シスターエンカウント
「綾野、もう少し頑張ろうな?」
席順に中間テストの答案用紙が返されていく。礒野、南沢、横浜、そして僕。壇上に立つ数学教師、田辺先生の元に向かった僕にかけられた言葉は、聞いた事も無い響きだった。
「……え?」
除湿の効いた教室の中で疑問が沸く。
確かにゴールデンウィーク過ぎ、中間テストの時期は妹のアレコレや家事だったり悪魔系ガレージキット作りに時間を取られていたとはいえ先生に何かを言われる程の点数のわけ……。
「な、なななっ」
ショックのあまり近くの机に体重を預ける。
「ちょっと綾野……。あー、ご愁傷様」
もたれ掛かった机の持ち主、泣きぼくろが印象的な女子横浜さんは僕を邪魔そうに見た後に答案用紙の点数を一瞥すると、慰めの言葉を寄こした。
「五十六、ご、ろ……?」
「うんうん、わかったから、あたしの机からどいてね」
優等生とは言わないものの、何だかんだ子供の頃から勉強はそれなりにやってきた方。その僕が。半分を割りそうになっている? 確かに今回のテストは他の教科に比重を置いていたかもしれないとはいえ。
「いや、赤点ではないはず。例え平均点が百点だとしても、赤点は平均点の半分。つまり五十点。それにプラス六点なんだから、悪くはないはず」
「いや点数としては悪いでしょ。あと、どいて」
「あー。横浜さんは八十七点かぁ。八十七点かあ!」
トボトボと自分の席へ帰る。
「待て待て人の点数を言うな、あたしの席に答案を置いて行くな」
横浜さんの言葉も気にせず着席。はぁ。
「まー、今回は綾野だけじゃなくクラスの平均も悪かったからなー。七月の期末はこれよりもっと範囲が広がるから先生に質問に来るなり、自習するなり塾に通うなりするように」
「あーい」
まるで空模様のように暗めの返事が教室に広がる。
……なるほど、塾か。
背もたれに体重を預け天井を眺める。
そろそろ二年生の夏休み前。学費の安い国立か都立大学に入ったら一人暮らしの打診をしようかなと考えていた僕にとって『塾』と言う響きはとても甘美なものに思えた。
昼休み。さっそくスマートフォンを片手に中庭のベンチに座る。
「もしもしお母様。ちょっとお願いがありまして」
『なにかしら』
ヒンヤリとした声色の母が通話に応じる。
昔はもうちょっと優しい喋り方だった気がするけれど、いつの間にこうなったんだろう……。
「塾に通いたいんだけど」
『礼、勉強は苦手だった?』
「……。そんな事も無いけどそろそろ通った方が良い時期かなーって思って」
つい早口になってしまう。
『好きにすれば? ああ、でも礼の生活費はエリ―が出すって言っているから頼むならエリ―に言った方が良いかも』
「嫌だよ。嫌だからリリーに連絡したんだよ」
『え、なに? 三十路のお姉さんには良く聞こえない。年かしら』
この前言った事まだ根に持っているな。
『なんだかあの子、礼にお願いしたい事あるって電話で言ってたの。でもレーがエリに構う気配が無くて困ってるとも。エリーのお願いを聞けば』
「お使いクエストか」
「みごとエリ―のクエストをクリアし、ジュクにかようがよい」
「ちょ」
プツッと通話が一方的に切られた。
「元を辿ればエリーゼに時間取ってたから……」
妹に生殺与奪の権を握られた兄は無力だった。
バイト代をそれなりに貯めているとはいえ、そこには手をつけたくない……。
夏は真野先輩と夢のお祭り『ワンダフルカーニバル』でガレージキットを見て回ろうと約束をしているのだ。その為の軍資金をここで使う訳にもいかない。
「んー」
そういえばあの悪魔。マリリの企画に参加したらバイト代が貰えるって言っていたような気もするけど。あの変態と連絡をとるのもなぁ。
SNSもメッセージアプリも全てブロックしている手前、都合の良い時だけ連絡したら何を求められるか分かったものでは無い。
頼りになるとはいえ相手は狡猾な悪魔、バーチャルデーモンマリリ。ご利用方法は気を付けなければならない。
お願いすればなんでも叶えてくれそうなところが、なんとも罠だ。
ここはもうお金をかけず先生に聞きに行ったり、点数の良かった横浜さんに聞きに行くのが一番かもしれない。優等生とまではいかずとも、誰かに心配されるような点数は取りたくないし……。
「どーしよ」
――結局、答えの出ないまま放課後となり。
「あ」
駐輪場に来たところで今朝は自転車通学ではなく、バス通学にした事を思い出す。
梅雨は自転車通学には悩ましい時期だ。
帰りもバスに乗ってもいいけれど……考え事ついでに少し歩いてみようかな。
リュックから取り出したものの、使わな過ぎて充電の切れていたワイヤレスイヤホンのケースをポケットの中で弄びながら校舎から離れる。
雨が降りそうで降らない空の下。普段は通り過ぎるだけの自動販売機でコーヒーを買ってみたり、ちょっと寄り道して紫陽花をスマートフォンで撮影してみたりしつつ、塾に関して考えた結果――。
もうマリリに頼んじゃおっかな。
一番楽で、一番悪いカードを切ろうとスマートフォンに手を伸ばすと。
「貴方は、神を信じますか?」
不意打ちの言葉で悪魔の召喚が阻まれる。
そして。
「あ、すみません急いでいるので」
まさか使う機会が来るとは思わなかったセリフを口走り逃走を図るが――。
「あっ、お待ちくださいっ!」
必死な制止の声に思わず足を止めてしまう。
「違うのです。勧誘ではないのですっ、待ってください」
警戒しつつ声の主を見れば、オレンジがかったセミロングの髪。柔らかな乳白色の肌。暗い緑色の瞳。紺色のワンピースのような制服を着た女の子が困ったように立っており。その顔には見覚えがあった。
教会の裏側、老神父の葬儀で見かけたシスターだ。
「貴方にもきっと、主の哀れみが必要なのです」
雲の隙間から伸びる光が彼女を照らし、その救われたかのような微笑みに目を奪われた。
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