とびきりの朝に魔法

とみとめ

とびきりの朝に魔法

とびきりの朝に魔法



 朝一番に思うのは「ああ、わたしって他人といっしょに住んでるんだよな」ということだ。それも決まって、洗面台で。多分、昨日の夜、ドライヤーで乾かしているときに落ちただろう、長くて白い髪の毛をつまみあげながら思うのだ。

 ゴミ箱へと捨てるとき、別れへのたしかな胸の痛みを覚えつつ、もう何度目にかになる溜め息をついて、自分をごまかす。

 わたしは、神経質だ。同居人の由紀ちゃんは「潔癖症なだけじゃないのぉ?」なんてぷっくりした唇で言うけど、そうじゃないと思う。だって潔癖症なひとは、お金も素手で触れないっていうし、電車のつり革も持ちたくないって聞くけど、わたしは平気だ。ただ、自分が当然のようにできることが、相手にとって当然じゃない、っていうのが、人一倍気になって仕方がないだけなのだと思う。だからこうして由紀ちゃんの髪の毛が洗面台に残されていると(しかも何度も何度も、ちゃんと捨ててねって注意してるのに)、わたしはひどくうなだれる。これから仕事に行くというのに。散々だ。

 朝からうなだれたくなんかないのに、由紀ちゃんはわたしのお願いなんてものを平気で忘れてしまう。残酷。無慈悲。

 形ばかり怒ってみせても、ごめんねぇー由梨ぃ、って妙に間延びした甘ったるい声で終わらせる。その声にほだされてなにも言えなくなるのは、この世界でわたし一人だけじゃない。由紀ちゃんと付きあう男たちもそう。多分、一昨日まで由紀ちゃんと付き合ってた男(わたしは嫌い。真面目に働いて、ある程度の収入があって、ふたりの記念日には由紀ちゃんがお望みのホテルの高級レストランを難なく予約するような、いかにも由紀ちゃんの「理想の彼氏」だったから)もそうだっただろう。その前も、その前の前の男も、きっとそうだ。

 ごめんねぇ。その一言で、はいさようなら、だ。



 身支度を終えてリビングに戻ると同時に、由紀ちゃんがふらふらと起きてきた。髪を乾かして寝たことは想像に難くないのに、変な寝癖がついている。

 月曜日。美容師の由紀ちゃんは、今日は仕事がお休みだから寝癖がついていても慌てたりしない。

 おはよう、由紀ちゃん。声をかけると、返ってきたのは朝のあいさつじゃなかった。

「ねぇ由梨、頭いたぁい」

「お酒弱いのに飲むからでしょ」

「だってさ坂元さんが、彼氏っていうか元カレとのお別れ記念に奢ってくれるんって言うんだもん。奢りなら飲まなきゃ損じゃない?」

 坂元さんは、由紀ちゃんが働く美容院の店長だ。仕事終わりに、遅番だった従業員全員で鴨肉を食べに行ったらしい。そしてお酒に強くもないのに、由紀ちゃんは赤ワインのグラス一杯分で千鳥足になり、家に帰ってきたのを覚えている。

「お別れ記念ってなにそれ」

 ゴソゴソと痛み止めの薬をリビングで探す後ろ姿を追い越し、わたしはキッチンでグラスにお水を注ぐ。

「お別れ記念は、お別れ記念だよ」

「由紀ちゃんからフッたんだよね? 普通、悲しむのはフられた相手の方じゃないの」

「もう由梨ってば、考え方が潔癖すぎるー。悲しい日を記念日にしちゃいけない決まりないじゃん。世の中には追悼の日もあるぐらいだよ」

「考え方が不謹慎。元カレ、死んだわけじゃないでしょ。っていうか由紀ちゃんはズボラだよね。今日だってまた洗面台に」

 ねね、それよりさ、見てみてぇ。由紀ちゃんがわたしの隣に並び立った。せっかくお水を渡したのに、グラスをキッチンに置き直しては、自分の髪を一房つかんで無邪気に笑っている。

「ほらー、由梨のだぁいすきな『由紀ちゃん』だよー?」

 仕事終わってすぐ、坂元さんに染めてもらったんだから。

 昨日の朝まで、由紀ちゃんの髪は茶色だった。元カレが好きな色だから、茶色の髪にしていた。でもわたしは、由紀ちゃんに一番似合うのは、コレだと思っている。白にも見える、ハイトーンの金の髪。美容師的なコメントをするならめっちゃ傷むけどねぇ、と由紀ちゃんは言うけれど。

 わたしは、この色が好きだった。いつだったか、ずっとこの色の由紀ちゃんがいいな、なんて言ったことを由紀ちゃんはいまだにずっと覚えてくれている。覚えてくれてはいるけど、由紀ちゃんは「カレシ色」に染まるのが大好きだ。

 だから由紀ちゃんが誰のものでもないときは、わたしの好きな由紀ちゃんに戻ってくれる。わたしだけの由紀ちゃんになる。

 だけどまたすぐ、由紀ちゃんは誰かのものになる。洗面台に落ちる髪の毛一本すら、誰かのものになってしまう。新しい髪の色を見せびらかしながら、ごめんねぇ、とショックを受けるわたしに、甘ったるい声で謝るのだ。

「似合う?」

「うん、似合ってるよ由紀ちゃん。かわいい」

 ありがと、やっぱりわたし、由梨がすきだなぁ。

 由紀ちゃんが抱き着いてくる。はやく薬のみなよ、と言いながら、わたしは由紀ちゃんの後ろ髪を撫でる。撫でられると気持ちがいいのか、由紀ちゃんは頬をすり寄せた。

 ずっと、このままで。それは由紀ちゃんが世界で一番苦手とする、神経質でな呪いだ。


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