アンジェ先生の英会話教室

 吉野さんとの雑談を終えクロスバイクを走らせる事しばらく。

 ギギギと錆びれた音を鳴らす教会の門を開けると、シンプルな黒いワンピースを着てオレンジの髪をポニーテールに纏めたアンジェが奥から現れた。


「礼さん、お待ちしていましたっ。自転車は適当なところにお止めくださいね」

「……」

「いかがしました?」

「いや、じゃあこの辺りに停めようかな」

「今からお勉強なのですから、ぼーっとしていてはいけませんよ?」


 私服のアンジェって、可愛いかもしれない……。こんな事を思うのは初めてな気がする。

 クロスバイクを門の内側に立て掛けて、先行するアンジェを追う。


「先生、勉強はどこでするんですか?」

「ふふ、先生だなんて慣れませんね。奥の部屋が丁度良さそうなので案内します」


 堂内は十字架のような形をしている。十字の右側、パイプオルガンの前を通り過ぎると扉があり、その先には細い廊下。

 子供の時に何度か訪れた事のある場所とはいえ、こうして裏側にまで入るのは初めてだ。


「ここからは中庭が見えるんですよ。ほら、あのブランコ、見覚えありませんか?」


 窓の向こうには一本の大きな木が生えており、太い枝には一人用のブランコがぶら下がっていた。むかーし、一度遊んだ事があるような……。


「勉強が終わったら遊んでみますか?」

「遠慮しとく」


 アンジェの後を追い辿り着いた木製の扉の奥には、こじんまりとした部屋があった。ローテーブルを挟むように二人掛けのソファが二つ。小さな本棚が一つ。それと。


「この窓、教会って感じだ」

「窓ですか?」

「こういう形のやつ」


 上部が丸く、下部は角ばった形。


「これはゴシック様式と呼ばれるものですね。すっかり見慣れていましたけれど、確かに珍しい形かもしれません」


 エアコン以外の現代的な家具がない分、なんだか落ち着く雰囲気の部屋だ。


「それでは、勉強を始めましょうか。たっぷり反復練習することが、上達の秘訣です」


 アンジェの柔和な笑みにすっかり気を許した僕は無警戒にソファに腰を下ろした。


・・・


「――あのぉアンジェせんせぇ。もう飽きたんですけど。そろそろ次の話に」


 勉強をはじめてそろそろ二時間が経とうとしていたが、隣に座るアンジェが終了を言い渡す様子はない。


「駄目ですよ。しっかり集中して、もう一度、次は英語音声、英語字幕です。頭の中で日本語を英語に変換して理解するのではなく、英語を英語として理解してください。だんだん英語でも何と言っているのか分かって来たでしょう?」

「でも続きが」

「だーめ。いいですね?」

「……はい」

「これは全て、貴方の為なのですよ」

「…………はぃ」


 アンジェの柔和な笑みには有無を言わせぬ迫力があった。これまでの人生で縁のなかった『優しいスパルタ方式』で対応された僕は何も言い返せず頷くしかなかった。


 テーブルの上には使い込まれたポータブルDVDプレイヤー。流れているのは『聖女様のまなざし』という十年以上前に放送された名作アニメの第一話。

 本編第一話を日本語音声+英語字幕で見たり、英語音声を日本語字幕で見たり。英語音声を英語字幕で見たり。分からない言い回しや単語はノートに書き写したり。繰り返される一話のクオリティが高いからこそまだ耐えられるものの、これ以上のループは精神に異常を――。


「礼さん。言語学習を行う上で一番大事なのは何か分かりますか?」

「反復練習です」


 授業開始時点で言われた言葉を口にする。


「そうです。私もこのアニメで日本語を理解しました。その逆もまたしかり。この『聖まな』を最後まで見届ければ、きっと礼さんは英語と主のすばらしさを理解できるでしょう」


 勉強のついでに布教されてないか?


「一話のセリフを英語で全て言えるようになったら、二話を見せてあげますからね?」


 家に帰ったらサブスクで二話以降見てやる。


「ちなみに。この聖女様のまなざしですが」


 カチ、と再生ボタンが押され、耳に刷り込まれたBGMが流れ始める。


「悲しいことに諸事情で配信サービスでは見られないらしいのです。私がDVDボックスを持っていて良かったですね」

「……」


 本棚に置かれているDVDボックスを見上げる。紙のカバーが擦れているものの大事にされているのだろう。汚れとは無縁の笑みをパッケージの女の子が浮かべている。

 ――あの女の子、誰なんだよ。

 一話しか見ていない僕にはわからない。


「ああそうです。これを見終わったら……」

「二話?」

「いえ。次は私が隣でアテレコしてあげます。生の発音を聞くのも大事な勉強ですからね。字幕を見ながら、しっかり英単語を聞き分けましょうね」


 アンジェは天上の微笑みで、僕をゲヘナへと導くのだった。


・・・


「まあ。いけない。礼さん、五時間も時間が過ぎてしまいました」

「……たららー、ららららー、ららら。だーん」


 頭の中で同じBGMが響き続ける。


「礼さん、お気を確かに。ちゃん、ちゃちゃちゃ、ちゃーん」


 アンジェの口から流れたBGMに釣られて――。


「シスター、ホワイウォンチューテイクミィ! ……はっ僕は何を」


 一話ラストのセリフが口から飛び出して来た。


「よかった。お帰りなさい、礼さん。よく頑張りましたね。今のお気持ちを英語でお答えください」

「ゴッド、ワットワズアイ、ドゥーイング」

「素晴らしいです、エクセレントです。そう、全ては主のお導きのままですよ」

「いやいや、アニメ見てただけだから」


 しかも悲しいかな。ちょっとだけ英語が聞き取れるようになった気がする。


「……ほんとに五時間経ってるし」


 スマートフォンで時間を確認すると、二十一時過ぎ。当初の予定を大幅に過ぎており、すっかり頭がヘロヘロだ。


「あ、そうだ。アンジェ、お土産あったんだ。貰ったやつなんだけど」

「なんでしょうか」


 二人で食べようと思っていたおやつの存在をすっかり忘れていた。リュックの中から紙袋を取り出す。

「スコーン。それにハニーソースとチョコレートソース、それに季節限定のチェリーティアドロップ味だって。おやつにどうかと思ってたんだけど」


 食べている暇など無かった。


「まあっ、このソースのパッケージ。なんて可愛らしいデザインでしょう。紅茶はあったでしょうか。ああでもお夕飯前に食べてしまってはお腹がいっぱいになってしまうかもしれませんしどうしましょう」


 丁寧な言葉遣いのアンジェを見ていると。ああ、この喋り方って『聖まな』風の喋り方なんだ、と気がつく。これがクールジャパンの成果ですか。


「明日の朝にでも食べてよ。それじゃあ、あと千円……いや、二千五百円か」

「このお金は?」


 キョトンとした様子で尋ねられる。


「授業料。約束したろ」

「……ああ。そうでした。では、こちらを」


 アンジェは渡したお金をそのまま僕の手へと戻した。


「そういう訳には」

「素敵なお土産のお礼です。ついでに、お夕飯もどうぞ召しあがりください。実は、シチューを用意していたんです」


 パタパタと部屋から出ていくアンジェ。入り口とは違う扉……、向こうにキッチンでもあるのだろうか。

 握ったお札を財布に戻す。効果は不明とはいえ英語のレッスンに加えて夕飯まで用意されているとなると、少し居心地が悪い。

 貯金箱でも持って来てそこに『お布施』をしておこうかな。

 

「ふぁあ」


 脳内で響き続ける耽美なBGMを幻聴しつつ、漂ってくるシチューの匂いを嗅ぐと不思議な感覚に陥る。我が家のシチューとは違った匂いな気がするものの何だか懐かしい香りだ。


「……たららー、ららららー、ららら。だーん」


 ウトウトと夢うつつにテーブルを眺めているといつの間にかテーブルに花柄のランチョンマットと食器が運ばれていた。

 手伝った方が良いかなと思いはするものの眠くて身体が動かない。他人が居る所だとあまり眠くならないタイプのはずが、アンジェの声を聴いているとどうにも……。


「もう少し時間がかかりますので、ゆっくりなさってください」


 その言葉を最後に意識は途切れ、肩を揺すられ再び目が覚めた時にはすっかり夕飯の準備が出来ていた。


・・・


 夕飯を食べ終わると時刻は二十二時過ぎ。


「夜も遅いですし。帰り道にはお気をつけくださいね」


 門の前まで見送りに来たアンジェは少し寂しそうに見える。


「アンジェも戸締りはしっかりしてよ」


 なにかあっては寝覚めが悪い。


「わかりました。これから皆さんからお悩みを蒐集……ではなく、お聞きしなくてはなりませんから。その前に済ませてしまいますね」

「バーチャルプリズンもほどほどに」

「牢獄ではありません。人々の苦悩を糧に明日を迎えたいだけなのです」


 酷いセリフ言ってませんかシスター。


「いつか……礼さんも教えてくださいね」


 ジッと、何かを求めているような視線を向けられると、何故だか道端で声をかけられた時を思い出す。


「私が一番知りたいこと。確かめたいこと。礼さんであれば教えてくれると思うのです」

「……僕であれば?」


 ふわふわとした言葉では何を求めているのかは分からない。


「ふふっ、でも、もう少し我慢します。アナタとのお勉強会、思ったより楽しかったですし、もう少しだけ、アナタを知りたくなりました」


 微笑むアンジェだが、その笑顔の奥にある感情はよく分からない。それこそもう少しアンジェを知らなければ理解出来ないのだろう。


「もったいぶらずに聞いてくれれば答えるけど」

「私にも心の準備が必要なのです。きっと、答えによっては泣いちゃうかもしれませんから」

「何を聞こうとしてるんだ……」

「うふふ、内緒です」


 唇に人差し指を当てるアンジェの可愛らしさに誤魔化され、それ以上は掘り下げる気もなくなってしまう。


「それに、今から配信があるので礼さんだけに構っても居られないのです」

「そりゃ残念。あの懺悔室でやるの?」

「はい。今や一人暮らしなのでどこでやっても良いのですが狭い場所は落ち着くので」

「へぇ」

「落ち着く、というより馴染み深いと言った方が正しいですけどね。押し入れのような部屋に住んでいたものですから……。あ、ちなみに配信ですが、最近はブイスタで不定期となりますが恋愛相談も承っております」

「シスターが恋愛相談……」


 禁欲的なイメージがあるけれど、そうでもないのだろうか。


「恋愛に溺れそうになる若者が正しい勉学の道へ進めるよう手助けをしております」

「逆キューピッドかな」

「ふふっ」


 アンジェは優しく微笑むだけ。

 やっぱりこの人、表情と雰囲気と声色で誤魔化されているだけで性格歪んでるのでは?


「ところで礼さん。告解、もしくは、懺悔室。これは英語でなんと言うでしょう」

「えっと。コンフェションルームです先生」


 聖女様のまなざし一話で野犬に追われた主人公が隠れた小部屋だ、そこで謎の人物と出会うとこで一話が終わるので続きが非常に気になる。ちなみに教会はチャーチ、神父はプリースト。

 順調にそっち系の単語を覚えつつある。


「良い子です。ふふ、お見送りのつもりがつい喋りすぎてしまいました。それではごきげんよう、礼さん」 

「じゃ、アーメンっ」

「そのような使い方の言葉ではありませんよー」


 クロスバイクのペダルを踏みしめ教会から遠ざかる。

 教会とバーチャルシスター。

 もしも『お導き』なんてものがあるのならばアンジェとの出会いで負った役割とはいったい何なのだろう。

 アンジェが聞きたい事っていうのも、なんだか心臓がゾワゾワするというか、どうも藪蛇な雰囲気があるし……。その上、厄介な事に再びアンジェに会う日を楽しみにしている自分もいるらしい。まるで先の見えないジェットコースターに乗り込んでしまったような気分だ。

 そんなことを思いながら自宅の玄関を開けると。


「高校生なんだから、夜遅くに出歩くってのもどうなのかな」


 ジトッとした目で小言を呟く妹に出迎えられるのだった。

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