2

 僕たちは本格的に果実の収穫を始めた。あまり大きくはないから、遠目からではどこに成っているのか分かりにくい。大抵、茎の頂上辺りに成っていた。採った果実は手から離すと空中に浮遊する。


 この果実をある程度乾燥させて、煎ったあとで、変換器と呼ばれる装置に入れる。そうすること、この空間を維持するための動力が得られるらしかった。シスターに尋ねると、やはりその動力自体が重要なのではないとのことだった。果実もデータで、そこから得られるエネルギーもデータだから、空間全体の総量としてのデータ量は変わらない。果実を採り、煎ったあとで変換器に入れ、動力を得るという工程自体が、この空間を維持することに繋がるみたいだ。


 ポールの姿が見えなかった。ここには、僕と、カロと、シスターの三人しかいない。それぞれ離れた場所に散っていたから、僕の周囲には誰の気配もしなかった。植物はそれほど背が高いわけではないから、頭の上の視界が覆われることはないが、四方から囲まれるとそれなりに圧迫感がある。植物に特有の鼻をつく匂いもあった。僕はどちらかといえばこの匂いが得意ではない。気持ちが悪くなってしまう。土の匂いも得意ではなかった。全体的に畑作業に向いていない体質だろう。


 顔を上げると空が見えた。


 青い空。


 これも、そういう効果なのだろうか。


 シスターが何らかの操作をしているのではなく、観察者の状態によって、この空間の見え方が変わるようだ。だから、僕が見ている景色と、カロが見ている景色は異なるかもしれない。テーブルや椅子、植物の群れなど、アイテムの類は共通して見えるみたいだが、空間そのもののディテールは可変的で、色々に見える可能性を秘めている。


 なんとなく立ち止まって、そのまま暫く空を眺める。


 眺めていると、頭上に無数の雲が出現した。分厚い雲で、夏のものに近い。太陽は見えなかった。雲は一箇所に停滞して、なかなかその場を離れようとしない。風が吹いて、葉と土の匂いが一層立ち込める。その作用なのか、喉に込み上げるものがあった。気道が狭くなるような感じがする。


 この匂いを、僕は、いつか、どこかで、嗅いだことがある。


 いつだろう? どこだろう?


 僕はずっと空を眺めている。そこに何があるわけでもないのに、どういうわけか目が引きつけられた。そこにあるはずのものを探しているような気分だった。何かがそこに現れるのを待っている。駅のホームに立って、待ち合わせをしているような感覚が去来する。駅なんて、もう暫くの間行っていない。それなのに、感覚だけが内にこびり付いて残っている。


 風が強くなりつつあった。服と顔に少し圧力を受ける。髪を揺らし、額を撫でて、気を少しだけ楽にしてくれる。頭の上に手で庇を作り、目に風が入るのを防いだ。とても涼しい。


 突如、空に黒い物体が出現する。景色はセルを溶かしたようにぼんやりしていて、よく見えない。やがてその物体は姿を変える。密度が小さくなり、個体が群体に生まれ変わったみたいだった。群体は一点に留まったままゆっくりと回転を始める。赤い光。暫くの間、それはそのまま停滞する。暫くすると、別の飛行物体が視界の端から現れた。自分の力で飛行しているようには見えない。生物的な体躯に、メカニカルな機構が装着されている。折り紙で作った飛行機みたいな挙動だった。その飛行物体が黒い群体へ近づいていく。衝突すると思ったが、接触した瞬間に飛行物体の方が消えてしまった。黒い群体は個体に戻り、空を何度か旋回すると消えてしまった。


 目を開いたままであることを思い出して、僕は何度か瞬きをする。少し涙が零れた。涙は頬を伝い、土の地面に滴る。手袋を嵌めた手で目もとを拭った。


 宙に浮いている果実を一つ手に取って、口に運んでみる。カロが言ったように、あまり美味しくはなかった。皮に含まれている酸味と苦味が強くて、果実本来の甘味がほとんど感じられない。頑張って果肉だけ飲み込んで、種を手に吐き出す。この種を変換器に入れるみたいだ。人が口に含んだものでも大丈夫だろうかと考えたが、問題ないと判断して、もとあったように宙に放っておいた。


 場所を移動する。


 なんとなく、身体が軽くなったような気がした。しかし、反対に、重くなったようにも思えた。忘れかけていた何かを思い出して、すっきりするのと同時に、嫌な感情も一緒に蘇ったような感じがする。


 周囲を植物に囲まれていると、なんとなく、自分が洗われるような感じがした。自分の何が洗われるのかは分からないが、ともかく、綺麗になるような感じだった。人間も動物には違いないと言われることがあるが、動物という範囲に留まるのはおかしいと思う。その範囲を越えて、存在、物質、原子というところまで進むべきではないか。動物も、植物も、物質から成るという点で共通している。ここは仮想空間の中だから、僕も、周囲にある植物も、データという点で共通している。


 人は死ぬことを恐れるが、どうしてだろう? 死んだとしても、自分を構成している物質が消滅してしまうわけではない。リサイクルされて、別の姿に変わるだけだ。たしかに、自分という個は消えてしまうが、それだって、生きている間も随分と曖昧なものだ。服は自分の内だろうか? 周囲にある空気は自分の内だろうか? それまでは自分の内側にあったのに、一度吐き出したものはもう一度食べられないのはどうしてだろう?


 自分とは何だろう?


 この、今、見ている、聞いている、感じている、奇妙な何かは何だろう?


 前方の植物の茎が退かされて、カロが姿を現した。僕に気づいて、彼女はこちらに近づいてくる。カロはブレザーを脱いで、ワイシャツ姿になっていた。作業をして暑くなったのだろう。僕は全然暑くなかった。さぼっているからかもしれない。


「大丈夫?」カロが尋ねてきた。「顔が青い」


「そう?」僕はやや斜めから彼女を見る。「なんともないけど」


 カロは周囲に目を向ける。暫くの間きょろきょろとしていたが、やがてその場にしゃがみ込むと、土に触れた。土は湿り気を帯びているようで、手で掬うと皮膚にへばりつくように地面に零れていく。文字で表せば、はらはら、とか、ほろほろ、という感じにでもなりそうだ。両方ともhとrの音が含まれている。


「冷たい」カロが感想を述べた。


「君は? 暑くなったの?」


「暑くはない」


「ブレザーは?」


「シスターに貸した」彼女は答える。「着てみたいと言っていた」


「そう……」


 カロは顔を上げて、僕を見る。下から彼女に見つめられると、少々不思議な感じがした。いつもは見下ろされているからだ。


「何?」僕は首を傾げる。


「うーん、なんだか、変な感じがする」


「何が?」


「君が」


「僕?」


「うん」


「どうして?」


「話したいことがあるんでしょ?」


 カロに問われて、僕は沈黙した。その通りだったからだ。そして、カロにそういう態度が伝わっているだろうということも、僕は自覚していた。伝えようとしていたからだ。随分と捻くれていると自分でも思う。


「まあね」僕は頷いた。


「話したら?」


「話して、どうなるのかな」


「楽になるんじゃない?」


「泣いてしまうかもしれない」


「それなら、泣いてしまえば?」


「そうだね」僕はもう一度頷いた。「なんとなく、君にならそれができる気がするよ」


 今までで一番大きい風が吹いて、周囲の植物をざわめかせた。立っていると強く揺さぶられるから、僕もカロに倣ってしゃがんだ。土は湿っているから、地面に腰をつけるわけにはいかない。


 風が強い間目を閉じていたが、収ってから開くと、目の前に赤い光が浮いていた。カロの目だ。こうして僕と彼女の視線が同じ高さにあることは珍しい。カロは瞬きをしないで僕を見つめている。彼女は普段瞬きをしていただろうか、と僕はふと思った。


「まだ、上手くまとめられていない」僕は言った。「まとまってからの方が、いいと思う」


「どうして?」


「なんとなく」


「まとまっていなくても、解釈は成り立つと思う」


「相手の解釈をできるだけ誘導したいんだよ、きっと」


「でも、究極的には、できないよ」


「そう……。だから、できるだけ」


「私に対しても、それが必要?」


「さあ、どうだろう……。たしかに、君は、もう、僕が言おうとしていることが分かっているだろうからね」


「本当に分かっているかどうかは、分からないよ」


「そう。究極的には、分からない」


「矛盾しているのでは?」


「うん」僕は少し笑った。「とにかく、もう少し待ってほしい」


「分かった」


 風で目もとにかかった髪を、カロは手で払う。髪は重力に従って、流れるように垂れ下がる。髪はそのまま静止したでも、暫くしてまた風が吹くと、髪もまた目もとにかかり、彼女はそれを手で払った。


 匂いと、光景を、確かに覚えていた。そう……。僕は彼女のその仕草を見たことがある。でも、その仕草を行ったのは、彼女ではなかった。彼女の動きが似ているから、そこに錯覚が生じる。


 もう、何年前か分からない。


 僕は、かつて、こんな場所で、こんな体験をしたことがある。


 けれど、そのとき、そこにいたのは、カロではない。


 ずっと忘れていたお姉ちゃんの姿がカロに重なって、僕に見せた。

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