第291話 勇者の帰還(中)

 遠くに見える森の中から、勇者を乗せていると思しき馬車が数台列を成してやってくる。遠目ではあるものの、イナリがこの街に来る道中に使ったものと同じような、その辺を探せばすぐに見つかりそうな馬車のように見える。


 仮にも魔王を倒した英雄ともあろう者がそんな待遇でいいのかと思わなくも無いが、そもそも人目を避けているようだし、それでなくとも、教会にとっては後ろめたい要素が山盛りの存在なわけで、豪華な馬車で大手を揮って凱旋できるはずも無かろう。


 とはいえ事実として幾らか観衆は集まっているし、既に手や旗を振ったり声を上げている者は居るわけだが。


 神託もあった以上、彼らが勇者の状況を知らないことは無いだろうが、近くに神官が居るのを疑問視せずに英雄の帰還を喜んでいる辺り、それとこれとは別なのか、あるいは「悪の神官」は全て成敗されたとでも考えているのかもしれない。


 操られた状態のカイトはこれを見て何を思うのだろうか。少なくとも、彼の事が大好きなイオリは馬車に対し、獲物を捕捉した狐の如き眼差しを向けているのだが。


「勇者様、ああ、勇者様がついに。ユウシャ、サマ……!」


「イオリちゃん。ステイ、ステイだ」


 イオリはまだはるか遠くにいる馬車を見て、厳密には、その中にいる勇者を想起して、赤色の目を輝かせながら興奮している。今度は比喩ではなく、文字通りに。


「こやつ、何か様子がおかしくないかや」


 イナリが困惑気味にエリスに問えば、彼女は案外落ち着いた様子で答える。


「これは獣人が興奮状態になっている時の症状ですね。簡単に言うと、思考の比重が本能に偏ります」


「……つまり?」


「あんな感じになります」


 首を傾げるイナリに対し、エリスはイオリとエリックの方を指さした。


「イオリちゃん、今走り出すにはまだ遠すぎるし、もう少し待っててもいいと思うな。一旦落ち着いて……痛たたたたた」


 今にも飛び出さんばかりに前のめりになるイオリを制止していたエリックに対し、イオリは全力で噛みついていた。少なくとも本気では無いようだし、エリックも本気で苦しんでいるわけではなさそうだが、なるほど確かに、これは本能に偏っていると言えよう。


「ガルル!勇者様と私を邪魔する奴!コロス!」


 あるいは、知能指数が下がっていると形容してもいいかもしれない。今のイオリからは研究所で見せたような戦闘力が微塵も感じられないし、サニーが見たら酷い命名をされそうな惨状である。


「ありゃダメじゃな。まともな会話すらできなさそうじゃ」


「そうですね、イオリさんはまだ軽微な方に見えますが。こういう時は落ち着くのを待つのが無難です。余談ですが、『水を掛ければすぐに正気になる』という俗説がありますが、絶対にそんなことをしてはいけませんよ」


「……正気になったうえで襲い掛かってくるからとか、そういうオチじゃろうか」


「大体そんな感じですね。元は獣人ジョークだったらしいですが、それを真に受けた人が広めてしまったことで定期的にトラブルが起こるらしいですよ」


「何とも悲しき事じゃな」


 イナリはエリックが苦闘する様子を眺めながら適当に返した。獣人と人間が相互理解を果たす日は遠そうだ。


「……のう、あやつって勇者の事を話す時、ちと思考が変になる時があったよの?」


「そうですね」


「あれ、実は勇者を想起するだけで度興奮状態に陥りかけてたとか、そういう事ってあり得るかや?」


「無い、と言いたいところですが……否定できないですね」


「……ま、この件は一旦考えないでおくか」


「そうですね」


 二人は思考を放棄し、少しずつ近づいてくる馬車に目をやった。馬車は着実に街へと近づいてきていて、既に門に待機していた神官らがそれを迎える準備を始めている。


 具体的には、各自が武器を構え、車輪が取り付けられた大掛かりな兵器を押して動かして、と言った具合である。


 勇者を迎えるにしては明らかに過剰と言うか、準備の方向性がおかしいと感じたイナリはエリスの袖をつまんで尋ねる。


「のう、アレって、勇者や英雄を迎えるにはいつもすることかや」


「いえ、そんなことは無いと思いますが……。ドラゴンに追われている、とかでしょうか?」


「見た限り、そのような様子は見受けられぬが」


「アイツら、私と勇者様の邪魔する!コロス!」


「お主もいつまで言うておるのじゃ。エリックよ、我らの助けはいるかや?」


「大丈夫、何とかなったから……」


 少し目を逸らしていた間に、エリックは絶妙な体制でイオリが走り出すのを抑えることに成功していた。今余計な手を出すと、寧ろ邪魔になってしまうかもしれない。


「にしても、なんか嫌な感じがするのう……」


 イナリはモヤモヤした気分のまま、神官達が準備を進める様子を眺めた。




 暫くして勇者を乗せた馬車が到着すると、観衆を制しつつ神官らが馬車の方へ集まり、何かを話し合いながらゆっくりと門へ向かっていく。盗聴を試みたが、如何せん人が多く聞き分けが困難で、その内容はわからなかった。


 その様子を眺めていると、エリスが屈んでイナリの耳に顔を寄せ、囁きかけてくる。


「イナリさん。そういえば、アースさんがいつ来るのか聞いてますか?確か、カイトさんが戻ってきたら来るという話でしたよね?」


「む?我も知らんのじゃ。噂を聞いたら行けとしか言われておらぬし。これ、このまま見ておれば良いのかのう?」


「えぇ……」


 腕を組んで首を傾げるイナリの言葉にエリスは困惑した。


「ま、言われたことはやっておるからの。これで何か言われたら我が言い返してやるから……あいや、少なくとも、何かしらは起こるようじゃな」


 イナリは立ち上がったエリスを見上げて喋っていたので、その後方、星々が浮かぶ空の中に、ぽつりと黒い点のようなものが生まれていることにいち早く気が付いた。それは間違いなく、アースが多用していた亜空間そのものである。


 それは少しずつ拡大して他の人間にもその存在を認めさせ、場に混乱をもたらしていく。神官の方に目をやれば、そちらも例に漏れない様子だ。しかし、どちらかと言うと警戒の色が強いようにも見える。


 亜空間は十倍近い大きさになると成長を止め、その中から黒い翼をはためかせながら、大人姿になっているアースが現れる。彼女の纏う衣は仄かに光を放っていて、夜の空によく映えている。


 アースが少し地上の方へ下降して何か告げようと口を開きかけた直後、神官達の方から声が上がる。


「アルト神を誑かす邪神よ、今こそ復讐の時!総員攻撃ーッ!」


 その号令と共に、神官達が一斉に魔法を放ち、大掛かりな兵器を作動させ、弓を放ち……彼らが予め用意していたあらゆる方法でもって、徹底的にアースを攻撃した。


 アースに着弾した攻撃は爆発音と共に煙を上げ、少しずつ彼女の姿を隠していく。


 突如始まった神官達による斉射に集まっていた民衆は慌てて逃げ出す。イナリ達も一旦そこから離れ、盾を構えるエリックの背後に身を隠した。


「皆、大丈夫?」


「大丈夫じゃが……あやつら、何を考えておるのじゃ!?」


「神官共の思考回路がわかってたまるかよ!あいつらどうせ、勇者様を取られたくないだけだぞ!」


「まだ完全に回復はしていませんが、対物結界も張っておきましょう。無いよりはマシなはずです。アースさん、大丈夫でしょうか……」


 アースが敗れる様子は想像がつかないが、実際ここまで徹底的に攻撃される様子を目の当たりにすると、もしかしたらという考えが頭をよぎる。


 イナリがそんな懸念をしているうちに神官による斉射が終わり、再び静寂が訪れる。


 その静寂を破ったのは、煙の中から発されるアースの声であった。彼女の声は遠くであっても明瞭に聞き取れる程によく響いている。


「随分な歓迎だ。これが人間流の客人のもてなし方ならばこちらも相応の対応をするのが礼儀というもの。でないと私の品格が疑われてしまうな。そうだろう?」


 煙が晴れると、彼女の体格に不相応なまでに大量の兵器を身に纏い、神官を見下ろすアースの姿があった。


「愚かな人間共が。私を滅ぼそうなどと言う愚かな考えを、死んで後悔するがいい」


 こうして、アースによる蹂躙劇が幕を開けた。

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