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裏町の寂れたバーでシングルモルトオンザロックを傾けていると不意に真っ黒なマニキュアが目の前に現れた。
その指が差し出したのは縦書き明朝体のずいぶんと素っ気ない名刺。
僕は片目を眇めた。
もしかすると僕の境遇を知る誰かが暇な弁護士に儲け話でも耳打ちしたのかもしれない。そう勘ぐって硬い紙片を眺めた僕は、けれどそこに記された肩書きに顔を曇らせる。
大冥界公認委託派遣マネジメント所属
人事コンサルタント部門
第一種リーパー 志摩 伊月
住所の記載はなく携帯番号だけが端に添えられている。
ジョークの小道具にしては凝りが過ぎているが、ちょっとした余興のつもりかもしれない。けれどそれを冷やかすには僕はあまりに落魄しきっていた。
「悪いけどそういう気分じゃないんだ」
そう言い捨ててグラスを煽る。
するとその氷の音を合図にしたみたいに、何者かはカウンターチェアに腰を下ろした。
「あら、そう?あなたにはぴったりだと思うんだけど」
耳触りの良いハスキーな声に酔った不確かな視線を向けると、背が高くほっそりとした女が僕を見詰めていた。
年の頃は二十代半ばといったところ。
髪はベリーショートの金髪で艶のある黒っぽいドレスを纏い、肩には不気味なカラスのタトゥーを入れている。
整った顔立ちをしておりどちらかといえば同性に好かれる印象の女性だが、やや吊り上がった瞳と淡いルージュのふくよかな唇のアンバランスさがどこか対峙するほどに落ち着きを失わせる不思議な力があるように思える。
とりあえず僕は目を逸らした。
おそらくは商売女だろう。
けれど考えてみれば確かに今の僕にはおあつらえ向きかもしれない。
それに
コースターにグラスを置くと傾いた氷がまた音を立てる。
僕はおもむろに彼女に目を戻した。
「いいよ。魂でも体でもどうぞお好きに」
すると志摩は中指でそっと眼鏡を押し上げ、それから痩せた頬をわずかに緩める。
「ものわかりが良くて助かる。でも、それほど単純な話でもないのよ」
「そうかな。さして難しくはないように思えるけど」
「あなたと寝るだけならね。でも、残念ながらこれは仕事なの」
「……仕事?」
グロスに濡れた薄桃色の唇を突き出し、彼女は同時に肩も窄める。
「ええ、だって私、死神だから」
僕はひとしきり怪訝な顔つきで志摩を見つめていたが、やがて苦笑を漏らし目をカウンター奥に向けた。
「死神っていうのは大きな鎌を担いだ骸骨だと思ってた」
「ごめんなさいね。生憎、コスプレは趣味じゃないのよ」
店内は薄暗く、棚に収められたアルコールの瓶がダウンライトの光を浴びてきらめいている。また黒いシャツをラフに着こなしたバーテンダーの男は僕たちから離れたところで丹念にグラスを磨いていた。
「じゃあ、その死神さんが僕になんの用だろう」
「決まっているでしょう。死をお届けに来たのよ」
軽く眉を寄せた。
しつこいジョークに付き合えるほど今の僕は寛容ではない。
「そう。それなら早いところ僕の魂でもなんでも持っていってくれていい」
「死をあなたにとは言ってないわ。ねえ、二人のうち、どっちにする」
自分の顔から表情が消え去る感触があった。
そして振り向くと志摩が嘲笑うような笑みを浮かべていた。
二人。
法廷で睨み据えた奴らの顔が目に浮かんだ。
その途端、反射的にえずきそうになったがなんとかこらえた。
「どうやらキミは僕のことをよくご存知のようだ」
「ええ、あなたってわりと話題の人だもの」
僕は喉の奥に燻る怒りを小さなため息に変えてカウンターに落とす。
「口さがない連中がいるのは仕方がない。けれどそれを利用して儲け話を目論む人間は最低だと思うな」
「人間ならそうかもね。でも死神にその倫理は当てはまらない」
もういい。
「そろそろ帰るよ。これ以上一緒といると悪酔いしそうだ」
そう吐き捨て、僕は腰を浮かせる。
するとバーテンダーが愛想笑いをこちらに向けた。
「まあそう言わずに。まずはサンプルでもいかが」
サンプル?
「あなた、この男に見覚えがあるんじゃないかしら」
不審げな目線をカウンターに落とすと、グラスのそばにスマートフォンが置かれていた。
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