第376話 石の裏の虫を見た気分
魔の森で活動する口実としての訓練のために、イナリ達が魔の森に足を踏み入れてから30分程経ってからのこと。
「――イナリさん、魔物です」
「……そうじゃな、魔物じゃ」
イナリ達から少し離れた場所に、巨大な蜘蛛が居た。
それも、地球では絶対にお目にかかることができない大きさ、模様、色彩、何か変な器官、その他もろもろを携えた……一言で言えば、ものすごく気持ち悪い外見の蜘蛛だ。
別にイナリは虫が苦手というわけではないのだが、それは地球基準での話であって、異世界基準となると話は別である。
そも、便宜上蜘蛛と表現したが、その括りに入れるにはあまりに色々と違いすぎている。いわば、イナリがこの世界で出会った醜い生き物ランキング堂々の首位である。なお、アルテミアの地下で見た悍ましい「何か」については殿堂入りとする。
さて、そんな目の前の蜘蛛の様子を改めて観察してみよう。
それは木々の間に巣を張っているのだが、糸の密度が高すぎて白い布のようになっている。きっと一度触れたら最後、逃れることはできないだろう。現に、巣の餌食となってしまった何かの残骸が残っているのが見える。
きっとエリスが一緒に居なければ、半狂乱になりながら、腰に提げたありったけの爆弾を放り投げていたことだろう。一人で森暮らしをしていた頃にコレに出会わなかった幸運を喜ぶと同時に、今までこんなのが居た森をノコノコと歩いていた己に恐怖した。
……というか、実はこの森にはこんなのがゴロゴロいたりするのだろうか。
思い返すと、エリスと共に魔の森内を歩いていた時、時々行き先を誘導されていたような気がしてきていた。あれはきっと魔物を避けるためだったのだろう。人間が魔の森がどうのこうのと騒ぐ割には大したことがないと思っていたが、とんだ勘違いであった。
そんな、知りたくなかった真相に触れて動揺するイナリの頭に、エリスの手が置かれる。
「イナリさん、大丈夫です。まだ向こうに気づかれてはいません。あの魔物は私が対処します」
エリスはそう言うと、目の前に一枚の板状の結界を空中に展開する。
「おぉ、お主も結界で戦うのじゃな」
「『も』?……ああ、ベイリアさんですか」
「うむ。あやつは元気にしておるかのう?」
八百長試合を行って以来、ベイリアの行方がどうなったのかは全く分からない。あの後の顛末も気になることだし、こちらの一件が落ち着いたら訪ねてみるのもいいかもしれない。
イナリが目の前の蜘蛛を忘れるためにベイリアの事を考え、幾らか気分も落ち着いたところでエリスの方に視線を戻す。
そこには、先ほど展開した結界を掴んで筒状に丸めているエリスの姿があった。
「……何しとるんじゃそれ」
全く予想していなかった光景に口を開けて声を漏らしたイナリを見て、エリスはくすりと笑う。
「ふふっ、びっくりしました?結界って、柔らかくできるんですよ」
「な、なんと面妖な。我、結界とは硬いものとばかり思うておったのじゃ」
「障壁系の結界は基本的にそうですよ。でも、わざと強度を下げれば、こんな風に折ったり曲げたりできるんです。望んだ形を作ることが出来たら、もう一度力を籠めて、強度を上げてあげたら――」
エリスの手元には、槍のような形状になった「結界」ができあがっていた。先ほどまでぐにゃぐにゃと曲がっていたそれを地面に突き立てると、どすりと鈍い音が鳴る。
「――即席の武器の出来上がりです」
「おぉ、すごいのじゃ!」
「ふふ、いい反応をありがとうございます。実はこれ、誰でもできる芸当ではないんです」
尻尾を振って興奮するイナリに、エリスは少し照れた様子で返すと、結界製の槍で数回空を切ってから構え、蜘蛛に向けて歩き始める。
「――『生えろ』」
そしてエリスが詠唱を行うと、蜘蛛の周りの草木が動き始め、蜘蛛の足を雁字搦めにしていく。
そんな突然の事態に慌てふためいている蜘蛛の胴を、エリスは容赦なく貫いた。ぐちゃりという鈍い音と、蜘蛛の聞くに堪えない悲鳴がイナリの耳に届く。
さて、これであっけなく討伐完了と思ったが、流石は魔物というべきか、ただで倒されてはくれない。蜘蛛は尻をイナリ達の方に向け、勢いよく網状に糸を射出してくる。
しかし蜘蛛の抵抗も空しく、攻撃は全て結界にべたりと付着し、結界の消失とともに地に落ちた。
「今の攻撃はこの魔物の切り札です。一回出したら、もう当分は使えません」
「ふむ」
イナリが少し体を倒して覗き込むと、木々に拘束された蜘蛛が、どうにかエリスに嚙みつこうともがいている姿があった。
……この蜘蛛、イナリを見るなりこちらに狙いを変えているように見えるが、きっと気のせいのはずである。
「本来は縦横無尽に動くので少し厄介な魔物なのですが、イナリさんの聖魔法のおかげで、安全に拘束して倒せますね」
「驚いたのじゃ。我の力、こんな使い方も……いや、一応こういう使い方をした経験はあるか……」
この魔の森を生んだきっかけはゴブリンに追われたことである。イナリとエリスの間の違いは業の規模だけで、拘束が目的であるという本質に違いはない。
そんなイナリの我に返った呟きを聞き流し、エリスは得意げに続ける。
「草属性の魔法の要領で活用すればよいと気づいたのです。イナリさんの力がもう少し加減できるものなら、こういう使い方の練習もしたいと思ったのですが……」
「……物は試しとも言うし、折角魔の森に居るからの、後で少し試してみるのじゃ」
「そうしましょう」
イナリの言葉に頷いたエリスは、板状の結界を再度生成し、木々に足を拘束されている蜘蛛に容赦なく叩きつけた。真顔で何度も蜘蛛に板を叩きつけるエリスは、何というか、普通に怖い。先ほどまで散々厭っていた蜘蛛が、今では哀れにしか思えなかった。
「……ふう、もう大丈夫です。イナリさん、邪魔者は消えました」
「あ、ああ、そうか。うむ……ご苦労……」
清々しい表情で振り返るエリスに対し、イナリはやや引き気味に労いの言葉を掛けた。申し訳ないが、普段散々己を甘やかしている人間が無慈悲に攻撃する様子は普通に怖い。
イナリは近くに落ちていた枝を拾い、蜘蛛の傍にしゃがんでつついてみる。……柔らかそうな見た目に反して意外と硬い。
「ううむ、冒険者はこんなのと日夜戦っておるのじゃな。我、ゴブリンと狼の類くらいしかまともに見たことがないのじゃ……」
「魔の森の生態系が少しおかしくなっているだけで、その辺の平原や森程度なら、もう少しマシですよ」
「ふーむ、そうか……」
「さあ、軽く素材になる部位を回収したら、次はイナリさんにも頑張って頂きますよ」
エリスはまた結界をぺたぺたと折って短剣を作り、蜘蛛に突き刺して解体していく。華奢な外見に反して、妙に力強さを感じさせる光景はどこか奇妙である。
蜘蛛の一部が少しずつ小袋に収納されていく様子を眺めつつ、イナリはふと頭に浮かんだ疑問を口にする。
「のう、今回は我らの行動を怪しまれないように訓練に興じていることは理解しておるが。それはそれとして、我が魔物を倒せるようになる必要はあるのかや?不可視術もあることじゃし、わざわざ正面から戦う意義を感じぬ」
「念には念を入れて、というのが一番端的な表現になりますかね。イナリさん、襲われないようにする力はありますけど、襲われた時に切れる手札が恐ろしく少ないですよね?」
「失礼な、我にだって対抗策の一つや二つ――」
イナリは空を眺め、指を折りながら考える。風刃、爆弾、あまり使い慣れていない短剣、天変地異を起こす成長促進や天候操作……まともに使えるものを考えると……。
「……二つあるのじゃ」
「少ないですね」
指を二本折ったまま真っすぐな瞳で答えるイナリに、エリスは苦笑しつつ告げた。
「対応としては、単純に手札を増やすか、そもそも襲われるような状況に陥らないようにしないといけません。前者なら、ディルさんみたいに、筋トレだとか、魔物の巣穴に潜って一日生き延びろだとか、そんなことをするのですが」
「しれっと恐ろしい言葉が聞こえたのう」
「……まあ、あの人はそういう人ですから」
エリスはふいと目を逸らしながら答え、再びイナリを見る。
「今回は後者です。今日はイナリさんに、魔物を知って頂こうかと思います」
「ふむ」
エリスの言葉を聞いたイナリは、「ここに置いていくので、一日生き延びてください」などと言われずに済んだことに、密かに安堵していた。
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