Ray
アルバイト先からようやく教会に到着する。
半開きになっていた教会の門に違和感を覚えつつも、クロスバイクを門の内側に立て掛ける。
今日は『聖女様のまなざし』四話まで見たいところだけど。
――聖女さまのまなざし、前回までのあらすじ。
お婆様の母校である憧れの聖マリディアナ女学院中等部に編入した主人公『由井野ウタ』は始業式に広大な敷地の中で野犬に追いかけられ、古ぼけた教会に迷い込んでしまう。
帰り道も分からず、狭いところが好きなウタは懺悔室で一人シクシクと泣いていると。そこに麗しの女生徒が現れ、ウタを優しく導いた。女生徒の凛々しい姿に目を奪われるウタだったが、その後参加した始業式で目にした『月見ディアナ』にも目を奪われる。
ウタは恋多き女の子、麗しの女生徒もディアナも気になって仕方がない。
周りの生徒に聞けば教会で出会った女生徒の情報は皆無、一方のディアナは高等部のお姉さまにして高嶺の花。ひとまずディアナに近づこうと彼女が所属する歌唱部に入部を目論むウタだが、歌唱部幹部による入部テストという名の洗礼を受けるのだった――。
という所で三話が終わったのだけど、次が気になるところだ。
四話の展開を想像しながら教会の大きな扉を開き、中へ入ると。
「……きみは」
スーツ姿の、三十代に見える疲れた表情の男性が立っていた。
ぼさっとした髪、少し伸びた髭。目元は弱々しく不安げで、ぱっと見ただけでも教会関係者とは思えない。
「えっと。ここで英語習ってます」
「そ、そうか。はぁ。私は何というか、ちょっと用事があってね。待たせてもらってるんだ」
男性は頭をポリポリとかき、ため息をつく。
先日少し喋ったアンジェの後見人のような、アンジェの学校の関係者かと思ったけれど。そういう訳でもないらしい。
男性は落ち着かない様子で周囲を見ると、最終的にステンドグラスを見上げた。
「ここに居ると落ち着かないよ。うちは仏教徒ではあるけど、神様に見られてる気がしてさ」
男性の視線につられるようにステンドグラスを見上げると、ふと昔見た映画が思い浮かんだ。
教会のシスターを追うマフィアが、シスターの事は銃で撃てない、と言ったシーンだ。
「確かに、教会ってそういう雰囲気ありますね」
思ってもない相槌をうつ。
子供の頃から知っている場所だけれど、僕はこの教会で神様を見つけた事は一度もない。この場には、神様は居ないよって教えてあげた方が良いのかな。
――それとも、ここの神様は、後ろめたい者の前に現れる神様なのかな。
「悪いけど、あの子のことよろしく」
男性の苦々しい声に思考が遮られ、何をよろしくなのか疑問を口にしようとした時。
扉が開かれ、目を伏せたアンジェが現れた。
「お待たせしました。こちら、お借りしていた……礼さん。どうして」
「いや、時間だったから」
アンジェはゲーミングノートパソコンを抱きしめると、微笑を浮かべた。
「連絡をしたのですが、仕方のない人ですね。そこで少し、待っていて下さい」
アンジェは男性へ向き直る。
「加藤さん。どうか、お気に病まずに。ブイスタで、お喋りをしていただけの私を見つけて下さったこと、感謝しています。お陰で、明るい世界があることを教えて頂きました」
無機質に聞こえる声色で優しい言葉が紡がれる。
男性、加藤さんは気まずそうに眉間に皺を寄せながら口を開く。
「……申し訳ない。ただっ、コチラとしても急な事で。なあ、だって、しょうがないよな。急にどうすればいいのか。せめてあるもの集めてどうにか――」
「いいのです。私は貴方を赦しましょう」
加藤さんの言葉を遮るようにアンジェは温かみの無い慈悲を与えた。
「ただ、すみません。今日はもう、お引き取り下さい。愚痴でも聞いて差し上げたいところですが、懺悔室の扉を閉じたのは、貴方でしょう?」
アンジェの微笑に加藤さんは苦々しく頷いた。
「では、このパソコン、お返しします」
アンジェが男性にノートパソコンを渡そうとするが――その手が止まる。
「あの。ラスティも、居なくなってしまうのでしょうか?」
先ほどまで静かだったアンジェの声が大きく響く。
「皆さんとは、もう会えないのでしょうか」
そこまで聴いて。
ああやっぱり、と。状況を理解した。薄く感じていた不穏の種が芽吹いたらしい。
アンジェの事務所、潰れたんだ。
「……もし、これからキミが人気になったところで社長に、アイツに権利を主張されるかもしれない。そんな面倒事に巻き込むわけにはいかないだろ」
加藤さんはノートパソコンをもらい受けると居心地が悪そうに、すぐにカバンにしまった。
「悪いとは思ってるけど、俺だってどうすればいいか分からないんだ。三十歳過ぎて、急に会社が、あの男が逃げて。キミはまだ若いから良いじゃないか……」
加藤さんはばつが悪そうに目を伏せる。
「もう会う事はないだろうけど。キミの健康を願っているよ」
加藤さんは足早にアンジェの元から立ち去り――。
「ああ、そうだ。これ、彼女に渡しておいてくれ。先月分の給料だって」
クシャッとした封筒を僕に押し付け、加藤さんは教会から出て行った。
僕が思わず教会の外まで追いかけると。
加藤さんが振り返った。
「なあっ、酷い大人だよな、俺。はっ、はは」
僕は何も言う事も出来ず。男性は今度こそ去って行った。
・・・
いっそ見なかった事にして逃げ出したい気分だけれど、受け取ってしまった封筒が重りのように僕の足を止めてしまう。何度かアンジェの事務所の危うさを感じる時はあったけれど、僕が口を出す事ではないのかなと思っていれば――。
決定的な場面にだけ、鉢合わせてしまった。
見るべきではない瞬間にのみ居合わせてしまった。
「……はぁ」
しばし暗雲を眺め、観念する。
押し付けられた封筒を手にアンジェの元へ戻ると、アンジェは微笑で僕を迎えた。
「連絡したのに。今日は、中止にしようって。アンジェからのメッセージは受け取らないといけませんよ?」
「ごめん、スマートフォン手元になくて」
アンジェは苦笑すると、小さく息を漏らした。
「社長が夜逃げだとかなんとか。資金繰りがどうとか。らしいですよ。礼さんは、もしかして気がついてました?」
ここで同意するのは簡単だけれど――。なんて考えているのはすぐにバレたようで、アンジェはクスリと笑う。相変わらず僕の考えている事など筒抜けらしい。
「私はダメです。疎いんです、そういう世上のアレコレ。ちなみにさっきの人は私をスカウトしたマネージャーです。気の毒なほど普通の人で。開き直れるほど素直なら苦しまずに済んだでしょうに、罪悪感があったみたいですね。ふふ、私もゴッズシスター失格です。ああいう時にこそ、悩みを聞くべきなのに」
アンジェは長椅子に座ると僕を見上げた。
「神父様。おじいさんが死んで、事務所が潰れて。その上時期は未定ですが、この教会もそのうち取り壊すらしいです。ふふ、笑えるほど持ってない女ですね、私」
暗い緑の瞳には僕が映っている。
「でも実は、今言ったことよりも、もっと私を揺らすことがあるんです」
「今の、より?」
「はい。聞いてくれます? ふふ、ほんと…………」
アンジェはボソリと呟くと、胸元をグッと握りしめた。
「昔から運が悪い方ですけど。こういう時に唱える、とっておきのオマジナイがあるんですけど。最近、効き目が悪いんです。それがショックで」
「おまじない?」
「ずっと昔から私を支えてくれた大事な言葉です。教えてあげましょうか」
断れるわけも無く頷く。
「心の中で『でも、あの子よりはマシ』って唱えるんです。それだけで救われたんです」
昏い緑の瞳には僕が映っている。
僕だけが、映って――。
「ねえ。私は――哀れですか?」
ゾッとするような声色で問われる。
これはきっと、アンジェにとって重要な意味を持つ質問。
哀れか否か。それは勿論、イエスとしか言えない。今のアンジェは不幸としか言えない。
「哀れ、だと思うよ」
どうせ嘘をついてもバレるのだから素直に思った事を口にすると。
「――ふふ、あははははははっ。レイに哀れって言われちゃった。惨めって言われちゃった」
そこまでは言っていないけれど……。
アンジェは自分の胸元を広げ手を入れると小さな十字架のネックレスを取り出し、しばらく眺めると。カツン、と長椅子の上に手放した。
「アンジェ?」
「もう帰ってください。気持ちを入れ替えてまた会いましょう。ね?」
帰るように促されるが、素直に頷くわけにもいかなかった。
「優しいんだ。駄目ですよ、私にだって怖い日があるんですから。きっと今日は、アンジェ史上、一番ヒドイ日になるかも、です」
遠ざけるようで、その実、引き寄せるような言葉だった。
アンジェは間違いなく、僕に何かを求めている。
「帰らないのなら、隣に座ってください。八つ当たり、しちゃいますから」
促されるまま隣に座り、アンジェのマネージャーから受け取った封筒を手渡す。
「バカですよね、このお金。中身は三万円ですか。きっとあの人のポケットマネーですよ。四月からラスティとして活動して、この前ようやく収益化が通ったのですから。手切れ金ですかね。これから、だと思っていたのですが。上手くいかないものです」
アンジェの顔には涙は浮かばず、微笑だけが張り付いている。
「ねえ、礼さん。私はこれでも恵まれていると思っているのです。今回は上手くいきませんでしたけど。バーチャルの世界の楽しさを知れましたし、悲しい時にはこうして貴方が現れてくれました。ラスティとお別れは、少しだけ堪えますけどね。はあ、うまくいかないなぁ。やっと見つけた、楽しいことだったのに。無くなっちゃった」
普段よりも砕けた口調はアンジェの心情を表しているみたいだ。
「どうせなら、あの人、悪者になってくれれば良かったのに。ズルいと思いませんか。こんなものを渡して自分は謝ったつもりになって」
初めて会った自分でさえ先ほどの加藤さんからはお人好しのような雰囲気を感じた。
アンジェの性格では、あの人には八つ当たりも出来ないかもしれない。
「ポコッと、やれたら少しはスッキリしたかもしれないのに。あ、でも私、実は運動神経が悪いので。上手く殴れず余計にフラストレーションが溜まってしまいそうです」
「その三万円、ぱっと使ってみたら?」
「それは良い提案です。暴飲暴食、縁のないものですが頭の片隅に置きましょう」
やりもしないだろうに、アンジェは頷き、胸の前で指を組み――すぐにその手を解いた。それはもう祈る意味が無いかのような仕草だった。
「礼さん。私は、恵まれているんです。家もあって、部屋もあって、食事もあって、学校にも行けています。私よりも不幸な人はたくさんいます。ねえっ、そうですよね?」
「……そうだね」
語気が強くなるアンジェに、頷く事しかできない。
「ふ、ふふふ。そうですよ。そうなのに。……もう、ぜんぜん安心できません。ずっと怖いです」
アンジェは微笑が張り付いた顔で息を漏らす。
「配信で私に悩みを打ち明ける人に、自分よりまし、全然良いじゃんって言う人がいます。どうしてそんなことを言うのでしょう。少しでも恵まれていては、弱音を吐くことも許されないのですか。可哀想なもの同士くっついて傷を舐め合いましょうよ。そうするべきなのに」
アンジェにじっと見つめられる。
「レイにはほんと、がっかりです。傷を舐め合えると思ってたのに。ほんと、解釈違い」
それは他でもない僕への言葉だったけれど、心当たりはまるでない。
そうしてそんな僕の心情を見透かしたように、アンジェは冷めた視線を寄こした。
「ずっと昔。親戚の誰が私を引き取るのか揉めていた夏に、この街に来ました。私を哀れんだ神父様がひと夏だけ預かってくれたのです。当時の神父様は教職も兼任していたとかで、私を引き取る余裕はなかったらしいですが、それでも夏だけはって……。ふふ、おじいちゃん、ほんと良い仕事をしてくれました。私はここでアナタという光を知ることが出来たのですから」
「……光?」
アンジェは立ち上がり僕を見下ろした。
「その夏。私、アナタを四回だけ見ました。レイは今よりもずっと表情が無くてお人形みたいでした。話しかけてみたかったのですが同じ言葉は持っていなかったので眺めるだけでしたけど。ブランコに座っている貴方は本当に抜け殻みたいで可愛かったんですよ?」
きっと、当時の僕を心配した母が週末のミサに連れて来た時のことだろう。
「……三回目のミサが終わった時、アナタのお話をリリーさんから伺いました。きっとリリーさんは私がアナタのお友達になることを期待していたのでしょう。同情して欲しかったのでしょう。私もアナタの虚ろな表情が気になって、多くのことを聞き出しました。その時まで、私は優しい女の子だったのに。喜びを知ってしまいました。アナタが事故に遭い血まみれで生き残ったこと、泣かないこと、わがままを言わないこと、人に触れられるのを怖がること。もし友達になったらアナタに優しくしてあげて欲しいと言われて……嬉しかった」
アンジェの瞳が僕を捉えると、昏い光が灯り――。
「自分より惨めな子供がいて、嬉しかった」
クスリとも笑わず、アンジェの柔らかく暖かな手のひらが僕の両頬に触れた。
「まだ血の通う体温は恐ろしいですか、レイ」
「っ」
かつて事故に遭った日。
僕を庇ったお母さんからごぽごぽと溢れ出た血の暖かさを思い出す。
あの日『おれ』の誕生日に一緒にケーキを買いに行くとさえ言わなければああはならなかったかもしれない。手を引けていればあんな――その後悔が浮かび上がる。
「レイのおかげで、私は生きてこれました。あの日のアナタと一緒ならずっと」
両頬から伝わる暖かさに血の気が引くと、それに気がついたアンジェは嬉しそうに目を細めた。
「ただ一人、私が哀れに思える男の子。イギリスに帰った後もアナタを思えば慰められた。親戚の中で一人だけ髪が赤いことも、目がくすんだ緑色なことも、どこの誰ともしらない男が父親のことも、親戚の間で持て余されていたことも、お婆様に疎まれていることも、誰にも望まれずに生きていることも……お母さんが迎えに来てくれない事も。あの日のアナタを思えば癒されたんです。下には下がいるんだって。私はあんなに感情の抜け落ちた惨めな顔はしていないって。『あの子より、マシ』って。大好きなんですレイ。アナタは私の癒しであり、光だったんです――なのに」
昏い緑の瞳は僕に失望したような視線を向けている。
「アナタは私に断りも無く勝手に立派に立ち直ってました。哀れなのは、やっぱり私でした。それが他の何より辛いです。裏切りですよ。一緒にジメジメ、惨めに生きる仲間だったのに。レイは、誰よりも不幸でいなくちゃいけないのに……ね」
アンジェが僕へ向ける微笑の奥には、この昏い感情が蠢いていた。
そしてアンジェと違い愛されて育った僕はと言えばこれだけ酷いことを言われたのは生まれて初めてで、なんだか無性に悲しい。僕では、アンジェの気持ちを理解出来ないことも、悲しい。
「あーあ、言っちゃった。言うつもりなんてなかったのに。アナタとの遊びも少しは楽しかったのに。私、大切に並べたドミノを途中で蹴飛ばしたくなる性格なんです。急でビックリしちゃいましたよね。八つ当たり、失礼しました」
土石流のような感情を垂れ流したアンジェは僕から一歩、また一歩離れていく。
レイ。英語にすれば、一筋の光。
アンジェは見当違いの光を、僕に見出していた。
「こんなことなら、同じ言葉、覚えなければよかった」
そう言われた時、自分の中の気持ちにようやく説明がついた気がする。
――僕ってアンジェの事が好きだったんだ。
「アナタのこと、嫌いです」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
☆や♡レビューありがとうございます!
評価いただけると励みになります!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます