第5話 第2章:出会いの記憶ー001ー

 つくづく来られて良かった。

 ほっと息吐くマテオは同時に、この街へ至るまでを思い出す。

 あのまま彼の地にいたら、どんな生活を強いられていたか。手遅れながら、提案を受け入れてしまったことに後悔で胸がいっぱいだ。


 ウォーカーの姓を得て、それに相応しい作法や態度を身に付けていく。

 マテオは解っているつもりだった。

 長男のサミュエルはもちろんケヴィンとその妻であり家庭を仕切るソフィーまで、すでによく知る仲である。関係上において問題など起こるわけがない、なんて思っていたのが甘かった。


 家族として初の晩餐は開始当初は楽しげだった。


 アルコールがまずかったのかもしれない。

 気分の良いとばかりにいつも以上に呷るケヴィンに、どう見ても呑んでるとしか思えないサミュエルの酩酊ぶりだ。父親は当然ながら息子に、未成年が、と怒る。息子は、アンタが言える義理か、と返す。

 そんな父子へソフィーが告げる。能力はなしよ、と。


 何が、とマテオが聞く前だ。


 広いリヴィングにおいて、ケヴィンとサミュエルの殴り合いが始まった。


「いつもこうなんですか」


 テレビで拳闘の試合観戦しているかのようなアイラの落ち着き払った質問だ。

 いかにも主婦といったソフィーが可笑しそうに答える。


「リヴィングが無駄に広い理由はこれね」


 マテオは女性たちほど胆力はないから、慌てて止めに入りにいく。

 ケヴィンやサミュエルに比べて体格は小さいとはいえ、生き死にの世界を駆けて抜けてきたマテオだ。能力など使用しなくても、実践的な格闘術は会得している。素手でそう負けるものではない。

 かなりな手練だと自負していた。


 だから最初は何が起きたか解らなかった。

 いきなり目の前が真っ暗になる。意識を失ったと知るのは、一発で伸されたと事実に気づくまでだ。

 マテオー、と呼ぶ懐かしい声に、開く視界に飛び込んできた四つの顔。見慣れた姉に、これから父と母、兄とする人たちが覗き込んでいる。背景が天井と知れば、マテオは自分の身に何が起きたかを理解した。大丈夫です、とはっきり発音して無事を知らせた。


「ごめん、ごめん」「悪いっ」


 ケヴィンとサミュエルの父子が謝罪と共に両手を伸ばしてくる。マテオは右手で義父の、左手で義兄の手を掴んで起こされながら誰ともなしに訊く。



「家族の日常って、どこでもこうなんでしょうか?」


 マテオとしてはノックダウンされたショックを引きずるまま口にしたことだ。しかも一発ならまだしも両者のパンチを受けるなんてあり得ない。まったく今までの訓練及び実戦で鍛えてきたこれまでが根底から揺らぎそうだ。


 すっかり自信喪失のマテオへ向けられたのは、笑い声だった。

 男性陣は腹を抱え、女性陣は口許を押さえている。


「やだわ、マテオったら」


 姉の一言が皮切りに、他の家族が動きだした。

 サミュエルが用意した冷たいタオルをソフィーが当ててくる。マテオの両頬を包む形に、「かわいいー」と母となる人が叫んでいた。

 うーん、とケヴィンが胸の前で腕を組んだ。


「マテオ。本当に逢魔街へ行くのかい?」


 今さらな事柄を確認してくる。


「はい、明日にでも出発しようと思っています」

「帰ってきたら、本当に私たちの子供になってくれるのよね?」


 ソフィーの真情こもる響きが有り難い。マテオ自身というより、姉を安心させるものだからである。


「僕がウォーカー家に入るというより、正式な身分を得る前にやっておかなければならないことです」


 まじめだね〜、とサミュエルが言う横で、ケヴィンが頭をかきながらである。


「注視しなければならない状況へ陥っているのは確かなんだが……」

「自分で言うのも何ですが、現在の僕ほど適任者はいないと思います」


 うーん、と疑いようのない事実だからこそケヴィンは唸る。


「しかしタイミングが悪いにも程があるな。アイラとマテオを養子にするのは前々から狙っていたことだったからなぁ」

「バカ親父の日頃の報いだろ」


 ケヴィンの悪態に、「なんだとっ」となるケヴィンであれば、再び拳闘が開始されそうなポーズを両者が取った。いい加減にしなさい、とソフィーに一喝されなければ始まったかもしれない。


 顔からタオルが外されたマテオの手は不意に掴まれた。


「無事に帰ってきてね、マテオ。必ずよ」


 姉弟二人きりの際でさえ見せたことがないアイラの殊勝な表情に、マテオに初めて胸が痛んだ。

 義理の冠が付くとはいえ、父母と兄が声もなく見つめてくる。


「必ずとまではいきませんが、帰って来られるよう頑張ります。姉さんこそ先にウォーカー家の立派な一員になって待っていてください」


 うんうん、とうなずくアイラは他人の前で初めてだろう。弟だって前回はいつだったか思い出せないほど、大粒の涙が瞳から溢れていく。誰の目も憚らず泣いていた。


 ずっと一緒だった双子の姉弟が別々の道を歩む。

 マテオだって余人には知れない感慨を抱いている。姉さん、と恋しく感じる時もある。


 しかし、だ。


 逢魔街へ来られて良かったと思う。正確に言えば、ウォーカー家に相応しい教育を受ける羽目から逃れられて助かった。

 なにせ来た早々である。

 拠点とするかどうかは別として、報告を上げる部屋へ落ち着いた途端に連絡が入る。意外にも姉のアイラでなく、母となるソフィーからだ。仕事とは全く関係ない言いつけときた。


 帰りたくないなぁ〜、となったマテオであった。


 どうしても帰りたくなくなるまでなろうとは、まだこの時点では想像すらしていなかった。

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