第9話 盤に返る


『晩に帰る』


 そう書き記された紙切れを僕はゴミ箱に捨てる。彼女が晩に帰るというのならそうなのだろう。それ以上、干渉しない。それが僕らの決め事だった。彼女、木島集歌と同棲を始めたのは一回生の夏休み、その中頃の事だった。回数を重ねたデートと共に最初のプロポーズをかけると彼女は不承不承と言った感じでOKをくれた。

 だがその次に驚かされたのは僕の方だった。

「どうせなら一緒に住みましょうか」

「あぇ!?」

「なにその声? もっかいやってよ」

 笑いながら言われたが再現性は無かった。つまらなそうにしていると集歌が話を続ける。

「今の家ちょっと手狭でね、広い家に引っ越したかったのよ」

「ね、ねぇ……? それって同棲……?」

「まあそうなるわね、ああ安心してお互いのスペースはちゃんと確保するから。そのための引っ越しなんだし」

「いやそういう問題……なんだけど……」

 悶々とする僕の事など露知らず。彼女は最近出来たあのアパートメントがいいなどと言っていた。僕は浮かれるを通り越して若干姿勢になっていた。だってそうだろう。まだ大学に通って一年経ってない男女が同棲だなんて。

「親御さんが反対したりとか……?」

「しないしない。妹ならともかく。私なんてお荷物扱いだもの。貰い手が出来てラッキーなくらいじゃない?」

「そんな馬鹿な……だって君は」

「頭が良いくらいじゃね、認めてもらえない事もあるのよ」

 一体、彼女の家で、木島家で何があったのだろう。僕は怖くて深く踏み込めないでいた。多分、セリヌンティウス辺りなら事情を知っていただろうし、吐かせようと思えば聞き出す事も出来たはずだった。それをしなかったのは良心の呵責からか、それとも。


 僕は彼女との同棲を、理由も抜きで受け入れた。


 諦観、だったんだろうな。彼女との縁を切りたくないという弱さが生み出した結果。惚れた弱みとはよく言ったものだが。僕のそれはどこか違っていた。どこかであの才女と自分は違う生き物だと自覚していた。だからだろうか、尚更その縁を解きたくないと思ったのは。

 僕は一人、部屋で朝日を浴びる。今が今で、さっきまで意識が過去に飛んでいた事を自覚する。顔を洗い、目を覚ます。今日の村山記者との取材は昼過ぎだ。まだ時間がある。まだまだ電算室の魔女の話には遠いが、さて今日はどこから話そうと夢想する。

 そこでふとゴミ箱の中身を見た。大量の『晩に帰る』の書置きがそこにはあった。僕はそれを見て冷笑する。遠野、連続殺人、チエクイ様、そして――


――これが俺だ秀秋。


 彼女の本性、電算室の魔女なんてほんの小手先に過ぎない。僕は溜め息を吐いてゴミ箱の中を袋へと移す作業へと入った。

 そこで電話がかかってくる。僕は足取り重くして電話へと向かった。この時間帯に家に集歌がいない事は周知の事実だったので、その電話は僕宛てに違いなく、僕宛ての電話なんていうものは大抵ろくでもないものに違いなかった。黒電話の受話器を取る。

「もしもし」

『よぉ』

「……よぉじゃわからん」

『おいおい親友の声を忘れるとは悲しいねぇ』

 これは後で調べた話だが、電話の声というのは本当の声じゃないらしい。電子的に再現された最も本人に近い声が選ばれているのだとか。だから親友だとしても声は違うものなのだ。

 閑話休題。

「セリヌンティウスか。どうした」

「いやね。お前さんが『電算室の魔女』の情報を三流雑誌に売ったって聞いてね」

 相変わらず耳の早いやつ。そうでもないと情報屋としてはやっていけないのだろうが、どこかその情報の早さは怪異じみたものを感じてしまう。だからと言ってお前は人間か? と今更問うのも恐ろしいものだ。もし違うなどと答えられたら僕はどうすればいいのだろう。これ以上、人外の知り合いなど増やしたくなどない。

 今、僕の頭の中では老爺のように笑う幼子の声が響いていた。この耳鳴りは集歌と関わる以上、一生消える事はないらしい。僕はいつまで正気でいられるだろうか。

『なんか考えごとしてんのか? 押し黙っちまって』

「ん? ああ、そうか。お前と話していたのか」

『……いよいよ重症だな。だから俺はやめとけって言ったんだ。木島集歌はお前のいや、人の身に余る――』

「忌み子だって?」

 一瞬の静けさ。その後、ふっと乾いた笑いが出る。

「最初から分かっていたさ。毒沼と分かって飛び込んだ。背中の傷も遠野もアレも全部分かって受け入れた」

『……ならいいんだがね。さてと本題と行こうか』

「お前の言いたいことなら分かる。『電算室の魔女の事を公にされると俺が商売的に困るからやめてくれないか?』だろ」

『……お前まさか』

「前から気に食わなかったんだよ。お前の『商売』とやらが、人ならざる『異聞』を食い物にして金儲け? 罰当たりも甚だしい」

 反論は来なかった。なにか僕の文句に対して言いたい事があるだろうと踏んでいたのだが、暖簾に腕押しだった。

『そうかい、じゃあ俺からは何も言わねぇよ。ただ稼ぎ口を一つ失って俺が損するだけだ』

 本当にそれだけか? とは聞けなかった。どうして、怖くて。親友と称する情報屋はどうやら本当に僕を案じて電話を寄越したらしい。むず痒い事この上ないが、礼には礼で返さなければいけないだろう。

「すまなかった。どうやら本当に少し疲れているらしい」

 もしくは憑かれているらしい。

『でも止めないんだろ? 取材』

 そこまでお見通し、か。だって他にやる事がないのだ。そう吐露すると向こうから溜め息が聴こえてきた。

『お前は本当にお人好しだよ。前の殺人鬼の件もそうだ。疑うという事を全くしない。良い事をロハで教えてやる。お前が今、木島集歌を売ろうとしてる出版社な――』


――存在しないんだよ。


 僕は受話器を手から落とした。何もかもが曖昧模糊で胡乱できな臭く思えた。僕はいつから火薬庫の中に住んでいたのだろう。そんな気分になる。僕は膝をつき、うずくまる。ちょうど受話器の位置になり、セリヌンティウスの声が聞こえる。

『お前はチエクイ様に遭っちまったせいで異聞を呼び寄せるようになってんだ。いいか? 忠告したぞ? 木島集歌が家に帰るまで外に出るなよ』


 ガチャン、ツーツーツー。

 

 電話が切れると同時にドアホンが鳴る。


 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……


 僕はただ蹲っていた。村山を名乗った『ナニカ』が家までやってきた。そう分かった。夜が来るまで後、何時間だろう。僕はもう盤から降りたつもりでいた。だけどそうはいかなかった。


 哀れ駒は盤に返る。


 夕暮れ時、ドアホンが止み、代わりに何かを切り裂く音が何度も何度も響いた。そして最後に「いただきます」という女性の――知っている――声が聴こえた。その後、あの耳鳴りがする。老爺のように笑う幼子の声。

 ガチャリ、ドアが開く。

「帰ったぞ」

「……あ、ああ集歌。今、作るよ」

 何を? 晩御飯だ。僕が作る決まりになっている。この家の主な稼ぎは彼女なのだから当たり前だ。そう言ってふらふらと立ち上がると、立ち眩みで倒れそうになり集歌に支えられた。長時間、座っていたからだろう。

「無理すんな。今日は弁当買って来たから」

「あ、ああ……」

 僕は凡人だ。才女から魔女へと変貌した彼女に寄り添う事も、情報屋として社会の裏に潜む親友と歩む事も、そのどちらを切り離す事も出来ず狭間を揺蕩っている。

「なあ秀秋」

 リビングに座ってテーブルに置いた冷めた弁当を囲む。

「集歌?」

「俺さ、お前に感謝してるんだぜ。これでも」

 儂も儂もと幼子の声が響いたが無視した。

「……なら、よかった」

「才女・木島集歌は確かにお前に恋してたんだと思う」

「魔女・木島集歌は?」

「わからない」

 そっか。

 どうしてこんな事になったんだっけ。僕はきちんと向き合わないといけない。そのためにはまず、遠野に向かう事になった秋の話をしよう。

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