秘密
小槻みしろ/白崎ぼたん
前編
「ミサイルが発射されると、地下鉄が止まるのは地上から逃げてきたひとを轢き殺さないためなんだって」
柴田さんがそう言ったのは、まさしく電車が停止したときだった。ミサイルは発射されたからじゃなく、単純に停まる駅だったからだ。僕たちは地下鉄に乗っていた。
そして僕はその言葉に、間延びした「うん」を返した。一応面白い返しをしようと試みたあとだったので、唸ったようなみっともない返事だった。残念ながら僕は、そういう大人の事情は知らないし興味もなかったのだ。ただ、もうすぐ高校生であるし、そういうことを知らずまた興味を持たないというのも何となく格好がつかないのもわかった。だから僕がこの後さらに、
「そうだったのか。案外、考えられてるんだね」
などと言葉を重ねたのは、何てことはない、そういう色気心ゆえで、何の意味もなかった。
柴田さんが、僕を見上げ、うんとうなずく。僕の心は三つに分かれる。感触が悪くなかったことへの安堵と、どうかこの話を広げてくれるな、という思い、そして、伏せられた睫毛に見惚れる気持ち。ぐるぐる混ざりあうと、結局睫毛に軍配が上がる。逆アーチ状で、いつか見たフランス人形のようだ。
扉がしまり、また電車は動き始める。
柴田さんとは、同じ学校で、同じ塾に三年間通った。兄のお下がりのガタが来はじめのランドセルを、壊すことなく背負い、もうすぐ無事に背負い終える、という頃のことだった。
鞄と違って、頭はお下がりできない。中学に上がれば取り残される予感しかない僕だった。それに対する危機感を当人の僕より持った両親が、高いお金を払って僕を塾に入れた。願いむなしく、報われたとは限らない僕の成績だが、
「きっと行かなきゃもっとひどく、僕は引きこもりか不良になっていたでしょう」
とでも言えば事足りるような気もしていた。
とはいえ、僕にも羞恥心はある。わいてきたといっていい。正直に言うと抱いたことはなかった。年齢だとか自意識だとか、繊細な理由はたくさんあげられる思春期という年代。それらを一切考慮にいれないものだ――少なくとも、僕はそう思っている――
理由とは、柴田さん。それだけだった。
初めて会ったとき、柴田さんは今と同じ、肩までの長さの髪を自由にして、塾の前から二番目の席に座っていた。静かに本を読んでいて、軽く伏せられた目はちょうど今のように逆アーチで、下まぶたに影を落としていた。
あまり綺麗で、何より雰囲気のある様子に思わず見とれた。
その日は、近くに座って――これはほぼ無意識だった――柴田さんの姿をじっと目に焼き付けていた。中学校が一緒だと知ったときは、ほんの少し運命らしきものを感じた。塾のクラスのやつほとんどがそうだったので、はかない運命だったけれど。とにかくそれからというもの、僕は柴田さんをずっと見てきた。だからといおうか、柴田さんが頭がいいことに気づくのに、そう時間はかからなかった。
先生に指名されたときすっと立ち上がる。その気負いなく伸ばされた背筋に見惚れた。柴田さんの声は涼しげで、暑い夜のクーラーのきいた部屋みたいだった。
先ほど言った羞恥心が芽生えたのは、柴田さんと初めて話したときだ。塾の集中講義のときに、柴田さんがたまたま、ノートを取りきれなかったのか、隣の――これはたまたまじゃない――僕に内容を尋ねてきた。その時、二、三言授業の内容に触れたのだ。なにも、難しい事じゃない。数学の定理だったと思う。後で見ればテキストの単元後との見出しにのっていた。でも僕はそれを知らなかったので、それだけ言われてもロシア語かフランス語か、とにかく耳慣れない言葉にしか聞こえなかったのだ。
正直を美徳としている僕はわからないことを誤魔化さない。いつもの僕ならすぐにわからないと言った。
なぜかそのとき、僕は適当に相槌を打ってしまった。「ああ」とか「ふん」 とか外国人っぽいジェスチャーだったと思う。柴田さんはすぐに見破った。そして、「知らないの」とぽつりと言った。
罵倒でも蔑みでもなく、単純に疑問が口をついてでたというていだった。ポカンとした顔。伏し目がちの落ち着いた表情以外で初めて見た顔だった。可愛かった。しかし、同時に僕はそのとき全身から汗が吹き出るような心地がした。羞恥と言うものだと知った。馬鹿は結構恥ずかしいのだと知った。十五才を目前に控えた日のことだった。
それから、僕はほんの少し真面目にテキストを読むようになった。いつ話を振られてもいいように。しかし、それ以来、柴田さんに話を振られる事はなかった。ほんのちょっと成績が上がったので親は喜んだ。
学校では三年間クラスは端と端で、接点をうまく持てなかった。だからおそらく柴田さんにとっては僕の印象はアップデートされておらず、勿論そう劇的進化を遂げたわけではないけれど少し心苦しい、そんな思いを抱えながら、今日まで来てしまった。
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