純黒と英雄

花咲空

第1話

あの子の部屋を掃除していたら、引き出しにしまわれている1冊のノートを見つけた。

パラパラとめくると、少し癖のある字が並んでいる。

少し白紙が残るその日記には、もう二度と、あの子の人生が綴られることはない。あの日からずっと、止まったままだ。


「もう、あの日から6年か…」


年を取ると時間があっという間に過ぎていってしまう。

あの子を産んでから、毎日が忙しく、楽しかった。


あの子は、後悔していないだろうか。

寂しい思いを、していないだろうか。


たまにはアルバムでも見返してあげよう。


「何もしてあげられなくてごめんね。■■■」





眩しくなって目を開くと、障子を開け、仁王立ちで私を見下ろしている母の姿が目に飛び込んできた。


優華ゆうか、いつまで寝てるつもり?もうお昼よ」


母に文句を言おうと体を起こした私は、母の言葉を聞いてピシリと固まった。


お昼?今が?

朝ではないということだろうか。


寝ぼけた頭を使って出た一言は、


「チョコのお散歩は!?」


だった。

自分でも驚くような声量だったので、母は顔をしかめている。

私が叫んだ直後、廊下からドタドタと足音が近づいてきた。黒い柴犬は足音を響かせながら、母の足の隙間を通り過ぎ、私の傍までやってくる。

黒い毛並みに、まゆまろみたいな白い模様。小さめの耳をピンと立て尻尾をパタパタ振りながら、この世のものとは思えないほど愛くるしい顔で、撫でてと言わんばかりにこちらをじっと見つめている。

何を隠そう、このスーパーめっちゃ可愛い柴犬こそが、私の愛犬、チョコなのだ。


「お散歩ならお父さんが行きました。お父さん、もう年かもしれないってしょんぼりしてたわよ。家に帰ってきたらふたりともしょんぼりしてるもんだから、思わず笑っちゃって」

「何言ってるの!チョコはまだ年寄りなんかじゃないんだから!!」


チョコの頭をわしゃわしゃ撫で回しながら、私は抗議の声を上げる。「もう年だ」なんて失礼な。

私の可愛い可愛いチョコは、ぴちぴち………と言う年代はとうの昔に通りすぎてしまった気はするけど、まだまだ元気だ。


「チョコじゃなくって、お父さんの話。今晩足がつらないか心配してたわ」

「何だ、お父さんか。もう年だから気を付けてって言っとかなきゃ」

「あんまり素っ気ないとお父さん拗ねちゃうわよー。ああ、そうだ。お昼ご飯、早く食べてね。あと、春休みなんだから、部屋掃除しなさいよ」

「はぁーい」





ぎいぃぃっと大きな音を立てながら扉が開いた。

隙間から漏れた春の日差しが舞い上がった埃を照らし出し、その存在を浮きだたせる。暗闇に渡された光の橋の上で白い粒が踊っている。

途切れた橋の先に広がる世界は暗闇か、はたまた別の世界か。


「うわあ、ほこりやば……」


ほとんど入ることのない倉の中は案の定埃をかぶっているため、正直に言うと入りたくはないが、腕の中からずっしりとその存在を主張してくる重い教科書やプリント、その他諸々を持った状態で部屋に引き返したくもない。

私はしぶしぶ倉の中へ足を踏み入れた。


すると踏み込んだ足の下から、くしゃっ、という嫌な音がして、私はサッと顔を青くする。

足の感触から考えると、私が今踏んでいるのは1枚の紙きれ。それが私の授業プリントだった場合、何も問題はない。

しかし、もし、もしもそれが両親や祖父母のものであった場合……。

母の雷が落ちる様子を思い浮かべ、遠い目をする。


おじいちゃんの鉢を割ってしまったとき、障子をビリビリに破いたとき、井戸の縁に登って遊んでいたとき、お母さんのプリンを食べたとき__。


「やばいやばいやばい」


魂が体に戻ってきた私は、ガタガタと震え出した。

普段ほとんど使うことのない頭を必死に働かせて、私はひとつの結論を導きだす。

私ならともかく、両親や祖父母が持ち物をその辺に置いているわけない。だから、私は怒られない!

教科書等に視界が遮られているため、その結論の正誤を判断することはできないが、心が軽くなったので良しとしよう。

私は適当に数歩進んで、空いている所に教科書を置く。学年が変わる度にこの作業を繰り返しているので、そろそろ整理した方がいいかな、なんて感じながら私は踵を返す。

とりあえず、状況の把握が最優先事項だ。


「……なにこれ」


扉の近くに落ちていた紙は、私が踏んだせいで汚れていたが、明らかに私のプリントではなかった。

分厚めの画仙紙のような紙に筆で文字が書かれている。書道室に置いてありそうなものが、なぜこんなところに?


    『山■縁に住■■者よ汝■役目を果■し給へ』


「んん?」


読めそうで読めない。何となく読めそうな字だけピックアップしてみたものの、このうにょうにょした部分が本当に糸という字であるのかどうかも分からない。

初めの3文字、のうち1文字はどう頑張っても読めないが、山と縁という漢字が正しく読めているとすれば、『山縁やまぶち』とはうちの家のことだ。

うちの倉にあったくらいなのだから、うちに関するものなのだろう。


ひょい、とその紙を拾い上げてそのまま近くにある紙束の山の方へ歩いていく。

木を隠すなら森の中、紙を隠すなら紙束の中、だ。

こういうことはバレなければセーフ、そう言い聞かせながら適当に紙束を掴んで持ち上げる。


「__あ」


私が掴んだ紙の下から顔を出したのは、私が昔大好きで何度も読み返していた絵本だった。

水彩画のような優しい雰囲気の絵が懐かしくて、気付けば絵本を開いていた。



つきうさぎ』

むかしむかし    あるところに   うさぎとさるときつねが    なかよくくらしていました

3びきはいつもちからをあわせて    べものをあつめていました

でもある    べものがとれなくなってしまいました

さむいさむい    ふゆのことでした

うさぎはがっていました

「ふたりとも    をあつめてきて    をつけよう」

2ひきがをあつめてくると    うさぎはそのをつけ    そのなかにとびこみました

「ぼくのぶんまできてね」

うさぎはそううと    けむりといっしょにつきにのぼっていきました


おしまい



文字のほとんどが平仮名で初めは読みにくいかと思ったが、そんなことを気にすることもなく読み終わってしまった。ページの大半を占める絵が綺麗で、何よりラストのうさぎが月に昇っていくシーンでは寂しさもあるが美しさもあり、私の心を掴んで離さない。


「こんな話だったっけ……。大きくなってから見ると、結構印象変わるなあ」


幼い頃の私はイラストを見てばかりで、話の内容なんてこれっぽっちも気に留めていなかったと思う。

しばらくしたら、ヒーローが活躍する番組を見るようになって、絵本は読まなくなった。

でも、私がなぜか月を見るのが好きな子どもだったのは、この絵本の影響だったのだろうか。


「そういえば、同じようなイラストの絵本、もうひとつなかったっけ。たしか……綺麗なお馬さんとお兄さんのお話。この辺にないかな〜?」


その後、ひどい点数のテストはわんさか出てくるわりに目当ての絵本は見つけられず、私はしょぼんと肩を落として倉を出た。気が付いたらよく分からないことが書いてあった紙はなくなっていたけれど、今の私にとってそんなことはどうでもいい。

そろそろチョコのお散歩の時間だ。

急がなくちゃ。


玄関の扉を開けると、待ってましたとでも言うような顔をしたチョコがお散歩セットが入った袋を口にくわえて座っていた。チョコの賢さと可愛さにハートを撃ち抜かれたのは言うまでもないだろう。

うちの子は世界一可愛い。


いつも通りの散歩道だがいつもより時間が遅いせいかすれ違う人たちはみんな急ぎ足だ。

私の住む町は近くに大きな山がある小さな田舎町で、チョコを連れて散歩をしていると、たいてい誰かには話しかけられるのだが、今日は皆、軽い会釈だけで通り過ぎていく。

そんな中、チョコがふと足を止めた。辺りは薄暗くなり、黒い毛並みのチョコは闇に溶けていってしまいそうだ。


「チョコ、そろそろ帰ろ?………チョコ?」


チョコはちょうど電柱の辺りを睨みつけたまま、動こうとしない。また気の合わない猫か何かでもいるのだろう。喧嘩になっては困るのでどこかへ行ってもらおうと思い、電柱に近付く。

その瞬間唐突な頭痛に襲われた。視界はぐらぐらと揺れ動き、意識を失いそうになるのを必死でこらえる。


    ___な、何、これ…。


もう、自分が立っているのか座っているのかさえも分からなくなり、ぎゅっと目をつぶった。

世界が真っ黒に塗りつぶされた時__。



遠くから何かの音を聞こえた。



耳を澄ますと、その音は近付いてくる。音が近付くにつれて頭痛も少しずつ治まってきた。

少し楽になって目を開くと、目の前でチョコが吠えている。チョコはもともと大人しい子で、滅多に吠えることはなかったので、驚いてしまった。

よく分からないことが立て続けに起こったせいで、ひどく混乱している私をチョコは家まで連れていってくれた。

私の愛犬は超が付くほどのイケメンで。

手を引く力は優しく、リード越しにチョコの気遣いが伝わってくる。たまにこちらを振り返る時の心配そうな顔がたまらないんだ。

うちの子、天使。好き……。


家に帰ると、温かいご飯が待っていて、ご飯を食べ終わると温かいお風呂が待っていた。そして、目を閉じる直前に見えたのは、母の呆れた顔。母は何かを言おうとしたけれど、その言葉を聞く前に私は意識を手放していた。





「あれ………?私…」


目の前に広がるのは、真っ暗闇。自分の姿さえ見えないほどの、黒一色。

ここは、どこ?


「お母さん…?お父さーん。チョコー?」


誰もいない。走っても、どこへも行けない。

ずっと同じ暗闇が続いている。

なんで、どうして。

暗い。怖い。誰か、誰か……。


「助けて…!!」


はっと目を覚ます。

目に映るのは、見慣れた天井。心臓はドクドクと脈打っている。荒い呼吸を繰り返しながら気持ちを落ち着かせる。


「夢、かあ。怖かった……」


流石にこの後すぐに寝る勇気はないので、水を飲みに最近綺麗になったリビングまで行くことにした。

今までは『ザ・居間』というふうな居間だったのだが、私が友達の家みたいな洋風のリビングが良いとごねたところ、リフォームすることになったのだ。

まだ見慣れない夜のリビングは、少しだけ異質に感じる。怖い夢を見たせいで、お化けでも見えてしまいそうだ。


「まあ、そんなわけ___」


ない、と言い切ってしまいたかった。


    ___ナ゙イ。


え、君が言うの?

え?それ、君が言っちゃう感じ?

もー、さっきのやつフラグだったのかー。

知ってたら言わなかったのになー。

なんて心の中だけで騒いで現実逃避をしながらも、視線はずっと逸らせないでいる。

2時過ぎ。さっきチラッと時計を見ただけなのに、そのことが頭にこびりついて離れない。


    ___イ、ナ゙イ゙。


丑三つ時は幽霊が見える時間だという。

真っ黒で、輪郭はぼやけているが、シルエット的に判断するなら、小さな子どもだ。

だが、それから発される声は色んな音が重なっているみたいに聞こえて、気味が悪い。

人の形をしているだけの、『ナニカ』。あれは絶対に人ではない。というか、幽霊だ。


絶対幽霊だって!!何でうちにいるの!?やめてよ!

てか、「いない」って何!?


    ___ワ……クシ、ノ…。


ぶるぶる震えながら、訳の分からないことをボソボソと呟いているナニカをじっと睨み続けていると、ふとぬくもりを感じて足元を見下ろした。


「えっ、チョコ?」


さっきまでケージの中で眠っていたはずのチョコが私の足元にいた。足音で起こしてしまったのかもしれない。申し訳ないと思うと同時にチョコがいることに安心して気が抜けてしまったようで、急に睡魔に襲われた。私は抗う術もなく、そのまま床に座り込んで瞼を閉じた。





「___ぅか。優華。今日も、朝のお散歩行かないの?」


パチッと目を開くと、目の前には私のお母さんがいて、その後ろには私が生まれ育った私の家の、新しいぴかぴかのリビングが広がっていた。いつもと変わらない日常の一コマ。近くに、チョコの姿は見当たらなかった。


さっきのは、夢……だったのだろうか。


「ふふふ。優華って『お散歩』って言うとすぐに起きるわよね。そういえば、どうしてこんな所で寝てたの?優華も床の魅力に気付いちゃった?」

「違うよ!あ、チョコ…!チョコは?私と一緒に寝てなかった?」


母がいつも通りふわふわしているおかげで気分が少し良くなった……気がする。

大切なのはチョコ。第一にチョコ。第二にご飯。

よし、いつもの私だ。


「え?お母さんが起きた時からチョコはずっとケージの中で寝てるわよ…?」


母の視線を追って私もチョコのケージを見た。

中ではチョコが気持ちよさそうに眠っている。

そうだ。ケージには、内側から勝手に扉が開かないようにストッパーが付いてるんだ。

いくら可愛くて賢すぎるチョコでもストッパーを外すのは不可能だ。

よかった。怖くて長い夢を見ているだけだったんだ。

トイレの帰りに力尽きて眠っちゃうことも、たまにあることだもんね。


「よしっ。チョコ、お散歩行くよ!」


切り替えの早さは母譲り。曰く、悲しいことがあっても楽しいことは心から楽しめ、だそうだ。

チョコも起きた。お散歩セットも持った。

準備万端!


「いってきまーす!」

「バカ。まだ着替えてないくせに何言ってるの」

「あ、忘れてた」





家族5人で机を囲んでご飯を食べる。

昔からある我が家のルールだ。

たまに寝坊して私だけ一緒に食べられない時もあるんだけど。

それはそれとして、絶賛食べ盛りである私と祖父母のご飯の量はものすごーく違ってくるので、ご飯はバイキング形式をとっているのだ。

ただ、お肉ばかり食べていると、監視役おかあさんがサラダの量をどんどん増やしていってしまうので、好きな物だけ、というふうにはならないのである。残念。


ああ、だし巻き卵の優しい出汁の味。

ピカピカと輝く白米に、湯気を立てたお味噌汁の塩味が口の中で混ざりあって、口内に楽園を造り上げる。


お散歩から帰ってきてお腹がぺこぺこになっていた私は、用意されていた朝ご飯を夢中で食べていた。

美味しいものってどれだけ食べても美味しいんだから不思議だよね。

ほわぁっと幸せ気分に浸っていたのも束の間、今朝の散歩での出来事を思い出し、私は慌てて口を開いた。


「あ!ねえ、最近さ!黒いもやもやしたやつがその辺歩いてたりする!?」


ピタリと皆の動きが止まる。


「まさか……あれは、実話…?」


父はぶつぶつと何か呟きながらぐっと眉間にしわを寄せているが、どうやら心当たりがあるようだった。

やっぱり、あれは私の目がおかしくなってるんじゃなくて、実際にいるんだ!


「ねえ、あれって………やっぱりお化けなの!?」


「………優華。これから、お父さんの話を……落ち着いて聞いてほしい」


少し間を置いてから口を開いた父の目は、真っ直ぐ私を見つめている。とても真剣で、何だか苦しそうだった。ピリッとした空気感にたじろぎ、私は、おずおず頷く。


「うちには、ある言い伝えがあってね…。昔この辺で災害が立て続いて起こったんだ。その時村を救ったのが初代山縁家当主__優華のご先祖さまだといわれているんだよ。村の人たちは、感謝の印として山縁家のために立派な屋敷を作ってくれたんだって」

「だからうちってこんなに家が広かったんだ……」

「そうだよ。でもね、初代当主は亡くなる前、数十年後にまた同じことが起こると予言されたんだ。大災害の前には、きっと黒い化け物が現れるから、その時は『穴』を探しなさい。ともおっしゃったそうだ」

「……あ、穴?」

「そう。その穴からは災いをもたらすという『マガモノ』が出てくるそうなんだ。優華が見た黒いもやも、きっとその穴から出てきたんだろう。昔災害が起こったのも、そのマガモノのせいだといわれている」

「な、何それ…!?災いをもたらすって、そのマガモノって、一体何なの!?」

「……それが、よく分からないんだ。初代当主は破魔の力でマガモノを退治したと伝わっているから、妖怪とか幽霊の類だとは思うんだけど……。それが視えるのは山縁家の子どもだけと言われていてね。昔は、そのマガモノがもたらす災いによって、多くの人々が亡くなり、この辺りにあった村落は壊滅しかけたそうなんだ」

「そ、そんな……」


マガモノは、人を殺すの…!?

でも、うちの子どもにしか視えないって、どうしたらいいんだろう。

放っておいたら、皆死んじゃうんだよね。


___あれ?


壊滅 ''しかけた" って言った?

てことは、壊滅 ''した" わけじゃない?


「助かる方法があるってこと!?」

「…マガモノを倒す方法はある」

「それ、教えて!早く倒さないと、誰か死んじゃうかもしれないんでしょ!」

「………そう、だね」


何やら歯切れの悪い父に違和感を覚えながらも、私は次の言葉を待った。


「マガモノを倒すには、穴を塞ぐしかないんだ。……穴を塞ぐ方法はただひとつ。穴を見ることが出来る者が、その中へ入ること。…穴を見ることが出来るのも破魔の力を受け継いだ山縁家の子どもだけらしい」


穴の中に入るだけ……?

もっと大変なのかと思っていたが、随分と簡単に悪者をやっつけられるのだと分かって、俄然やる気が湧いてきた。私にしか視えないなら、私がやるしかない。


嬉しい。

マガモノを倒して村を救った人の血が私にも流れているなんて。

私も、昔憧れたヒーローみたいになれるなんて。

悪者を倒して、皆を守る。

そんな、キラキラした存在に…!


「任せて!それなら、私にも出来るよ!今からでも探しに__」

「待って、優華」


心を踊らせながら立ち上がった私を、父は止めた。

私の腕を掴むその手は、少し震えているようで、私は首を傾げる。


「お父さん、さっきから何なの?一刻も早くマガモノを倒さなくちゃいけないんでしょ…!?」

「……そう。そうなんだけどね。優華、よく聞いて」


「言い伝えによれば、『その穴はひとつの命によって閉じられる』そうなんだよ」


「…………え?」


一瞬、頭の中が真っ白になる。


ひとつの、命…?


マガモノを倒す代わりに、誰かが、死んでしまうってこと?

いや、違う。誰か、じゃない。


死ぬのは、私だ。


皆を守るために、私は死ぬの?

まだ、十数年しか生きてないのに?


自分を犠牲にして、たくさんの人を救うなんて、そんなの、私の思い描いていたヒーローなんかじゃない。


「皆は、知ってたの……?」


家族は皆、気まずそうに目をそらす。


「……ただの、作り話だと思っていたんだ。おばあさん__優華のひいおばあちゃんは、お話や絵をかくのが好きだったから…。それに、この言い伝えはどこまで本当なのか、分からなくて……」

「そんなこと聞いてるわけじゃないよ!!」


頭に血が上って、感情を上手く言葉に出来ない。

そもそも、自分が今、何を感じているかさえもよく分からなくなっていた。

怒っているのか、悲しんでいるのか。


「もういい。ひとりにさせて。どうせ皆、私が死んだってどうでもいいんでしょ」

「っ優華__」


私は逃げるようにリビングを飛び出した。





知らなかった。この家の言い伝えなんて。

知りたくなんてなかった…。


「私、生け贄なんだ……」


皆が助かるために、命を捧げる。

それを、生け贄と呼ばずしてなんと呼ぼうか。


皆は知っていたんだ。

この土地の不気味な現象も、私がひとり犠牲になることも。

今まで、どんな気持ちで育ててきたんだろう。

どんな気持ちで接してたんだろう。

もしかしたら、お父さんも、お母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも。

本当は、誰も、私のこと__。


「どうして、私って生まれてきちゃったんだろ…?」


考えれば考えるほど気持ちは沈んでいく。何度拭っても頬は濡れたまま乾かない。

苦しい。助けて……。


「わんっ!!」


わずかに開いた隙間に鼻を突っ込んで器用に障子を開けながらチョコは部屋に入ってくる。

チョコは、そのまま私に駆け寄り、ペロリと頬を舐めた。いつもなら当たり前のその行動が、今の私にとっては何よりも嬉しくて。

ひとりじゃないんだって思えて、また涙が溢れてしまった。でも、少しだけ涙はあたたかく感じて。

チョコの温もりが冷えきった私の心をあたためてくれたような気がした。


「チョコ。私ね、昔はヒーローになりたかったんだ。皆を守る正義の味方ってすごくかっこいいでしょ?あんな風になれたらなって…。でも、今、皆のために死ねって言われても、私……頷けないよ。私は、まだ生きたいし………家族と、皆と、お別れなんてしたくない。ヒーローになんてなれないよ……」


日も落ちて、窓の外はもう暗い。

チョコが部屋に来てくれてからしばらくして私は泣き疲れて寝てしまった。私が眠っている間も、チョコはずっとそばにいてくれたようだ。

目が覚めてからは、一緒にごろごろ寝転んだり、アルバムを取り出してきたり、たくさん話を聞いてもらったりしてだらだら過ごした。

ひとりで考え込んでいた時よりずっと心が軽い。


「いつもありがとね、チョコ。君は、私のヒーローだよ」


えへへ、と私が笑うとチョコは嬉しそうに尻尾を振り私の手をペロペロと舐めてくれた。

もう気持ちも落ち着いた。


皆に、謝りに行かなくちゃ。

チョコと一緒にいて気付いた。皆は私のこと、愛してくれてなかったわけじゃないこと。皆も、いや、皆の方が、苦しそうだったこと。


どう謝ろうか考えながら障子を開けると、すぐそこにご飯が置かれていた。私の分とチョコの分。周りにはメモも何もないけれど、母の優しさに熱いものが込み上げてきた。


「チョコ、しっかり食べておいてね。明日の朝はお散歩行くからね」


私がご飯を食べる横で、チョコもドッグフードを頬張っている。


「あーあ。いつもよりご飯がしょっぱいなぁ……。謝るのは明日にしよ…」





「チョコ、おはよう。朝だよ」


昨夜早くに寝たので体力が全回復した私は、隣で眠っているチョコに優しく声を掛ける。

昨日は夕方のお散歩に行ってあげられなかった分、今日はたくさん遊んであげなくちゃ。

最初は眠そうだったチョコも、少し歩くと目が覚めたようで家の外に出る頃にはすっかり元気そうだ。


私は思いっきり息を吸い込んだ。

一日の中で、この瞬間が1番好きかもしれない。透き通った朝の空気が私を満たして、新しく生まれ変わらせてくれる気がする。


家を出てから少し坂を下った先で、私ははっと息を呑んだ。目に映るのは、昨日も見たアイツ__。


「マ、マガモノ…!しかも、昨日より増えてる…!!」


早朝とはいえ、通行人もちらほらいる。だが、誰一人としてマガモノを見る者はいない。


「やっぱり、お父さんが言ってたことは本当だった。てことは、私、アイツらを倒すために……」


呼吸が浅くなる。心臓の音がいやに頭に響く。

リードを持つ手は震え、足の力が抜けそうになる。

怖いものは怖い。

死への恐怖はそう簡単に消えるものではない。


でも、このままだと、またチョコに迷惑をかけてしまう。また、チョコの優しさに甘えてしまう。

これから、私はチョコも家族もいないところに、たったひとりで行くんだ。

だから、ここは虚勢を張ってでも、チョコを安心させないといけない。


「チョコ。なるべく、マガモノがいないところを通ろっか」


声が震えないように。明るく。

いつもみたいに笑って。

___この気持ちに気付かれないように。





「あら、おかえり。優華」

「あ、お母さん。……た、ただいま」


昨日あんな態度をとってしまったというのに、母がいつも通り接してくることが意外で、挙動不審になってしまった。

焦り具合が、昔、割ってしまったお皿を隠したときみたいで思わず笑みが零れる。


「うふふ。前にもこんなことあったわねえ」

「あははっ。同じこと考えてた」

「ほら、そんなとこに立ってないで、早くこっちおいで。皆待ってるわよ」

「…………うん」


皆が私のことを待ってくれている。

そのことが私に勇気をくれた。少し緊張も解けた。

よし、行こう。


リビングに入ると、皆が私に注目した。私は2、3歩前に進み出ると思いきり頭を下げた。

綺麗な直角だ。たぶん。


「昨日はごめんなさい!!皆にひどいこと言っちゃって……私、混乱して…」

「もういいんだよ、優華。それより、ご飯が冷めないうちに食べよう」

「……うん!」

「優華ちゃんの好きな物、いっぱい作ったからたくさん食べてね」

「ちょっとお義母さん。そんなこと言ったら、優華、お腹壊すまで食べちゃうんですからね」

「む、そんなことしないよー!」

「優華。今日は墓参りの日じゃ。ちゃんと着替えるんじゃぞ」

「…おじいちゃん、さすがにジャージでお墓参りは行かないよ……。皆、私のこと子ども扱いしすぎじゃない!?」

「だってまだまだ子どもでしょ。チョコはお留守番お願いね」

「わん!!」


どうして家族そろってご飯を食べるのか。その理由が、何となく分かった気がした。





墓石に水をかけ、雑巾で磨く。周りに落ちているごみはゴミ袋の中へ入れる。お花とお団子を供えて、お線香をあげる。最後は、皆で合掌。


ご先祖さま、どうか私に勇気をください。


「さて、お墓参りも終わったし、帰ろうか」


父の声を聞いて顔を上げた。

勇気をもらえたかどうかは分からないけれど、とりあえず帰ろう。

私も皆の後を追いかけようとしたが、ふわ、と優しい風が吹いて何となく後ろを振り返ると、『山縁家』と書かれた墓石の前に、着物姿の1人の老婆が佇んでいた。


「あらまあ、貴女優華ちゃん?大きくなったのねぇ」

「……えっ、と。ど、どちら様ですか…?」


先程まで私が立っていた場所に違う人が立っているだけでも心臓が飛び出すかと思ったのに、私のことを知っているなんてさらに驚きだ。

全っ然見覚えがない。


「まあ、分からなくても仕方ないわね。わたくし、貴女が小さい頃に死んでしまったもの」

「……え。し、死ん……!?え、ええ!?ゆ、ゆゆ、幽霊………!?」

「そうよ。わたくしは、貴女のひいおばあさん」


そう言って微笑む老婆の着物は左前になっている。

亡くなった人が着る死装束の特徴だ。


「私のひいおばあちゃん…。ってことは、おじいちゃんのお母さんですよね!?」

「え、ええ……。ああ、分かったわ。貴女、わたくしのお姉様について聞きたいんでしょう」

「はい…!朝、おじいちゃんが話をしてくれて気になっていたんです」


目の前に立っている私のひいおばあちゃんは、結構なお年だったと聞いたことがあったが、とても若々しく見える。それに、言葉遣いや佇まいに気品があって、どこかのお嬢様みたいだ。

話すだけですごく緊張する。


「いいわよ。教えてあげる。……といっても、わたくしもあまり多くは知らないのよ。わたくし、その時は幼くてお母様と一緒に家に居たから、お姉様が穴に入る様子は見ていないの。天国で逢えると思っていたのだけど、天国にもいらっしゃらないし……」

「そう、ですか…」

「でもね。お姉様、いなくなってしまう前に、わたくしにおっしゃったの。『わたくしがこの世で最も大切なものは、貴女達。わたくしの可愛い妹達よ。貴女は4人の中で1番お姉さんなのだから、ちゃんと面倒を見てあげるのですよ』と。わたくしは5人姉妹の次女だったの。色々大変なことが多かったけれど、お姉様の言葉のおかげで頑張れたのよ」


「ねえ、貴女にとって、この世で最も大切なものって何かしら?」


この世で1番大切なもの……。

そんなこと、今まで考えたこともなかった。

でも、そう言われて真っ先に思い浮かんだのは、いつも私を支えてくれている、大切な人たち。


この世で最も大切なもの。それは___。



「家族です」



「顔付きが変わったわね。覚悟は決まった、ということかしら?………ああ、そうだ。倉に絵本が置いてあったでしょう?あれね、わたくしが作ったものなのよ。『月うさぎ』はもともとあった昔話を山縁風に書き換えたの。『青年と馬』の方は貴女が犬を飼い始めてから処分してしまったけど……」

「えぇっ!?そうだったんですか!?」

「そうよ。あら、ごめんなさい。そろそろお別れの時間だわ」

「あ、はい!色々と、ありがとうございました!」


顔を上げると、もうそこには誰もいなかった。

少しの間だったけど、ひいおばあちゃんとお話し出来て良かった。

私は、大切な家族を守るんだ。

そう思うと、怖いものなんて蹴散らしてしまえそうな気がした。帰ったら、最後にちゃんと話をしよう。





「あのね、私、これからチョコのお散歩に行った後、穴に入りに行こうと思う。だから……ね。皆に、今までの感謝とか、色々伝えようと思って……」


私はまず、両手で口元をおさえポロポロと涙を流す祖母の前で膝をついた。


「おばあちゃん。私ね、おばあちゃんとお話しするの、すっごく楽しくて、大好きだったよ。今まで、色んなことを教えてくれてありがとう」

「おっ、おばあちゃんもね、優華ちゃんとお話しするのっ………楽しかったわ……。こちらこそ、ありがとう」


泣いている祖母を見ていると、私まで泣き出してしまいそうだったけど、ぐっと我慢した。

そして、次は祖父に話しかけようと思い口を開くと、祖母の隣に座っていた祖父はそっぽを向いたまま話し始めた。


「わしには、何もしてやれることがない…。ただ、覚えておいてやるくらいじゃ。……すまん」


祖父の声にはいつもの覇気が感じられず、消え入るような声に胸がきゅっと苦しくなる。


「覚えていてくれるだけで十分だよ。私、おじいちゃんの優しいところが大好きだよ。今までありがとう」


私は、立ち上がって両親のもとへ歩いていく。


「優華、こんな生き方しかさせてやれなくて、本当にすまない……。せめて、お父さんが代わってやれたら良いんだが…」

「もういいの。お父さん。私ね、お父さんが私のお父さんで本当に良かったって思ってるよ。今まで、ありがと!お父さん、大好きだよ…!!」


にこっと笑って見せた後、母の方に向き直った。


「お母さんには……いつも甘えっぱなしでごめんなさい。毎日、美味しいご飯作ってくれてありがとう!」

「優華、あなたの名前にはね、優しい人になって華に彩られた人生を送れますようにって願いを込めたの。優しい人っていうのはね、他人に優しいだけじゃなくて自分にも優しく出来る人のことよ。……優華は、本当にこれでいいの…?」

「いいの!もう決めたから。私は、こんなに優しい家族に囲まれて生きられて、とっても幸せだったよ!」


抱きついてきた母をぎゅっと優しく抱き返す。

寂しい気持ちがないわけじゃない。

でも、いつまでも立ち止まっていちゃだめだ。


「チョコ、行こ!皆、いってきます!!」





今日は、ゆっくりと歩くことにした。

周りを見渡せば、チョコとの色んな思い出がよみがえってくる。

一緒に遊んだ公園。2人で見つけた小さなお花。そしてチョコと初めて出会った場所。


「ここで、捨てられてたチョコを拾ったんだっけ…。懐かしいなあ。最後までお世話してあげられなくて、ごめんね」


こちらを見上げるチョコの顔が、少し寂しそうに見える。チョコがいなかったら、今の私はいないんだろうなあ。


「あ___」


今まで、何となく歩いてきた。

いつもの散歩道というよりは思い出を辿るように、自由気ままに歩いていた。


そうしたら、『穴』に行き着いてしまった。


何の変哲もない住宅街の片隅に、ぽっかりと穴が空いている。穴としか言いようがないくらい、その部分だけ色が抜け落ちていて、純黒が私を手招きしているように感じた。


    ___オイデ、オイデ。


「ごめんね、チョコ。もう、お別れみたい」


    ___コッチニ、オイデヨ。


「今まで、ありがとう……。チョコ、私がいなくてもちゃんと家まで帰るんだよ」


そう言って私はリードを手放し、穴の中へ足を踏み入れた。



__最後に、チョコの声が聞こえた。



「あいたっ」


何かに額をぶつけた。

私は目の前のブロック塀に頭をぶつけたようだ。見たところ、さっきまでいた場所と同じようだが、チョコがいなくなっていた。マガモノや人も見当たらない。

ここは、穴の中なのだろうか。

とりあえず、自分の家まで行ってみることにした。


世界は想像以上にいつもと変わらなくて、本当に穴の中なのか疑ってしまう程だ。

チョコはちゃんと家に帰れただろうか。

愛犬の心配をしながら家に入ると、玄関には "母" がいた。いや、ここは穴の中なのだ。私の母であるはずがない。

でも、目の前にいる ''母'' は本物そっくりだった。


「あ、あなたは………誰?」


「え…?優華、どうしたの?それに、チョコは?」


"母" の言葉を聞いて、1つの可能性が頭に浮かんだ。

いつもと変わらない町並み。母そっくりの女の人。

消えたチョコとマガモノ。

そして、追い討ちをかけるように思い出される昔の記憶。曾祖母が『青年と馬』と呼んだ絵本は、穴に落ちかけた青年を馬が助けるお話だ。


私が穴に足を踏み入れる前に、チョコが穴の中に入った。そう考えると、辻褄があう。


つまり、今目の前にいるこの人は、正真正銘私の母ということだ。


「お母さん…!チョコが、チョコがぁ……!!!」


また、チョコに助けられてしまった。

今度は私が助ける番だと思っていたのに。

私が守りたかった『家族』にはもちろんチョコも入ってたんだよ。

なんで勝手に私を助けていなくなっちゃうの?


「チョコ………チョコぉ…!!」


玄関でうずくまって泣きじゃくる私を、母は何も言わずに抱きしめてくれた。





「あ、アルバム見てるの?」


あの日を過ぎてから、毎朝1人で起きて家事を手伝うようになった。

そして、今年の春からはいよいよ一人暮らしだ。

成長した娘を見て目が潤みそうになる。私も年をとったなあ。それともただの親バカだろうか。


「あー!!お母さん、日記勝手に見たでしょ!」

「日記って……チョコのことしか書いてないじゃない」

「………チョコの観察日記だからいいの」


そう言って頬を膨らませる娘が民俗学を学びたいと言い出した時は驚いた。

なぜかと問えば『チョコに救われた命なんだから、チョコのために使いたいの。マガモノについて少しでもいいから何か知りたいんだ』と返されたので思わず笑ってしまった。

ずっと塞ぎ込んでいた頃とは違って、今のあの子は真っ直ぐ前を見つめている。


「チョコ、待っててね。助ける方法、きっと見つけてくるから。私を助けてくれてありがとう」





初めて出会った人はボクのこの毛並みが嫌いだったのか、他の兄弟とは違って、生まれてすぐのボクをダンボール箱に入れて空き地に置いていった。

怖くて震えていたボクを見つけた女の子はボクをおっきな家に連れ帰ってくれた。

そして、ボクにたくさんのことを教えてくれた。

ボクとたくさん遊んでくれた。

その子といると、なぜか心がポカポカしたんだ。

『ずっと一緒だよ』って言ってもらえて嬉しかった。


初めてアイツを見た時、君に近付かせないようにしようと思って威嚇したんだ。でも君の方から近付いていっちゃうし、アイツに体を乗っ取られそうになってるから、ボクは夢中で吠え続けた。君がいなくなっちゃうのが怖かった。でも、そうしたらアイツは消えてくれたから安心したんだ。

その日の夜、足音で目を覚ますと君がじっとアイツを睨みつけているのが見えた。いつもはそんなことしないけど、ボクはケージを跳び越えて君のもとまで走って行った。君が寝ちゃった後、2、3回吠えたらアイツは消えていったからボクもケージに戻って寝ることにした。ボクも結構疲れてたみたいで、起こされるまでぐっすり寝ちゃったんだ。

それから、家にいるアイツは全部消して回ったし、君に元気になってほしくてずっとそばにいた。

君が怖くて震えてることは知ってた。

それを隠そうとしていることも。

だから、ボクが守ってあげようって思ったんだ。



君が、捨てられたボクを助けてくれたみたいに。


今度はボクが、君を助けたかった。



君より先に穴に飛び込んだ時、頭に浮かんだのは、君の笑顔だった。

最後に君に伝えたい。


ボクを拾ってくれてありがとう。

ボクに名前をくれてありがとう。


君の耳にまで届くといいな。ボクの、この想い。


「ボクの大切な、大好きなご主人様。ボクを愛してくれてありがとう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

純黒と英雄 花咲空 @hanasakusora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ