死が二人を結ぶまで
「──死ぬって、なんだと思う?」
夏の夕焼けに染められた彼女は試すように笑う。
フェンスの向こう側、その手を離してしまえば風に流されて落ちる屋上にて。僕だけを前にして、彼女は恐れなど無いかのように自然に笑っている。
「わからない? それとも、答えたくない?」
返事に窮する僕を見て、彼女は言葉をつづけた。
わからないわけではないし、むしろ答えたくない気持ちが強くはあった。きっと答えてしまえば、それが解であれば、彼女は死んでしまうと思ったから。
「なんだ、私が死ぬとでも思ってるの?」
見透かすように言いながらも、しかし表情を一つ変えない彼女。それは酷く画になっていて、おかしなことだが、そこに生を見た気がした。
「大丈夫。キミが何を言おうと、それが理由で死なないから」
──むしろ、何も言わないのならそれを理由にして死んでやる。彼女は穏やかな口調でそう言った。
嗚呼、ならば一つ聞いてみたいことがあるのだ。
「え? 生きることを諦めているかって?」
暫し考える彼女の髪は風に梳かれて、酷く目を奪う。
「生きることを諦めてはいないよ。でもね、死ねない理由を否定出来てるから」
一瞬理解に迷う。
──生きることは諦めていないが、死ねない理由を否定出来ているから。
もう少しありきたりな返答が返ってくると思っていたのに、その口から放たれたのは『死ぬ理由を肯定できているから』でもなく『生きるのを諦めているから』でもなく『死ねない理由を否定出来ているから』だった。
思わずどういうことかと問えば、当たり前の反応だと言わんばかりに彼女は頷く。
「生きるってさ、何だと思う? 息をすること? 夢をかなえること? 誰かと愛し合うこと? 誰かを守る事? 挑戦を続けること? ……違う。どれも違って、どれもが正解」
寂しそうに呟く声は、あと少しのところで風にかき消されそうだ。
「じゃあ、死ねない理由って何だと思う? 誰かに愛されているから? 自分の可能性を諦めきれてないから? こんなところで終わりたくないって思うから? 自分が死ぬことで誰かが苦しむことを知っているから? ……これも全部正解」
風は強くなる。今にも彼女を連れ去ってしまいそうなほどに。
だのに、彼女は片手でフェンスを握ったまま流れに身を任せている。
「……私ね、死ねない理由を否定できちゃったの。出来たけど、生きることを諦めてるわけじゃない」
──これがどんなに虚しくて苦しいことかわかる?
そう言った彼女の困った笑顔は、生きたいと言っているように思えた。……少なくとも、僕にとってはそう見えた。
フェンスによって断絶された彼女との距離は、そのまま心の距離のようで、どれほど近づこうとも決して超えられぬ一線があるように思えた。
せいぜい僕が考えられるのは、たとえ死ねない理由を否定できないとしても、そうやって生きている間は苦しいだろうこと、そうやって生きることしか出来ない人がいることなどだ。
…………なら、死ぬってなんだ?
口から言葉は風に運ばれ彼女のもとへと届く。
「……私はね、ケジメだと思ってる。私が私として、これまでの人生すべてに影響を与えられる最期の機会」
寂しそうに彼女は呟く。
「死ねない理由を否定出来れば、もうちょっと楽になれると思ってたけど……待ってたのは地獄。無っていう地獄」
何もないことの苦しみならば、想像は出来る。
「違う、そうじゃないの。否定出来ちゃったその時に、全部が意味を無くしたの。生きることはもちろん、死ぬこともね」
理由なんてものは、人間が事象に対して意味を見出すための口実に過ぎない。では、そもそも意味が消えてしまったなら。そこには何が残るのだろう。
……嗚呼、だから彼女は最初にあんなことを言ったのか。
なら、それを探すためにもう少し生きてみればいいじゃないか。周りから何を言われようと、もはやすべて無意味なら、ただ死の意味を、その理由を探すために生きてみればいいじゃないか。そして、それが見つかった時に死ねばいい。
だから、何も生きようとしなくていいし、死のうとしなくていい。そうすれば、きっとその苦しみは意味を持つ。
「……キミは優しいね」
小さく笑う彼女は何処か力なく。
ああ、もったいない。そこまで考えられるのに、どうしてそこで死のうとするのか。そんな勢いに任せて死んだなら、意味なんかない。そうやって死ぬから自殺なんだ。苦しみから逃げるために死んだと思われるんだ。誰もがそうじゃないだろう。
「……なら、キミにとっての生き死にってなんなの」
そう言われて直ぐに答えられるほど固まってもいないし厚顔でもない。
だが、敢えて言葉にするならば。
そもそも、生きることに意味はない。意味を求めたがるのは人間で、だのに『生きる理由』を答えられる人間は少ない。一方で『死ねない理由』を答えられる人間は多い。
人間は生きることに対して酷く無理解だ。自身からの断絶と呼ぶにふさわしいほどに生きることに無頓着だ。そのくせ死ぬことに対しては多く考えを巡らせる。それが自分にもやってくる問題だと思っているからかは定かではない。
しかし、一つ言えるのは、生きることは幸福と苦しみをもたらすが、死ぬことは苦しみだけをもたらす。自分が生きることには無頓着だが、他人が死ぬことには口を出すのはきっと、誰しも他者の死によって、近しい誰かの死によってその苦しみを経験しているからだ。
そうやって経験したからこそ『死ねない理由』を答えられるのかもしれない。
……もちろん、それを「だから何だ」と言われてしまえばそれまでだが。しかし、そういったことをバカ真面目に考えてしまう奴ほど、生きているんだろう。
生きるとは何かなんざ知らない。でも、死ぬことがケジメだというのは一理ある。あるいは、復讐の一手かもしれないし、勝ち逃げかもしれない。
もっとも、僕にとって死とは恐怖以外の何物でもないけれど、もしそれを受け入れて、穏やかに逝けるのなら、その死はとても意味のあるものだと思う。
だから、つまりは、と口ごもる僕を見て彼女が笑う。
「なんか説得されてるみたいで笑っちゃった。人によっては告白に聞こえるかもね?」
また見透かすようなことを言う。
でも、だからこそ、こんなところで死んでほしくないんだ。
その言葉の奥底に込められた歪な感情を口にはできないけれど。
「──なら、それまで傍にいさせてくれる?」
「もちろん、そういう間柄としてさ」
彼女なら、もうすでにわかっているのだろうと。
夕焼けを背に立つフェンス越しの彼女は、酷く綺麗だった。
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