にしてた過去の自分に罪悪感を感じてしまいました。

「彼………、久遠君は勉強とかは大丈夫なのでしょうか。」

「どうかしら。一年の時は優秀な成績だってのは聞いているわ。うちは出席点よりテストの点数の方が単位に関係してくるから。でも、流石に休み期間が明けた後もこの調子なら困るわ。」

 伊守先生はつい私の前でため息をこぼしてしまった。理由がはっきりしているなら対処はしやすいが、先生は原因をまだ知らないようでした。

「先生、一つ提案なんですけど。」

 その時、私が何を思っていたのか、正直詳しく覚えていません。罪悪感から?まだ気になっているから?どれも嘘ではない、と思います。でも一番は、私がお節介だからだと思います。先生と話して、ただ彼の助けになりたい、そう思いました。

「私がそのプリント、持っていっていいですか?」



 先生から住所を聞いた私は、さっそく彼の家へ向かうことになりました。朝陽は構造上、住所を聞けば大まかな場所はわかるようになっています。環状都市のメリットです。後は詳しい地点をメモしてもらったため、さほど苦労せず辿り着く事が出来ました。

 しかし、今になって、

 (よく思えば、全く話したことのない男子の家に行くって………。一軒家だから一人暮らじゃなさそうだけれども。先生に家族構成は聞いておくべきだったわ。)

 兎も角、引き受けてしまったには匙を投げる訳にはいけません。それでも、男子の家のインターフォンを押すことにはそれなりの勇気が必要でした。

 ガチャン。

 (?)

 まだインターフォンは鳴らしていないのに、玄関が開きました。一瞬ドキッとしました。

 出てきたのは、

 (だれ?)

 彼ではありません。年齢的には私より年下。身長も小さいし、顔にまだ幼さが残る印象を抱きました。

「あの……どちら様で……。」

 お互いがいぶかしんだ様子で見つめ合った。



「まさか久遠君に兄弟がいたなんて。ビックリよ。」

「血は繋がってませんよ。」

「でも、今どき義理でも兄弟がいるなんて珍しいことじゃない。」

「そうですね、僕も他には見たことないです。」

 あの時、家から出てきたのは久遠幸一君。中学生です。

 ちょうど彼が買い物に出かける時に私と遭遇したのでした。私は久遠君に用があったけど、家には彼と弟の幸一君しかいませんでした。流石に家に誰もいないのに(久遠君はいるけど)家に上がるのは忍びないし、けれど幸一君も買い物には行きたそうだった、ということで、今二人で一緒に買い物をしていて、色々と聞いている最中です。

「中学生でもうお家の夕飯を作るなんて凄いわね。私なんてお菓子しか作ったことないわ。」

「周りからも言われますが、最近では何でも勝手にやってくれる器具が多いので、レシピを調べてそれ通りにやれば特に苦労はありません。」

「ご両親は料理をあまりしない人なの?」

「そうですね。料理どころか家事が何一つ出来ないだらしない父です。母はうちにはいません。」

「ご、ごめんなさい。ちょっとプライベートが過ぎたわね。」

「いえ、気にしないでください。」

 彼は本当に気にしておらず、屈託のない笑顔を見せてくれました。

「一つだけどうしても聞きたいことがあるんだけどいいかな? もちろん答えたくなければいいんだけど……。」

「大丈夫ですよ。」

「幸一君の父親って……何をしてらっしゃる人……かな?」

 私の質問を聞いた彼はクスッと笑った。私の言った意味がわかったからかもしれません。

「多分想像通りだと思います。」

「じゃあ!」

「ええ、父さんはフューチャー社の社長さんです。」

「やっぱり!」

 スーパーの中で興奮してしまった自分が恥ずかしい。

「この前ニュースで見てね。『久遠』ってそう聞かない苗字だからもしかしてと思って。そうか、お父さんは有名人か。ねぇねぇ、お父さんが有名人で何か良かったり、逆に困ったりしてる事ってある?」

「そうですね。考えてみるとぱっと思いつきませんが、僕は大勢に囲まれるのが苦手なので。クラスが変わる度に質問攻めから始まるのは未だに慣れません。それと基本父は家にはいません。職場で泊まることも多いですし、ズボラな人なので。」

 あまりいい内容が出てこないことに意外だと感じました。

「お父さんいなくて寂しかった?」

 予想に反して彼は、

「いいえ。僕には兄さんがいますから。」

「……。」

 不意に久遠君のことが出てきたことで、私は本題に入りました。

「幸一君、久遠君は………どんな様子かな?」

 話題が話題なため言葉を選びながら問いかけました。幸一君は表情には出てませんでしたが、明らかに曇ってしまいました。

「実は僕もそんなに直接は会ってはないんです。部屋から出てこないので。あ、でも話はある程度できます。………ご飯も一食食べるかどうかで、もうこれが一月も続いているんです。」

「何か理由や原因のようなものは聞いてる?」

 幸一君はただ首を横に振った。

 ますます彼と直接会ってみないことには何もわからないという状況になりました。

「でも私、久遠君と全然話したことなくて。大丈夫かしら。」

「もしかしたら、女の子が来たらすんなり出てくるかもですよ。」

 やや湿っぽい雰囲気の中、幸一君が言った冗談は可笑しくて、二人顔を合わせて笑ってしまった。


 家に着いた私達は、買い物袋をキッチンまで運ぶと二人で階段を上がりました。

 幸一君は軽くトントン、と扉をノックし、

「兄さん、同じクラスの波澄さんが来てるよ。プリントを届けに来てくれたよ。」

「こんにちは、久遠君。私、波澄だけど、わかるかな。」

 しばらく返答はなく、静寂がその場を包んだ。私と幸一君、両方が何か話題を振ろうとした時、

「委員長?」

「良かった! 覚えてくれてたのね!」

 私はガサゴソと鞄をまさぐり、クリアファイルの中からいくつかのプリントを取り出しました。

「今日は先生の代わりに私がプリントを持ってきたのよ。」

「ありがとう。」

 はっきりとは聞き取れない、か細い声でした。

「僕はご飯の準備をしてくるので。」

 そう言って幸一君は席を外しました。

 扉一つ隔てて二人きりになったところで、なんて声を掛ければ良いのかわからず、また廊下に静けさが戻って気まずくなりました。

「委員長はどうして俺の家に来たの?」

 これは私がこの家を訪れた目的を聞かれているのではなく、その行動心理を聞かれているのだと理解しました。

「私にもよくはわからない。でも、長い間学校に来なくなったクラスメイトをほっとくことは、私にはできない。」

 私は自分でも驚くほど、堂々と言い放ちました。宣言に近かったのかもしれません。

「……ありがとう。…………本当にありがとう。だから、一つお願いしてもいいかな。」

「ええ、私にできることがあれば何でも言って! 力になるわ!」

「じゃあ、…………俺に。」

「………ぇ…………」

 開いた口が塞がらなかった。

 頭が真っ白になったのを今でもよく覚えています。

 私は彼が困っているなら助けになりたいと思いました。ただそれだけなのに、彼にとってはそれが迷惑だったのです。極めて穏やかに言ってくれたが、明らかな拒絶でした。

「すまない。…………俺を一人にしてくれ。」

「………。」

 彼の、今にも泣き出しそうな声を聞いても、私にできることは何もありませんでした。

 私はそのまま何も言わずに、彼の部屋を後にしました。そして逃げる様に家を飛び出しました。



 自分の部屋でも、彼のことが頭から当分離れませんでした。

 困った状況に陥れば誰かに相談し、自分一人で対処が出来ないならば周りに助けを求める。逆も然り。そうして誰かと誰かが助け、助けられるということは人間の当然に持ち合わせている行動心理だと思ってました。私には『困った』としか形容できませんが、彼がそういう状況にあることは明白なのに、彼は一人を選んだ。他人の私のみならず、近しい人間すら拒絶している。それが私を思考巡りに嵌めていました。

 下から、ご飯ができたよー、とお母さんの声が聞こえ、ふと時計を見ると、いつの間にか時間が経っていました。

 気分を変えるために明日の学校の準備をしよう。そう考えて鞄を開けると、

「あっ……。」

 一番上に、雑にしまい込まれたプリントが。そう、彼に渡すはずだったプリントです。

 あんなことを言われたのに、また彼の家に行かなくてはならない用ができてしまった、その事実にあと数分は固まっていました。




 夏休みの期間はおよそ一ヶ月半。

 長いようで短いような。そんな夏休みを他の人はどう過ごしているのでしょうか。

 朝陽の高校三年生は基本的に受験勉強をしません。なぜなら、エスカレーター式で朝陽市内の大学に進学できるからです。もちろん希望者だけで、就職することもできるし、朝陽には多くの専門学校があるのでそちらに進むこともできます。エスカレーターだからといったって、進学試験は簡単なものではありません。しかし夏休みを削って勉強をしようとは、多くの人は思いません。

 私?

 私はその中でも稀有の稀有だと思います。

 他所の大学への受験を希望しています。

 なぜわざわざ朝陽を出るのかというと、その大学は医学に特化した有名な大学だからです。

 私の夢は医者になることです。幼少期に良くしてくれた祖母を病気で亡くしたのがきっかけでした。今では多くの人を救いたいと考えています。

 朝陽にも医学に精通した学校は幾つかありますが、さらに外科に特化した学校は朝陽にはありませんでした。

 だから私は夏休みだからといっても、勉強に勤しんでいます。昔から勉強は苦に感じませんでしたし、他の子とパァーっと遊ぶのも苦手ですので、自然と家にいることが多いです。図書館にはよく行きますが。

 そんな私の日常にある事が増えました。彼の家を訪ねることです。つい先日、生徒会の仕事で学校に行った時のことです。先生から、今度は久遠君に勉強を教えて欲しいと頼まれたのです。私は承諾し、一週間に一度ほど彼の家を訪れることになりました。訪れる頻度や、あちらでの滞在時間はなるべく最小限に抑えています。彼を困らせたくはないので。しかし、段々と彼とも意思疎通がとれるようになりました。未だに部屋からは出てきませんし、雑談は少ししか話さないのですが、距離はなんとなく縮まったような気がします。



 夏休みもあと二週間まで迫った八月の下旬。残暑が厳しく、木陰の涼しさが身に染みる頃、私のスマホに一通の連絡が届きました。

 連絡をしてくれたのは幸一君。

 兄弟共通のお友達と一週間ほど出かける、とのことでした。

 まず、彼が家の外に出たことに驚きましたが、これをきっかけに変わってくれるかもと思いました。




 明後日に始業を迎える日。私は自分の部屋で穏やかに過ごしていましたが、突然来訪者が現れました。その日は家に私しかいなかったため、慌てて一階へ駆け下りて玄関を出ました。

「はーい。」

 扉を開けながら、宅配だったらハンコ持ってこないと、など考えてました。しかし、そこに居たのは、

「久遠君!!」

「こんにちは、委員長。」

 なんと、そこには制服を着た久遠君が立っていました。

「久遠君、制服来ちゃってどう………」

「ごめん!!!」

 私の言葉を遮って、彼は唐突に頭を下げた。あまりの勢いに少し後ずさりしてしまいました。

「ど、どうしたの?急に。」

「俺、君が何度も家に来てくれた時、正直自分のことしか考えてなかった。君の親切心を気にもしてなかった。ごめん!」

 私はその時、つい笑ってしまいました。もちろん悪気は毛頭ないです。

「ごめんなさい。私、久遠君がこんなに真面目な人だったなんて知らなくて。」

 彼は少し顔を赤らめて、顔を背けました。彼自身、性にあわないことをしている自覚はあるみたいです。

「こんなところで立ち話もだから、上がって。今家に私しかいないから遠慮はご免よ。」

 彼は頬を緩めて微笑んだ。



 とりあえず二人、ダイニングテーブルに座ると、彼から口を開いた。

「本当に、ありがとう。」

 今度は謝罪じゃなくて感謝の言葉だった。なんだかこっちの方が居心地が良かったりする。

「いいの。私気にしてないわ。それより久遠君がこうやって外に出てくれたことが嬉しいわ。ところで、どうして学校の制服を着ているの?」

「ああ、これは………。俺、夏休み終わったらちゃんと学校に行こうと思って、その意思表示、かな?」

「何それ、変なの。」

「ハハ、そうだね。」

 まさかこんな風に笑い合って会話する時が来るとは、想像もしてませんでした。

「ところで久遠君、聞いてもいい?」

 彼は私の真意を受け取ってくれて、優しい目を向けた。

「うん。」

「どうして学校に来なくなっちゃったの?」

 彼は少し悩んだ。

「すまない。今はまだ詳しく話したくないんだ。でも君の存在が僕を救ってくれたのは確かだよ。」

「……そう。」

「でも、絶対にいつかちゃんと話すから。だから、ありがとう。波澄。」

「……!?」

「……ごめん、俺なにか悪いことでも言ったか?」

 彼がそういったのも無理はないと思う。きっと私、変な顔して固まってたから。

「今、なまえ……。」

「ん? ああ、嫌だったか。それはすまーー」

「違う。」

 今度は私が彼の言葉を遮った。

「違うの。私基本みんなから委員長とか会長とか呼ばれてて、男の子に名前で呼ばれたことそんなになくて。なんて言うのかな。嬉しいんだと思う。」

「……そっか。じゃあ俺のことも有次でいいよ。久遠じゃあ幸一と一緒にいる時、どっちだかわからないからな。」

「わかった。それと、私、解けなかった問題は根に持って忘れないタイプよ。覚えておいてね、有次君。」



 言った通り、学校が始まると有次君はちゃんと登校してきました。周りは驚いた様子で、あまり近寄ろうとしませんでしたが、私は学校でも普通に彼と接しました。例えば、いきなり有次君と仲良くなってくださいってみんなに言っても、お互いが気まずいだけで距離は縮まらないと思うの。だから私も過度にサポートしないで、あくまで委員長として彼を最大限サポートすることに決めました。

 時間とともに彼は少しずつクラスに受け入れられていきました。元々彼に友人がいなかったせいか、特段仲がいい人は今のところいないけど、クラスメイトと呼べるぐらいには周りに溶け込んでいます。

 そして私は先生との約束を守るべく、放課後に彼に勉強を教えています。学校が始まった当初は、授業内容を全く知らないだろうと、毎日残って彼に今までのノートを見せたりしてました。

 それなのに……



 空が燈色に変わり始め、多くの生徒が帰路についていることでしょう。

 私は教室でノートを広げているのですが、ふと私は手を止めて、向かいに座る有次君にこう言いました。

「おかしいわ。」

「何が?」

 私が勝手に過去を振り返って思ったことだから、私が何に対してそう言ったのか彼がわかるはずもないのだけれども、それでもやっぱり今のこの状況はおかしい。

「なんで私、有次君に勉強教えてもらってるの?」

「それは、俺が波澄の力になりたいからだよ。」

「………そうじゃなくて。」

 前までは私が教えていたのに、いつしか立場はくるりと変わってしまった。

「だって俺にわかって波澄にわかんない問題があって、俺が波澄に解を教えることは不思議なことでもないさ。」

「……なんか気に食わない。」

「ひどくないか?」

「だって。なんでそんなに頭いいのよ。私、有次君が勉強しているところ見たことないのに(ノート見せてあげたってパラパラめくるだけで済ませるし)。」

「なぜ段々と語尾が弱くなったんだ?」

 私は自分でも頭はいい方だと自覚はあるけれども、それと偉いかどうかは別問題だとしっかり認識している。けれど、プライドは持っていたらしい。

「波澄は偉いな。ちゃんとした夢を持って、それのためにこうやって頑張って勉強ができるなんて。」

「前から思ってたんだけど、有次君って時々年上みたいな物言いするよね。もしかしてからかってる?」

「いやいや、そんな事ないさ。あ、そこ、間違えてる。」

「え? …………ホントだ。」


                    *


「そんな感じで、私と有次君は勉強を教え合う仲になったわ。そしてその年、私がテストでクラス順位一位を取ることはなかったわ。」

 いつの間にか、太陽は沈み、空は代わりに星を付け始めた。

 そろそろ学校が閉まる時間だった。校内外の喧騒はどこかへ帰っていった。

「他に彼と仲のいい人は知らない?」

「有次君とよくいるのは、篝君と朧君かな。」

 いまいちピンときていない顔をしていたため、波澄は続けて、

「篝君は、一番前の席で茶髪だからわかりやすいと思うわ。今日は来てないけど。朧君は、新夜君の席から右斜めを向いたあたりの席よ。前髪が目が隠れるくらい長くて、おとなしい雰囲気を持ってるわ。」

「ありがとう。早くみんなの名前を覚えないとね。」

「新夜君ならクラスに慣れるのが早いから大丈夫よ。きっと女の子の名前をいち早く覚えるんだろうけど。」

「君は容赦ないことを平気で言うね。」

 新夜は苦笑いをこぼした。



 二人はその後部屋を出て、一度職員室に鍵を返してから学校を出た。

 その道中、波澄から新夜へ質問があった。

「私、一つ聞きたいんだけど。」

「どうぞ。」

「今日の授業についてなんだけど。」

 新夜はその先を待った。

「今総合の授業で取り扱っているテーマ、世界平和同盟。どうして同盟がここまで支持を集められたのか、その問いに、草薙君がどう答えたか覚えてる?」

「覚えてるよ。それが?」

「うん。実は全く同じ答えを、有次君も言ってたのよ。私にはよく意味が分からなくて。」

 新夜はしばらく答えなかった。

 それを不思議に思って顔を覗き込むと、懐かしむような顔で微笑んでいた。まるで遠い恋人を思うかのように。

「草薙君?」

 ふと、いつも通りのにこやかな顔に戻った。

「人間っていうのは、みんなが思うほどロジカルな生き物じゃないんだ。」

 視線を外に向ける。大きな照明を付けて、サッカー部や陸上部が片付けをしていた。

「政府の権威が失墜し、代わりに同盟が台頭した。同盟は様々な革命を起こし、世界中の人々にそれまで以上の利益をもたらした。そして、これからももたらし続ける。だから同盟を支持した。具体的に何をやったかはそこまで重要じゃない。流行、という言葉があるように、人間の好き嫌いは簡単に変わる。大きな視点での最たる例が同盟だったというだけの話さ。自己の利益になれば、不都合な側面には目を瞑る。実績が積み重なり、いつしか都合の良い側面だけを眺め続ける。『それが、人間だがら』。」

 波澄は、どこか遠い目をして固まった。何か考えているのだろう。

 (私と有次君の違いがわかった気がする。)

「ありがとう。」

 何に対してありがとうなのかを、波澄も言わなかったし、新夜も聞かなかった。


                    7


 時間とは残酷だ。

 人間の意思とは無関係に、ただただ流れ行く。一定の速さで、変わらずに、ずっと。

 人の死は平等にやってくると言う人がいるが、それは人の人生をマクロな視点で見つめた場合の話だ。もう少しミクロな視点を向けると、そのタイミングまでは平等ではない。大事なものを失い、死にたいと思ったときに死ぬ人もいれば、幸せの絶頂の中死ぬ人もいる。時間軸上においてはどちらも、どこかで人生が始まりどこかで人生が終わる、という点は共通している。そこが、時間の恐ろしいところだ。時間というものは、中に情報を格納できないし、保存できない。幸せな時間も、辛い時間も、主観的にそう思っているだけで、時間そのものは幸せでもなければ不幸でもない。それに、どんなに幸福な時間があったとしても、時間の流れによっていずれ消え行く。




 


 あれから、時間だけが過ぎていった。

 状況は変化していないし、むしろ屋上での一件以降、週末の金曜まで一回も有次と話していない。

 翔の頭の中は、過去の楽しい思い出ではなく、有次に突き付けられた言葉だけが占拠していた。



 有次は、いつも新夜を見ていた。まるで、監視しているみたいに。

 明らかに、何か隠し事をしている。

 でも、踏み込めない。

 新夜を見ている有次を、ただぼんやりと見るだけ。それとなく周囲にはいつも通り笑顔を振りまくが、部活も休みっぱなしだ。



「翔、最近なんか変だぞ。悩みでもあんのか?」

「……まあ、そんなとこだ。」

 それは、金曜の朝。たまたま通学途中に拓也と遭遇した。

「ハッ、お前らしくもない。」

「別に悩みぐらい、誰だって抱えるものだろ?」

「そんなことを言ってんじゃない。悩みを持ち続けることがらしくないって言ってんだ。」

 拓也は呆れたように続けた。

「俺たちは小ちゃいガキの頃からの付き合いだ。特にバカ正直なお前のことは大抵わかるさ。いつものお前は、難問には当たって砕けろ、だろ?」

「…………。」

 (いつもの俺、か…………。)

 それは、以前屋上で有次に向かって自分が放った言葉と似ていた。

 自己評価と他者評価が違うように、自分の普段の行動の傾向や癖は、意外と自分よりも近くの人間の方が的確に把握しているものだ。

 最近は、頭がごちゃごちゃで、何をどうしたら良いかさっぱりだった。しかし、いつもの篝翔なら、そんな悩み、すぐさま行動して解決しただろう。

 (そうだ。俺は……篝翔は、そういう奴さ。)

 ウジウジしていたって何も解決しない。そんな簡単なこと、どうして忘れていたんだろうか。

「まあ、いつも砕けてるばっかだがな。」

「……確かに、それもそうか。」

 心が少し晴れた気がした。

「ありがとう、拓也。ちょっとスッキリしたわ。」

「そうか。ならいいが、そろそろ部活に顔出せよ。後輩たちがえらく心配してたぞ。」

「わかった。」

「ただし、モヤモヤしたまま来んなよ。大きな怪我でもしたら大変だからな。」

「わかってるって。」

 自分のことを理解してくれる人がいることが、こんなにも素晴らしいことだなんて、翔は初めて自覚した。

 同時に、有次にも理解者がいるのだろうかと思った。

 (もしいないなら、…………俺が…………。)

 強くこう思った。

 誰かが有次を支えなくちゃならない時、隣にいるのは自分でありたいと。

 自分が、有次の理解者でありたいと。



 翔は、無意識の内にあることを避けていた。

 改めて考えると単純なことだが、どうしてそうしなかったかと回顧してみれば、明確な答えは出てこなかった。

 ただ、過去についてとやかく追求するのはやめた。キリがないからだ。

 その日の放課後、生徒たちがぞろぞろと帰る中、その人物が帰ってしまう前に座席へ近づいた。

「草薙・ラーンウォルフ・新夜。ちょっといいか?」

「構わないよ。僕も、君と話してみたかったんだ。」


                     8


 週末の土曜日。

 商業区はいつものごとく人で溢れかえっている。猥雑としたこの空間に静かな場所など存在しないため、逆にゆっくり落ち着ける空間を提供する店は多い。いわゆる、カフェだ。

 下層では人の出入りが多いため、カフェは高層に集中している。

「新夜は何を頼む?」

「僕は…………そうだね。これ飲んだことないんだけど、どんな飲み物なのかな?」

「カフェラテか。コーヒーにミルクを入れたものだ。あとホットだこれは。」

「コーヒーか。前に飲んだことがある。」

「そんなに飲んだことないのか? じゃあ試しにどうだ、美味しいぞ。」

「じゃあそれにしようかな。」

 翔はアイスコーヒー、新夜はカフェラテを頼んだ。

 すぐに飲み物は提供され、窓側の座席へ向かう。四角いテーブルに、向かい合って座る。

 午前中だったためか、まだ店内の人の数は少ない。一人で何やら作業している人が大半だ。邪魔にならないように、極力周りのひとやたちから離れた窓側の席を選んだ。

「休日なのに悪いな。」

「ううん。構わないよ。」

 新夜は優雅に足を組んで、カップを口元に運ぶ。銀色のサラサラな髪は、間近で見ると、男の翔ですら魅了される美しさだ。

 新夜にとって、今日はこの学校に転校してきて最初の休日だ。この一週間で仲良くなったクラスメイトとの遊びの約束が、一つや二つありそうだったが、こんなよく話したこともない奴に時間を費やしてくれることに驚いていた。しかし、新夜からは、渋々付き合っているような様子は感じられなかった。

 一つ一つの所作に無駄がなく、美しい、その一言がよく似合う。そんな感想を抱いた。

「ちょっと熱いな。」

 そう言って、カップをそっとテーブルに置いた。

「僕はね、クラスのみんなと仲良くしたいんだ。だから、君とも話してみたかったんだ。」

「俺たち、ほとんど話したことなかったからな。

「君に限った話しじゃない。どうしても男の子たちとは会話する機会に恵まれなくてね。」

 あれほど女子人気が高ければ、仕方ない。男子にも興味を持って話そうと意思を持っているから、男子たちも新夜のことを憎めないでいるのだろう。

「折角の機会で悪いが、今日は他の人の話を聞きたいんだ。」

「それは誰だい?」

「久遠有次。」

 翔は、新夜の様子を窺った。有次の名前を出した時の反応で、二人の関係性に見当をつけようと考えていたが、

「久遠有次。フューチャー社社長、久遠勝武の長男。世にも珍しい兄弟であり、朝陽第一高等学校に在籍する三年生。僕が知っているのは、その程度だよ。」

 新夜が話す様子は、至って冷静で、普段通りだった。

「それは、全部有次の肩書きだろ? 有次の人間性や個性、性格なんかについては、何か知ってるのか?」

 新夜は首を横に振る。

「そこまで詳しくは。」

「四月の十三日、月曜日。新夜が転校してきた日だ。俺から見たら、有次と初対面って感じじゃなかったんだけど、以前から知ってたのか?」

「知っていたかと言われれば、知っていたよ。ご存知の通り、僕の父親、ウィリアム・ラーンウォルフと久遠有次の父親、久遠勝武は共同研究をしている間柄だ。以前から何度かコンタクトがあり、共同研究が決定したのは二年前だと聞いている。だからその時には知っていたよ。ただ、対面で会うのは初めて、というだけさ。」

「……そうか。」

 今までの新夜の話に、おかしな点はない。むしろあの状況に納得する部分もあった

 十三日の朝。百周年記念日の翌日だ。有次と新夜は、まるで知り合いのようでありながら、自己紹介をした。これが情報のみでお互い知っていたなら、全くの初対面ではないが初めましての状況になる。

 しかし、重要な事がまだ残っている。

「じゃあ、『フェイカー』って何のことだ。」

 その質問に、新夜はすぐに答えなかった。

 テーブルに置いたカップを再び手に取り、飲む寸前、フーフーと熱を冷まし、ゆっくりと口に運ぶ。

 一口、二口と口に含み、じっくりと味わっている。十秒にも満たない時間が、翔にはとても長く感じられた。

 カップをテーブルに戻し、翔を正面から見つめて、微笑んだ。

「正直なところ、あまり話したくないのが本音かな。」

 誤魔化そうとしているようには見えない。プライベート過ぎる質問でちょっと困っている、そんな微笑みだと翔は感じた。

「実は以前、ネット上で何度か彼とやりとりしたことがあってね。その時のハンドルネームとして使っていたんだ。僕としては特に意味なく使っていたんだけど、もしかしたら彼にとっては何か意味があるのかもしれない。仲が悪く見えたのは、その時のやりとりが原因かな。そこは察してほしいな。」

「…………色々聞いて悪かったな。最近有次の様子が少し変で、もしかしたら何か知っているかなって思って聞いたんだけど。」

 翔が新夜を怪しく思っていたのは、どうやら空振りみたいだ。

 (やっぱり、本人に聞く必要があるか。)

 ただ、全くの無駄骨ではなかった。ある程度二人の関係性はわかったし、有次のことだから、意固地になってネット上で口論になったのかもしれない。そこまで嫌悪感を示すかは疑問だが、それは新夜に聞くことではないだろう。

「彼のことが心配かい?」

「ああ。」

 翔は即答した。

「そう言える人がいるのは、とても幸せなことだね。ところで、彼とはいつからの付き合いなのかな?」

「そうだな……友達になったのは高校一年の時だ。同じクラスだったんだ。でも実は、それよりも前から俺は有次のことを知っていたんだ。」

 向かいに座る新夜は、柔らかな表情でこちらを見つめている。話を促し、聞き手になる準備ができているみたいだった。

 さっきは自分が質問攻めしてしまったし、成り行きから、翔は自分の過去について語ることにした。

「新夜は、有次に弟がいることは知っているか?」

「もちろん。」

「……そう、みんな知っていることさ。父親が有名な企業の社長さんだってこともあって、朝陽ではちょっとした有名人だった。」

 一口、アイスコーヒーを飲んで喉を潤す。

「俺が中学生のときだ。毎日夕方まで学校で部活に励んでいた。汗まみれの泥まみれで、シューズやら練習着やら沢山の荷物を担いで、いつもの通学路で帰宅していた。途中のコンビニで買い物をするのが習慣で、春や秋は甘いもの、夏はアイス、冬は温かいものを一個買っては、コンビニの近くで食べていた。ある日、向かいの道の歩道橋を歩く、二人の少年を見つけた。一人は自分と同い年ぐらいで、もう一人はまだ小学生だった。不思議と目で追った。二人は手を繋いで楽しそうに会話していた。家に帰った後、あれは噂の兄弟なのではないかと思うようになった。それからほとんど毎日、二人は同じ時間に同じ道を通った。俺の習慣に、その兄弟を見つける事が加わった。深い意味はなかった。たまたま俺の部活が終わる時間と重なっていただけかもしれない。向こうは、俺がこの習慣を始める前からずっとこの道を通っていたのかもしれない。でも、全く赤の他人が、こう何度も同じシチュエーションで会うと、つい親近感が沸いてしまったんだと思う。と言っても、向こうは俺のことを認知していないがな。こう言葉にしてみると、少し気持ち悪い感じがするが、俺が二人をつい目で追ってしまうのには、理由があった。二人は、いつも幸せそうだった。今どきみんな兄弟じゃないから、兄弟だからいいな、とかそういう嫉妬はなくて、兄弟ってどんな感じだろう、という好奇心の方が強かった。来る日も来る日も二人の楽しそうな姿を見ると、一層兄弟について興味が高まっていった。そんなある日、珍しく二人手を繋いで歩いてなかった。弟は眠ってしまっていて、兄がそれをおぶっていたんだ。そいつは、背中の弟が起きないように、ゆっくりと何度も背負い直していた。スヤスヤと眠る弟を見て、そいつは微笑んだ。それを見て、……何だろう、上手く言葉に出来ないけど、素晴らしいと思った。二人には、俺が持っていない優しさや思いやりがあって、いつも幸せそうな姿を見ていると、…………どこか…………兄弟が、尊い存在のように思ったんだ。」

 そう口にした時、屋上で有次にかけられた言葉を思い出した。

「俺の両親は、出張でいないことが多いんだ。別に寂しかった訳じゃない。友達は沢山いたけど、あの二人からはそれらでは手に入らない何かを持っている気がした。周囲の人に聞いたところ、あいつと俺が同い年だと知った。俺は、あいつと友達になりたいと思った。あんな優しい奴が友達だといいなと思った。そしてこの学校に入学すると、あいつが同じクラスにいたんだ。運命なんてものがあるのなら、俺はその時、運命を感じた。真っ先に声をかけて、そこから今の関係になったって感じだ。」

 カラン、と翔のコップの中の氷が溶けた。その音で、翔は回想から現実に戻ってきた。

「わりぃ、俺ばっかベラベラ喋っちまったな。」

「いいんだ。それに、僕も彼のことを知りたかったから、とても面白い内容だったよ。」

 思いのほか長く話してしまい、喉が渇いた。

 残ったアイスコーヒーを一気に飲み干す。

 新夜に移すと、目を閉じてカフェラテを楽しんでいた。

 有次と新夜の間に何があったかは知らないが、新夜は良い奴だと思った。女子人気が絶大なのも頷ける。

 新夜も残りを飲み干し、静かにカップをテーブルに置いた。

「昨日も言ったけどーー」 

「用事があるんだろ? 時間は大丈夫か?」

 午前中から集まったのは、新夜にはこの後用事があるからだ。事前に連絡は受け取っていたが、時間までは聞いていなかった。

「それが、十三時までは空いているんだ。よければ、朝陽を紹介してくれるかな。」

「いいね。任せとけ。」

 そうと決まれば、あとは動くのみ。

 二人は立ち上がってカフェを後にした。


                    *


 商業区のあちこちを回って、翔は久しぶりに羽を広げることができた。

 新夜は、冷静であるが冷徹ではなく、自己より他者を重んじ、だからといってノリが悪いわけじゃなく。どこか有次を彷彿とさせる性格だった。

 正午になってから、朝陽で有名なラーメン屋でご飯を食べ、四十分ごろに二人は別れた。

「じゃあな~。」

「うん。また来週、学校で。」

 翔の姿が人混みに埋もれて見えなくなるまで、新夜は手を小さく振り続けた。

 完全に見えなくなると、ゆっくりと手を下ろした。

「君のお友達はいい人だね。」

 そう呟いた。

 独り言ではない。

 自分の背後でじっと自分を見ている人物に向かって言ったのだ。

 多くの人が行き交う道の中、流れに逆らうように立ち止まっている影が二つ。

 新夜と、その後ろ数メートルに立つ、久遠有次。

 新夜が振り返ると、有次は今までかぶっていたフードを外す。

「こんな日もご苦労様。朝登校する時から自宅に下校した後まで。一日中僕を見張っているけど、ちゃんと寝ているのかい?」

「…………お前、翔に何かしたのか。」

 今にも人を殺しそうな眼光で睨みつけるが、対照的に新夜はいつも通りの平静さを保っている。

「何かって、僕が誰かに危害を加えたこと、あったかな?」

 有次は、新夜が何かしでかすのではないかと疑って、この一週間ずっと見張り続けていた。この何か、というのは、直接的な暴力のほかにも、策謀や洗脳など、様々な想定が含まれている。しかし実際のところ、新夜が不審な行動を見せたことは、今までなかった。

 それでも、有次がここに姿を現したのには、理由がある。

「明日の二十四時。朝陽第四自然公園に来い。」

 これは密会の約束ではない。

 有次はこう言いたいのだ。

 殺し合おう、と。

 つまり、決闘だ。

 新夜は鼻で小さくため息をついた。

「自ら賽を投げるか。」

 珍しく、冷徹な表情をした。

 有次にとって、今までは後手に回るしかない状況だった。例えるなら、犯罪が起こった後にしか動けない警察だ。

 監視するだけで手を出さなかったのは、新夜の実力をしっかりと把握していなかったからだ。

 新夜がそもそも危険人物なのかもわからず、いつ本性を見せるのかもわからず、かといってこちらから仕掛けるには情報が足りず。その曖昧な状態は、クルクルと空中で回る、表も裏も決まっていないコインと同じだ。

 シュレーディンガーの猫、という思考実験がある。簡単に例えると、箱の中に生きた猫と、五十パーセントの確率で毒を充満させる装置を入れる。一時間後、箱の中の猫は生きているのか、それとも死んでいるのか。この問いに対する答えは、当然箱を開けるとわかる。しかし逆を言えば、箱を開けるまで猫の生死は判断できず、箱を開ける前の猫は、生きているかもしれないし死んでいるかもしれない状態なのだ。

 有次の新夜に対する、白とも黒とも言えないこの状況をはっきりさせる方法は一つだけある。

 自ら箱を開けて、中身を確認するしかない。

「君の心理は理解できるが、決断と実行については理解できないな。…………もしかして、僕が彼と接触したのがまずかったのかな?」

「…………。」

 (こいつ…………)

 初めて会った時もそうだ。草薙・ラーンウォルフ・新夜という男は、細かな機微、言動、状況の流れから、正確な情報を予測する術に長けている。それだけ、頭の回転も速く、そして柔軟だということだ。

 有次からわざわざ賽を投げたのは、新夜が翔に接触したことで、いよいよ取り返しのつかない事態になりかねないからだ。

 一週間も同じクラスに通えば、有次と親しくしているクラスメイトなどすぐに看破できる。身近な人から狙うのは常套。やられてからでは遅いのだ。

「うん。まあいいよ。僕は構わない。約束は守るさ。」

 対峙する二人をよけて、大勢の人が通り過ぎる。歩く人たちの目に、二人は留まらない。通り過ぎた一秒後には記憶から消えている。

 まるで、二人だけが世界の流れに取り残されたみたいだった。



 やがて人知れず、二人の姿はどこかへ消えた。


                    9


 日曜日の朝。

 自分以外、誰もいない、家。

 おはよう、と声をかけると、一日の始まりを感じられる。

 おはよう、と言い返してくれると、世界で動き始めたのが自分だけじゃないと実感できる。

 おはよう、と言わないと、世界が止まっているようで、少し寂しくなる。

 慣れることはない。それはきっと幸せなことで、残酷なことだ。

 大切だと思えば思うほど、失ったときの悲しみは大きくなるから。


 

 お腹は、あんまりいてない。朝食はいいや。

 食器は昨日のうちに洗っておいたし、掃除機も昨日の夕方にかけた。洗濯物も大丈夫。

 冷蔵庫を開ける。おとといの買い溜めが十分だ。お父さんは今日も帰ってこないから、買い物はしなくていい。

 スマホを開いて、通話ボタンを押す。

 名簿の一番上、『兄さん』を押して、電話マークを押す、前に指を止める。

 兄さんがいつ帰ってくるのか聞いてない。チャットの返信はいつまでも来ない。

 翔さんに連絡しようか。でも、もしかしたら忙しいのかもしれない。連絡したら迷惑になるかも。

 兄さんはまだ寝てるかな。そうしたら、電話の呼び出し音で起きちゃうかもしれない。

 スマホの電源を落とす。



 久遠幸一、十四歳。

 久遠勝武の義理の息子であり、久遠有次は義理の兄だ。

 物心ついたときからこの家におり、正確にいつから久遠家の一員になったのかは記憶にない。

 幸一は、幼いながらに周囲の反応と世間の常識から自分の状況を理解しており、小学生になるまえから、自分が養子であると自覚していた。

 家族は分け隔てなく自分に接してくれる。特段無理に気を使ったり、他人のようなよそよそしさは全く感じられなかった。

 大変ありがたいことだが、それが帰って、幸一が常に一歩身を引く原因にもなっていた。

 年を重ねるごとに、この思想は強くなっていった。

 心配されたくなくて、気取られないように振舞った。

 基本的に自分から意見や願望を口にしない。口にするときはいつも、思っていたことを一つスケールダウンしたことを言った。

 迷惑をかけたくなくて、いつもいい子でいるように努めた。積極的に家の手伝いもした。

 不満などない。むしろ何不自由なくいさせてくれる。感謝しかない。

 この時代に兄弟を持つ、ということは、少なからず世間の批判を浴びることを意味する。どんな理由があれ、周囲とは差別化されてしまうから。

 どういう経緯で自分がこの家にやって来たのかは教えてくれなかった。父親は、そんなの関係なく俺たちは家族だと言っていたから、逆に詮索すると恩義を無駄にしているようだった。

 もしかしたら、自分自身に許可を求めているのかもしれない。ここにいていいんだよ、という許可を。

 最近は、それは間違っているのではないかとも考えるようになった。家族の好意を蔑ろにしていないだろうか。

 彼は、悩める思春期だ。自分の本音と建て前を再度確認する必要があると考えていた。

 一体どうすれば、彼らと本物の家族になれるだろうか。その答えを探している。



 休日だが、部活は休みだった。

 午前中は、学校の宿題を片づけたり、読書をしたり、ゲームで遊んだり、ぐるぐると色んなことをして時間をつぶしたが、たったの数時間しか経っていなかった。

 リビングで大の字になり、天井をぼんやり眺めていると、自然と瞼が落ちてきて、そのまま睡魔に身を任せた。


――――――

――――――


 ゆっくりと意識が覚醒する。

 ハッと目覚めると、午後の五時になっていた。

 むき出しの床でこんなにも長時間寝ていたということは、もしかしたらかなり疲れていたのかもしれない。

 夕飯の準備をしようと、重たい体を起こす。

 ピンポーン。

 誰もいない家に、無機質な呼び出し音がこだまする。

 (こんな時間に誰だろう?)

「おーい、幸一。いるかー?」

 慌ててインターフォンに向かおうとしたところ、先に翔の声が聞こえた。

 来訪者は、翔だった。

 インターフォン越しに返答するよりも先に、玄関に向かって行き、扉を開けた。

「翔さん。どうしたんですか、こんな時間に。」

 手ぶらで私服姿の翔が立っていた。

「今暇か?」

「ええ、まあ特にこれといったことはないですけど……」

「ちょっと話したいことがあるんだ。いいか?」

「………わかりました。とりあえず上がってください。」

 玄関の扉を大きく開けて、翔を中に通す。

 いつもの陽気な雰囲気はなく、珍しく思い詰めた様子だった。

 ふと、数日前の翔との会話を思い出す。

 あの時の様子はいつも通りだったけど、今思えばわざわざ自分のところに来て兄のことを聞いてたのは違和感が残る。

 もしかしたら、そのことと関係があるのかもしれない。

 翔がこの家にやって来たのは、初めてではない。一昨年おととしの高校一年のときは、割と足しげく通っていたほどだ。しばらく来ていなかったけれど、家の内部構造はしっかりと覚えていた。幸一の案内がなくともリビングの場所はわかった。

「今日は一人か?」

「はい。お父さんは連日研究に忙しいみたいで、ここ最近はあまり家には帰ってこないんです。」

 辺りを見渡すと、生活感がまるでなかった。しばらく一人でいたことが見て取れる。

「幸一。今日は大事な話があって来たんだ。」

「……大事?」

「ああ、そうだ。」

 翔はダイニングテーブルの椅子に座る。

 幸一は冷蔵庫からお茶の入ったピッチャーを取り出し、用意した二つのコップによそった。片方を翔の近くに置くと、ありがとうと言って一口飲んだ。

「大事な話っていうのは有次のことなんだが…………その前に一つ確認がある。」

「何でしょう。」

「有次はこの間の月曜十三日から、家には帰ってないんだよな?」

「はい。月曜日の昼くらいに兄さんから連絡があって、しばらく用事で翔さんの家に泊まることになったって。」

「それは嘘だ。」

「嘘?」

「あいつは一度も俺の家に来ていない。」

 どうして有次がそんな嘘を言ったのか、理由がまるで幸一にはわからなかった。

「ホントのことを言うとな、俺も全然事情を把握してないんだ。でも、これはきっちりお前と共有すべきだと判断して、今日ここに来たんだ。今まで隠しててごめんな。」

 幸一の翔に対する印象は、とにかく明るい、だった。

 幸一は、翔が悲しんでいたり落ち込んでいたりしているところを見たことがない。一緒にサッカーをしていた時に、翔が派手に転んで怪我をしたことがあった。


『翔さん!? 大丈夫ですか!?』

『イテテテ。躓いちまった。』

『あ、足、足! 血でてます!』

『ん?……あ、ホントだ。まあそんな慌てんなよ。俺は大丈夫だ!』

 そう言って笑う顔は、今でも印象的だった。

 その笑顔は、見ているこちらも笑顔にしてしまうような眩しさがあった。

 目の前の翔からは、普段見られない思い詰めた気持ちと、まるで自分を責めているような気持ちが入り混じっている様に、幸一は感じた。

「有次についてわかってることは一つ。学校には顔を出すが、どこで寝泊まりしてるのかわかんないってことだ。」

「じゃあ兄さんは、先週の月曜日からずっと別の場所にいるってことですか?」

「そうなるな。」

 翔は丁寧に椅子を下げて立ち上がると、

「有次の部屋に行くぞ。」

 そう言ってリビングを出ようとした。

 幸一も翔の後ろをついて行く。

 ギシッ、ギシッ、と階段の軋む音がやたら脳に響く。

 階段を上りながら、翔は有次や幸一との楽しい日々を思い出す。 

 (学校帰りによくこの家に来て遊んだな。)

 主に室内で遊ぶことが多かった。それは、有次が運動をあまりしないからだ。

 トランプやゲーム、映画鑑賞、一緒に料理を作ったりしたこともあった。俺は自炊するのが珍しくなかったから、料理はある程度できるが、有次や幸一までできるのは驚きだった。幸一に聞けば、全部有次に教わったってことらしい。それに、あの兄弟の作るメシはどれもウマかった。

 去年は、親の出張の関係で、一年間海外で過ごした。一人帰ってきて、そこから家に来たのは今日が初めて。どうせなら、三人で楽しい時間を過ごしたかった。

 (階段を上りきって、正面は親父さんの部屋。隣が幸一、そして一番奥が……)

 階段から最も遠い部屋が、有次の部屋だった。

 中に入ると、以前ここに来た時と内装は変わっていなかった。右の小窓側にベッド、窓がない左側に勉強机が置かれている。その隣には机よりか少し高いぐらいの棚がびっしり置かれていて、そのほとんどが小説で埋め尽くされている。教科書など、数える程度だ。

 翔には変哲のない部屋に見えたが、どうやら有次の部屋に入るのは幸一も珍しいらしく、クローゼットを開けて服を物色し始めた。

 幸一の手が止まったのは、ワイシャツや体操服など、主に学校関係の服を収納している引き出しだった。

「兄さんは、ちょっと変わった畳み方をするんです。なので、服を見れば、誰が畳んだかわかるんです。」

「それでどうだった?」

「…………。」

 翔の想像通りだった。

「有次は、毎日シワのない綺麗なワイシャツを着ていた。家族が誰もいない時間帯にひっそり帰ってきて服を持っていった可能性もあったが……ハズレだな。」

 大窓と小窓を開け放つ。新鮮な風が部屋になだれ込み、カーテンが大きくたなびく。

「毎日銭湯に通い、服はコインランドリーで洗濯、乾燥する。私服を一着買えばできなくはない。じゃあどこで寝てる? ホテルか? 買った服はどこに置いた? コインロッカーか? 毎日そんな生活していて、お金は足りるのか?」

 幸一は机に近づき、備え付けの引き出しの一番上を開けた。

「お父さんは家にいないことが多いので、万が一に備えて、口座のカードを兄さんに預けているんです。そのカードは、ここにあります。」

 ただの高校生が突然消えたとして、果たして大金を持っているだろうか。

 洗濯、食事、睡眠全てにお金を使う生活が、一週間も続くだろうか。

「ただ、問題はそこじゃない。今のあいつは、完全に人との関わりを拒んでるってことだ。まるで、一年前のように…………。」

 翔はベッドに腰かけた。両手をついて、天井を見上げる。

「去年、俺は両親に連れ添って海外に行ったが、こっちが丁度夏休みのときに、一度帰ってきた。」

「覚えてますよ。一緒に長野の山奥に遊びに行きましたね。」

 幸一は、ローラー式の椅子に座った。背もたれが大きく見える。

「あの時、有次から聞いたんだ。有次は、二年生に上がって間もなく、不登校になったって。……そのことは、幸一の方がよく知ってるはずだ。」

「…………はい。」

「有次は、まあ見ての通り、あんまり感情を出さないし、図書室の端っこでひっそり本を読んでるのが似合いそうな奴さ。でもな、不思議と誰かとの関わりを拒んだりしなかった。一人でも、孤独じゃなかった。そんな有次が、他人との関わりを拒んだのは――」

「去年と、今……。」

 翔は立ち上がって、喉が渇いたから下に戻ろう、と言った。

 幸一も立ち上がり、二人はリビングに戻った。

「有次から直接聞いたあの時、あいつの様子は俺の知ってるいつもの有次だった。だから俺は、そんなに深く追求しなかった。なんで、あいつが助けを求めてるって思わなかったんだろうな。誰だって、秘密の一つや二つ抱えている。その全てを公開するのは、むしろ不可能だ。有次がかつてこう言っていた。家族も友人も恋人も結局は他人だ、って。でも、こうも言ってた。そんな他人に繋がりを求めるのが人間なんだ、って。そう言った奴が、他人との繋がりを断ち切ったんだ。きっと何か大きなものを抱えているのかもしれない。きっと、たくさん苦しんでいるに違いない。…………そんなことにも気付けないなんて、何が友達だ、バカヤロー。」

 皮肉たっぷりに、そう小さく呟いた。

「……僕も同じです。僕は、心のどこかで、兄さんは何でもできるって思ってました。そんな兄さんを尊敬していて、兄さんみたいになりたくて、いつも兄さんを見上げていました。…………でも、だから、兄さんが苦しんでいるときに、何も出来なかった。」

 同時にこうも思った。まだ自分の心のどこかに、家族に対する遠慮があったのかもしれない。それで本当に、家族と言えるのだろうか。もしかしたら自分の行動が、理想から遠ざかる最大の原因なのかもしれないと、幸一は考えた。 

 翔は、有次に謝りたかった。そして、今度こそ友達で在りたいと思った。

 幸一は、有次の力になりたかった。そして、本当の意味で家族になりたいと思った。

 二人の気持ちは同じだ。有次を大切に思う気持ちは。

「俺は明日、有次ともう一度話し合おうと思う。この間は、俺の伝えたいことを何にも言えてなくてな。中途半端は性分に合わん。」

「言葉にしないと、伝わりませんですから。」

 お互い、自嘲混じりの笑みを零した。自分たちの感情を明かしたことで、少しは前に進めたような気がした。

「有次の言う通り、俺たちは他人だ。だからこそ、口にしないと相手には伝わらない。大丈夫。明日にはあいつをしょっぴいてこの家に連れてくるさ。」

 翔は得意げにコップを高く掲げた。

 幸一は笑った。何故なら、

「はい。その方が、翔さんらしいです。」

 妙に納得した翔も、一緒になって笑った。


                     *


「もしもし。篝翔です。ご無沙汰しております。」

「やあやあ、久しぶりだね、翔くん。元気にしてたかい?」

「もちろんです。」

「それで、突然どうしたんだい?」

「実は、今日お家にお邪魔させてもらってるんですけど、遅くまでお世話になるかもしれないので、連絡させてもらいました。」

「はっはっは。相変わらず律儀で偉いね。確かご両親はまだ海外だったかな?」

「はい。年内中は帰ってこないみたいです。」

「そうか。好きにくつろいで行きなさい。今日も私は帰りそうになくてね。またいつか顔を出してくれるかな?」

「もちろんです。忙しい中ありがとうございます。」

「いいんだ。子供は大人に迷惑をかけるものさ。」

「では、お言葉に甘えさせてもらいます。」

 そう言って電話を切り、リビングに戻った。


 


 数分前。

「なあ幸一。今日もお父さんは帰ってこないのか?」

「ええ。そのように聞いてますけど……」

「よし、じゃあ……」

 そう残して、突然翔はリビングを出て、そのまま玄関から外の飛び出していった。

 しばらくして、再びリビングに戻ってきた。

「?」

 突飛な行動に、疑問しか湧かない。質問しようかと思っていると、

「腹減ったな。」

「そうですね。もう六時ぐらいですし……」

「幸一の麻婆豆腐が食べたいなー。」

「…………どうしたんですか、急に。」

 話のスピードに全く追いつけない。

「いやいや、お世辞抜きでな、幸一の作る麻婆豆腐は世界一だと思うんだよ。」

「それは、どうもですけど、今食材足りないですよ。」

「じゃあ買いに行こう。何が足りない? いや、一緒に買いに行こう。」

 バッと立ち上がって、バッと連れていかれた。

 考えたらすぐに行動する。誰かを巻き込んで何かをする。後先考えない。無茶を押し通す。

 いつもの、篝翔だ。

 幸一は、懐かしい思いに少し浸った。

 前を歩く姿に、励まされた。

 うじうじしてたって何も始まんない、そう言われているみたいだった。

 (それにしても、いつも急なんだよね。翔さんは。)

 内心、そう愚痴をこぼさずにはいられないのも、今に始まったことではなかった。



 買い物をして、一緒に料理して、食べ終わったらゲームをして、おしゃべりして。

 そうして、いつの間にか夜の十一時を回っていた。

「もうこんな時間か。」

「そうですね。」

 机に散乱したお菓子を適当につまんでいたが、隣の幸一が小さくあくびをしたことで、

 (そろそろ帰るか。)

 思えば随分長居していた。

 明日は二人とも学校だ。サボり癖のある翔は特に何とも思わないが、対照的に幸一は優等生。先輩とつるんで寝不足とあっては、褒められたものではない。

「片付けはいいですよ。僕がやるので。」

 察した気遣いだった。

 散々散らかした張本人が放置したまま帰るのは気乗りしないが、残って手伝えば余計に時間を食うだけだ。

「わかった。ありがとな。」

 手ぶらでやって来たため、そのまま玄関まで向かう。

 ついてこようとした幸一を、片手で制止した。

「見送りは大丈夫だ。今日は長居して悪かったな。」

「こちらこそ、楽しかったです。」

 幸一は知っている。

 翔が一緒に遊んでくれたのは、自分を励ますためだということを。

 恐らく、玄関を開けた時の自分が酷く疲れた顔だったのを、翔は気付いていたのだ。それに加えて、有次について暗い話を聞いた。空元気なのは見透かされていた。

「今度は三人で集まろうな。」

 そう笑う翔の内心は別の感情でいっぱいなのも、知っている。 

「約束です。」

 だから笑う。

 だから、翔は安心した。

 バイバイ、と手を振って、リビングを出た。

 整えたはずの靴は、いつの間にかより丁寧に揃えられて端に置かれていた。

 玄関を出ると、外は美しい星景色だった。

 ほのかに冷たい夜風に、頭の思考が覚めていく。

 目を閉じ、一度大きく深呼吸をした。

 (少し歩くか。)

 意味もなくぶらぶらと一人で歩きたい気持ちだった。

 特に、こんなにも綺麗な、雲一つない満月の日には。

 (有次も、どっかで見てるのかな。)

 ポッケに手を入れて、自宅とは反対の方向へ歩き始めた。


                    10


「今日は綺麗な満月だ。」

 そう呟いたのは、白髪の青年。月夜に照らされ、その髪は一層艶やかさを増す。夜の暗さと相まって、白というよりは銀色に近かった。

 彼の名は、草薙・ラーンウォルフ・新夜。日本人の母とアメリカ人の父とのハーフだ。母は死産で既に他界している。父は、世界的な企業の社長で、電脳技術の第一人者。

 今回は、彼の仕事に連れ添う形で朝陽にやってきた。

 幼い頃から頭脳がずば抜けて優れており、中学生ながら既にいくつもの大学を卒業していることから、今は天才高校生として名を馳せている。父が有名人ということもあるが、整った顔立ちに純白の美しい髪、聖人君子のような性格、同情を誘う母亡き幼少期、などあらゆる付加価値が積もり、人気は高く、世界的にファンがいるとか。

 そんな彼が、真夜中の公園に、それも日曜の深夜に一人で来たのは、ある人物と待ち合わせをしていたからだ。と言っても、会って楽しいお話しをするわけではない。あるのは、。そういうものだろう。なのに、この男からは、緊張感というものがまるで感じられなかった。近所のコンビニに行くような軽い足取りだった。

 朝陽第四自然公園の敷地内には、ほとんど電灯の類は設置されていない。これは夜遅くまで遊ばないようにするための市の方針によるものだった。しかし、今夜はまん丸の月が闇夜を遠くまで照らし、遮蔽物の少ない公園内はむしろ他より明るかった。

 (さて、公園に来いと言われたが、まさかここまで大きいとは。)

 初めは、入り口から敷地に沿って右回りにぐるっと一周してみることにした。

 呑気に散歩を始める。


 歩いて十分ぐらい。

 前に遊具などが一切置かれていない、誰も立ち入らなさそうな森林地帯だった。

 足を踏みれた。

 瞬間、『感じた』。

 (ここか。)

 一周歩けば数時間以上もかかるほど大きな公園の中から、歩いて一人を見つけるのに十分しかかからなかったのは何かの運命だろうか。

 木々は空に向かって大きく伸びている。日光を争った結果だろう。他より高く伸びればより日光を浴びることができ、逆に埋もれてしまうと、陽の光を十分に浴びることが出来なくなる。このような競合により、木々は空と地上を分わかつように覆い茂っている。地上から見たら、さながらドームの中にいるようだ。

 今夜は風が吹いていた。木の葉を揺らし、その隙間から木漏れ日のように月光が垣間見える。

 新夜はさらに奥地へと足を進める。

 (朝の様子からすると、『ヴァイス』の感知や操作には慣れていないな。とういことは、fakerにまだ間もないのか?)

 空を見上げる。そして長いため息をついた。

 (やはり、か。)



 有次は木の上で息を殺している。

 あいつのヴァイスを感じる。果てしない深淵を覗いているような感覚だ。改めて敵の脅威を認める。

 (全く自分のヴァイスを隠していない!? 自分の位置は教えてやるってことか?)

 完全に下に見られている。

 しかしそれが逆に好都合だった。

 弱者が絶対的な強者に勝つ方法の一つが、油断を誘うことだ。強者が警戒心を緩めず、徹底的に攻めてきたら勝つ術など皆無だからだ。

 敵の大きな牙をへし折る瞬間を、手に汗をにぎりながら待ち望む。



 ふと足を止める。

 目を閉じて、神経を研ぎ澄ます。

 サァ――ッと風が吹き抜ける。

「……」

 ゆっくりと目を開く。口元は怪しく曲線を描いていた。

 (右前方、八十から九十メートルといったところか。)

 敵を捕捉した。

「隠れてないで、出てきたらどうだい。」

 あえてわかるように声を張り上げる。

 こちらは隠れる必要が全くないため、感知に慣れていない相手への自己主張だった。余裕、と見てもいいだろう。

 (しょうがない。)

 新夜は、先程目星をつけた地点へ向かう。

 一歩一歩、ゆっくりと。ゆっくりと。獲物へ迫っていく。

 五メートル、……十メートル、……十五メートル。

 …………………………………………………………………………――

 サクッ、サクッ、サクッ。土を踏む音がやけに響く。風は止み、重たい空気が澱む。

 …………………………………………………………………………―――― 

 五十メートルほど歩いたところで、事態は動く。

 


 相手が高速で動いた。

 しかし、こっちには向かって来なかった。

 

 垂直に上へ飛んだ。



 (!!)

 この局面で逃げるのか。

 いや、それはありえない。

 誘いか?

 (乗らない手はない。)

 絶対的な強者の思考故、弱者の誘いは断らない。

 ダンッ、と強く踏み込み、新夜も跳躍する。凄まじい力がかかり、さっきまで立っていた地面は、まるで埋められていた地雷が爆発したようにめくれあがっていた。

 彼の跳躍は、もう人の域を超えていた。一飛びで十数メートル近くまで伸びた木々を容易に越す。

 目標が森林の天井を突き抜けた。 

 上昇中、新夜の右手には『光り輝く粒子』のようなものが集まり、やがて剣を形創る。細い棒を直交させて十字架を作ったかのようなデザインだった。

 『光り輝く粒子』のようなものの正体は、可視化されるほど凝縮された『ヴァイス』。星が作り出した原初のエネルギー。すべての源。

 バキバキバキ、と木の枝をへし折りながら、今、覆われたドームの天井を突き破る。


 ブワァッ、と視界が一気に開ける。

 たとえ相手が見えていなくても、ヴァイスを感知しているため居場所はわかる。そのため突き抜けた瞬間、生成した剣をギュッと握り、目標に斬りかかる。


 と、そこで初めて相手を見た。

 (!?) 

 そこにいたのは、そこにのは、

 直径二十センチ程の『光り輝く粒子ヴァイス』の塊――――。




 はるか後方、ある地点。

 木の上で期を見計らっていた有次が、カッと目を見開き、敵の方を鋭く睨む。

 前方で、なにかが爆発したかのような衝撃音が聞こえた。それは新夜が跳躍した音だった。そのことに有次が気づいたのは、新夜の位置をからだ。

 新夜が上空へ舞い上がった直後、足にヴァイスを集中させ、それを半ば爆発させる形で大きな推進力を得る。

 ボッッッ!!!!!!!!

 それまでのっていた太い木の枝が粉々になり、爆風が周りの木々をなぎ倒す。

 常人の目では追いきれない速度で木々を突き抜ける。空気が震える。

 止まることなど考えていない。一直線に敵へ向かっていく。

 木々で覆われた天井を突き抜けた瞬間、日本刀に似た形の刀剣を創り出し両手で強く握りしめる。

「ッッッ!!!!」

 新夜の死角、真後ろから有次は迫っていた。まだ気づいていないのか、相手はなんの反応も見せない。



 決着は一瞬だった。



 狙うは背中。

 最も面積が広く、多少相手が動いたとしても確実に突き刺せる。心臓をひと刺しで仕留められたらそれで良し。例えこの一撃で仕留めきれなくても、実力差を埋めるほどの致命傷を与えられればまだ勝機がある、と考えた有次の最善で最高の攻撃であった。

 刀を前へ突き出す。



 グサッ!!!


 


 刀が新夜を貫通し――


 


 


「惜しい。」



「なっ!?」

 感触はほとんどなかった。

 刀は服の端を突き刺しただけで、新夜には当たっていなかった。

 (あのタイミングで避けたの!?)

 刀が突き刺さる直前まで、確かに新夜は何もアクションを起こしていない。後ろから迫る有次の方を振り返ろうとすることもなく、体をねじったりヴァイスで剣や盾を創るなり、攻撃をかわすこともなかった。

 一瞬の隙が命取りになった。

 ガッ、と腕を掴まれた。

 新夜はその状態で回転し、有次を地上目指して思いっきり投げ捨てる。突進攻撃の推進力を逆に利用する。遠心力と重力も働き、目にも留まらぬ速さで落下する。

 ドォォォオオオン!!!!!

 有次は地面に対してほぼ垂直で衝突した。鋭角に地面に衝突すれば、バウンドして衝突回数が増えるが衝突の衝撃は小さくなり、また受け身がとりやすい。その点垂直に衝突すれば、落下の衝撃がそのまま有次を襲う。動揺していたこともあり、受け身はとれなかった。

「ぐはっ!!」

 血混じりの空気を吐き出す。幸いにも血が喉に詰まる事はなかった。

 ダメージが想像以上に大きかったが、内臓の損傷を確認している暇はない。敵の攻撃に備えなければならない。相手がこんな美味しいチャンスを逃すとは思えないからだ。しかし体がいうことを聞いてくれなかった――。


 一方、

 新夜は有次を投げた後、それを追う形で降下を始める。手のひらを空へ向け、集めたヴァイスを空気中で爆発させて初速を作り出す。

 真下では、有次が地面に仰向けで倒れていた。あまりのダメージに動けない様子だった。

 そこへ容赦のない飛び蹴りをくり出す。

 ぐんぐんと加速していく。先程とは関係が逆になっていた。今度は新夜が敵を捉える。もう一秒にも満たない内に新夜の足は有次の腹部へ鋭く突き刺さり、上半身と下半身は永遠の別れを迎えることだろう。


 一瞬、攻撃が当たるその刹那、

 有次の右瞼が、勢いよく開かれた。

 瞳が、に輝いた。

 同時に、軽く口が動いた。



「リジェクト。」



 ドンッ!!!

 鈍くくぐもった音が響いた。まるで分厚いガラスを叩いたような音だった。

 衝撃で舞い上がった砂埃が流れると、有次の腹部の上部三十センチほどのところに、霞みがかってうっすらとした灰色の『』のようなものがあった。いや、『』の方が近い表現だろうか。全身を覆うわけでなく、部分的に『壁』が展開されており、新夜の攻撃を直前で防いでいた。

 新夜はその『壁』の上に立ち、下では有次が仰向けで見上げている、という不思議な構図になった。

「なるほど、が君の『眼』の能力か。」

「くっ……。」

 新夜の顔には余裕が見えるが、有次は苦悶の表情を見せていた。

「実力を見誤っていたよ。劣勢の中でこの精神力や思考力、そして胆力。さす――」

 言い終わる前に有次は行動を起こす。

 『壁』を消すと同時に左手に刀を創り出し、円の軌道を描くように横なぎに振る。

 が、空を切る。

 『壁』の消失の直前に新夜は後ろへ大きく飛んだ。

「っと、人の話は最後まで聞こうか。」

「……。」

 のっそりと起き上がる。平静を装うが体は鉛のように重かった。

 依然として会話にはのらない。

「全く、愛想ないな。ま、しょうがないか。冷静なフリして本当は必死に考えてるんでしょ? 次の一手を。」

 図星だった。

「そもそも無駄だよ。さっきの一撃が当たる当たらないに関係なく、今の君には僕は殺せないよ。。」

「……っ!!」

 何も言い返せなかった。

 確かに有次は、最高の条件と最高のタイミングでの全力の一撃を軽々と避けられ、敵がどうやって躱したのかさえわからないでいる。その上、『眼』の能力も見せてしまった。一回でも見られたなら、能力について粗方看破されたと考えていいだろう。逆に相手の能力は謎のままだ。実力で劣っているのに、手札のアドバンテージもなくなった。

「そうだね、一つ試させてくれ。」

 そう言うと、新夜の右眼が突如輝いた。

 あまりにも唐突だったため、完全に反応出来なかった。

 固有能力が介在する勝負においては、能力をいかに有効活用し、いかに相手の能力を見破るかが重要になる。初手が慎重になり、探り合いの駆け引きが終わった、つまり均衡が崩れた時、一気に戦いは加速する。

 つまり、有次が手札を見せた今、相手もタイミングを見計らって能力を行使してくる可能性が高いのだ。それに、有次の能力が防御系だとわかったのなら、正面からの勝負ではなく、例えば意識外からの攻撃など、何らかの方法で防御を避ける手段を用いるはずだ。

 それを、有次は失念していた。先ほどの攻撃による消耗や、経験値不足も含まれるが、弱い立場だからこそより一層慎重になるべきだったのだ。

 新夜の能力にかかって分かったことは、




 その瞳が、彼の髪と同じ色に、

 周りの白目部分よりも白く透き通っていて、高明度の白銀のような美しい色に輝いたことだった。




 目が合った瞬間、眼球の神経を伝って強烈な刺激が脳を叩いた。

「~~~~~ッツ!!!」

 頭の中が通常ではありえないような熱を持ち、今にも爆発しそうだった。視界がチカチカと点滅し、意識が飛びそうになる。体が前に傾き倒れそうになるが、寸前のところで片足を前に突き出して踏ん張る。

「ハァ、ハァ、ハァ、――――」

 体中から脂汗が止まらなかった。

 (なにが、起こったんだ……?)

 ズキン、ズキン、と頭に鈍痛が残るが、なんとか上体を起こして新夜を見る。

 もう瞳は輝いていなかった。そしてさっきまでの薄気味悪い笑顔は消えて、神妙な面持ちでブツブツと何か呟いている。

「やはりこの『能力』は同等の存在には効かないのか。だが様子を見ると脳には作用している。魂へ作用するものなら効かないのも頷けるが……。器の形はその中身によって変化する……仮説は正しかった、ということなのか。」

「……か、せつ?」

「ただの興味本位の探求さ。我々は既に人間とは呼べない存在だが、じゃあどうしてそうなったのだろうか。fakerやcipherに覚醒したから? 残念ながらこれは理由の一部でしかない。覚醒してどうなったのかに踏み込む必要がある。初めはヴァイスの保有量に関係するのかと思っていたけど、それだったら僕たちは覚醒する前から人離れしたフィジカルや強度、治癒力を発揮するはず。だけどそうではなかった。これらは覚醒後に備わったものだ。では何が原因なのだろうか? そこで立てた仮説が、さ。進化、と言ってもいいかもしれない。」

「……。」

 今までの沈黙とは別で、新夜の言葉を受けてなにか考えているような沈黙だった。

 少しは興味を持っていただけたことを確認した新夜は話を続ける。

「ここで関係してくるのは、魂と肉体の関係性だ。肉体というのはただの入れ物、器に過ぎず、中に入った魂によって肉体は変化する。人間の肉体的特徴がそれぞれ異なるのはこういうわけで、逆に、肉体に何か大きな変化があったのならば、それは魂の変化によるものと言える。もちろん、肉体自体に成長と衰退の機能が備わっているため、必ずしも肉体の変化が魂の変化によるものではなく、というよりは、そもそも魂なんてものは基本的には変わることはない。例えるならば、魂は大きな木の幹で、そこから意識や精神という枝が伸びてるんだ。一本の枝葉が、違う方向に伸びたり枯れてしまったとしても、幹になんの影響はない。魂が変わる、ということは木ごと変わるということ。それじゃあビフォーとアフターで全く違うものなんだよ。人間の短い一生の中で、概念レベルで全てがまるごと変わることなんて、到底考えられないね。」

「……つまりお前はこう言いたいのか。俺たちの変化は魂が変化したからだ、と。」

「より正確に言うならば、変質なのかな。進化していることに変わりはないんだけどね。君がまるっきり別人にでもなったのなら、話は別だけど。」

「…………。」

「僕の神眼しんがんの能力は『支配ドミネイト』。文字通り対象の全てを支配することが出来る。さっき君に使ったことでやっとこの能力を完全に知れた。どうやら、効き目は対象者の魂の段階によって変わるようだ。人間程度の強度なら完全に支配できるが、魂が進化した者は肉体も進化するから、脳に作用するこの能力は通用しないらしい。君も僕と同じで『あそこ』に辿り着いたからね、実力に差があっても支配はできなかった。」

「……何故能力を明かした?」

 有次は一瞬驚いたが、すぐさま怒りの表情を見せた。手札のアドバンテージをこうもあっさり手放したのが、舐められていると感じたからだ。

 新夜は両手を上げてお手上げのポーズを取り、

「分かっての通り、僕の神眼しんがんは君に通用しないからだ。」

 と言ったが、裏でニタリと薄ら笑いを浮かべた。

「とんだはずれくじだな。」

「そうかな? 」

 秘め事を話す時につい小声で話してしまうかのように、かろうじて聞こえる声量で短くこう言った。


「用は使い方次第さ。」


                    11


 それは、まるで小規模の収容施設のようであった。大きなバスケットコートおよそ四個分の空間が広がっている。

 この空間の特徴は二つある。

 一つは、この空間の使われ方である。残念ながらこの空間は、避難用のシェルターでも何かの貯蓄庫でもない。中央に、一辺四メートル程の立方体があった。そしてそれしかなかった。天井も床も壁も全てが真っ白のこの空間には、それしか見当たらない。立方体は全面透明なガラスでできていて、中に一対の机と椅子が置かれているのが見てとれる。

 もう一つは、この空間がどこにあるのか、というものだ。



 無音でエレベーターの扉が開く。

 一面真っ白の空間に入ってきたのは、二人の男性。

 一人は恰幅が良く、高級なスーツを身にまとっている。身なりから育ちが窺える。

 もう一人は、すらっとした出で立ちに普通の黒スーツ。特にこれといった特徴がなく、影は薄そうだが穏やかな表情から暗い人間ではないとわかる。そして、常にその人の後ろを歩いていた。

「まったく、地下五百メートルというのはこんなにも遠かったかね。」

「『コネクトルーム』を使われるのはお久しぶりでございますから。無理もありません。」

 二人は中央の立方体、通称コネクトルームへと向かった。しかし、コネクトルームから少し離れたところで足を止めた。

「月影。」

「はい、主人様。」

 会話、というよりはお互いの確認作業のようだった。月影はその場に留まり、彼の主人は立方体へと入っていった。

 机には、片手で持てるほどの装置が一つ、それと机に埋め込まれる形でボタンがあった。この装置は、月影が何か緊急の用事がある時に鳴るようになっている。ボタンを押すと中が見えなくなった。光の透過率を操作して内からも外からも見えないようになっている。加えて、この特殊なガラスは防音の性能も備わっているため、月影からは声すらも聞こえなかった。

 外部からの光が届かないということは、内部は真っ暗なのだが、ガラスに埋め込まれた極薄のライトが部屋を明るくする。この立方体のガラスはとても分厚く、内側に面した部分の至る所にライトが埋め込まれていた。そしてもう一つ、ライトとは別のものがガラスに埋め込まれていた。椅子に座って正面を見ると、大きな液晶パネルが綺麗にはめ込まれていた。リモコンはなく、ライトがつくのと同時に自動で電源がオンになる仕組みだ。

 電源がつくと、画面を六等分するように境界線が映された。左上の一つは常に真っ暗だが、残りの五つには『No Image』と表示された。

 次第に『No Image』の表示が切り替わり、それぞれにある人物達が映し出される。

 全員が出揃ったことを確認して、

「本日は急な申し出に集まって頂き、感謝申し上げる。」

 始めに切り出したのは柏田かしわだ浩之ひろゆき。今回の招集をかけた張本人だ。

「挨拶は不要だ。本題に入りたまえ。」

 そう言ったのは、、クレイド。

「緊急ということは、まさか……」

「ええ、その通りです。ミラー氏。」

 、ミラーの言葉を受けて、柏田は表情を変えずにこう言った。

「cipherが現れました。」

 画面に映された人たちの表情が一斉に曇る。

「以前、柏田氏からfakerの出現が報告された時から想定していたことだが、こうも早く現れるとは。もう接触したのかね?」

 そう話すのは、、アシル。

「ええ、日本時間で今日、四月十九日の深夜零時にcipherと対峙するようです。」

 険しい顔をしたクレイドが、どこか鬼気迫るように、

「そのcipherが?」

「いえ、まだ分かっておりません。」

 すると、のフリッツが急にドンッ、と机を叩き声を荒げて、

「問題は勝てるかどうかだ!! どうなんだ、柏田氏!!」

「部下からの情報によると、勝てる確率は、……今のところ低いと。」

 しばらくの沈黙が続いた。

「……ということは、を使わざるおえないのか。」

 沈黙を破ったのは、ワン

 柏田の重たい口が開く。

「誠に遺憾でありますが、……。」

「……君はそれでいいのかね? 」

「はい。各国の皆様、よろしくお願いします。状況についてはわかり次第追って連絡します。」

 他の五人が了承の意を示したところで会合は終わった。

 画面の電源がオフになると次第にガラスの透過率が戻っていった。

 立って四角い部屋を後にする。月影が歩み寄ってきて飲み物を渡す。

「……ふぅ。fakerからの連絡はないのか。」

「はい。」

「監視をつけられないのが痛いな。肉眼での監視は確実にバレるのがオチだ。おそらく衛生映像ぐらいだろうがそうなると、リアルタイムの状況がいまいち分かりにくい。」

「結局、彼次第、ということですね。」

「……」

 柏田は何か考え込んで、従者にあることを言い渡す。

「月影、仕事だ。」

 その言葉を聞いた途端、月影の表情は切り替わる。その顔からはおよそ感情と呼べるものが感じられなかった。例えるならば、無だ。

 これが彼の仕事。これが彼の本業。これが彼の存在意義。

「今すぐ朝陽へ飛び、朝陽の状況を調べてこい。もしfakerが生きていたら接触をし、できるだけ情報を聞き出せ。」

「承知しました、主様。」



                   



「クレイド大統領、どちらへ行かれてたのですか?」

 廊下ですれ違った職員に尋ねられた。

「何、ちょっとした私用だ。」

「内務省長官が訪ねていらっしゃったので、応接間で待ってもらっています。」

「わかった。ありがとう。」

 そう言って、応接間ではなく、大統領室へと向かうクレイド。

 部屋の扉の鍵を閉め、カーテンも閉める。

 胸の内側のポケットからスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかける。

「……もしもし、私だ。」

「クレイド、何かあったのか?」

 大統領から電話がかかってきたというのに、相手方に動揺も緊張も見られなかった。大統領と電話の相手との間に、大きな上下関係がないことが分かる。

「ウィリアム、先程裏同盟に招集がかかり、緊急会議が行われた。議題はcipherの出現についてだ。どうやら新夜とが接触したらしい。何か聞いていないか。」

「まだ何も。」

「……そうか。しかし、焦る必要はない。『計画』は順調だ。それと、自由にさせるのもいいが、手綱は離すなよ。」

「そのための父親だからな。」

 そこで通話は終わった。

「『シンヤ計画』、か。」

 スマホを胸元にしまい、部屋を後にする。





 ウィリアム・ラーンウォルフはその時、ちょうど自宅へ着いたところだった。

 時刻は、あと数十分で二十四時になるところだ。

 玄関に息子の新夜の靴はなかった。名を呼んでみても応答はなかった。

 (もう行ってしまったか。)

 できれば万が一に備えて、接敵する前に相手の情報を聞いておきたかったが、行き先も分からないから、今の彼にはどうしようもなかった。

 彼は待つしかなかった。


                    12


 キィーン、キィーン、と甲高い衝突音が深夜の森に響き渡る。


「くっ!!」

 目にも留まらぬ速さで新夜が斬りかかってくる。かろうじてヴァイスで創り上げた刀で受け流すも、すかさず百八十度回転して迫り攻撃を繰り出してくる。

 (一撃一撃が、重い!!!)

 一つの攻撃を全力で抑えている状態だ。その攻撃が次から次へと息つく間もなく襲ってくる。そうなると当然、対処できない攻撃もでてくる。致命は避けているが長くは持たないだろう。

 新夜は剣を大きく振りかぶり、垂直に振り下ろす。対して有次は刀を地面と平行にし、先端の方に片手を添えて剣を受ける。ギィィィーンッと鈍い音とともに、有次の足元の地面がズドンと沈む。力と力がせめぎ合い火花が散る。しかし徐々に、徐々に均衡は傾いてゆく。

 新夜は不敵な笑みを浮かべて、

「ついてこれるかな?」

 まるでギアを上げるかのように力が増大していく。そして、ガードの上から無理やり剣を振り抜く。刀が押し切られ、有次の左側の胸から腹にかけて服が切れ、血しぶきが舞う。

 痛さのあまり叫びそうになったがぐっと堪えた。

 (浅い!!)

 しかし、ほんの一瞬の間すら彼の前では致命的であった。

 剣を振り抜いた勢いで回転し、体を寝かせながら跳躍する。ちょうど空中で地面に平行になり、剣を持ちながら高速回転して頭上から有次を襲う。反応が一瞬遅れ、刀で防御に出るが体に近すぎた。斬撃が左肩に届く。鮮やかな赤が宙を染める。

 新夜は着地後くるりと体を捻り、またもや剣を頭上に構える。

 (舐めるなっ!!!)

 今度はガードではなく、相手の攻撃を迎え撃つ。有次も身を翻し、刀を下から上へ勢いよく振り上げる。ここで回避を選択しなかったのは、fakerとしての意地か、劣等感から生じた虚勢か。

 それすらも見透かしているように、新夜は攻撃を変化させる。

 剣と刀が交わることはなかった。

 刀が途中でピタリと止まったのだ。

「!?」

 気づいた時にはもう遅く、腕を振り上げる勢いを止められなかった。

 無防備な胴に、正確にはみぞおちの辺りに新夜の足の裏が食い込んだ。

「ぐぅっ……!!」

 後方へ十数メートルほど吹っ飛び、木へ勢いよく衝突する。あまりの衝撃に視界がぼやけてはっきりしない。

 しかし、もう寸前まで新夜が迫っていた。彼は有次を蹴り飛ばした後、その速度を上回る速さで追撃した。木に衝突した直後を狙い、剣を突き刺す。

 

 剣先はあと一歩届かず、』に阻まれる。

「ハァァァ――――――――ッ!!!!」

 今度は、有次が攻勢に出た。

 有次はただひたすらに前へ、前へと詰めていった。

 攻撃の手を緩めない、それが有次の取った『防御』であったが、新夜は後ろに下がりながら刀を簡単にいなしていった。

 体を九十度だけ回転させ、最低限の動きで一振りをかわし、逆に間合いを詰めて有次の顔めがけて剣を振り抜こうとする。前のめりなっていた有次に避よけることは不可能に思えた。実際どう体をねじったところで直撃は免れなかっただろう。だが、有次はけようとはしなかった。

 むしろ、より姿勢を低くして敵に突進していった。

 頭上に冷やりとした『死』を感じたが、有次は臆さない。

「オォォォッ!!」

 キィン! と耳障りの悪い音が響いた。新夜の剣が灰色の壁に弾かれたのだ。

 有次は勢いを殺さず、一旦刀を消してから、そのまま相手に体当たりをした。人間の体は二本の足で支えられて立っている。それゆえに足が浮くと簡単に倒れてしまうのは自明の理だろう。有次は水平より上の角度で、レスリングのタックルのように相手の下半身を狙った。

「――。」

 新夜もこれには少し驚いた様子だ。パワーで勝っている新夜が倒されてしまった。

 有次はすぐさま馬乗りになった。ヴァイスで刃渡り三十センチほどの小刀を創り出し、両手で力を込めて握りしめ、新夜の顔に振り下ろす。防御されると思い全体重をかけたが、新夜は手の甲にヴァイスを集め、切先を軽く撫でて軌道を逸らす。新夜の顔の真隣に刀が深々と刺さり、有次は勢い余ってそのまま新夜の上に覆い被さった。

 二人の顔は、息がかかるほど近かった。

「………………………………」

「………………………………」

 緊張が走る。

 一見有次の方が上をとり有利に思えるが、事態はそう簡単ではない。もう一度攻撃するには、上半身を少なからずとも起こす必要がある。逆に新夜は位置的には不利だが、腕を回すだけで剣を突き刺せる。

 相手の瞳に自分の姿が映る。互いに目を逸らさないでいるのは、相手の出方を注意深く観察しているからだろう。少しでも動いた時が引き金となる。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。

 瞳が揺らいだ。

 先に動いたのは有次。

 体を小さく最小限起こし、もう一度小刀を創り出す。先程と同じように振り下ろそうとするが、当然それを許してくれるわけではない。

 有次が動いた瞬間に新夜も仕掛ける。右手に剣を創り、腹部に突き刺そうとする。

 その間、およそコンマ四秒。

 パリンッ、と剣が途中で砕けた。

 有次の瞳は、に染まっていた。

 (やはり……)

 小刀が振り下ろされる。

 新夜はすぐさま行動を切り替える。剣を創った逆の手を体の前にかざし、ヴァイスを集中させる。金色こんじきのシールドが出来上がる。

 光と光が衝突した。



 ヴァイスという力自体に優劣はない。

 fakerとcipherの力の源はヴァイスであるため、その力の差の基準の一つが、保有するヴァイスの量である。新夜の保有するヴァイスも有次が保有するヴァイスも、性質は全く同じなのだ。であれば多く持っていた方が強いのは道理である。例えるならばゲームのMPマジックポイントのようなもので、MPが多いほど威力の高い攻撃が放てたり、より多くの技を繰り出せるが、MPの消費量が同じ技なら誰が使おうと同じ技なのだ。しかし、同じ技でも使い方次第で異なる結果を生み出せるし、MPが多いからといって必ず勝てるというわけでもないだろう。だからヴァイスの保有量というのはあくまで指標の一つである。

 ここで、ヴァイスで作った矛と矛をぶつけるとする。使い手を考慮せず、速さなどの外部条件を同じにした場合、その勝敗を決めるのは何か。それは、ヴァイスの密度である。つまりは、同じコンクリートでできた薄い壁と厚い壁ではどちらが頑丈か? というのと同義になる。

 先程も述べた通り、彼らの力の源はヴァイスである。そして二人の保有量には圧倒的ともいえる差がある。全体で『十』ある内の『一』を使って武器を創り出したとしても、『十』の量が違うのだから『一』の量も違ってくる。もしお互いが作り出した武器が正面からぶつかったら……




 ピシッと亀裂が走った。亀裂はどんどん広がり、やがて刀はその形を崩した。

「!!」

 経験値不足だろうか。刀が壊れたことに一瞬怯んだ隙を、新夜は逃さない。思いっきり上半身を起こし、有次の額に渾身の頭突きを繰り出す。

 ゴンッッ!!! と痛々しく鈍い音が響いた。思わず目を閉じてのけぞった隙に、片足を抜き、蹴り飛ばす。有次は後方の木へぶつかり、血を吐いた。蹴られたダメージは大きくないが、もう体は限界に近かった。内臓はぐちゃぐちゃで、骨はそこらじゅう悲鳴をあげている。血を流しすぎたせいで思考も朧げだ。それでも彼は立ち上がる。瞳に宿る生気はむしろ強くなっていった。

 まだ諦めていなかった。

「いいぞ、もっとだ! 死力を尽くして僕に立ち向かってこい!! 」


                    *


 その時、翔の頭の中にはある言葉が反芻していた。 

“『……ごめん。』”

 それは、彼が姿を消す前に放った最後の言葉だった。

 (お前はどんな思いで言ったんだ?)

 彼が何を抱え、何に悩み、何に対して謝ったのか。

 (俺、今度こそ有次の…………)

 自己満足かもしれない。既にその資格はなく、手遅れかもしれない。

 それでも彼は前を向く。

 心中にはたくさんの想いが溢れていた。

 もっと有次のことを知りたい。有次が困っているならその手助けをしてあげたい。今度こそ有次のことを、胸張って『友』と呼べるようになりたい。


 ふと、視界の上部がキラリと光った。空を見上げると、一つ、また一つと輝く光がそらを駆けた。

「流れ星か。」

 こういう時は願い事をすると相場が決まっている。

「そうだな、」

 翔は、ここで大言壮語を並べる人物ではない。

 穏やかに笑いながら、遠い彼方を見上げる。

「とりあえずは、再会を願うとするか。」


 町の郊外に向かって歩みを進める。

 特に意味はない。

 人のいない方へ歩けば、考え事が捗りすっきりすると思ったのかもしれない。

 夜の冷え切った道を、彼は進む。


                   *


 深夜の森で、激しい戦闘は続いた。

 新夜は、戦闘を重ねるごとに有次が確実に強くなっていってるのを実感していた。それは力が急増した訳ではない。持っている手札で最善の戦い方を見つけ始めていたからだ。


「――――」

「――――」

 両者ともただ刃を交えた。巻き起こる爆風が辺りの木々を吹き飛ばす。二人の戦闘の前では、大きな樹木や大地さえも脆く崩れる。

 新夜は高速で攻撃を仕掛けるも、悉くを『壁』に止められた。

 ここでお互い、一旦距離を取り呼吸を整える。


 大きく変わった点は、有次が防御を捨てたところだった。いや、こう言った方がいいだろうか。防御というアクションをしなくなったのだ。新夜の攻撃のほとんどを眼の能力で抑え、自分は攻撃に専念することで、先刻の防戦一方の状況を脱したのだ。そのため、彼の右眼は篝火の如く燃え続けている。ただし紅蓮の炎ではなく蒼炎だった。

 しかし、ここで疑問が生まれる。依然と力の差は縮まっていないのに、ここまで攻撃を防げるものなのか、と。ここにカラクリがあると新夜は確信していた。

「さては、でも能力を展開できるのかな?」

 相手の応答を待たずに話を進めた。

「神眼は、『眼』の能力である以上、視界内でないと能力を発動できないのは必然。かくいう僕の能力も、対象を視界内で捉えないといけない。だけど君は幾度となく、死角からの攻撃に能力で対応した。つまり、『見る』以外にも、どこから攻撃が来るのか知る術があるってことだ。それが、君の『ギフト』だね。」

 真偽がどうであれ、相手が自分の持っている『眼』とは異なる能力の実態に感づいた時点で、手札のアドバンテージは失われたと思い、

「……俺のギフトは、『空間把握』。見ずとも、どこに何があるかがわかる。だから俺に死角はない。」

「感知じゃなくて把握か。素晴らしい。」

 有次には、どうしてこいつがが理解できなかったが、

 (確かに俺の手に入れた力は強い。だがまだ使いこなせていない。)

 これは明らかな経験不足であった。有次は、神眼とギフトの、二つの能力を持っているが、それぞれを、自分を守る能力と自分の周りがわかる能力、としか認識していなかった。そして今、有次は急成長を遂げている。実戦経験なしで、いきなり遥か格上の敵と死闘を繰り広げ、少しでも気を抜けば命取りになり、そもそも彼の肩には人類の存亡がかかっている。その極度の緊張とプレッシャーを背負いながらの極限状態は、有次を強くしていった。習うより慣れろとはまさにこのことだ。激しい刺激の中で、彼は二つの能力を結びつけて、一つの強大な力へと昇華させた。それがあの、攻撃と防御を切り分ける戦闘スタイルであった。

 (もっと、もっと集中しろ! この能力を最大限使えばあいつにも手が届く!)

 息を深く吐き、強く一歩を踏み出す。攻撃を仕掛けるための予備動作であったが、まるで有次の心を表しているようだった。

 直後、

 (…………!?)

 始めに、違和感を感じた。

 次に、その違和感は全体に広がり、自分を取り巻く空気がズンと重くなった。まるで上から押さえられているような重圧感だ。

「僕も少しは真面目にやるか。」

 そう言った新夜の顔からは、先程まで見せていた、どこか遊んでいるような表情は消え去っていた。別段表情が険しくなったわけではないが、明らかに。辺り一帯はねっとりと絡み付いてくるような不快な空気に包まれた。

 身体中から冷や汗が止まらなかった。刀を何度も握り直し、生唾を飲み込む。本人は自覚してないが、彼は『不安』だった。あと一歩のところで、自分の成長を嘲笑うかのような絶大な力にあてられて、ゴールだと思っていた場所が新たなスタート地点だと察したのだ。長く、先の見えない道のりを前に、例えようのない漠然とした『不安』が彼を襲った。恐らく、本能的に無意識の中へと隠したのだろう。しかし、どれだけ自分を誤魔化そうとも体は正直だった。


 冷たい風が二人の間を突き抜けていった。

 ほんの数秒が長い時間に感じられる。


 音はなかった。

 油断していたわけではない。瞬きと重なったわけでもない。見ていたのに、わからなかった。

 既に相手が自分の真正面に来ていたことを。

 五感が感じたものを脳が認識するよりも速く、相手は動いた。しかし、それは有次が五感にのみ頼っていた場合の話である。

 空間把握。

 彼のギフト。から与えられたもの。

 その能力は、遮蔽物がないこの状況では、別視点から自分たちを俯瞰できるようなもので、視覚を拡張、補助してくれる。

 つまり、彼は捉えていた。相手の動きを。だが、それに体が反応するには時間が足りなかった。であれば、選択肢は一つしかない。

 右眼が青い輝きを放つ。暗い森の中では、紺碧の閃光は美しくも儚げに見えた。




 ここで彼の神眼しんがんの能力、『リジェクト』について触れておこう。

 『リジェクト』とは、すなわち何かを『拒絶』する能力。

 任意の座標に『隔絶空間』を創ることができる。膜や壁に見えていたものはこれである。

 創る、という表現だけでは十分とは言えないだろう。より正確に言えば、そこの空間を、まるで抜き去ったかのように無くすことで隔絶された空間をつくり出し、『拒絶リジェクト』を可能としている。

 、物体のみならず音や光でさえも、何もかもが『隔絶空間』を通り抜けることはできない。『隔絶空間』が、モヤがかかったような濁った灰色に見えたのは、これが原因だ。

 基本的に能力を使う時は、必要最低限の隔絶空間しか創り出さない。例えば、自分の前面に大きく隔絶空間を展開すると、相手の攻撃を防ぐことはできるが、自分も相手を攻撃できなくなってしまうからだ。壁は外から内、そして内から外、両方向からの攻撃を完全に遮断する。そのため有次は、敵の攻撃に対して最適な大きさの隔絶空間を創り出す。そして、敵の攻撃を精確に計算して、ピンポイントに隔絶空間をつくり出せるのは、彼のギフトによるものである。

 『空間がないところは通れない』という普遍的かつ絶対的な道理を元に、完全無欠の防御を可能にしているわけだが、ここで一つ考えてみよう。人類の持ち得る道理も、論理も、理屈も、常識も、通用しないものがいたらどうだろうか? 人の理解を超えたの前では、人の世界はどこまで通用するのだろうか?



 新夜が繰り出した攻撃は、それまでのヴァイスで創り出した武器での攻撃とは違った。

 より原始的な攻撃。

 拳で殴る。

 人類が知恵を身につけ、道具を作り出すよりも前から存在した原初の暴力。

 低い姿勢で懐へ潜り込み、相手の無防備な腹部へ拳を突き出す。

 しかし、体に届く寸前のところで、かすみがかって濁った色の『壁』が行手を阻んだ。

 普通攻撃が避けられないとわかっても、例えば体をねじったり、後ろに飛んだり、と何かしらの防御反応が見られるのだが、有次はむしろカウンターに打って出た。強い攻撃ほど動作や反動が大きくなるのは必定。絶対的な防御を有している有次にとっては絶好の機会だった。低い姿勢の新夜に対して、頭上から刀を振り下ろそうとする。


 新夜の拳が『隔絶空間』に衝突した瞬間、力と『力』がせめぎ合い、凄まじい閃光と衝撃波が起こった。

 空気を伝い、震わせ、それは凶器となって周りを破壊した。何十年も何百年も地中に張り巡り、大きく太く成長した根さえ容易に断ち切り、木々が遠くへ吹き飛んでいく。飛ばされ、傾き、倒れていく様は、大地が慟哭しているようだった。

 ただそれは一瞬だった。一瞬で終わった。


 まもなく、不思議なことが起こった。

 拳と『壁』の間の空間がグニャりと歪んだ。そこへ収束しているようにも見えるし、そこから発散しているようにも見える。色も輪郭もぐちゃぐちゃに混ざって溶けていく。

 そして、有次の瞳に、信じられないものが映った。

 空間がギチギチギチギチッ!!! と震え、やがて歪曲がほぐれていき、



 バリンッ!!!!!

 分厚い窓ガラスが割れるような鈍く乾いた音が響いた。

 閉ざされた扉をこじ開けて、厚さも硬さもそんな概念すら存在しない『無』から、一つの拳が出てきた。


「――――」

 瞳孔が大きく開く。

 攻撃が届くまでがとても長く感じられた。この理解できない事象を必死に解析しようとする極限の集中力故か、それとも死を悟った時の走馬灯に似たそれか。

 どちらにせよ、その拳は腹部へ直撃した。無慈悲なほど、鮮やかに、綺麗に。

 足がちゅうに浮き、体が文字通りくの字に折れ曲がる。拳が内臓を押しのけるほど深く突き刺さると、一瞬時が止まったように静止し、直後、有次の体は目にも留まらぬ速さで吹き飛んだ。

 バキバキバキバキッと自然を薙ぎ倒していき、森林地帯を抜けて行った。バンッ! バンッ! バンッ! 。断続的に木や地面に衝突する音が夜に轟く。

 新夜の見えない所まで飛んで行くと、大きな、爆発にも似た衝突音が聞こえた。そして音は鳴り止み、夜の公園は元の形を取り戻した。舞い上がった砂塵は風に踊らされて、血と汗と闘争を流していく。残ったのは、勝敗という事実のみだった。


「…………。」

 新夜は一人、有次が飛んでいった方向を眺めていた。先刻の一撃で勝負がついたのは明白だった。下手すれば彼は死んでいるかもしれない。

 元々彼らは命のやり取りをしていた。戦いに負けることは死を意味する。少なくとも他方はそう思っていた。

 新夜の顔には、歓喜も達成も充実も現れてなかった。―――喜怒哀楽の感情が読み取れなかった。それは何も感じていないわけではない。むしろ、今の心情をどう表現すればよいのか分からないように見えた。やがてそのまま、有次が飛んでいった方向へ足を向けた。


 追っていくと、立派な大樹が見えてきた。

 そこは公園の中心地だった。

 大樹の周りには、遊具などは置かれておらず、ベンチが複数散置されていた。囲うように桜が咲き誇っていた。ここはこの公園の象徴シンボルともいえる所で、世界から注目を集める最先端の試験都市には縁遠い存在に思えるが、だからこそとこの大樹を中心に大きな公園を作ったのだった。それが朝陽第四自然公園である。

 樹齢千年を超えるこの樹からは、神秘なエネルギーが感じられた。巨大な生命力とでも言おうか。それは多くの人を惹きつけ、多くの人に生気を分け与え、多くの人を内側から癒していった。

 西暦で数えること二千年以上経ち、この星の霊長は自然をないがしろにしてきた。エゴな話だが、その上霊長は自然を愛することをやめられなかった。そのことに悲嘆した古来の土着民たちは、自分たちの祈りをこの大樹に込め、一つの名前を付けた。

 再盛の樹、と。

 有次は荘厳にそびえる大樹に体を預けるように倒れていた。覆い茂った木の葉の隙間から、木漏れ日のように淡い月明かりが彼を照らした。

 着ていたワイシャツはボロボロに破れ、自分の血で真っ赤に染め上げていた。純白だったシャツには、もう白い部分は残されていない。かろうじて通された両腕は、どちらも皮が剥がれ落ち肉が露出している。左足は、もうおかしな方向を向いていた。膝から下が内側の方へ九十度、捻じ曲がっていた。

 意識はかろうじてあった。が、満身創痍。腹部に直撃をもらったため、内臓は無残に潰れていた。手足はピクリとも動かず、重度の脳震盪で思考はまとまらなかった。

 呼吸しようとするが、肺が傷ついているのか、ヒュー、ヒュー、と細く弱い息遣いだった。微かに瞼を開き、風になびく木の葉を恍惚とした表情で眺めていた。すると、ぼやけた視界が突如暗くなった。誰かが自分の前にやって来たようだ。

 (ごめん……幸一……。ごめん……父さん……。ごめん……みん、な……)

 目の前に立っている誰かに、有次は色んな人たちの面影を重ねて、そして謝罪した。嘱望や慚愧、怨嗟や哀惜よりも、彼は始めに謝罪した。危機に直面した時にその人の本性が、人間性が顕になるのならば、これが彼という自己の本質と言えるだろう。


 眼下に倒れている血だらけの青年を見下ろしているのは、白髪の青年。対照的にこちらは傷一つなかった。

 肉塊と成り果てたそれは、何かを喋ろうとしているが、うまく声が出なくて口をパクパクと動かしている。その顔を見れば、『敵』に向かっての言葉ではないことが分かった。

 逆はどうだろうか?

 cipherサイファー、人類をころすモノ。fakerフェイカー、人類を生かすモノ。

 相容れない両者の関係を表す言葉は、どれが適当だろうか?

 敵、壁、邪魔者、障害。それとも―――

 サイファーと呼ばれる青年は、フェイカーと呼ばれる『敵』に向かって、一言、言葉を放った。


「――――――」


 その瞳は、何色に輝いていたのだろうか。


                    13


 翔は、ひたすらに走っていた。


 数刻前、彼は町外れにある朝陽第四自然公園へと向かって、寝静まった閑静な住宅街を抜けたところだった。

 有次の家を出てからのらりくらりと歩いていると突然、轟音が耳を突き刺した。あまりの衝撃に全身が強張こわばるのを感じた。

 (なんだこれ!? どっかで事故でも……っ!!)

 そう思いながら気づいた。この音がどの方向から聞こえて来たのか。

「もしかして……公園の方か!?」

 ゴォォォォンン!!!!!

 立て続けに何度も轟音が夜空に鳴り響いた。工事現場で鉄骨が落ちた時のような鋭く耳に残る音だったが、翔は今までで聞いたこともないようなボリュームだった。

 予想は確信に変わった。


 走っている最中にも何回か轟音は聞こえた。公園に近づくほど聞こえる音は大きくなっていった。耳を押さえないと頭が痛かったが、構わず腕を振り続けた。


                    *


 ぱちりと瞼が開いた。

 眠りが浅かったせいか、覚醒は早かった。

 寝返りをうってもう一度瞼を閉じる。必死に何も考えないように、長い呼吸を心がける。

 ――――――――。

 ぱちりと瞼が開いた。今度は体を起こし、反対側の壁の小窓へと目を向ける。全く動かない星々を見ていると、まるで窓枠大の写真を眺めているようだった。

 ――――――――。

 (やっぱり、音がする。微かにしか聞こえないけど、なんだろう?)

 聞こえたというよりは、感じたのだろう。ベットから出て、バルコニー側の大窓の前に立つ。家は町の高台になっているところに建っているため、二階からは街光を一望できる。外の景色を眺めても、特に異常はなかった。いつもと変わらない僕らの町。

 窓を開けてバルコニーに出る。

 少し肌寒いが、冷たい風に当たると心が澄んでいくみたいで心地良かった。人は温もりに絶対の安心感を覚えるが、時に冷たさを感じるからこそのものだ。光あるところに闇はある、というが、闇があるからこそ光の大切さに気づき、光があるからこそ闇に目を向けることが出来る。対極のものは、互いが自分の存在に必要不可欠な要素であり、存在原因なのだ。

 夜空に浮かぶ星々の光り輝く様は、闇を照らしているのではなくて、闇と共存しているように思えた。

 (兄さん……)

 ここに、平凡でありきたりな平和を望む少年がいた。彼は自分が無知で未熟だと自覚している。だからこそ、どんなに嫌いな相手ともきっかけさえあれば手を取り合えると、その可能性を信じている。


 しかし、対極同士は向かい合って存在しているわけではない。背中合わせで一対の存在なのだ。だから光と闇が手を取り合うことは出来ない。彼らが、そこに立ち続ける限り。


                    *


「なん………だこれ…………」

 公園の入り口に来た翔は、驚くべき光景を見た。

 入り口から公園を眺めると、右手には高々と伸びた樹木が密集しており、左手には、一面に広がる草原と一本の大きな木が遠くに見えた。

 そして、視界の右から左へ、一直線に、大きく地面が抉れていた。まるでアニメや映画に出てくるビームがここを通ったかのようだった。

 (一体何がどうなったらこうなるんだ?)

 とりあえず階段を降りて右へ走り向かった。


 森へ入ってしばらく進むと、

「……ァ……」

 開いた口が塞がらなかった。

 外から見ると生い茂って見えた森林の中心地近くは、木がほとんどなかった。なかった、と言うのは、元からなかったということではなく、明らかに生えていた木がごっそり抜き取られているような様子だった。翔もここに数度来たことがあるからわかる。どんなに雲一つない晴天だったとしても、日光のほとんどは差し込んでこないほど、木が乱立していたはずだ。しかし今立っているあたりからは、綺麗な星空と満月が見える。覆われたドームに、ぽっかりと穴が開いてしまったようだ。またそこらじゅうの地面にある、穴に似た不自然な窪みは、木が根こそぎどこかへ吹き飛んでできたものだろうか? 他にも周りを見てみると、倒れている木が目立つ。完全に倒れてしまっているのもあるし、途中の幹が折れて、他の木にもたれるように倒れているのもある。

 さらに先に進むと、翔には理解できないものが二つあった。

 一つは巨大な穴。小規模のクレーターといってもいいだろう。隕石でも落ちないとできなそうな半球状の大穴の傍らには、抉れた地面が一直線に伸びていた。入り口から見えたもので間違いないだろう。ここから地面の跡が始まっていることから、どうやらこれは森から公園の中心へ向かってできたものらしい。

 翔は地面の跡を辿って、公園の中心へと向かった。その姿は、大きな轍の上を進んでいるように見えた。


 転校生。消えた友人。謎の単語、フェイカー、サイファー。大きな爪痕。そして今歩いている、露出した地面。

 全ての因果が繋がって見えた。

 どんな事故があれば、木々が吹き飛び、数百メートルにも及ぶ掘削機が通ったかのような抉られた跡ができるのか。

 謎だ。全く想像できない。

 そして、同じく友人に対しても、現在謎を抱えている。

 証拠はない。根拠もない。

 朝陽にどれだけの人間が住んでいる。この惨状に関わっている人間がいるとすれば、それが自分の知人など一体どれほどの確率か。

 安直な思考だ。一見関係のない二つの事象でも、タイミングによっては短絡的に因果関係を見出してしまうことがある。

 今の、篝翔のように。

                                      (考えるな。)

 胸騒ぎが強くなり、不安が募る。

                                      (考えるな!)

 つまづいて、転ぶ。痛みは感じない。

                                     (考えるな!!)

 必死に考えまいとするあまり、余計に思考の連鎖を断てないことに彼は気づいていない。

 ぐちゃぐちゃの頭はやがて現実を曇らせる。

「きっと何か事故が起きたんだ。ほら、今日風が強いだろ? ここはいろんなもんがあるから、何か作っていたのかもしれない。」

 自分一人しかここにはいないのに、作り笑いしていた。まるで自分自身を欺かんばかりに。

 だって、おかしい。

 こんなこと、ただの高校生一人にできる限界を越している。

「……」

 気づいていたら、走っていた。真っ白な頭は思考を中断し、真実をこの目で確かめようと本能的に体を走らせた。

 轍を逸れ、近くの緩やかな丘を駆け上がる。子供たちがコロコロと転がって遊んだり、寝そべって空を見上げるような場所だが、彼はその頂点を目指す。この丘自体たいした高さはないが、朝陽第四自然公園は、全体的に平坦ではない。公園の高低差を二次元的に捉えると、褶曲しゅうきょくした地面の断面図のような滑らかな曲線を描く。丘陵を想像すると分かりやすいかもしれない。丘を登らずとも中央の大樹は確認出来るが、幹の先端部分と生い茂った葉しか見えない。だから彼は丘を登ったのである。

 徐々に、徐々に、大樹の下半身が見えてくる。もしあの地面の跡がどおりだった場合、そして跡が大樹へと伸びているのなら、きっと樹の根元に答えが待っているはず。

 心の奥底にあったのは、安堵したいという気持ち。

 実は公園の出来事は全くの別件で、明日登校したら何事もなかったかのような澄まし顔のあいつがそこに座ってて、今日のことを話すんだ。多分お前はバカかって言われるけど、一緒に笑って。幸一や委員長、はじめなんかにも話してさ、一緒に笑うんだ。

 だってこれは笑い話なんだ。そうに決まってる、そうに違いない。

 そうあってくれ。


 そして、丘のてっぺんに着いた。膝に手をつき、乱れた呼吸を整えようとする。その間、彼はずっと俯いていた。呼吸と共に頭の中も整理して、覚悟を決めていた。答えを得ることに。

「フゥーーー。」

 鼻から大きく吸って、口から長く吐き出す。膝から手を離し、上体を起こす。下を向いたまま閉じていた瞼をゆっくりと開ける。

 意を決して、バッと思いきり顔を上げた。



「――――――ハッ」

 少し距離は遠いが、大樹には誰も見えなかった。

「ハ、ハハッ、ハハハハッッ!!」

 拍子抜けして、ぎこちない笑いしかできなかった。何だか一気に自分のやっていることが馬鹿らしくなってきた。

「はぁ~~。何やってんだ、俺は。」

 空を見上げる。雲一つない星空に浮かぶ満月は、心のもやを晴らしていった。

 丘の上で一人、不思議と孤独は感じない。冷めた頭はいつもの温かみを取り戻す。人は大小問わず変化の絶えない生物だが、現状に満足している者は変化を恐れる。プラスの可能性の裏にはマイナスの可能性がつきものだからだ。彼は生まれて初めて日常を失う変化を肌で感じ、恐れた。これまでその恐怖を知らなかったことは、彼の人生がバラ色だったからだろう。平和になったこの時代において、そのような幸せはむしろありふれていて、もう幸せとは言えなくなり、失うことのないものだ。それでも彼は、失うことの恐怖を、不幸を覚えて、そう思わせてくれる友がいることに感謝した。初めて、自分が幸せだと実感した。

「こんなに月って綺麗だったっけ。」

 もう帰ろう。そう思って顔を下すと、急に前から風の大波が押し寄せてきた。突風に荒れ狂う草木が互いを擦り合わせ、自然を奏でる。あまりの強風に両手を顔の前にかざした。

 その時、指の隙間から半開きの目に飛び込んできた光景は――――――


 風に煽られて、大樹の葉が大きく蠢く。

 同時に、それまでに月明かりが届いた。

 それは神秘的で、白くてどこか碧あおい、太陽の強すぎる温かさを心地よく整えてくれて。そんな、そんな光に照らされた大地は、幹は、一帯は、

 アカ、アカ、アカ――。

 赤くて朱くて紅くて緋くて茜くて赫くて、そしてクロい。闇に紛れるほどにクロくてアカい。

 美しい夜に不自然なアカは、かれの目に触れた途端、せきが切れたようにその存在を強めていった。身体に、頭に、心に、際限なく流れ込んできて、沸騰して、弾けた。

 短くも長いような一瞬。一秒先をグンと伸ばしてその間を歩いているような感覚。網膜を突き抜けたモノを幾度変換して送ろうとも、彼は判らない。何を見て、何を感じて、何を想って。ワカラナイ、ワカリタクナイ、ワカロウトモシナイ。

 ――――――――――――――――

 ドクン、と心音が一つ刻まれた。

 遥か先の『現在』が、伸ばしたゴムの弾性のように急速に戻ってきた。一秒の『過去』は風に弾き飛ばされ、望まぬ覚醒が訪れる。

 ダンッ!!!

 まるで空を飛ぼうと跳躍するように、強く地面を蹴った。

 転がるように丘を駆け降りる。体が重力に倒れそうになる前に、足を思いっきり前に踏み出す。

 彼の視界の先、公園の象徴たる大樹の足元に、一人の青年が倒れていた。

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、―ッ、ハッ、ハッ、ハッ!!――――――」

 走って、走って、ひたすらに腕を振って前へ進んだ。逆風のせいか、目が滲んで雫が溢こぼれた。

 途中、何かに滑って転んだ。前しか見ていなかったから、下に何があるのか分からなかったのだ。

「って………………!?」

 体を起こそうと一度座った体勢をとると、自分の手の平に土以外のものが付いていることに気づいた。

 今度は自分の体がアカく染まっていた。

 驚愕よりも先に戦慄した。

 恐る恐る目を先に向けると、おびただしい量の血溜まりが一つ、また一つと点在していた。

 そしてその先には、樹にもたれかかってピクリとも動かない、有次の姿があった。

 半ば這うように体を出鱈目に動かして、有次の元に辿り着いた。

「有次!!」

 横へ詰め寄り肩を掴もうとするが、手を止める。

「なん、だよ……。なんっだよこれっ!!!」

 その姿は、見るに堪えないほど酸鼻なもので、少しでも触れたら簡単に崩れてしまいそうだった。ただの高校生には有次がどのような状態にあるのかなんて詳しくわかるはずもなく、全身血だらけでかなり危険だということぐらいしかわからなかった。

 激しく揺らすのはまずいと思い、大きい声で何度も呼び掛けたが、一向に反応がなかった。

 視界に映る自分の両手がプルプルと小刻みに震えていた。

「はっ! まさか!!」

 慌てて彼の左手首を掴む。脈を確認しようと手当たり次第に手首を触る。しかし実際に脈拍をとったことがない翔には、うまく感触が分からなかった。

「くそっ!!!」

 本当は胸に手を置いて確認すれば早いのだが、真っ赤な胸を触っては返って傷にさわると危惧した。そうさせるほどむごい有様だった。

 今度は下顎の付け根から顎のラインに沿うように、そっと手を添える。首元にこびり付いた血を擦って落とす。同時に耳を有次の口に触れるぐらい近づけた。

 ――――トクン。

 強く指を押し当てると、皮膚の下で確かに命が脈動しているのを感じた。ほんの微かに呼吸音も聞こえた。

「良かった………生きてる。」

 腕を有次の首に回して、体を傷つけないように優しく、そしてつよく抱きしめた。

「良かった………よかった…………………」

 安堵に酔いたい気持ちを抑え、すぐに体を離し、今にこぼれそうな涙を拭った。生きているからといっても事態が好転するわけではない。このまま時間が経てば死んでしまうことぐらい、火を見るよりも明らかであった。

 この状況で、恐れ、混乱に陥り、足がすくんで何も出来ない。それは、ただの高校生なら当たり前の反応だ。しかし、翔はそうではなかった。

 そこに弱々しい姿はなかった。確固たる決意を秘めたつよい姿があった。


「絶対にお前を助ける!」


                   * 


 暗い。

 ここはとても暗い。

 光は届かない。そもそも光なんてものが存在しているのか疑ってしまうぐらい、どこまでも広い闇。

 ザワザワッ、と『何か』が神経を燻った。

 ああ、また君達か。

 黒よりも黒い『何か』が迫り来る。

 この感覚もほとほとに疲れた。

 諦めているのではない。解っているのだ。『彼ら』は俺を逃がさないし、俺も『彼ら』から逃げられない。

 何故なら、『彼ら』は自分が背負ってしまった罪や業、そのものなのだから。

 ゆっくりと闇へと沈んでいく。『彼ら』に身を委ねていく。

 ピシッ。

 !?

 闇に亀裂が入った。

 ピシッピシッ!

 亀裂は大きくなり、そこから光がこぼれてきた。

 その細い光は、自分には眩しすぎるぐらい強かった。

 パリンッ!

 殻を破って光が入ってきた。闇はぼろぼろと崩れ落ち、やがて光にちた真っ白な世界に、真っ黒な自分だけがポツンと残った。

 忌避感をおぼえた。長らく光を感じていなかったこともあるが、光を受ける資格が自分にはないことを知っているから。

 だけどそんな自分をも包み込むように光は溢れている。

 こんなにも、こんなにも光は温かっただろうか。


                    *


 春の昼下がりの微睡みのような倦怠感と心地良さの中にいた。一定のリズムで微かに体が揺られて眠気を誘ってくる。

 その温もりは、全てを忘れさせた。それでもいい。ゆっくりと弱く続くこの快楽の中を揺蕩たゆたっていたい。意識は覚醒しているし、体の感覚もある程度戻っている。それでも俺は瞼を開けようとはしなかった。目を背けたのだ。現実リアルから。

 ――――――

 少し不思議に感じた。

 この大きな温もりは、自分全体を包み込むというよりは、自分が包み込んでいるような。まるで抱いているような。

 億劫だが意識を、感覚を現実リアルに少し集中してみた。

 地面に足は着いていないみたいだけど移動をしている。腕は脱力しているのに、前に突き出したような状態で止まっている。そして膝裏には自分ではない別のものが触れている感触がある。

 不覚にも、段々と意識が外に向き始めた。

 自分がどんな状態なのか。何をしているのか。どこにいるのか。

 そもそも、


 ガシンッ。


 外れていた歯車がはまった。

 歯車は機能を取り戻し、回り始める。



 (そうだ。俺はcipherあいつと戦って、そして負けたんだ。じゃあ俺は死んだのかな。……嫌気がさすな、無力な自分に。そして胸を撫で下ろしている自分に。だって、全てを滅茶苦茶にしたくせに、誰一人救えなかった。でも、やっと解放されるのだろうか。やっと終わりにできるのだろうか。この地獄から。円環の旅路から。俺はいつだって選択を間違えてきた。間違え続けてきた。けれど、きっと違う選択肢を選んだとしても望む結果は生まれなかっただろう。選択を迫られた時にはもう遅いのだ。残るのは涙と後悔しかない。だから『死』という選択肢を選びたかった。その先の一切を無責任に放棄できるその選択をしたかった。どんなに周りの人に恨まれようと、『死』にたかった。それほどに俺にとって『死』は甘美なものだった。逃げたかった。頽落たいらくしたかった。耽溺たんできしたかった………のに……


 何でだろうな。決まって最後に、みんなの顔が浮かぶんだ………)



 目を開ける。ゆっくりと、うっすらと開けた。

 段々と意識が、感覚が、視界が鮮明になる。

「……!」

 誰かに背負われている。そうわかった直後、有次は拘束から逃れるように体をよじり、手ではねのけた。思うように体が動かないのに、無理に動かしたせいで変に暴れるかたちになり、落ちてしまった。

「!! ッアア、イ」

 そこで初めて気づいた。体が思うように動かないのは当たり前だ。

 全身に激痛が走る。今までで感じたことのない痛み。止むことなく、ありとあらゆるところに鋭い刺激が突き刺さる。

 声にならない嗚咽を漏らすと、

「有次!!」

「!?」

 声の主はこちらに慌てて駆け寄る。まるで精巧なガラス細工に触るように、こちらを気遣ってきた。

 有次は知っている。この声を。

「………どう、して………………」

「どうしても何も、ここに来たらお前が全身血だらけで倒れてたんだよ!」

 有次はしばらく目を伏せた。翔からはどんな表情をしているのか見えなかった。

「おまえは………がえれ。」

 喉が潰れていて、上手く声が出なかった。

 翔の手を退けて一人で立ち上がろうとするが、よろけて頭から前に倒れ込んでしまう。翔は正面から体を受け止めて支えてあげる。

「おい! あんまり動くな!」

「だい、じょうぶだ。」

「嘘つけ!全然大丈夫じゃないだろ! 一人で立てないじゃないか! 」

 有次の左腕を掴んで自分の首に回し、歩き始める。

「今入り口に救急車呼んだからな。病院に行けば――」

「や、めろ!」

 急に大きな声を出したから、またゴホゴホと咳き込んでしまった。掴んでいた手を離して背中をさする。

「びょういんに、いぐひづようは、ない。」

「でも――」

 その時、翔は胸元の服をグッと力強く掴まれた。有次の半開きの瞼から覗く瞳には、剛毅ごうきな光が宿っていた。

「おれは、しな……ないがら、ぜ、たいに。だがら、……だのむ。」

 到底信じられない。

 こんな虫の息じょうたいでそんなこと言われて、うんと素直には頷けない。

 この場にいるのが誰だろうと、今の有次を見れば誰だって同じようにそう思うだろう。

 しかし彼は違う。

 公園での光景を思い出す。そこには到底理解できないものが広がっていた。それに有次が何かしら関与しているのは明白。であれば自分の常識すらこの場では疑う必要がある。

 篝翔。十七歳。ただの高校生。

 一つの選択に命が掛かっている。有次の状態と取り巻く状況がより事態を複雑にしたが、熟考の時間はない。

 正直なところ、彼にはもう何が正解か全くわからなかった。思考は巡り巡ってジレンマを引き起こしていた。

 だから、彼は友を信じることにした。

 決して思考を放棄したわけではない。その眼差しを見れば、迷うことはなかった。これが親友ともで在りたいと願った男の選択だ。

「わかった。」

 翔は有次の目を真っ直ぐと見て、そう答えた。

 有次はその言葉を聞き入れると、また気を失ってしまった。

 翔は再度有次を背負い、歩き始めた。

 今度は来た道を引き返す。

「重いな……。」

 自分に言ったのか、それとも背中の住民に対して言ったのか。

 どちらにせよ、彼の口から溢れた言葉は夜風に攫われて、暗闇に消えていった。




「おい、そっち居たか?」

「いや、居ないな。」

「こっちも。」

 全身真っ白な服装の三人組は、走り回っていた。

 十七分前。市内に幾つかある災害救急情報センターに一本の電話が届いた。

 声の主は若い男性だった。恐らく学生だろう。

 怪我人は彼の友人であり、出血が激しく重体だ、とのことだ。

 電話を取った職員は素直に感心した。今の時代、大きな事故や怪我は多くない。そのため、緊急の一一九番においてパニックになる人がほとんどだ。年齢によらず。しかしその学生さんは、簡潔に丁寧に状況と場所を知らせ、どのような対応を望んでいるのかを手短に伝えると、電話を切った。

 職員はすぐさま救急車を一台手配し、朝陽第四自然公園の入口付近に向かわせた。

 八分前。

 駆けつけた救急隊員は、辺りを捜索していた。もちろんこんなの彼らの仕事ではない。通報してきた学生は公園の入口で待機しているとの事だったが、その姿はなかった。

 もしかしたら公園のどこかで助けを求めているのかもしれない。

 三人は手分けして公園内を散策し始めた。

 そして現在。

 隊員達は、通報者、重傷者共に見つけられないでいた。

 ここまできたら偽の通報だったと考えるのが妥当だろう。しかし隊員の全員がそうは思わなかった。なぜなら、

「おいおいなんだよこれ。」

 初めに一人の隊員がそう呟いた。この隊員は公園に入って右方向へ向かって捜しており、すぐに細長い幹が乱立する林に着いた。その日は雲ひとつない星空に大きな満月。ライトを使わなくても視界はクリアだった。

 そして目にした。あの光景を。あの惨状を。

「どうした。いたのか?」

 三人は小型のインカムで常に繋がっていたため、小さな呟きにも反応を示したのだ。しかし、残りの二人も同じく絶句することとなる。

「この辺、地面が大きく抉れて、一直線に伸びています。」

 女性隊員が歯切れ悪く伝える。続いて先程反応していた隊員が急に大声で、

「おい! こっちはそこらじゅう血だらけだぞ!」

「「!?」」

「大きい木の下だ。確かここのシンボル的な木だ。俺はもう少し周りを捜してみるからこっちに来てくれ。」

 そして再び三人の隊員が集まった。

 初めにここに来た隊員はすこし息が切れていた。

「ダメだ。やっぱり誰もいない。」

「でも…これは……。」

「ああ。間違いなく何かしらの事件だ。」

 一番年長の隊員が決断を下す。

「俺は警察に連絡し、状況処理に動く。お前らは引き続き辺りを調べろ。」

「了解。」

「分かりました。」


                    14


 ある人はこう言った。誰もが主人公であると。誰もが、己の人生における主人公であると。

 それは、物の見方によっては正しい。

 広義の世界ではなく、あくまで自分が眺め、考え、影響を及ぼす主観的な『世界』において、確かに自分が『世界』の中心と言ってもいいだろう。

 では、その『世界』が無数に折り重なって出来上がった、全体としての世界に目を向けたとしよう。そこに、世界の中心はないはずだ。何故なら、自分を中心とした『世界』が寄り集まってできた世界を俯瞰した時、誰か個人の主観など介在しないからだ。どんな有名人でも、世界全体の意思に、それも恒久的に影響を与えることはできない。

 もし仮に世界の中心があるとするならば、それは人間では絶対に叶わない。人間という世界の構成要素から逸脱し、より高次元の何かと俯瞰視点を持つ必要がある。そして、その世界の中心を確認できるものもまた、より高次元からこの世界を俯瞰できる存在だけだろう。

 この世界を外側から眺めた時、世界の中心と呼べる存在はあるのだろうか?

 この『物語』の中心は、誰だろうか?


                    15


「…………え…………」

 絶句とは、まさにこのことだろう。


 

 深夜の一時。

 気が立って寝付けなかった幸一は、突然のインターフォンの音に驚いた。

 こんな時間に来訪してくる客に、当然心当たりなどなかったが、下の階に降りている最中に、ある可能性を思いつく。

 まず、この時間を考えると、インターフォンを押した人は身内だろう。となれば、急遽自宅に帰ることとなった父親が、最も可能性が高い。

 職場で徹夜することになった時にも、勝武は連絡してこないぐらいだ。幸一に連絡せずに帰ってくることは、十分あり得る。インターフォンを鳴らしたのは、鍵を忘れたか失くしたかが原因だろう。

 念のため、インターフォンの画面で確認する。しかし、画面には誰も映っていなかった。

 ということは、既に玄関ドアの目の前で待機しているのだろう。

 すると、ドンドンドンッ、と荒くドアが叩かれた。それも、一度ではなかった。何回も、何回も。

 急に怖くなった。

 父親が、そんなことをするとは到底思えなかった。

 ドアを今も叩き続ける人物は、一体誰なのか。

 幸一は、ドアを開けようか迷っていると、

「幸一!! 幸一!! いるかっ!!!!」

 (翔さん!?)

 ドアの向こう側にいる人物は、翔だった。明らかに、何か急いでいる。

 すぐに玄関の電気をつけ、ロックを解除する。

 解除音が聞こえると、幸一が開くより先に、翔が乱暴にドアを開け放った。



 真っ先に目に飛び込んできたのは、翔ではなく、翔が担いでいた、もう一人の人物。

 真っ赤に身を染めた、自分の兄。

 全く状況が読み込めない幸一に構わず、翔は有次を引きずって家の中に入る。

 何。なぜ。どうして。あれは、兄さん?

 処理が追い付かずに固まってしまった幸一に、

「幸一! 手伝えっ!!」

 怒声にも近い、鬼気迫る翔の呼びかけは、混乱を極めた幸一の体を無理やり動かした。

「左を持て!」

 翔は有次の右肩を担いでいたため、幸一がその反対から支えた。

 有次の姿勢は安定し、運びやすくなった。いくら翔が大きな体躯と鍛え上げられた筋肉を持っていても、男一人を運ぶのは簡単ではなかった。

 二人で、有次をリビングまでなかば引きずって運んだ。

 ソファの上に置いてあった幾つかのクッションを床に敷いて、有次をゆっくり寝かせる。

「翔さん! これは一体どういうことですか!!」

「説明は後だっ!! とりあえず、ガーゼとか綺麗な布とか、何でもいいからありったけ持ってきてくれ!!」

「は、はいっ!」

 有次を寝かせた後、応急処置についてネットで調べた。とりあえず血を拭い、ガーゼと包帯で対応した。

 上の階からお布団を持ってきて、リビングに改めて敷いて、有次を寝かせた。折れている左足は動かないように固定したかったが、副木になるものがなかったため、複数枚の毛布で足を上げるとともに固定させることにした。

 一時間以上も時間がかかった。一応形にはなったが、ネットで手に入れた知識で、どこまで通用するか。

「どうして、どうして兄さんは、こんなヒドイ怪我を……」

 事態が一旦落ち着くと、二人は有次の寝ている布団の近くに座った。

 独り言のようで、実際は翔へ投げかけた言葉だった。

「わからない。俺にも詳しくはわからないんだ。」

 翔は、幸一に事の成り行きを全て話した。

 家を出た後、郊外に向かって散歩していたこと。突然轟音が聞こえて公園に寄ったこと。公園がメチャクチャな状態になっていて、そこに有次が血だらけで倒れていたこと。有次に通報するなと言われて、ここに帰ってきたこと。

「正直、俺にも何が何だか…………」

 自分の手には、未だ大量の血の跡が残っている。時間が経つと血が黒くなっていくなんて、知りたくもなかった。

 今でも信じられない。現実ではなく夢だと、脳が必死に自分に信じ込ませようとしている。

 目の前に瀕死の有次がいなければ、夢としか思えない。

 ふと、隣に座る幸一が、こちらにもたれかかってきた。

「?」

 目線を移すと、幸一の顔は真っ青だった。

 一瞬気を緩んだせいで、意識が飛びかけたのだ。

 翔の服を掴む手は、驚くほどに震えていた。

「兄さんは……兄さんは…………このまま………………」

 幸一の心は、不安と恐怖で埋め尽くされていた。

 その気持ちは、痛いほど伝わってくる。いきなりこんな血だらけで、今にも死にそうな兄を見て、きっと辛いはずだ。最悪の考えが頭に浮かんで増殖し、精神を蝕んでいるのだろう。

 今からでも、病院に駆け込もうかと考えてしまう。

 そうすれば、ここにいるよりは幾分かマシだろう。

 しかし、有次はあのとき、異様にその判断を拒んだ。そして、自分は死なないと豪語した。

 あの有次が、意味もなくそんなことを言うとは考えられない。

 だから、その選択を信じた。だから、有次のその言葉を信じるって。そう決めたんだ。

 不安がないわけではない。選択を誤れば有次は死ぬかもしれない。その未来を思うと、恐怖しかない。

 それでも、信じるって決めたんだ。

 幸一の肩に腕を回し、優しく抱き寄せる。震えや不安、恐怖を拭ってあげるかのように。

 選択の結果が今の幸一をこうさせているのだから、それらを背負う覚悟を決めなければならない。

 翔にできることは、見守ることだけだ。ただただ見守った。有次の容態と、そして自分の選択の結果を。 


 


 ふわりと開いたカーテンから一筋の光が射し込んだ。時間の経過とともに太陽は傾きを変え、午前十時を過ぎたあたりで翔の顔を照らした。

「ん………」

 記憶がおぼろげだ。自分がどこで寝ているのかも覚えていない。

 目を擦りながら体を起こす。隣に視線を移すと、幸一が横になって眠っていた。

 体のあちこちが凝り固まったように痛いのは、床で寝ていたからだろう。

 昨夜はお互い、不安で全く眠れなかったのだが、それ以上に有次の状態が安定しなかったのだ。ずっと汗が止まらず、時折うなされていた。

 その影響で、幸一が疲れて眠ってしまった時間は日が昇ってからだ。二階から布団を持ってきて幸一に被せ、隣に一緒になって横になると、やがて翔も眠ってしまったのだ。

 幸一を挟んで更に窓側で、有次が安らかに眠っていた。今は顔色が良く、状態は安定している。

 胸を撫でおろす。

 目を開けたら悪化していた、という最悪の事態は免れたみたいだ。

 幸一を起こさないようにゆっくりと立ち上がり、有次の側まで行くと、布団をはいで怪我の様子を確かめる。

「えっ………………」

 まず右腕の包帯を取った翔は、その腕を見て言葉を失ってしまった。

 (昨夜まで皮は剥がれて、切り傷も相当深かった。それなのに、……もう、のレベルまで回復してる。)

 有次の腕は、まだ完全に完治したわけではないが、めくれた皮は再生し始めており、傷も軽く切った程度まで塞いでいる。普通なら全治数ヶ月と言われても不思議じゃなかった重傷が、このままなら明日にでも治りそうだった。

「幸一……幸一、起きろ。」

 有次から目を離さずに、腕だけ後ろに伸ばして幸一の体を揺する。思いのほか早く起きた。気を張り詰めて熟睡していなかったのだろう。

「あ、……翔さん…………?」

 翔の手が肩に置かれていたことから、自分を起こしたのは彼だと理解したが、本人はずっと背中を向けていた。

 自分に背を向けていることから、翔が有次を見ていると思い、嫌な予感が走った。

 這い寄って手元を覗き込む。

 翔は、有次の右腕を手に取って凝視していた。

「!!」

 気付いた。おかしなところがない、というおかしなことに。

 翔が驚いて固まっている理由も、これではっきりした。

「翔さん、これ……」

 言葉を呑んだ翔は、まだ確信しきれてなかった。

 他の部位の包帯も取る。初めに包帯を取ったときは交換目的だったが、それ以降は皮膚を直接確認するためだった。

 もう片方の腕や胸、背中、顔や頭も同様に、治りが尋常ではなく早かった。左足の骨折はまだ時間がかかるかもしれないが、外傷はもう回復傾向に向かっていた。

「これは…………おかしいだろ。」



 ただ、何はともあれ、命の危機は回避したということだ。目の前の事実に戸惑いながらも、それは喜ばしいことだった。


 とりあえず、まだ傷が残る箇所には包帯を巻いておいた。昨夜のうちに大量の包帯とタオルを買ってきたのに、そのほとんどが不要になった。

 緊張が緩んだら、急激に空腹が襲ってきた。

 二人は軽食を済ませた後、スマートフォンで昨日の朝陽におけるニュースのまとめを調べた。あの出来事について情報を集めるのが目的だ。 

「まさかの大見出しか。」

 基本的に事故・事件は滅多に起こらないため、人死の案件はニュースとしてむしろ疎まれる傾向がある。昨日の出来事は、誰かが死んだわけでもなく、かつ謎が残る事件だから注目を集めるにはちょうどよかったのかもしれない。


『偽の通報!!謎の現場!!

 四月十九日深夜零時過ぎ、朝陽第四自然公園において重傷人がいるとの通報があった。駆けつけた救急隊員三名はその姿を確認できず、公園を捜し回ったという。結果的に重傷人を発見することはできなかったが、通報があった現場は木々が大きく倒れ、地面にクレーターのような穴があり、所々には血痕も確認されたという。現在、警察は事故・事件両面を視野に、関係していると思われる通報者、並びに重傷者を調べるとしているーーー』


 他にも、『憩いの場での悪質な迷惑事件』『真夜中に起きた怪奇現象』など様々なメディアで取り上げられていた。

 (自分のスマホで通報したから、バレるのも時間の問題か。有次は今の状況を知られたくなかったから、病院に行くなって言ったのか?)

 今の状況というのは、この信じられない回復力のことだ。これを有次は自覚していたから、あの状態でも絶対に死なないと言えたのだろう。

 つまり、これは偶然ではなく、からくりがあるということだ。

 謎は深まるばかりだ。 

 しかし、それがこの状況でも特に狼狽したり慌てたりしない理由でもある。何が起きているのか、起きていたのかを全く把握していないからだ。

 (笑えない冗談だな。)

 胸を張って友と言えるように、有次のことをもっと知ろうとした。この一週間で変わったことはないが、それが逆に彼を救う結果に結びついたとも言える。

 自嘲気味に笑みをこぼした。


                    *


 月曜日であるが、流石に二人とも登校できる状態ではなかった。

 遅刻は確定しているし、回復力が規格外とはいえ有次から目を離すわけにはいかない。そして目下の問題は、

「とりあえず、掃除をしよう。」

「そうですね。」

 家の外、玄関周り、廊下、リビング。昨夜、血まみれの有次を手荒く連れ帰った影響で、床や壁のあちこちが血だらけだった。特にひどいのは、廊下とリビングだ。血が黒くなって固まってしまっている。手負いの山犬が家の中で暴れ回ったと言っても疑われないだろう。

 こまめに有次の容態を確認しながら、手分けして掃除を始めた。水をたっぷり含ませた雑巾で拭き、除菌・抗菌シートで隅々まで綺麗にした。

 数時間経って掃除が終わると、昼食の前に交互に風呂へ入った。翔は昨日からずっと入っていなかった。

 体を少しは動かしたおかげか、だんだんと気持ちに余裕ができた。

 リビングでくつろぎながら、翔はある話題を振った。

「草薙・ラーンウォルフ・新夜を知ってるか?」

「はい。先週からよくニュースで取り上げてますよね。そういえば、兄さんたちと同じ学校に通ってるんでしたっけ?」

 翔は頷いた。あれだけメディアが学校に来ていたのだ。最近のニュースはよく確認していないが、既に新夜が朝陽第一高等学校に在籍していることは周知ということだ。

 ただし、問題はそこではない。

「幸一のお父さんと新夜のお父さんは共同研究をしているけど、以前から家族間の交流はあったりしたのか?」

「なかったですよ。僕は会ったこともないです。」

「じゃあ有次も?」

「はい。兄さんもないと思いますよ。ニュースを見ても特に興味を示さなかったので。」

 幸一がそう言ったなら、その可能性は高いだろう。

 新夜から聞いた話とも、矛盾はなかった。

 久遠家とラーンウォルフ家に交流はなかった。だから、有次と新夜は、先週の月曜が初対面だった。

 納得はしながらも、確信してはいなかった。まだ疑ってしまう余地は残っている。

 やはり、一番引っかかるのは、とある二つの単語。名前なのか、それとも別の意味で呼称しているのか。詳細の意味は不明のままだ。

「言ってなかったんだけど、有次が突然変わっちまったのは、草薙・ラーンウォルフ・新夜と出会った時なんだ。」

「えっ!?」

 それはつまり、一週間も家を空け、誰とも関わろうとしなかった原因が、新夜にある可能性が高いということだ。

「あの日、俺が登校した時には、既に草薙・ラーンウォルフ・新夜は教室にいた。新夜がうちの学校に転校してくること、そしてクラスが同じになること、それらはみんな事前に聞かされてなくて、突然新夜がやって来たんだ。学校はお祭り騒ぎで、特に、うちのクラスにはまあ人が殺到したものさ。やがて有次が教室に入ってきた。有次は、痛いのか右目を手で押さえていたし、具合も悪そうだった。まるで有次を待っていたかのように、新夜は有次に近づいた。そして、有次は新夜のことを『サイファー』、逆に新夜は有次のことを『フェイカー』と呼んだ。」

 月曜の出来事を思い出しながら話していたが、ここで一回幸一を見る。

 その単語に初耳、といった様子だった。

「少し会話した後、新夜は帰って、有次も学校を出ていった。その時の二人の様子は、仲が悪いとも言えるけど、俺には、ちょっと違って見えた。有次からは、憎しみ、のようなものを感じたんだ。でも、新夜から憎しみは感じなかった。むしろ…………。そこからだ。有次がおかしくなっちまったのは。」

「そうだったんですか。」

「もしかしたら、この一件も、新夜が関わってるのかもしれない。ただ、目覚めた張本人に話を聞くのが一番だな。」

 まだ目覚めぬ友を見る。

 こちらの苦悩も知らず、小さな寝息を立てている。

 すると、

 ピンポーン。

 閑静だった家の隅々にまで届いた。妙に大きく聞こえたその音は、二人にとって一番聞きたくない音だった。

 幸一は何も言わず首を横に振る。通販、宅配の可能性はない。父親の帰宅も薄い。学校を無断欠席したから、誰か来たのか。

「………………」

 恐る恐る外の人物を、インターフォンの小型モニターで確認する。

「……?」

 そこには真っ黒なスーツ姿の若い男性が一人、姿勢よく立っていた。明らかにただ者ではない。

 暫く様子を見ることにしたが、一分、二分と経ってもピクリとも動かなかった。インターフォンを押した後、視線すら動かさず直立不動で待機している人を初めて見た。

 居留守を決め込むつもりだったが、どういうわけか、男は一向に帰ろうとしない。

 まるで、家の中に誰かがいるのを初めから知っているみたいに。

 男の纏う雰囲気から、直感なのだが、警察ではない気がした。

「……あの、どちら様ですか。」

 翔が出るのは不自然であるため、代わりに幸一が応じた。

 その男はさんざん待たされたというのに嫌な顔せず、機械のように口だけ動かしてこう言った。

「私の名前は月影といいます。」

 聞いたことのない名前だ。幸一も知りません、と囁いた。

「何かうちに御用ですか?」

「こちらに久遠有次君はいますか?」

「!」

 有次の名前が出てきたことに二人は驚いた。そして違和感を覚えた。

 (通報した俺がバレるのはいいが、どうして有次の名前が出てくる?)

「今はいません。失礼ですが学校の方ですか?」

 幸一は慎重に言葉を選んだが、この何気ない一言で、月影はここに有次がいることを確信した。

 彼は多様の人間の多彩な行動を見てきた。例えば、知らない大人が訪ねてきて兄の行方を聞いたとする。自分が事情を知らなかった場合、わざわざ訪ねてきたぐらいだから、何かしらの事態が起こっていると考えるだろう。だから一番初めにこう聞く。何かあったのですか、と。しかし幸一は、兄の心配よりも先にこちらの正体を暴こうとした。つまり、兄の居所や状況について知っている可能性が高い。出かけたのなら、目的地をしっているのか、それとも、家にいないという前提が間違っているのか。

 あくまで経験則であるが、こちらが有次の名前を出した時に一瞬息を呑んだのを、マイク越しといえど聴き逃してはいなかった。加えて、一回一回返答まで時間が空いている。

 彼にとって細かい変化こそが大きな手がかりなのだ。

「私は学校の関係者ではありません。そして、警察の関係者でもありません。」

 嘘ではないのだが、インターフォン越しの彼の警戒心を緩ませるには最適な言葉だ。

 相手は、ますますこちらの正体がわからなくなっている。

 仕掛けるのなら、今だ。

「一つだけ聞きます。彼は生きていますか。それとも死んでいますか。」

「!!!」

 (どういうことだ。こいつは有次がこの家にいるって気付いたのか? どうしてだ?)

 月影にも、確証があったわけではない。しかし、それに近い推察があった。

 血痕。

 朝陽第四自然公園から久遠家までの道で、いくつかの血痕を見つけていた。一般人では血だと気付かない程度の量で、あちこちに。

 実は、昨夜翔が有次を見つけたとき、傷から流れる血は固まってほとんど止まっていた。加えて、有次の傷の大半は正面側だったため、翔の服の背中部分に吸収され、滴り落ちることはなかった。つまり、運んでいる最中ボタボタと血が流れていたわけではないのだ。だから、血の道が残ることはなかった。

 それでも、血痕はどこかに残る。その道のプロなら血の跡を気にしたりするが、翔はあくまでただの高校生。そんなことにまで気は回らない。

 血痕がこの家で止まっていることから、ここに有次が運ばれた可能性は高い。一度は通報したことから、有次本人に止められたことと、何も知らない一般人が有次を運んだということを、容易に想像できる。そして、自分が姿を現しても有次が出てこないことから、有次は意識を失っていると予想できる。

 ここは久遠家。運んだのは、弟の久遠幸一だろう。

 有次の人柄を知る月影は、彼が弟に自分の正体を打ち明けるとは思っていない。弟がを見たら、兄の秘密を知りたいと思うはず。 

 だからこう言った。興味を餌にしたのだ。

 本意ではなかったが、月影も任務を任されている身。そして何より、彼の安否確認は最優先事項だ。事を荒立てずに家に入るには、こうするしかなかった。

 (申し訳ありません、有次さん。)

 心の中で謝罪する。

「私は、ただ彼の状態を確認したいだけです。彼をどうこうしようとは考えていません。」

 暫くの後、ガチャンと鍵が開けられ扉が開いた。

 出てきた少年は、何も言わずに男を家の中にに迎える。

「ありがとうございます。」



 幸一は男を連れて、リビングへと入った。

「おや、あなたもいましたか。篝翔君。」

 翔は驚きを隠せない。この男と面識はないからだ。

「なるほど、彼を運んだのは君ですね。」

 月影の中で、最後のピースが揃った。

 先ほどの考えでは、一つ疑問点があった。久遠幸一では、公園から自宅まで有次を運ぶことが難しいことだ。しかし、ここに篝翔がいることで合点がいった。翔の体躯は大きく、運動部に所属していることから筋肉質だ。細身の有次を運ぶことは可能だろう。

 二人の突き刺さるような視線を無視して、窓側で眠っている有次のもとに近づく。

 男は有次を見ると、一瞬顔が和らいだように見えた。ベッドの毛布をはぎ、傷の様子や脈拍を確認した。

 部屋をぐるりと見回した。あるものが目に留まり、近づいて行く。それはゴミ箱だった。中には大量の血だらけの包帯やタオルが捨てられていた。

 月影は、有次が負った傷の初期の具合を知らないため、今の段階でどれだけ回復しているのかを知ることが出来ない。そのため、別の情報を頼りに推測を立ててみることにしたのだ。

「この調子ですと、明日で完治するかもしれませんね。」

 有次に毛布をかけて立ち上がると、今度は翔や幸一に向かって、

「見るからに、大した休息をとっていませんね。彼ならもう大丈夫だと思うので、しっかりとした食事と睡眠を推奨します。あなた方が倒れては、元も子もありませんから。」

 翔は男の言葉に一切耳を傾けることなく、勝手に話し始めた。

「あんた何者だ。どうして。」

「そう警戒しなくてもいいですよ。」

「有次がどうしてこうなったのか知ってるのか?」

「そう矢継ぎ早に聞かないでください。」

 翔が敵対心剥き出しなのは、あえて翔の名前を口にすることで、月影がそう仕向けたからだ。この家に入ろうとしたときに、既に邪道を使った。なら一層ヘイトを買って、彼らに有次を守ろうという意識を強く持たせるためだ。

「ただ、どちらの質問にも私は答えかねます。」

 翔は相手を鋭く睨みつけた。


「まず私の事については、私の口から言うことはできませんし、あなたにとってそこまで重要ではないので、機会があれば彼から聞いてみてください。そして彼の事についてですが、………これも私からはお答えできません。」

「どうして!?」

 食い下がるが、月影の視線からは自分の言ったことを曲げない意思を感じた。

 それでも、

「俺はもう見ちまったんだ。昨日のひどい光景も、傷だらけのこいつも、そしてありえない早さで回復していく様も。バカな俺でもわかる。有次は普通じゃあない。でも俺にとって有次は『有次』だ。どんな過去があろうとも、どんな秘密を持っていようとも、『あいつ』を助けるって、親友ともでいるって決めたんだ。だから知りたいんだ。」

「なら尚更、私からではなく、本人の口から聞くべきことではないのですか?」

 翔は何も言い返せなかった。

 スーツの男が、意地悪でそう言ったのではなく、自分を諭すためにそう言ったのだと気付いたから。

 もしこの男が有次について語って聞かせたところで、その言葉を鵜呑みできるほど信用していないし、そもそもそんな上辺の情報だけが聞きたいわけでなかった。それを知った上で、有次の心を知りたかった。それができるのは本人しかいない。

 この男が言っていることは正しい。

「私はあなた達より彼のことを知っています。でもそれは、私が彼にとって大切な人間だからではありません。むしろその逆です。彼は、自分にとって大切な人たちには、その秘密を明かさなかった。どうしてかは、私にもわかりません。ですが、これだけは言えます。彼は、あなた達を一番に考えていると。」

 翔と幸一にとっては、もはや言われるまでもないことだった。

 月影は篝翔から感じた。後悔と無力感。そして、次こそは選択を間違えないという強い意志を。

 久遠幸一から感じた。無知に直面したこと故の自己への蔑み。そして、これからは兄の隣を歩きたいという共生の意志を。

 この時、初めて月影は笑った。貼り付けたかのような機械的な笑みではなく、感情の籠った本心の笑みだった。

「あなた達は優しいのですね。これからも彼の側にいてあげてください。彼には、あなた達のような人が必要ですから。」

 そう言って、月影は音もなく家を去った。


                     16


「これがクレーンゲーム!?」

 珍しくもないゲームセンターの一角で、白髪の彼は子供のようにはしゃいでいた。

 草薙君が学校に来てから数日が経った頃。勢い、というか、流れ、というか、自分でもよく分からないまま彼と一緒に商業区に来ていた。それも二人っきりで。

 彼は、商業区センタータワー十三階のゲームフロアに来て、今、目の前でクレーンゲームに没頭している。

 正直彼から話しかけてきた時は驚いた。自分のような暗いクラスメイトに話しかけてくるタイプには思えなかったからだ。体育の授業ではサッカーをそもそも知らなかったり、クレーンゲームも初めて見たような反応だ。とても不思議な人だと、素直に感じた。

「ねえ、これ全然取れないんだけれど、コツとかわかる?」

 急に振り返ったから、少しびっくりした。

「この台はアームが弱そうだから、掴みにいくよりも、引っ掛けて落とすことを意識した方がいいかも。」

 新夜ははじめの言葉を噛み締めて、再び台に向き合った。

 中の景品は、毛糸で編んで作られた、大きくて写実的な向日葵。女の子が欲しそうなそれを、新夜は何故か夢中で獲得しようとしている。意外な一面だ。

 アドバイスを受けて、アームを少し手前で止める。狙いは端だ。

 アームが垂直に降り、景品を越えて空を掴む。その状態のままアームが上昇すると、向日葵の茎の端が引っ掛かり、浮いた。数十センチ浮くと、やがてアームから落ち、その衝撃で初期位置よりも傾いた。

「なるほど、そういう事か。」

 コツを掴んだ新夜は、次の一手で見事に景品を獲得した。



 その後も幾つか景品を獲得した新夜は、大きな袋を手にしてフロアを後にした。

 他のフロアをぶらぶらとあてもなく歩き回っている最中、はじめは新夜に質問をした。

「ねえ草薙くん。今日はどうして僕と一緒に帰ろうって言ってくれたの?」

 言ってから、失礼なことを言ってしまったと反省した。もちろん新夜といることは楽しい。けれど、今の言い方じゃあ、それを嫌がっているようにも受け取られてしまうと思った。

 しかし、新夜は嫌そうな顔を微塵もしなかった。

「君となら話が合うかな、って思っただけ。もし迷惑だったらごめんね。」

 新夜の周りに人が集まる理由が、少しわかった気がする。

はじめ君、この前soraの作品を読んでたでしょ。」

「えっ?」

 soraとは、ひと昔前に一部で流行った小説家だ。書く内容が難解で、万人受けはしないものの、一定数のファンを獲得した謎多き作家なのだ。

 はじめが驚いたのは、そんな細かいところを新夜が見ていたことについてだ。

「う、うん。草薙くんも好きなの?」

 新夜は頷いた。

「本はよく読むんだけど、あの人の作品は奥深くて面白い。」

「そうだね。有次君も同じこと言ってた。」

 新夜は通りにあったカフェを指さして、ある提案をした。

「あそこで少し休憩しない?」



「この間、久遠有次と話していたけど、仲がいいの?」

「うん。」

「僕の親については知ってるよね?」

「確か、有次君の父親と草薙君の父親が共同研究をしているんでしょ?」

 新夜はコーヒーを一口啜った。

「実は、久遠有次については前々から知っていたんだけど、直接は会ったことなくて、それで彼を知っている人物に話を聞いて回っているんだ。」

 いつも周りに人が集まっているけど、意外と人見知りなのかもしれない、そうはじめは思った。

「もしかして、この間委員長と一緒にいたのって……」

「そう、少し話をね。今日もいい機会だし、君からも話が聞けたらなと思って。」

 はじめにとって、久遠有次は恩人であった。だから、彼のいいエピソードを話すことに抵抗はなかった。

「去年のことなんだけど、僕はある事件からみんなと孤立していて、それを助けてくれたのが有次君だったんだ。」

 はじめはゆっくりと語り始めた。


                    *


 世界が平和になっても、救いようのないゴミのような人間はまだまだ沢山いる。同盟の台頭によって、見えづらくなっているだけだ。

 父は、幼い僕から見てもダメな人間だった。酒、タバコ、たまに暴力も振るった。初めからそういう人間だったのか、それとも何かが原因でそうなってしまったのか、それを母は教えてくれなかった。

 母は、子供のことを思って我慢していたけど、父が仕事をトラブルでクビになったことで、離婚が決まった。

 僕が十一歳の時のことである。

 家は元々裕福ではなかったため、父がいなくなったことで心のゆとりはできたものの、生活は質素だった。それでも母も笑顔が増え、楽しい生活を送っていた。

 高校に上がると、バイトを始めた。本当はもっと前から始めたかったのだけれど、母はそれを許してくれなかった。

 家が貧乏だってこともあったけど、貯めたお金はいつか役に立つ、そう思ってバイトに勤しんだ。

 内気な性格から、友達はいなかった。バイトを率先していたこともあって、友達付き合いがなかったからなのかもしれない。それでも僕はそんなに気にしてなかった。

 今思うと、強がっていただけだった。

 成績は中間より少し上辺りをさまよい、運動は並程度、それなりにクラスメイトと話すけど目立たない、言ってしまえば平凡な高校生だった。

 二年に上がって間もなく、僕の人生は変わった。僕の意思に関係なく。

 遠くで暮らしていた父が、人を殺した。



「ねえねえ、あの人じゃない?」

「そうよ、よく学校に来れるね。」

「キモチ悪いんだけど、犯罪者の息子が。」

 教室に入ると、必ず一旦静かになる。

 会話していた人たちは僕を見て黙る。僕が歩くと目で追う。でも、誰も近寄ってこない。ヒソヒソとこちらに聞こえないように会話をするだけ。

 家族を心配させないために、学校は休まず通った。


「ごめんね~朧くん。みんなが、ね?」

「はい、大丈夫です。お騒がせして申し訳ありませんでした。」

 出勤日でもないのに職場に呼び出された時点で、覚悟は出来ていた。

 職場の制服と名札を机に置いて、その場を後にした。


 平和になった世の中で、むしろ犯罪者というのは珍しい。昔は毎日のように多種多様な犯罪がニュースで流れていたそうだけど、今は月に一回あるかないか。それも軽い犯罪ばかり。

 父は離婚した後、大阪で暮らしていたそうだ。連絡は一切取っていなかったため、ニュースで知った。

 人を殺した。くだらない理由で。

 父の個人情報はあっという間にネット上で拡散された。僕たちについても、そう時間はかからなかった。

 平和であるからこそ、僕たちは排斥対象となった。社会から、世界から、僕たちは要らないって言われた気持ちだった。



 家に帰ると、母は僕を抱き、泣いて謝った。

 母が僕の前で泣いたのは、離婚した時とその時の二回だけだった。


 毎夜、毛布にくるまって泣いた。




 恐ろしいことに、僕はそんな生活に慣れていった。

 人間関係が上手くいかず、バイトも転々としていた。学校ではいつも孤立していて、家では気丈に振舞った。

 母は引っ越しも考えていたが、朝陽は母子家庭や低所得者への支援が手厚く充実しているため、今の不自由ない生活を捨てることは出来なかった。


 夏休みが終わっても生活は変わらない。そう思っていた。


 新学期が始まってすぐに、教室で声を掛けられた。

「その本面白いよね。」

 左隣の席からだった。初め、僕ではない人に話し掛けたのかと思い、何も反応しなかったが、その人は知ってか知らずか話を止めなかった。それでようやく自分に話し掛けているのだとわかった。

 読んでいた本から目線を外し、左へ向ける。

 (…………?)

 誰だかわからなかった。見覚えのない顔。

 (……隣の席はいつも空いていたはずだけど……。)

 そこで気が付いた。顔を覚えていないのも、教室で僕に話し掛けてきたのも、彼が今までずっと学校に来ていなかったからだ。

 (確か名前は、久遠有次。)

 彼は、二年に進級してからほとんど登校していなかった生徒だ。前回の席替えで、今の僕の座席は彼の隣の席なのだ。

 どうして今まで学校に来なかったのか、どうして夏休みが明けたタイミングで学校に来始めたのか、気になることはあったけれど、それよりも僕のことを知らない彼の身を案じた。

 本を閉じ、無言のまま教室を出た。

 僕と話せば、彼も教室で孤立してしまう。せっかく学校に来たのにそれは可哀想だと思い、無視した。


 不思議なことに、彼はその後も、ふとした時に僕に声を掛けた。内容は授業のことや、行事のこと、ただの世間話など特別なものではなかった。僕はいつも無視して、ときには露骨に嫌そうな態度をわざと示した。それでも普通のクラスメイトとして接してきた。


 ある日、ひょんなことから帰宅路が途中まで一緒だとわかり、途中まで一緒に帰ることになった。

 これはチャンスだと思った。誰も見ていない二人きりの状況で、彼と話をしてみたかった。

 学校から離れた帰り道、僕は彼に質問をした。

「どうして僕に話し掛けてくるの?」

 それが、僕から彼に向けた最初の言葉だった。

 彼は解答に困った。子どもに、どうして地球は回ってるの?、と問われた時のような、どう答えたらいいんだろうと悩んだ様子だった。

「どうしてって……友達になりたいから、かな。」

「で、でも、僕は犯罪者の息子だよ!」

 その平然とした様子に、僕はつい興奮してしまった。

「うん、知ってる。」

「知ってるって、……なんで。」

 驚いた。知った上で話し掛けていたのだ。

「俺は学校に来たのが久しぶりでね、君をけ者にしてる連中と、俺のことを思って無視する君とを見たらつい。それに本の趣味も合いそうだし。ただそれだけ。迷惑だったか?」

 僕は、彼の話している内容が理解できなかった。変な生活に順応してしまったせいかもしれない。

「でも、僕は除け者にされて当然で……だって父親が人を……」

「それ、君と関係ある?」

 言葉に詰まった。

 恐らく、客観的に見れば誰にでもわかること。それ以上に、殺人を許容できる心がないから、拒絶する。平和な世界では、それが当然だ。

 でも、目の前の彼は、僕の心を代弁してくれた。

 どうして? どうして僕たちが? 何もしてないのに、どうして?

 その問いかけに、意味はないと思った。だから胸の奥に閉じ込めた。時々涙と一緒に溢れてきたけど、そんなものに意味はないと思った。必死に耐えて、必死に生きて、家族のために頑張らなきゃいけない。

 彼は、その心情を、短く簡単に言い表した。

 あまりにもサラッと言うものだから、一瞬怒りが湧いた。けどすぐにそれ以上の感情が溢れようとしていた。

「一人は、辛いよ。」

 遠くを見て、彼はそう言った。

 下唇を噛む。

「どんなに繋がりを断とうとしても、温もりは忘れられない。」

 下を向く。

「それにな、」

 彼は僕の前まで歩み寄ると、こう続けた。

「俺が孤立しても君がいるから、孤立したって言わないよね。だって二人だもん。」

 自虐めいた冗談を笑いながら言った。

 その言葉は、胸に突き刺さった。痛みじゃなくて、温もりを与えてくれた。

 じんわりと拡がるそれに身を任せると、驚くほどに周りが鮮明に見え始めた。

 誰かのために生きることは素晴らしいことだ。でもそれは、自分を蔑ろにする理由にはならない。きっと僕は盲目になっていた。孤独という病が僕を蝕んでいた。分かりきった簡単な事を見落としていた。家族とは、一方的に誰かが助けるものじゃない。助け合うのが家族だ。

 本当の気持ちを言うと、辛かったし苦しかった。一番苦しかったのは、このことを誰にも話せなかったこと。孤独だったこと。

「この後時間があるなら、ちょっと商業区に寄っていかないか?」

 彼は、真っ直ぐに僕を見つめる。

 僕は服の端で目元を拭うと、彼を真っ直ぐに見つめる。

 彼は、じゃあ行こうか、と言って僕から目線を切り、前を歩き始めた。僕は慌てて着いて行き、横に並んで二人で歩いた。

 彼は自信満々の割に、クレーンゲームが苦手だった。カフェでホットを頼んだのに、猫舌で全然飲めなかったり、買い物中に細かい二択でたっぷり時間を使ったり。

 久しぶりに心の底から笑った。



 学校に行くことは、辛いことじゃなくなった。

 彼と一緒に過ごした学校生活は、僕の宝物だ。それですぐに周囲は変化しないけど、僕と普通に会話する人が増えていった。きっと、僕自身が変わったからだと思う。

 委員長の波澄はずみさんにもかなり助けられた。彼女は真っ先に僕に頭を下げて、今までの状況を変える勇気がなくてごめん、て謝ってくれた。それに、あの時の冷たい環境をどうにかするのは難しく、僕が閉鎖的だったこともあって不可能だったと思う。僕は全然気にしてないし、むしろそう思ってくれただけでとても嬉しかった。



はじめ、少し変わった?」

 お母さんにそう言われた。

 僕は笑顔でこう答えた。

「友達ができたんだ。」

 お母さんも、笑顔になった。

 それは今まで見てきた無理矢理な笑みではなかった。



 僕は変わった。

 たった一人のクラスメイトのおかげで。

 それを他人にどう捉えられても構わない。

 僕は彼に救われた。

 家族のために頑張ることは変わらないけど、自分を大切にしようと思った。それが本当の意味で、家族に心配をかけないことだって知ったから。

 クラスが替わって、新しく友達ができた。その人たちには、必ず自分の話をする。決まって彼らは、話を聞いた後も友達でいてくれる。その度に、自分が朧一だと実感する。父とは関係のない、ちゃんとした自己を持った一人の人間だと。それを初めに教えてくれた人の名は、久遠有次。僕の大切な友達。


                    *


「有次君はあまり多くの人と馴染もうとしないけど、芯の通った優しい人なんだ。」

 新夜のグラスはとっくに空なのに、はじめのは疲れた喉を潤してもまだ半分残っていた。

「あ、ごめん。つい長く話してしまって。」

「ううん、聞いたのはこっちだからね。丁寧に応えてくれてありがとう。」

 はじめは一気に残りを飲み干した。

「確か彼には弟がいたよね。弟とはどんな感じなのかな?」

「幸一君のことだね。僕は一度しか会ったことないけど、とてもいい兄弟だよ。だって、幸一君の話をする有次君、いつもよりも優しい顔してるから。」

「そうなんだ。」

「最近彼学校に来てないけど、心配だね。」

 はじめは、首を横に振った。

「全然。」

 表情から、その言葉の真偽は簡単にわかった。


 その後しばらくして、二人は別々の帰路についた。


                     17


 四月二十二日、水曜日。

 連日、二人はリビングで寝た。机やソファを移動させ、有次の布団の隣に幸一、さらに隣に翔が布団を敷いた。有次を二階に運ばないのは、水道や風呂場、その他多くの物が置いてある一階であれば、突発的なアクシデントにも対応しやすいからだ。

 月曜の内に、二人は各々学校に連絡し、ひどく風邪をこじらせたことを伝えていた。もちろん今日も休むつもりだし、有次が目覚めるまで休むつもりだ。

 いくら容態が安定したとはいえ、心配や不安がすぐに消え去ることはなかった。口にしてないだけで、翔も幸一も夜は全然眠れず、結局目覚めるのが十時を過ぎてからだ。

 今日も例外ではなく、先に起きた翔でも、時刻は十時半過ぎだった。

 起きてすぐに有次を確認するのがもはや癖づいてしまい、半開きのまま上体を起こして横を見る。

「有……次……………?」

 有次が寝ていた布団には、誰もいなかった。

 ふと、正面の大きな窓の外、カーテンレース越しだがぼんやりと人の影が見えた。

 まるで夜中に家の外へ出るときみたいに、そっとカーテンをどかして窓を少しだけ開けた。

 今まで目を覚まさなかった人物が、そこにいた。

 庭に立っていた。

 こちらには背中を向けて、空を仰いでいた。

「おはよう、翔。」

「……………………ああ、おはよう、有次。」

 どうしてだろう。聞きたいこと、言いたいことが山ほどあるはずなのに、言葉が出てこない。

 有次が起きているこの状況に、まだ頭が追い付けていないのだろうか。どこか非現実的な感覚だった。

「翔………………………………お腹減った。」

 思わず笑ってしまった。

 いつもの有次だ。

「わかった。ご飯にしよう。」 


 

 翔は一人先にリビングへ戻り、キッチンで料理を始めた。暫くして有次がゆっくりとリビングへ入ってきて、椅子へ座った。

 お互い、何も言わなかった。ただ料理の音だけが、狭い二人の間を通り抜けていった。

 料理の音と美味しい匂いに誘われて、次第に幸一がもぞもぞと動き始めた。

「にい……さん……?」

「おはよう、幸一。」

「兄さん、……兄さん、どうして…………」

 聞きたいことがありすぎて、言葉に詰まった様子だった。

「ご飯できたぞ。」

 有次が何か言う前に、テーブルの中央にウィンナーとベーコンの皿を置き、加えてご飯、味噌汁、サラダ、目玉焼きを次々に置いた。

「幸一も、こっちに座ってご飯にしよう。」

 渋々有次の向かいに座った幸一。翔も同じく有次の向かいの席へ。

 三人一緒に手を合わせて、 

「いただきます。」

 有次と翔は、黙ってパクパクと箸を進める。

「幸一、とりあえず食え。話はそれからだ。」

 翔だって、聞きたいことが沢山ある。しかし、今まで有次はそれらを秘密にしてきたのだ。向こうに話す気がなければいくら問いただしても無駄だ。

 何日間も眠り続けていた有次は、相当エネルギーを欲しているはず。せっかく張本人が目覚めたのだから、そう焦る必要もないと翔は思っていた。

「………。」

 その意図を汲んでか、幸一も食べ始めた。

 人数が増えたのに、静かな食事になった。

 


「お前は怪我人なんだから、おとなしく座ってろ。」

 そう釘を刺された有次は、しょうがなくそのまま座って待機した。

 朝食の片付け、食器洗いは翔と幸一がやった。

 ちらりと横を見る。翔は、今にも鼻歌を奏でそうないつも通りの表情だった。

 きっと、自分以上に聞きたいはずだ。話したいはずだ。

 幸一は、いざ兄を前にして迷ってしまう気持ちとそれでも聞きたいという気持ちが混在して、ばつが悪そうにそわそわした様子を隠せないが、翔はそうではない。

 その理由を自分なりに考えてみた。

 もしかしたら、翔は待っているのかもしれない。

 久遠有次が心を開く、その時を。

 そうだとしたら、無性に自分が子どもだと自覚した。

 皿洗いが終わって手を拭くと、再び椅子に座った。

 しばらく誰も口を開かなかったが、

「今日は何日だ?」

 そう言ったのは、意外にも有次だった。

「四月の二十二日。」

 そうか、と小さく呟き、目線を落として考え事をしているようだった。

「何も、聞かないのか。」

 あくまで、こちらと目を合わせようとはしない。

「何か聞いてほしいのか?」

 翔が質問で返す。

「俺は、お前の口から聞きたい。」

「……………………」

 また俯いた。

 そして、こう言葉を絞り出した。

「すまない、まだ話せない。」

 意地悪で言ったのではない。苦渋の決断。本意ではない様子だった。前髪が垂れて顔はよく見えないが、大体予想ができる。

「それは、言えないのか、それとも言いたくないのか。」

「………………どっちもだ。」

 翔は背もたれに大きく背中を付けてため息を吐いた。

「わかった。」

 有次は立ち上がり、ギリギリ聞こえるくらいの大きさで、ありがとう、と言って二階へ消えた。

「ごめんな、幸一。」

「いいんです。」

 幸一が有次ともっと話したかったことに気付いていたが、それでも翔は待つことにした。そのことに付き合ってくれたことに謝罪したが、幸一はしっかりその意図を汲み取って理解していた。

 聞きたかった。知りたかった。もっと話したかった。でもそれ以上に、有次を信じる。

 それが、篝翔の選択なのだから。


 まもなくして、二階から有次が降りてくる音が聞こえた。しかし、リビングには戻って来なかった。

 二人はリビングを出ると、有次は玄関で靴を履いている最中だった。

 二階へ行ったのは着替えるためで、私服に着替えていた。

 こちらには気付いているはずだが、何も言わず家を出ようとした。

「有次。」

 振り返ることはなかったが、足を止めた。

「お前のこと、ちゃんと見てるからな。」

 しっかりとその言葉を聞き入れて、有次は家を出ていった。


                  18


 四月二十三日。一週間続いた快晴は終わり、久しぶりの曇り空が朝陽を覆った。

 この日、三日ぶりにある生徒が登校してきた。三年E組の生徒で、背が高く、茶髪が特徴の少年。


 教室に入るとクラスメイト達に囲まれて、この三日間についてあれやこれやと質問を投げかけられたり。しかし彼の耳には届いていなかった。

 チラリと窓側やや後方の席を確認する。

 (有次は来てない、か……。)


 自分のいない三日間で、どうやら自分は事故に巻き込まれたのではないかと噂されていた。その『事故』というのが、先日の深夜に起こった、朝陽第四自然公園での『怪奇現象』。事故のタイミングと学校を休むタイミングが重なったための憶測だった。まあ気持ちはわからなくもないが。


「元気ないみたいだけど大丈夫?」

 昼休み、珍しく教室で、購買で買ってきたパンを頬張っていると、委員長に声をかけられた。

「絶好調とはいかないが、元気健康だぜ。」

 波澄はずみには、いつも通りの光景がいつも通りには見えなかった。翔がどこか気を張っているように感じた。

「有次君とは一緒じゃないのね。」

「まあ、な。」

「何があったの?」

「どうしてそんなことを聞くんだ?」

「とぼけないで。」

 波澄の方を一瞥すると、真剣な眼差しをこちらに向けていた。翔が学校を休んでいたのは、有次が関係していると睨んでいたのだ。流石に鋭い。

 少し迷ってしまう。実のところよく事態を把握している訳でもなく、現実離れした話になる。無駄に心配させたり怖がらせたりさせるのは避けたいが、彼女が真剣に有次のことを考えていることは知っている。情報を隠し続けることがいいことだとは思っていない。

 翔が口を開こうとした時、

「ごめん、ちょっとお手洗いに行ってくる。」

 教室後方の騒がしさの渦中にいた人物。

 草薙・ラーンウォルフ・新夜。

 大勢の女子達に囲まれた昼休みの最中、一人席を立ち教室を去っていった。残された女子達は再び騒がしく話し始めた。

「わりぃ委員長、俺もトイレ。」

 新夜の方を見ていた波澄は、

「ちょ、ちょっと!」

 慌てて呼び止めようとするも、足早に教室を出て行ってしまった。


 教室を出た翔の目には、一人の男しか映っていなかった。

 ついさっき教室を出た転校生。

 翔は彼を呼び止めるわけでもなく、駆け寄るわけでもなく、まるでストーカーのように離れたところからついていく。

 新夜はトイレには行かなかった。トイレを通り過ぎて、奥の階段を上がっていった。

 (どこに行く気だ?)

 三年生の教室があるのが四階。下級生達はその下の階に教室がある。四階より上の階には実験室や生徒会室、職員室などがあり、どこも許可なく立ち入りが禁止されている。理由がない限り基本的に五階には上がらないだろう。

 可能性があるとしたら職員室。授業で使うような教室は昼休みだから閉まっているし、生徒会室も、さっき波澄が教室にいたことから集まりがあるように思えない。そもそも新夜が生徒会に入っているとは考えにくい。もしかしたら職員室に用があるのかもしれない。そう考えた翔は、すぐさま考えを改めた。

 (ならどうして嘘をついた?)

 よほど誰にも知られたくないのか?それとも別の理由が?

 考えている内に、新夜はさらに階段を上がっていった。

 (おいおい、その上にはもう何も……いや、何もない屋上が目的か?)

 校則で屋上への出入りは原則禁止となっている。そのため屋上に出るためのドアには鍵がかけられていて、入ることができない。翔のように裏技でも使わなければ、ドアは開かない。

 はずだった。

 ドアの前に立った新夜は、平然とドアを開け放った。

 真下の階段にいた翔には、ガチャンと開けられた音のみ聞こえてきた。

 (開いている? それとも開けたのか?)

 もう一度ガチャンと、ドアの閉まる音が聞こえたのと同時に、蛇のように音を立てずにドア横の壁にペタリと背中をつけた。

 ドアの上部には、小さいが透明のガラスが埋め込まれていて、そこから屋上の様子がうかがえるようになっている。いきなり覗くとバレる可能性があると考えた翔は、しばらく耳をそばたてることにした。

「そんなに出さなくても気付いてるよ。」

 よく聞き取れなかったが、

 (他に誰かいるのか?)

 壁に耳をつけるように一層聞き耳を立てた。

「それで? 一体僕になんの用かな?」

「…………どうしてだ。」

 (!?)

 朧げに聞こえた声は、ある人物の声に似ていた。

 確認すべく、ドアの正面に移動し、ゆっくりと体を上げて屋上を覗き込むんだ。

 (有次!)

 新夜が話している相手は、久遠有次だった。

 制服姿の有次が新夜と相対していた。

「どうして俺は生きている。」

 有次は鋭い眼差しを新夜に向けているが、心中では戦意が皆無だった。それは自分が新夜てきに生かされているから。今この瞬間、相手が襲いかかってきてもそれを退けることはできないから。だから有次の中に戦闘という選択肢はなく、対話に望んだのだった。

「どうして俺を殺さない。どうして人類を滅ぼさない。お前は、一体何がしたいんだ!」

「それを今、君に教える必要、ある?」

「っ………。」

 有次は苦い顔をした。

「ただ、何を話すにしても、彼を招いた方がいいかな?」

 パチン、と新夜が指を鳴らした。同時にガタンと大きな音がした。

 屋上のドアが開いたのだ。そして前のめりのまま、倒れる勢いで翔が現れた。

 新夜は屋上の扉を閉める時、ヴァイスを使って、ドアノブが回った状態のままにして、さらに扉が開かないように固定していたのだ。合図とともにヴァイスは消え、そうとも知らずに扉に体重をかけていた翔が現れたのだった。

「翔!?」

「……。」

 二人は気まずそうに顔を合わせた。

「おや、思いのほか寄りかかってくれていたのかな?」

 有次は思わず叫んだ。

「どうしてここに来た! お前には関係ないから今すぐ帰れ!」

 (すまない翔。俺にはお前を守ってやることができない。だから………頼む!)

 二人の間を白髪の青年が遮った。新夜は翔の元へ歩み寄り、一言、こう呟いた。

「彼をあんなに傷つけたのは、僕だよ。」

 その瞬間、翔の顔は明らかに怒りに染まった。

「それをうたぐって僕のことを朝から見てたんでしょ?」

 翔は歯を食いしばりながら、必死に耐えた。新夜が得体のしれない存在で、自分が今挑発されていることを理解しているからだ。それはあの日の夜の惨状を見れば容易な結論だった。こいつとは関わってはいけないと、全細胞が訴えかけている。

「またあんなふうにして、彼を君の前に転がしてあげようか?」

 翔には、目の前で口角を吊り上げている新夜が悪魔に見えた。しかし、この悪魔の囁きで、翔の中の一本の線が切れた。

 たとえどんな状況だろうと、親友ともを傷つけると言われて黙っていられるほど情けない男ではなかった。

 新夜を挟んだ奥で有次が何か叫んでいるが、翔の耳には届かない。

 翔は右拳を血が出るほどギュッと強く握りしめ、新夜の顔めがけて思い切り拳を突き出した。少し助走をつけ、全体重をのせて殴りかかった。

 対して、新夜は片目をつぶりながらスっと真横に動き、簡単に躱した。

 人を殴ったことなどない翔は、空振りしたことでバランスを失い、勢いのままぎこちなく二、三メートル進んだ。

 そのたった短い間。

 新夜は通り過ぎた翔の真後ろに回り込み……

「翔!!」

 有次は慌てて神眼を発動させようとした。

 しかし、右眼が青く輝き出した時には、既に遅かった。

 ……音はなかった。

 そう、音もなく、静かに、冷たく、そして刹那に、翔の胸を金色の直剣が貫いていた。

「ァ……」

 自分の目の前で、本当にちょっと伸ばせば触れられる距離で、刺された翔がこちらに手を伸ばしてきた。

 この時、翔には自分の身に何が起こったのか全くわからなかった。大きな怪我や、ましてや刺されたことなど体験したことのない翔にとって、この激痛と、段々と体が冷たくなっていく感覚は、脳の処理が追いつかなかった。

 ただ、有次があまりにも酷く泣きそうな顔をしていたから、つい手を伸ばしたのだった。

「有………次…………」

 どうしてだろう。声がうまく出せない。

 翔の手と有次の手が触れ合うその直前、新夜が剣を翔の体から引き抜いた。

 一気に力が抜けて、翔は有次の方へ倒れ込んだ。有次は慌てて翔の体を抱きとめ、膝をついて支えた。

「翔……………………?」

 返事はない。

 血がしたたり、地面にはねる音だけがいや鮮明に残る。


 どうして。どうして、どうして、どうして、どうして。


 どうして、自分が生きてて、翔が殺されなければならないのだろうか?


 (俺は……また……何も救えないのか?)


 翔を抱いたまま呆然としている有次の前に、新夜は立ちはだかった。その影が二人を覆い尽くす。

「全てが己の過ちだと知れ。」

 新夜は冷酷に告げる。

 事実を。

 実際、この場に有次が戦うつもりで来ていれば、臨戦態勢を整えておけば、瞬時に神眼の能力を発動でき、翔を守ることなど容易たやすかったことだろう。

「失って初めて気付くものだ。その存在の大きさに。弱ければ、何も守れない。」


 いつの間にか、新夜の姿はなくなっていた。

 一体どれ程の時間が経ったのか。それともほんの数秒しか経っていないのか。

 すると、か細く、消えてしまいそうな声が聞こえた。

「ゆ……うじ。」

「!?」

 微かに翔の体が揺れた。

「もう動くな!!」

 言葉を遮るように、翔は力なく有次の服を握りしめた。苦痛に耐えようとしているのかと思ったが、そうではなかった。

「たすけに、なってやれなくて……ごめん……な……。ホント、……は、ゴホッゴホッ、……一緒に、背負って、やりたかった……。」

「……何、言ってるんだ…………………」

 慟哭を抑え、彼に届くように必死に叫んだ。

「何言ってんだよ! お前が……お前がどれだけ俺の救いになってたことか! 俺が今生きているのも、まだ『夢』を諦めずにいられたのも、お前がいなければ無理だった! それなのに…………お前は…………、お前ってやつは………………」

 翔はゆっくりと腕を動かした。有次の後頭部に手を置いてポン、ポン、と頭を撫でた。

 涙が、止まらなかった。

 力を弱めて、今度は子供に語り聞かせるような優しい口調で翔に語り掛けた。しかしそれは、どこか懺悔にも聞こえた。

「お前を救う方法を、一つだけ思い付いたんだ。成功する保証はないし、たとえ成功しても、それは…………きっと不幸にしてしまう。それでも……生きていて欲しい。自分勝手なわがままだけど、お前には、………………」

 翔は小さく微笑んだ。

「……信じてる。」

「…………どうして、そこまでしてくれるんだ?」

 憔悴している翔にもわかるように、丁寧にゆっくりと問いかける。

 それに対して翔は、短く、簡潔に、こう答えた。

「友達だからだ。」

 それは、言葉にしてみたらなんて事はないもの。

 こう言ってくれる人がいてくれただけで、有次は既に救われていた。


「――――ああ。」


 有次の体から、金色のヴァイスが溢れ出てきた。それはやがて翔の体へも移っていき、二人を包み込んだ。


 ヴァイスは段々と輝きを増していき、周りを金景色に変えていった。



「俺、翔に全てを知ってもらいたい。俺が何者で、どこから来て、何をしてきたのかを。……だから……………おやすみ、翔。」

 


 爆発したかのように、閃光は放たれた。

 二人の世界は光に溢れ、真っ白になった。




                     

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