彼女はチート!ー白銀の逢魔街綺譚ー

ふみんのゆめ

第1部 出会った彼女はミステリー篇

第1話 第1章:旅立ちの記憶ー001ー

 それが全ての始まりだった。


 はっきり思い出せる人生最初の光景は、暗い一室であった。

 灯火によって揺れる自分の影を映す壁に近づけば、所々に染みがあった。飛び散るように広がる濃淡さが、何によって彩られていたかを物語っている。

 上を見上げれば、天井があるかどうか見当つかないほど闇は深い。


 逃げきれないと思った。


 もう、ここまでか。だが生を惜しむには価値があるような扱いを受けてこなかった。

 両親はいたはずだが、姿形は霞の彼方だ。ただ視覚になくても、聴覚で記憶している。なんで、こうなったの! 俺たちが何をしたっていうんだ! 揃ってバケモノか! こんななら、産むんじゃなかった! 男女の金切り声が未だ耳に強く残っている。

 ろくに食事を与えられてこなかったし、服も粗末だ。薄汚れた格好で、いつもお腹を空かしていた。挙句に得体の知れない組織へ売り渡された。


 双子の姉がいなかったら、五歳のあの日に終えていた。


 放り込まれた暗闇の中に、人の気配が濃密に立ちこめている。少なからずの人が同じ室内へ押し込まれている。


「残すは、ただ一人だ」


 不意に音質の悪い声が降ってきた。見えない天井にスピーカーが設置されているのだろう。無機質な響きがこれから行われることを伝えてくる。


 たちまちにして殺気が充満していく。


 異能力を持つだけの幼子なれば震えるばかりだ。恐怖に抗う心持ちも行動も持ち合わせていない。


「……マテオ」


 ずっと寄り添う姉のアイラが呼んできた。

 お姉ちゃん、と呼び返せば同じ髪色にほぼ似た顔立ちが微笑んでくる。大丈夫、と囁いてくる。お姉ちゃんが守るから、と続けてくる。

 アイラはマテオの手に冷たい柄を握らせた。刃が薄暗い中でもギラリと光るようなダガーナイフだった。

 お姉ちゃん、と言葉は同じでも調子が違う。泣きを多分に含んだ怯えで震えていた。

 アイラは笑みを消さないよう努力していたに違いない。マテオに渡した同種のナイフを片手に提げながら、残る手で弟の頬に触れた。


「でも、お姉ちゃんが殺されちゃったら、マテオは自分の身を自分で守るのよ」


 そんな……、とまでマテオは言った。人殺しはおろか、取っ組み合いの喧嘩さえした試しがない。無理だよ、と口にしかけた。


 灯りに大男が浮かび上がった。

 理性を失った目つきが、斧を振り上げた理由を端的に表している。

 頭上から聞こえてきた声は告げていた。ただ一人、と。

 向かってきた大男は斧を振り降ろせなかった。

 喉元から激しい血飛沫を上げている。壁へ新たな染みを加えていく。どさりと倒れ込んできた。

 ひっとマテオは小さな悲鳴を上げながら避ける。前のめりで倒れ床に血の海を広げていく大男を認めたところで、気がついた。


 姉が、アイラが、すでにいない。


 視界の大半を占めるのは、暗闇に覆われた空間だ。

 だが目にせずとも解る。

 肉が切られる音。飛び散っているだろう血飛沫。断末魔の叫び。死が訪れるまで味わう涙ながらの苦悶。

 まさしく死闘が行われている。

 命懸けでアイラが能力を駆使して殺し合いを続けている。


「このガキ!」


 男のがなり声がする。ガキなどと称させる者はマテオとアイラ以外にいるのだろうか。

 やや落ち着きを取り戻しかけたところへ、今さっき聞こえてきた男の絶叫がした。届けられたものは悲鳴だけでなく、生温かい液体もだった。顔にかかったものの正体なんて判りきっていながら、マテオは手で拭った血を目にすれば恐怖で心臓が痛む。

 ズボンで血をこすり落とした両手で急ぎ耳を塞ぎかけた。


 塞がなかったのは、暗がりからアイラが現れたからだ。


 帰ってきたとも言える姉の姿は、だいぶ変わっていた。

 同じ白銀の髪は鮮血で塗られている。全身が緋く染まっている。他者から被っただけでなく、自ら流した血が凄惨さを彩っていた。

 どんなに苦しくても笑顔を作ってみせる姉だ。少なくとも弟の前ではそうだった。近所で迫害を受けても、小さな動物をかわいがる気質は失わなかった。弱い者へ当たるなど決してしない、優しく気高い五歳の少女だった。

 今は無邪気さを失い瞑く沈んでいた。

 どんな事情があれ、人殺しを重ねた経験が、かつての自分へ戻させないだろう。


 全ては弟のためだった。


 姉の命懸けが、マテオの胸に恐怖を凌駕する後悔を生んだ。

 ぐずぐず泣いている間に、大変な宿業を背負わせてしまった。世界で自分より大切な唯一の存在に血を流させ、血を吐く想いをさせてしまった。


「お姉ちゃん……」


 マテオの呼ぶ声に涙はない。

 姉が笑みを浮かべる。赤く塗られた顔で。

 お姉ちゃん……、と再び呼んだ時に、音が割れるスピーカーが告げた。


「残すは、ただ一人だ」  


 無情な宣告も、マテオには当然と捉えた。

 初めての殺し合いを見事にくぐり抜けた。きっとこの先も生き続けられるだろう。

 後はもうこれ以上の傷を作らないようにするだけだ。

 マテオは他人へ振るえない刃も姉のためなら自分へ向けられる。


 悔やむとしたら、そう思うのは自分だけではないと気づけなかったことだ。


 アイラが逆手で握ったダガーナイフを振り上げる。



「マテオ、ずっと元気でいてね」


 ダメだ、とマテオが叫ぶより先だった。


 アイラは自分の心臓へ目がけてナイフを突き立てた。


 この瞬間、マテオの命は姉の、アイラのものとなった。

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