第三十四夜 同胞よ、どうか。
重く響いた落下音。痺れる鈍痛。やけにしっとりと冷たい湿気のある空気を吸い込んで、
重力に、闇に飲まれるように視界から消えた
「――生きてる?紗世ちゃん」
「……うん。……ごめんなさい、怪我……」
高所からの落下だ。庇ったと言えど限度がある。落下中引っ掛けたのだろう、じんじんと鮮血の滲む腕を横目であしらい、バツの悪そうにそっと己から離れる紗世を安心させようと微笑む。
「ありがとうでいーよ。僕なんか頑丈だから気にしないで」
本音だ。少し迷ったあとで返った、気恥しいのを隠すような礼に「どういたしまして」を返事。そのまま、海月は天を仰いだ。
見上げたその先。自分が目を開けているのか分からなくなるほどの暗闇に、元いたフロアは目視できず。最深部とやらだろうか。あまり長居はしない方がよさそうだと鼻を鳴らして。
その時。
「あの、大丈夫ですか?」
体温が急激に下がるのをはっきり感じ取る。声。女。紗世ではない。
酷いデジャブ。軽くトラウマとなっている、半分になった飼い主の
「あっ、ごめんなさい、突然……びっくりさせちゃいましたよね」
捉えた声の主は小柄な女性。不安に潤んだ大きめの双眸が薄暗さの中てらてらと光る。人の匂いがした。
人を匂いで覚えるのは、幼い頃から得意だった。加えて重ねた戦場の経験に、その特技は海月の知らぬ間に育っていて。つまり。人なのか、そうでないのか、ある程度は選別できる。
――ただ。奇妙だった。ドールの乗っ取りによって化けた【王】は確かに【戦士】よりまだ人に近い理性を持っている。だがそれにしても目の前の彼女の落ち着きようは異常とも言える程で。
くん、とシャツの裾を引かれる感覚に、海月は紗世を振り返った。
「……声、一緒」
小声で。瞬時にその言葉の意味を飲み込み、告げた紗世の表情にいくらか安心した。彼女の警戒心は、巧みに隠されながらもしかし鋭く【女王】を向いている。紗世も、彼女が既に人でないことには勘づいているらしい。
「……あの、えっと……」
戸惑う、女、もとい【女王】を前にしばらく考え、海月はやがて声のトーンを上げた。
「……いえ。――お姉さん、怪我は」
警戒は解かず。ただ上っ面に優しさを貼り付けて。得意な愛想笑い。彼女の表情に微かな安心が灯る。
「もしかして、葬儀屋さんですか?私は大丈夫なんですけど、友人が怪我してて……」
助けて、と。縋る彼女の姿に警戒を薄める。敵意は無い。純粋に慈悲を乞うその姿。そっと、己の影から顔を出した紗世と目があった。今、優先するべきは。海月は彼女に向き直る。
「僕らは葬儀屋です。友達、どこですか」
優先するべきは、救える命。上司の教えに倣うように、誠実に。彼女らがここに居る理由が、単なる肝試しではないことは明確だった。
彼女に自身の死を告げるのは。
その死から目を逸らし、代わりに彼女の生前の覚悟と目線を合わせるように。問いかけに、【女王】は表情をぱっと明るくして。こっちです、と彼女は二人を先導した。
*
月明かりにのみ照らされる廊下に、質のバラバラな靴音が二つ。しきりにスマートフォンを確認しながら、はぁ、と
「既読つかねぇ。大丈夫かな」
「……電波悪いんだよ、海月なら大丈夫」
心配を押し込めるように交わす会話。先に行った二人と合流すべく、ただあてもなく彷徨う廃ホテル。
ふと。どちらからともなく足を止めた。
前方、こちらに背を向けて立つ細身の人影。
――警戒。
それが、ゆっくりと二人を振り向く。捉えて、戦慄。
片腕、健全に白かったであろうそこは、広範囲に赤黒く変色し火傷跡のように爛れていた。月光を不気味に受けて黒光る様はまるでなりかけの死体。
「……【王】、?」
呟いたのはどちらだったか。その威厳はなく、しかし妙なプレッシャーを放つ彼に、疑問符のついたそれ。
そっと。立ち尽くす二人を男の腐敗した指が差した。
「……逃げて」
刹那。鈍く折れるような音とともに彼の腕が変形。不自然に伸びたそれは刺すように、鋭利に二人を襲う。咄嗟の回避に、脆い廃墟の床には容易く亀裂が入り、溢れ出たエネルギーが風圧となって窓を割った。
状況理解が及ばぬ間に【王】の接近。意思のない殺気。腐臭をまとった死体の特攻に発砲。
守りに回ったこちらの威嚇にすら彼は怯んで。それを【王】と呼ぶには、あまりにも脆弱であった。
「――っ、
「……うん。多分戦意はない。未遥、あっちの肩、
「…………わかった」
腹を括った了解。これは正義だ。正しい葬儀だ。そう自分に言い聞かせるように。続いた殺意のない攻撃を受け流し残弾数の確認。二弾。充分。
葬儀の開始。操り人形のように、彼の意思に反して暴れ回る死屍守の身体。いたい、と未遥の耳に繰り返し、呪いのように響く
生き物のようにうねる炎の拘束に【王】の動きが止まって。辛いだろう。なのに無抵抗の彼に
銃声。彼の腕の、その患部との境目。重い銃弾が抉るように腐肉を穿つ。果実の弾けるように。色の悪い死体の体液が飛散。ぼと、と悪い肉の落ちる水音と呻く声が真っ直ぐに鼓膜へ届いた。
男が膝を着く。漏れ出すどろりとした体液が広く地面に染みを作って。倒れ行く彼に駆け寄り、その身体を未遥は抱きとめた。
「……ごめんなさい、もう少し、頑張って」
そう打ち込んだ気休め程度にしかならない鎮痛剤。やるせなさと緊張にぐ、喉が鳴って。やがて腕の中、男が掠れた声で言った。
「離れて、ください。もう、一人にだって……移したくない」
僅かに。鼓動に共鳴するように蠢くその患部に目をやって。目を逸らすことはできなかった。男にまとわりつく死の気配に。今際に立たされてもなお、人の無事を優先しようとする健気さに。感染。未だ治す術のない、戦争が残した残り火の。こうなってはもうこれ以上、出来ることは何もなかった。
離れない、と伝えるように。未遥は男の背に回した腕に軽く力を込めて。
「俺は大丈夫です。あなただって、きっと良くなりますよ。だから安心して。……質問、答えてくれますか」
小さく息を呑む音。間があって、微かな頷き。未遥は躊躇いがちに、しかし淡々と続けた。
「お兄さんの他、……誰かと一緒?」
「……彼女、……友達が二人。彼女は俺と同じ、で、友達はゲンガーです」
四人。となればやはり彼は負傷者の。しかしゲンガーに限定されていた負傷者の事前報告との齟齬にまた疑問が増える。こちらの身分を問う男に葬儀屋だと名乗り。彼らはどこへと、順を追ったこちらの次の問いに、男は震えた声で懺悔を始めた。
「俺のせいです。騙されたなんて、ただの言い訳だけど。……わかってるけど、でも俺は、俺たちは……、みんなを、幸せにできると思って」
支離滅裂な言葉に困惑。男の目元に浮かんだ涙に未遥は薄く息を止めて。男はどこか諦めたように目を伏せる。
「俺は、この
自分は死屍守だと、自覚。それは、死に気づかず、あるいは忘れて彷徨う彼らの解放だ。
騙されたと。先程の彼の言葉に犯人を問う。はくはくと彼の唇が震えて。限界らしかった。掠れた吐息が怯えたように。
「…………お、かァ、サ」
言い切る前に。ごぽ、と彼の顔が歪み、溶け出すように変形した。ともに生え変わった人外の爪が、苦しみ暴れて未遥の皮膚を引っ掻く。
不意の痛みに反射の悲鳴。ただ彼の最期を受け止めようと身体は離さずに。
背後で焦りを孕んだ真実の声がして。しかしそれを、未遥は年に不相応の冷静さで宥め、そして【王】をまっすぐに見つめた。残弾数一弾の、その引き金に謝意を持って指をかける。
「お疲れ様でした。──あとは、任せてください」
労いの銃声――後に、消滅。
「…………」
「……ありがとう、未遥」
「……うん」
舞った死塵に未遥も手を合わせた。命を奪った、または救ったその手で。もう彼は人ではなかった。己の行動は紛れもない後者である。それでも彼の、本当の最期の表情に、心残るのは罪悪感。それを察してか、僅かに震える未遥の手を、真実の高い体温が包み込む。
「……色々整理したいけど。ひとまず【女王】は、きっと彼女さんだ。
「――おう」
彼がいた証明となった暗い血溜まりへ送る弔いの意。二人は彼の立っていた奥の暗がりへ進んだ。
*
視界の中心に、【女王】の白い人影だけがぼんやりと揺れていた。その不安定に制限された覚束無い歩みで、反対に軽やかな足取りの彼女を追うのがやっとで。
その時、【女王】がはたと足を止めた。
「この奥です。この奥に友人がいます」
そう見返る彼女の表情は見えず。ただようやく目が慣れた暗闇の中でそれを見てはっと息を呑んだ。彼女の皮膚。その上を虫が這うように微かに波打っているのを。
反射で、二人の意識が戦闘に傾いた。だが、その先を。葬儀の開始を宣言するのを情が拒む。それが唯一の救いであるのは分かっていた。それでも訪れてしまった開式の時に言いようのない不甲斐なさを感じて。
一方こちらの冷静さに、【女王】は酷く安心しているようだった。その証拠として、死人らしからぬ、無邪気な笑みが向いた。
「お兄さん達、ほんとは気付いてましたよね」
身体ごと二人を向いて。人を模していたその身体は、その半分が死体のものへと変わり果てていた。
「私は死屍守です。さぁ、殺してください、葬儀屋さん」
そのどうしようもない強かさに二人は押し黙った。返答は見当たらず、無言は彼女の懺悔を後押しする。彼女は手を広げて、まるで演説のように、吹っ切れた態度で笑った。
「……私は馬鹿でした。人を死から救えるって、本気でそれを信じて、結局沢山、殺しちゃいました」
「信じた……って?なに、宗教?」
知識外の話題に海月は首を傾げて。しかしその隣、紗世は顔を青くしてまさかと呟いた。
「教団、……?滅んだはずじゃ……」
聞き覚えのある単語に思考を巡らせて。教団。以前、
「――教団は再興しました。まだ規模は小さいけれど、いずれ教徒は膨大な数に増えます。葬儀屋さんなら、見てきたでしょ?……人の、集団感染を」
ぞく、と訳も分からず背筋が冷えた。こちらの戦慄に構わず、彼女は黒く目に見えて進行する病にそっと目を閉ざす。
「私を殺せば、この
遺言。直後、【女王】の皮膚が別の生き物のように蠢き、耳障りな水音とともに二人へ虚構の殺気を向けた。
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